第73話 邪心
最後の一個が売れたのは夕暮れ時だった。
もう無いの、とぶうぶう言う、まだ大勢並んでいるお客たちに、何とか都合して参ります、と謝って、帰ってもらった。
「私も惚れ直してしまいましたわ、アハハ。」
「アハハって何だ、アハハって。」
化粧を落としながら揉めている鞠と小太郎に、厚く礼を言った後、紅は平包を手に蓬莱屋に向かった。
朱夏の部屋に通された。
下座に座って、手を突いた。
「おかげさまで、大成功でした。」
これはささやかですが、と、平包を差し出した。
包みを開いて、朱夏は息を呑んだ。
それは美しい打掛であった。
真っ白な地に、鮮やかに刺繍された大きく真っ赤な海老が跳ねている。金や銀の豪華な水引が、海老の身体を縦横に包んでいる。
「うちの元番頭の畑で採れた最上級の綿に、刺繍を施した物です。」
「まあ、こんな立派な物、あたしなんかには勿体無いよ。」
「だってお姐さんは、うちの坊ちゃまのいいひとですから」
紅はにっこりした。
「これ程、ふさわしい方はいらっしゃいません。」
「あ、有難う。」
不覚にも、きゅんとしてしまった。
朱夏は打掛を抱きしめた。
(あったかい)
売れっ妓だったから、様々《さまざま》な物を貰ってきたけど、今まで、こんなに良い物を彼女に呉れた人はいなかった。
ふわふわと柔らかな肌触りは、敵だと思っていた女の真心を伝えているようであった。
辞する女を、階段の下まで行って見送った。
紅が外に出ると、丁度、助左が入ってこようとしていた。
紅は一歩避けて、頭を下げた。
「よォ。」
助左は言った。
「よくあんなこと、思いついたな。」
「私の住んでいた柏崎の城下町は、市場に面して三千戸、港に面して六千戸、と謳われたくらい栄えていましたから。」
紅は言った。
「城から街へ下りていくと、そこはいつも、あんな風にお祭り騒ぎでした。」
ふと、故郷を懐かしんでいるように見えた。
「今日は……良くやった。」
紅は助左を見つめた。
「では、私をお認めいただけますか?」
「ああ。」
「良かった。」
ぱっと花開くように笑った。
「店を追い出されたら、行くところが無いんです。どうしようかと思っていました。ほんとに良かった。有難うございます。」
彼女の笑顔に見とれていた助左が、はっとして、
「ああ。これからも宜しくな。」
「こちらこそ。では。」
帰っていく彼女の後姿が見えなくなると、朱夏には目も呉れずに二階へ、引きずる片足も、もどかしく上っていく。
朱夏が後から上がっていくと、助左は窓辺に寄って、紅が帰っていく姿を目で追っていた。
紅は一人、海辺に向かって行く。
灯明堂の階段のところで立ち止まった。
胸元から何かを取り出して抱くと、海に沈む陽に向かって頭を垂れた。
そのままじっと動かない。
助左は彼女を、魂を抜かれたような顔をして一心に見つめている。
(やっぱり追い出しときゃよかった)
朱夏の胸に、後悔の念が激しく涌いた。
「喜平二のために祈っているんだよ。」
「何?」
助左が振り向いた。
逆光で、表情は見えない。
「男がいるのさ。」
朱夏は言った。
「婚約者だよ。毎日、ああやって無事を祈っている。越後の殿さまの御養子なんだってさ。」
もう止まらなかった。
「菜屋は織田さまの御用達ってことになっている。あの女が織田の殿さまと親しいからだって、馴染みの客が言ってた。彼女が行くと、予定を変更してでも会ってくれるってさ。お人払いをしてね。殿さまは気難しくって気まぐれで有名だけど、あの女だけは例外だって。子沢山だって話だから、きっとあの女もお情けを受けて……。」
「止めろ!」
怒鳴った。
「酒だ!酒持って来い!」
「あいよ。」
お酒持って来て、と、階段の下に声を掛けながら、嬉しいような、でも、何か淋しいような気がしたのは、後から考えても不思議なことだった。




