第31話 宗近と藤四郎
鎧や弓矢、刀や鑓が所狭しと並べられ、戦仕度に慌しい邸の中を通っていった。
洛中洛外図が描いてある真新しい金屏風の前で、義輝は、小姓に手伝わせて身支度をしている。
「ただいま戻りました。」
手をついた。
「陸奥守の元に留まれ、と申した筈だが。」
義輝が眉間に皺を寄せた。
「余の命令に逆らう気か。霜台の娘も戻ってきたというではないか。ここがどうなるか、わかっておるのか。」
「お会い出来なかったのです。手紙は確かに、家臣の方にお渡しいたしました。」
咎めを受けて斬られたっていい、と思った。
どっちみち、死ぬ、ここで。
早いか遅いかの違いだ。
身支度が終わった。
義輝は小姓を下がらせた。
紅の前に、どかっと座った。
「そちは……山内を恨んだことは無いか?」
思いがけない問いに驚いて、思わず顔を上げた。
そんなこと、
(思ったこと、無かった)
だって、お屋形さまの御命令通りに、全ての物事は動くのだから。
彼女の命の行方も彼の一存で決まる。
それが、当たり前だと思っていた。
「先ほど、奉公衆と盃を交わしてきた。総勢三十余名、余の為に命を捨ててくれる、という。」
傍らに置かれた刀を手に取った。
すらりと抜いた。
細身、反りが高く{大きく}、極めて優美なその姿。
「名を申してみよ。」
「三日月宗近、でございます。」
『天下五剣』と称される、数ある日本刀の中でも名刀中の名刀の一つである。その中でも最も美しいといわれ、『名物中の名物』として名高い。
足利家累代の重宝だが、以前、紅に、
「そちも見ておけ。刀の良し悪しを見極める力も重要だ。山内も良うわかっておった。」
と言って、数々の名刀を見せてくれ、名を覚えさせられたうちの一つである。
「本当に使用する日がくるとは思わなんだ。」
義輝は刀をつくづく眺めた。
「時々、恐ろしくなるのだ。」
言った。
「この足利の家の為に、今まで何人の人間が命を捨ててきたのだろう、そしてこれからも何人が犠牲になるのだろう、と。」
霜台の言葉が。
紅は思った。
上さまを苛んでいる。
言った。
「家の為に、なんて。そんな曖昧なことで、人は死んだりしません。皆、上さまが大好きなんです。御自分の持って生まれた運命に抗い、挑戦し、努力し、高みを目指す上さまが。ただそれだけ、です。」
義輝は紅を真っ直ぐ見た。
にっこり笑った。
「もう少し、時間があると思っていた。」
公方は言った。
「あと四、五年もしたら、そちを余の猶子{被後見人}にして、喜平二と娶わせるつもりだった。余の猶子にして四辻の養女、これなら、喜平二の実家の上田長尾家も文句は言えまい。返す返すも残念だ。」
ふいに、小侍従に今までさせられてきたことが、すとんと腑に落ちた。
あれは、大名の正室になる為の教育だったのだ。
実家の後ろ盾を持たなくても、主の役に立つことによって、自分の地位を確固たるものに出来る女になる為の。
「あ、有難うございます……。」
感激で目が潤んだ。
「おいおい、誤解するな。」
笑った。
「次代の山内に恩を売って、思うが侭に操ろうとしただけよ。どうも、あちらもそちにゾッコンらしいからな。」
刀を納めると、紅の頭を撫でた。
傍らにあった短刀を手に取った。
鞘を払って中身を見せてくれた。
反りが無い平造り{包丁のような平らな形}、刃文は真っ直ぐ{直刃文}で、帽子の返りは無く焼き詰め{鋒部分の刃文が折り返さない}、青く澄んだ地金に散らし書きのような線が滑らかに華麗に浮き出ている。
又、鞘に収めると、少女に差し出した。
「やろう。藤四郎だ。身の守りにせよ。」
形見分け、という言葉が頭の中に響いた。
「どうした。遠慮するな。」
「私如きに」
紅は言った。
これは大名の持ち物だ。
「足利家の重宝を。勿体無うございます。」
「遠慮、するか……そうだな。」
ちょっと考えて言った。
「今日この日を切り抜けることが出来たら、そしてもし、そちが越後に帰ることが出来たら、山内に渡してくれ、それでどうだ?」
「かしこまりました。」
押し頂いて、懐に仕舞った。
藤四郎、粟田口吉光のことである。
鎌倉時代中期、京の粟田口辺りに住まいした刀鍛冶の一派の中でも特に有名である。太刀は一腰しか伝わらず、現存の作は殆ど短刀で、作風は一様である。
