第36話 不如帰
地面が揺れている。
薄っすら目を開けた。
顔まで筵を掛けられ、がたがた揺られている。
(地面が揺れているんじゃない)
荷台に寝かされているのだ。
(人買いだ)
とうとう摑まった。
(逃げなきゃ)
でも又、気を失った。
次に気が付いたのは、水を大量に浴びせられたからだ。いつの間にか髪を、ざくざく、じょっきりと切られていた。着物を全部脱がされたときには、弱々しいながら、抵抗した。
縄を丸めたものを握った乱暴な手が容赦無く、ざばざば水を掛けながら、彼女の顔から身体から、ごしごし洗った。
「奥さまあ、山猫ですよ、こりゃ。」
誰かが文句を言っていた。
ふいに又、気が遠くなった。
次、気が付いたときには、何処かの部屋に寝かされていた。静かな暗い部屋で、清潔な夜具が掛けられている。
(人買い……)
じゃない、ようだった。
そういえば。
(着物を全部脱がされた!)
見慣れない襦袢を、身に纏っている。
盗られた、と青くなった。
頭を上げて周りを見回すと、枕元に、翡翠と藤四郎が、折りたたまれた綺麗な布の上に並んで置いてあった。二つともきちんと手入れされている。
安心した。
又、気が遠くなって眠った。
目が覚めると、最初は白湯から飲まされ、次は重湯、粥へと食事の量も多くなっていた。
運んでくるのはいつも、不機嫌そうな太って年とった女で、井戸端で洗ってくれ、紅を山猫と呼んだのも彼女らしかった。
好きで紅を世話しているわけじゃない、余計な仕事を増やしやがって、と思っているのはありありだったが、紅はいつも感謝して、老女中{亀、というらしかった}に接した。
現れるのは亀女一人で、家の中もいつもしんとしており、他に住人が居るのかと不思議に思っていたが、無残に切られた髪が伸び、体力も回復して、床から起きられるようになった秋の始めのある日、とうとう、この家の主が姿を現した。
「奥さまがお会いになる。」
亀女に連れられて奥の部屋に向かった。
思っていたより大きな家だった。
間取りから見て商家のようだったが、およそ人気というものが無かった。
亀女が部屋の外から声を掛けた。
「お入り。」
白髪の老婆が座っていた。
その前に平伏した。
「もうすっかり元気になったようだね。」
枯れ木のように痩せている。背筋をしゃんと伸ばして、折り目正しい。
有能で、冷静。
小侍従と似通う何か、を感じた。
でもこの女は、随分とくたびれている。
年をとっているから、だけではない、彼女の中に滓のように溜まっている、何か。
部屋の造りも調度も、品良く贅を尽くしたものではあるが、随分古びて、かび臭い。
「お礼申し上げるのが大変遅くなりました。」
名乗った。
「お助けいただき、有難うございました。」
「刑場に倒れていたのを見つけたのさ。死んだと思われて、木の根元にうち捨てられていたんだよ。叢から泥だらけの片足だけ見えていた。てっきり野良犬か何かが、死体の足を銜えて来たのかと思ったが、着物の裾が風にそよいで、胴体もあることに気が付いた。まだ息があったから、連れて帰ってきた。あんな胸糞悪い見世物を見たくて行った訳じゃないが、ちょいと尋ね人があるもんだから、人の集まるところには一応、顔を出してみることにしているのさ。」
老婆は、じっと彼女を見ながら言った。
「ところで……何者だい?風体は乞食のようだったが、着物の仕立ては良いし、あの翡翠も懐刀も、大名の持ち物だ。お前さん、いいとこのお姫さんだね。」
こんなに親切な人だ、言ってもいいだろう、と思いながらも、口を閉ざしていると、
「何も言えない、ということが即ち、お前さんが、公方の縁に繋がる者だということを示している。何、御注進に及んだりしないから、安心おし。公方の味方はもう粗方、滅ぼされてしまった。小娘一人に構っちゃいないよ。それにこの街に居れば敵も味方も無い、安全だよ。ここで乱暴を働くことは許されないからね。」
「ここって?」
都だとばかり、思っていたが。
「ここは、堺だよ。」
この町に住む人々が、武衛陣にも時々、挨拶に来ていたっけ。
(有徳人の街だ)
堺は摂津の南、大阪湾に面する町で、環濠都市として知られる。
後年、江戸時代に入った千六百六十五年{寛文五年}の記録ではあるが、人口六万九千三百六十八人とあり、当時の欧州の都市では、イタリアのフィレンツェやスペインのマドリッドに匹敵する、堂々たる大都市であった。
全て話した。
老婆は頷きながら聞いていた。
紅が最も気になっていた、義輝がどうなったかを教えてくれた。
あの後、公方は、名刀を振るって一人、戦った。
刀の名を一つ一つ呼び上げながら切れ味を試し、自分を斬ればこれをやろう、と敵を挑発しながら、奮戦したという。
しかし残念なことに衆寡敵せず、四方から畳を楯として一斉に突きかかられ、敢無い最期を遂げた。
辞世の歌も聞かせてくれた。
五月雨は 露か涙か 不如帰
我が名をあげよ 雲の上まで
「矜持と無念さが滲み出ているね。時勢味方せず、歴史に名を残すこと、叶わんだが、おそらくはその最期によって、人々の心に何時までも残る公方となるだろうよ。」
老婆が言った。
紅は涙をこぼした。
前久は自邸に戻ったが、逼塞しているという。御いちゃの局も無事のようだった。小侍従が身代わりになったおかげだろうと思われた。でも慶寿院は、火の中に身を投げて死んだという話であった。
鞠と糸千代丸がどうなったかは、全くわからなかった。
ほんとうに味方は、壊滅状態のようだった。
紅が愕然としていると、老婆は、
「どうする。何処か、頼る宛てはあるかい?」
紅は首を振った。手を突いて言った。
「もしよろしければ、ここに置いていただけないでしょうか。下働きは慣れてます。一生懸命、働きます。」
「お前さん、人を殺したね。」
突然言った。
「あの剣の柄には、血の跡が付いていた。見たところ、お家代々の宝物として、蔵の奥深くに仕舞われているような逸品だ。それを実際に、使っちゃったんだね。」
紅が言葉に詰まっていると、更に言った。
「お前さんは武家だ。武家は剣で戦い、剣でもって人を殺す、だから、今まではそれで良かった。でもここは商家だ。商人は銭で戦い、銭でもって人を殺すのさ。今までの暮らしとは全然、違うよ。覚悟は出来ているのかい?」