第46話 論功行賞
織田信長が、急を知らせる使いに接したとき、岐阜は、折からの豪雪に降り込められて、とても兵を出せる状況には無かったが、すぐ馬にまたがって一人、飛び出した。馬回りの者さえ追いつけたのはただ十数騎、通常なら三日かかる行程を二日で踏破し、そのまま六条に乗り付けた。後を追おうとした配下の陣夫に数人の凍死者を出したという。
戦闘は既に終わっていたので、活躍目覚しかった摂津池田衆を始めとする諸将を賞した。
最後に紅を召した。
(公方を襲った曲者の首を刎ねたときは、凄まじい迫力だったけれど)
今、上段の間から彼女を見下ろしているのは、どちらかというと華奢で、何処か神経質で憂鬱そうな男だった。
「鉄砲の天才少女とはその方か。ようやった。」
「有難うございます。」
頭を下げた。
が、顔を上げて物言いたげな目で見るので、彼は言った。
「直答許す。申せ。」
一礼して言う。
「お言葉ではございますが、天才ではございませぬ。修練の賜物でございますれば、稽古をすれば誰であろうと、ある程度は撃てるようになります。それに今回は、師匠の指揮が的確でいらしたのと、的が私の実力以上に遠うございましたので、運が良かったのです。ですから正確には、お褒め頂くのは、師匠のご指導と、私の運の強さでございます。」
「謙遜してか。」
「いえ、滅相も無い。」
謙遜、とか、まどろっこしいことは嫌いそう、この人は、と思いながら言った。
「事実でございますれば。」
「師匠とは誰だ。」
「御奉公衆の明智十兵衛殿でございます。」
「デ、アルカ。」
じろじろと彼女を改めて眺めた。
「褒美を取らす。女子が望む物はわからぬ。何が欲しいか、遠慮無く申せ。」
「では」
唾を飲み込んだ。
「堺をお許しください。」
ぴくりと眉を動かした。
「それは、そちの裁量の範囲を超えておる。」
斬られるか、と思ったが、言葉を継いだ。
「私は堺の商人でございますれば、町を焼かれれば、商売を続けておられなくなります。堺に一度でも足を踏み入れたことがおありになれば、あの町を焼いてしまうのが如何に損失であるか、おわかりになると思います。縦横に廻らした運河の際に建つ豪華な家々、重厚な蔵の数々、水辺に映る柳の影、海には大きな船が浮かび、たくさんの艀が往復し、人々は綺羅を飾り、異国の言葉が飛び交う、それは素晴らしい町です。おいでになった際は、私が御案内致します。」
「堺がどうなるかは」
信長が言った。急に彼女に興味を失ったようだった。
「堺の者たち自身が決めるであろう。下がれ。」
明智光秀を召して言った。
「堺の女は皆、ああか。」
光秀は答えた。
「あの者は、堺の女ではありませぬ。山内上杉の家中の者です。」
「ほう、上杉の。」
又、興味が戻ったようだった。
「越後上杉家の重臣、宇佐美家の出で、当主の師父であった駿河守の秘蔵っ子だそうです。山内からの預かり物として、先の公方もたいそう目をかけておられました。足利家累代の宝物も披露されていたとか。」
「ふむ。」
何か考えているようだった。
紅は、糸千代丸を探しに行った。
糸千代丸は、小書院で一人、午後の日が弱々しく射す、薄っすら雪の積もった庭を眺めて、ぼんやりしていた。
声を掛けると、力無く言った。
「何か気が抜けちゃってな。」
「あたしたち、今度は守れたのよ。」
力を込めて言った。
「うん。」
微かに笑った。
二人、陽だまりの中で暫く、黙って座っていた。
「あたし、帰るね。堺が心配だから。」
「鞠に、よろしくな。」
ぽつりと言った。
信長は、三好勢の出撃の地になった堺を許さなかった。
町を焼き払い、老若男女をなで斬りにすると威嚇された堺はついに要求に屈し、本圀寺襲撃の五日後、矢銭二万貫を納めた。
三好勢が阿波から船を出し、堺で兵を纏め、京へ進撃するという従来の例はこれ以降、根絶された。
ともあれ脅威が去って、日常が戻ってきた。
鞠も若江城から帰ってきた。糸千代丸が居ないことにも何も言わなかった。最初から誰も居なかったかのように、紅も鞠も振舞った。
半月が過ぎた。
笠を被った男が、店の前に立った。
土間に入ってきて、笠を取った。
「……!」
鞠が裸足で土間に飛び降りて、いきなり彼に抱きついた。
紅は言うべき言葉が見つからない。
「糸文字……。」
彼は、晴れ晴れと笑った。前髪を落として、大人の髪型になっている。
「元服したんだ。」
奥で、磯路も交えて話をした。
「父に頼んだ。公方さまもわかって下すった。元服の儀を執り行ってくださった後、勘当された。先だっての乱のとき、既に死んだものと見なす、と。東寺の過去帳に、そう、記載された。糸千代丸は死んだんだ。」
「そんな……。」
糸千代丸は『家』を捨てた。
それがどれ程重いものか、この時代に生きる彼らにはよくわかっている。
糸千代丸は女主人に向き直ると、手を突いた。
「この店に骨を埋める覚悟です。どうかよろしくお願いいたします。」
磯路は頷いた。
「新しいお名前は何とおっしゃる。」
「摂津小太郎輝親、でございます。」
「先の公方さまの『輝』の字を頂けたのですね。」
磯路に言われて、糸千代丸、いや、小太郎は嬉しそうに頷いた。
この時代、主君の名前を頂くのは、たいへん名誉なことだった。
皆、部屋を出た。
一番最後に部屋を出ようとした鞠の袖を捕らえて小太郎が言っているのを、紅は耳にした。
「鞠が居なかったら、俺は戻ってこなかった。」
鞠は潤んだ目で頷いた。
磯路も聞いていたらしく、後でこっそり紅に言った。
「お前さん、仲間外れだね。」
「……。」