短刀では粟田口吉光{京都}、来国俊{京都}、新藤五国光{鎌倉}が有名である。来国俊の端正、新藤五国光の凛々しさ、これに対して、藤四郎には貴族の姫君のよう、と評される、はんなりした優しさがある。後年、織田信長が本能寺で自害したとき用いられたのも吉光であるといわれている。戦国武将にとって、最後の命を託すのは粟田口吉光と思われていて、垂涎の的であった。
刀工の序列としても当時、京の吉光のほうが鎌倉の正宗より上であった。日本の文化意識として、常に京が価値の中心にあったのである。
足音がして、姿を現したのは小侍従だった。
甲斐甲斐しく襷掛けをし、頭には鉢金を巻き、手には薙刀を抱えている。
義輝が言った。
「なかなか勇ましい姿だな。我らの先頭に立ってもらおうか。三好三人衆も尻尾を巻いて逃げ出しそうだ。」
「又、御冗談ばっかり。」
小侍従は義輝の傍らに片膝付くと、怒ったように言った。
「御台所さまをお逃しする手筈、整いました。」
「では、そちも共に行け。」
「嫌!」
紅は耳を疑った。
いつも冷静な小侍従が、声を震わせている。
「あたしは、あなたと……!」
不意に義輝は小侍従を抱きしめると、唇を重ねた。
小侍従は彼の胸を叩いて抵抗したが、すぐその背中に手を回した。
金雲棚引く京の都を描いた豪奢な屏風を背景にして、二人は彫像にでもなったかのように、陶然として愛を確かめ合っている。
紅は、小侍従が手から落とした薙刀を抱えて、口をぱっくり開けて、二人を眺めていた。
ようやく義輝が唇を離した。
小侍従の頭を胸に抱いて、愛おしそうに髪を掻き撫でた。
紅が固まっているのにふと気づいて、にやっと笑った。
「覚えとけ、これがオトナの口吸い、だ。そちも、喜平二に可愛がってもらえる日がくるといいな。」
小侍従に言った。
「ずっと好きだった。もう、思い残すことは無い。そちに気持ちが通じたのだから。頼みがある。御台と共に落ちのびてくれ。そちの気持ちは嬉しいが、好きな女を死なすのはつらすぎる。余の為と思って堪えてくれ。」
「……わかりました。」
男から身を離すと、すっと恋する女の表情を消した。
いつもの、小侍従に戻った。
冷静で有能、それこそが、義輝の愛する小侍従だ、と言わんばかりに。
前久が部屋に飛び込んできた。
「始まったぞ!」
鞠と糸千代丸、岩千代丸を従えている。その後ろに光秀が続いた。
「ちょうど良い所に来た。小侍従を連れて逃げてくれ。」
義輝が言った。
「いや、ここに留まって、麿も一緒に戦う!そなたを守る!」
「守る相手が違うだろう。」
笑った。
「関白が守るのは帝、ひいてはこの国だろう。」
前久はぐっと詰まった。
「それは……そやけど……。」
「ほんとは、余が、そなたを守ってやらなくてはならなかったのに」
独り言のように言った。
「でも、もう駄目だ。守ってやれない。竜文字{前久}。」
優しく言った。
「余は、自分の名が世の中に轟けばいいと思っていた、その気持ちは今でも変わらない。でも、そなたに関してだけは違う。もういいから。そなただけは、余のことを忘れよ。」
前久の肩を掴んだ。
「血に染まって生きる武家と、血を穢れとし、物忌みする公家とは土台、人生が違うのだ。こんな時代だからといって、無理をして武家のように生きる必要は無い。公家らしく、静かに心穏やかに暮らしていけ。余のことはただ、心の片隅に仕舞っておいてくれれば良いのだ。」
「嫌や!」
前久は叫んだ。
「世の中がひっくり返っているのに、麿だけ静かに暮らせるわけないやろ!麿は関白や!一人だけ平和に暮らして、それで上に立つ者といえるか!」
「最後の頼みだ、聞いてくれ。」
構わず言った。
「そなたの姉は身籠っている。守ってやって欲しいのだ。子が生まれたら、そなたが後見してやってくれ。」
「菊文字{菊童丸・義輝の幼名}……。」
前久は義輝を見つめた。
幼いときから共に遊んだ、友であり、従兄弟であり、義理の兄弟でもある、二人。
「忘れるわけ、無いやろ。ずうっと一緒にやってきたんや。これからかて、一緒や。麿は、道を変えん。」
「強情な奴だ。」
二人で笑った。
「頼んだぞ。」
「ああ。」
公方は、光秀にも、御台所に供するよう命じた。
糸千代丸と岩千代丸に向き直った。
「そなたらも御台の供をせよ。」
「上さま……。」
二人が詰め寄ろうとするのを制した。
「これは命令だ。」
紅、糸千代丸、岩千代丸、鞠の顔を順繰りに見て言った。
「子供は死んではならぬ。」