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火の如く 風の如く   火の章  作者: 羽曳野 水響
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第38話 黄金の日日

 いちに行くと日本中、いや、世界中から集められた、珍しい品々があふれていた。

 日本人の感覚からかけ離れた華やかな色彩しきさいの布、細部までった飾り物、何処どこかから漂ってくる、鼻の奥にこびりついて離れない甘く濃い香り、見慣れない形で鮮やかな色合いの南国の果物、人間の言葉をしゃべる鸚鵡おうむ、鼻のとがった華奢きゃしゃ洋犬ようけん

 その中を行きう人々も、様々な言葉をしゃべっていた。何処どこか懐かしいお国訛くになまりもあれば、様々(さまざま)な色合いの髪や肌や目の色を持つ、異国の人が話す不思議な言葉も聞こえた。

 でも都とは違ってここでは、権力や武力をかさに着て、理不尽りふじんな暴力を振るったり、威張いばらしたりする勢力がいなかった。

 全てが豊かで平和だった。

 イエズス会の宣教師せんきょうしガスパル・ヴィレラの書簡しょかんにある。


 この町はヴェネツィアのごとく、執政官しっせいかんにより治められる。

 堺と称するこの町は、はなはだ大きくつ富み、守り堅固けんごにして、諸国に戦乱あるも、この地に来たれば、相敵あいてきする者も友人の如く談話だんわ往来おうらいし、この地にいて戦ふを得ず。

 このゆえに堺は、いまだ破壊せらるることなく、黄金おうごんの中に日日ひびを過ごせり。



     挿絵(By みてみん)




 しかし堺の平和は、ただ理想の上に成り立っているわけではない。

 街一番の売り物は実は、食糧や衣類を売っている市場に並んではいなかった。

 ある日のこと、紅が裏道を通りかかると、何かを打つ音が、かたわらの家から聞こえてくる。調子良く澄んだ音に誘われて、小さな明り取りの窓にはまった格子こうしの間からのぞいてみると、職人たちが盛んに鉄を打っているのだった。

 初めは刀鍛冶かたなかじかと思ったが、長いつつのような物になったので、ああ、これは鉄砲てっぽうだ、と気づいた。

 堺は、近江おうみ国友くにともと並ぶ鉄砲の一大産地なのである。

 銃身じゅうしん屋号やごうきざみ、商品価値を高めるために、過剰かじょうなまでの飾金具かざりかなぐほどこしてあるのが堺の鉄砲の特色で、これは注文より、店頭販売を重視したためであった。堺名物として、町を訪れる人が皆、土産みやげに買っていくからである。

 鉄砲は、大坂の陣後の承応年間でも、諸国からのあつらえに応じて生産した数が年平均千八百九十三(ちょう)で、その生産数が三分の一に激減した元禄年間でも、鉄砲てっぽう鍛冶かじ六十七人、同番子三十二人、台師(鉄砲の台を作る人)十九人、同番子一人、金具師十五人、同番子三人、象嵌師ぞうがんし一人、鋳型いがた鍛冶二人、鋳鍋いなべ鍛冶一人、矢先鍛冶二人、火蓋ひぶた雨覆あまおおい師二人といった風に、多くの人々が生産に関わっていた。

 鉄砲が日本にもたらされると、その価値にいち早く気づいた各地の戦国大名たちは、こぞって手に入れようとする。商機を見出した堺の鍛冶たちは、鉄砲の大量生産を試みた。鉄砲の部品を同一企画で分業生産し、最終的にそれらを組み立て、完成するというやり方である。当時まだ海外では、一人の職人が全ての工程をにない、一丁ずつ鉄砲を作っていた。堺の分業大量生産はじつに、世界に先駆けて編み出されたものであった。明の技術が入って、軽工業が盛んだった堺は、産業革命のはしりともいえる状態だったかもしれない。

 ともあれ、日本はあっというまに鉄砲大国にのしあがった。

 ポルトガル人の冒険家メンデス・ピントの『東洋とうよう遍歴へんれき記』によると、千五百五十年代に全国で三十万挺以上の鉄砲があったといわれ、ヨーロッパ全体の保有数を上回うわまわっていたという。

 それからというもの紅は、使いに出されるたび、鉄砲鍛冶屋に立ち寄った。その仕事ぶりが見ていて面白かった、こともある。

 だが、身も心も回復したと思っても、紅の心の中には今も、義輝の最期の姿がある。

 義輝は、あんなに素晴らしい剣のつかい手だった。使った刀も、足利家累代(るいだい)の宝刀ばかりだった。でも最後は衆寡敵しゅうかてきせず、たたみたてにした雑兵ぞうひょうに殺されてしまった。

 長い間修練(しゅうれん)を積み、高みに上った者が。

 高貴こうきで正しく、美しい者が。

 下賤げせんな者どもにけがされ、地にまみれてしまった。

(公方さまだって駄目だったんだもの。あたしが今からどんなに修行したって、剣の道を極めるなんて、到底とうてい無理だ)

 非力ひりきで弱い者が対抗するには、どうしたらよいか。

(それには鉄砲だ、鉄砲を始めとする火器かきだ)

 武衛陣に、もっとたくさん鉄砲があったら。

 もう少し、違った展開になったかもしれない。

 彼女の頭には、明智十兵衛光秀が見せた神業かみわざがある。

 彼みたいに、いや、彼ほどでなくても、あんな腕前うでまえがあったら。

(あたしが城の当主だったら)

 窓にはいま一つ、背が届かない。

 背伸びして、格子こうし懸命けんめいり付きながら、紅は考える。

(何をおいても鉄砲をたくさん備えつける。勿論もちろん、弓や飛礫つぶても。他の武器は、少ぅしけずってもいい。大砲たいほう、そう、大砲があったら、最高!)

 自分の考えに夢中になっていて、職人たちが集まってきて、あちら側からのぞいていることにも気づかなかった。

 たくさんの目と、目が合った。

「ひっ!」

 驚いて、格子から手を放して、尻餅しりもちをついてしまった。

 腕白わんぱく小僧こぞうどもならともかく、こんな美しい娘が、毎日のように通ってくるなんて前代ぜんだい未聞みもんのことだった。

 それからは、工場に招き入れられ、鉄砲作りの工程を見せてもらった。

 ここは橘屋たちばなやといい、先代せんだい種子島たねがしまで鉄砲の作り方を学んで帰ってきて、この地に鉄砲作りの隆盛りゅうせいをもたらした。主の名をとって『鉄砲又てっぽうまた』と呼ばれている。

 職人たちは、紅が鉄砲作りに非常な興味を示し、鋭い質問をするのに驚いた。

 この当時、金持ちになれるのは前世ぜんせとくを積んだおかげだと考えられていて、別名べつめい有徳人うとくじんとも呼ばれていた。貧しい職人や農民は、金持ちの多い堺では一段、低く見られていた。

 でも紅は、見るからにおひめさまぜんとしているのに、誰とでもへだてなく接する。

 徐々(じょじょ)に、職人たちに溶け込んでいった。

 裏庭で、鉄砲の試射ししゃまでさせてもらえるようになった。

 武衛陣で光秀に手ほどきを受けていたものの、最初は、すさまじい音と、鼻をつく火薬の匂いと、強い反動に、なかなかド真ん中に当たらなかったが、ねばり強く稽古けいこした結果、段々(だんだん)命中率めいちゅうりつが上がっていった。

 『鉄砲又』に通っては鉄砲を撃つ美少女、しかも、なかなかの腕前うでまえだそうだ。

  うわさが街に広まるのに、そう時間はかからなかった。

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