第74話 長篠
あれから又、助左は紅に冷たく接するようになった。
何を怒っているのか訳がわからなかったが、いいや、と思った。
あたしは使用人なんだもん。
雇ってもらえるだけで、十分。
とりあえず、仕事の邪魔さえされなければ幸せ。
最近は猿若が、越後上布の取引と称して度々店を訪れ、上杉の噂話が聞けるから益々、嬉しい。
内容はたわいもないことばかりだ。
肝心なことは訊けない、怖ろしくて。
例えば、
「喜平二さまはもう、結婚なさった?」
とか、
「どなたか、いいひとがいらっしゃるんでしょ?」
なんてことを。
お立場とお年を考えれば、正室どころか側室も、居て当然、なんだもの。
猿若のほうも、彼女の心を知ってか知らずか、詳しいことは全然話してくれない。
今日も店を訪れた猿若が、店先の上がり框に腰を掛けて、
「筆まめでいらっしゃいます。お屋形さまが富山に陣を張っていらっしゃるとき、報告をお待ちなのに、留守居の諸将が何の連絡も寄越さず、何もご存知無い筈の喜平二さまが心のこもった連絡を二度も寄越されたと大変お喜びになり、先に春日山にお返しになられた馬廻り衆の代わりを上田衆に勤めさせておられたので謝意を表せられ、その後、富山で鷹狩りの折に、鷹を貸し与えられたそうでございます。」
「まあ、楽しかったでしょうね。」
自分も我が事のように嬉しくなった。
彼が、お屋形さまに可愛がられている姿を想像しただけで心が温かくなる。
「鷹狩りは気持ちが伸び伸びするものね。」
信長と鷹を飛ばしたことを思い浮かべた。
あの鷹は上杉に貰った物だと信長が言っていたっけ。
「喜平二さまのお心遣いもさることながら、それをちゃんとわかってくださって、評価して下さるお屋形さまも、お屋形さまよね!」
思わず声が高くなってしまった。
『喜平二』という言葉が聞こえたらしく、帳場に居た助左がびくっとして、こちらを睨むのが目に入った。
紅が思わず小さくなると、猿若は平然として、頭を下げた。
「越後から参りました、猿若と申します。どうぞ、ご贔屓に。」
「そうか。宜しくな。」
そっけなく言うと、又、帳簿に目を落とした。
紅と猿若は声を落として話を続けた。
「喜平二さまも鷹を羽合られたそうですよ。」
「まあ、殿のように?」
『羽合』は日本の鷹狩りにおいて、鷹匠が鷹に加速をつけてやるために、拳から鷹を獲物に向かって投げるように押し出すことをいう。拳から飛び立つ瞬間の鷹の初速は遅いため、これを助けるのである。
松永久秀の家来で元・鷹匠だった弥八郎によれば、鷹も力任せに投げつけられると気分を害するので、何故投げられるか理解し、腰を低く落として投げられる瞬間、拳を蹴って飛び出していけるように教えなくてはならない。
鷹匠のほうも、『鳥筋』{獲物の逃げる方向}に合わせるため、右足を踏み込み、腰を落として羽合らなくてはならない。
(殿はお上手だった)
信長の手が、長く伸びたかのように綺麗な放物線を描き、まるで見えない糸がついているかのように鷹がぐんぐんと空に向かって舞い上がっていく。
鷹と鷹匠が、ぴたりと呼吸を合わせる。
それが、鷹匠が追求する究極の感覚だという。
弥八郎はそれを、『人鷹一体』と呼んでいた。
紅はうっとりと目を閉じて、もう一度、信長の狩りを思い浮かべた。
鷹を放っている信長は、いつの間にか喜平二の姿に変わっている。
彼の手から鷹が、すうっと糸を引いているかのように空へ、どんどん高く、もう、点のようになって……。
はっと目を開けた。
助左が彼女を、穴の開くほど見つめている。
思わず顔を赤らめた。
「最近、鷹、飛ばしに行っていないの。行きたいな。」
紅が零すと、猿若は、
「姫君と遊んでおられるお暇は無いでしょう。各地を転戦しておいでです。」
信長は、この五月に三河の長篠で、武田信玄の跡を継いだ勝頼をさんざんに打ち破ったという。
「その際、大膳太夫{勝頼}殿は、先代が手塩にかけて育てた軍団の諸将を殆ど失ってしまわれたとか。今後の再建が大変であろうと、もっぱらの評判でございます。」
寧々に献上した綿を思い出した。
あの綿も火縄になって、武田の兵を撃ち倒すのに使われたかもしれない。
「武田がガタガタになると、織田の勢力は上杉に接するようになってしまうわ。」
織田家の御用達でいるのは、上杉の首を絞めることにもなりかねない。
「やっぱり、殿の側室になっておけば良かったかしらね。」
殿、上杉には手加減してくださいませ。
寝所で信長に甘えている自分が思い浮かんだ。
「お戯れを。」
猿若がげっそりして言った。
又、助左が睨んでいる。
地獄耳過ぎ。
紅が閉口していると、猿若が、
「ご機嫌斜めですな。」
と言う。
「いつものことだから、もう慣れた。あたしのこと、嫌いなのよ。」
「さようでございましょうか。」
猿若はいつもにこやかだ。
「姫君を気になさっておいでのように見受けられるもので。」
「港の近くの湯屋に、とっても綺麗な馴染みの女性がおいでなの。」
紅は言った。
「あたしのことなんか、眼中に無いわよ。」