第33話 死闘
信虎の背中を見送って、紅は能舞台へと急いだ。
途中、慌しく走り回る敵の小部隊に何度も会ったが、上手くやり過ごした。
味方は少人数でもあり、抵抗空しく、粗方、討たれてしまったらしかった。
顔見知りの侍女たちが、燃えている御殿から逃げ出したところで敵に出くわし、剣を抜いた彼らに面白半分に追いかけ回されて傷つけられたり、着物を奪われたりしているのも見た。張り出し縁の下に隠れたばかりに、火に巻かれて死に追いやられる者もいた。
何とかしてやりたかったが、どうしようもなかった。
先を急いだ。
細かな雨が、霧のように辺りを覆っている。
薄曇りの天から注ぐ僅かな光から察して、午の一点{午前十一時過ぎ}あたりだろうか。
角を曲がれば能舞台、というところで、只ならぬ気配に立ち止まった。
建物に隠れて、そっと覗いた。
能舞台が燃えていた。
その袖から、光秀に先導されて、御台所を庇いつつ、小侍従が、わずか残った侍女らと共に、抜け穴へと入っていく。
その後ろに、姫君二人を連れた鞠と、糸千代丸、岩千代丸が続こうとした。
その眼前に火のついた天井が崩れてきて、抜け穴は塞がれてしまった。
たちまち三好の兵たちに取り囲まれた。
姫君たちは鞠から引き離され、敵陣の真ん中に連れて行かれ、兵士たちの足元に投げ出された。
糸千代丸と岩千代丸は剣を抜くと、戦い始めた。
まだ子供と見て侮っていた敵は、ばたばたと倒された。二人とも公方の薫陶宜しく、子供ながらも相当の遣い手だったからである。
紅も、奪った剣を鞘から引き抜いた。
走って戦列に加わった。
子供たちの勇気溢れ、びくともしない精神に、誰かが、
「生け捕りにしろ、殺してはいけない!」
と呼ばわったと宣教師の記録にある。
三好側にも情けを知る者がいたのだ。
でも、抵抗も時間の問題だった。
岩千代丸が白刃を浴びた。
次の瞬間、糸千代丸がその相手を倒した。
鞠が岩千代丸に駆け寄ると、助け起こした。
膝の上に、真っ赤な血に染まった少年の頭を載せた。
岩千代丸は、閉じていた目をうっすらと開けると、鞠の顔を見て少し笑ったが、そのまま、がっくりと頭を垂れた。
「うわぁーっ!」
糸千代丸がこの世のものとも思えない声を上げると、そのまま一人、敵陣に突っ込んで行こうとした。
「駄目ぇっ!」
紅が叫んだ、その瞬間だった。
凄まじい破裂音がしたかと思うと、辺りはたちまち、煙幕で覆われた。
子供たちより背の高い敵は皆、ひどく咳き込みだした。
「遅くなって申し訳ございませぬ。御台さま方を、抜け穴の向こうへお通ししておりましたのでな。さ、早く、こちらでございます!」
煙の中から現れた人影が、紅と糸千代丸、鞠に言った。
有無を言わせぬ切迫した口調に、子供たちは否応無く従った。
何者かは全くわからなかったが、少なくとも敵ではなさそうに見えたからである。
残された岩千代丸の遺体に、後ろ髪を引かれる思いではあったが、振り切って、皆で走った。
庭の植え込みに身を潜めた。
糸千代丸は荒い息を吐いている。左腕に、かなりの深手を負っていた。
血が止まらないので、鞠が袖を引き裂いて、止血した。それでも、じくじくと 血が滲んで、どんどん弱っていくのが、誰の目にも明らかだった。
「薬師に見せないと。このままでは死んでしまいます。」
鞠が声を潜めて、紅に言った。
武衛陣の中はもう、敵で一杯だった。
「暗くなったら堀を越えましょう。手前が摂津さまを背負います。」
男が決心して言った。
「待って。」
紅が言った。
「そなたは、誰?」
中肉中背、丸い目、人の良さそうな丸顔の、どこといって特徴の無い、中年の男である。
雑踏の中で逸れたら、永遠に巡り会うことは無さそうであった。
「御存知の者でございます。」
男は言うと、掌を開いてみせた。
白い星を散りばめた薄紫の美濃紙。
可愛らしい星型の菓子が中から、ちょんぼりと覗いている。
「これは……。」
はっとした。
「金平糖、でございます。」
ポルトガルの菓子である。
「あちらでは『コンフェイト』と呼ばれているそうでございます。」
男は、のんびりと言った。
「そなたが呉れていたの?」
「お身を守るよう、さる御方から言いつかっております。僕としてお仕えいたします。猿若、とお呼びください。」
「そなたね、牛車が暴走したとき、飛礫を投げたの!」
思い当たって言うと、黙ってにっこりした。
本名、だろうか。
いや、このような者は、時と場合に応じて、幾つもの顔と名前を使い分けているに違いない。
(軒猿、だ)
越後の忍びを『軒猿』という。
お屋形さまの影を感じた。
問いただしたかった。でも今は、時でない。
喉まで出掛かった質問を腹に収めた。
御殿の中で派手な物音がしている。まだ燃え落ちていない部屋で略奪を行い、そのついでに破壊しているのだ。家具、着物、調度品、屏風はおろか、襖まで剥がして持っていく者もいる。
将軍家累代の宝物が、いや、誇りが、下賤な荒くれ者どもによって踏みにじられ、汚されていく。
これが負ける、ということだ。
この有様を、上さまが御覧にならなかったのが、せめてもの慰めというものだ、と紅は思った。
日が落ちて辺りが暗くなると、風が増して、雨はいよいよ本降りになってきた。
行動を開始した。
高熱を発して意識を失った糸千代丸を背負った猿若、鞠、最後に紅が続く。
堀の際に来た。
簡単な足場が組んであり、堀の上を跨いで、人一人がやっと通れる細い木の橋が向こう岸へと続いている。
武衛陣は工事中だった為、このようなものがあったのだ。
好都合に見えたが実際は、真っ暗な中、ぐらぐらと揺れる、足の幅しか無い薄い板を渡るのは至難の業であった。
堀は、天然の川を利用している。
折からの雨で、板は濡れて滑りやすく、梅雨の時期とて、足下の川は氾濫し、轟々と音を立てて流れていた。
糸千代丸を背負った猿若は、よろめく鞠を助けながら、細い板を渡っていく。
その後を紅は一人、続いた。
当然、命綱など無い。堀に落ちたら最後だ。
ところが丁度、堀の真ん中まで渡ったところで、見張りの兵が人影に気づいたらしい。
向こう岸の人家の灯を頼りに、次々に矢を射掛けてくる。
最初は当てずっぽうだったが、段々、正確になってきて、足元に矢が突き刺さることも度々になった。
猿若は二人を抱えて、ただ忍耐して渡ることに専念するのみである。
紅は刀を振り回して矢を防ごうかと思ったが、流石に無理だとあきらめた。
運を天に任せて、暗い中空を歩んだ。
向こう岸まであと、十歩。
猿若が到着した。
鞠に糸千代丸を託すと、すぐに振り向いて、紅に手を差し伸べた、その瞬間だった。
一本の矢が、少女の袖を捕らえた。
バランスを崩した。
真っ逆さまに転落した。
冷たい水に、頭から落ちた。
逆巻く波に捕らえられ、押し流されて、見る見るうちに武衛陣が遠くなっていく。
そのまま気を失った。
何処までも波に載って流されていった。