第21話 公方
室町幕府・第十三代将軍・足利義輝。
十一歳で将軍に就任したが、それは亡命先の近江においてであった。
最初は管領・細川氏と争い、次いで細川家の衰退に伴い力を伸ばしてきた細川家の家宰、三好氏と対立した。
近江守護・六角氏の力を借り、城を築いて兵力を蓄え、交戦した。又、その間度々、三好長慶の暗殺を企てたとされている。しかし、どうしても三好氏を倒すことは出来なかった。
そこで義輝は、考えを変えた。
和議を結ぶこととなった。
昔ながらの考え方の持ち主である三好長慶も、将軍を頭に頂くのは願っても無いことと、蟠りを捨て、快く和解に応じた。
これ以降、義輝は、三好の監視下で、将軍の権威の復活を模索していくことになる。
自分の手勢を持たない彼は代わりに、諸国の大名を手懐けた。大名同士の争いを調停し、位階を与えたりした。いずれも将軍にしか出来ないことで、その権威の回復につながった。
諸国の大名は彼の手腕を認め、拝謁のため上京する者もいた。越後の上杉謙信{この頃は長尾景虎と名乗っているが、養子の景虎と紛らわしい為、謙信で統一する}、尾張の織田信長などである。
中でも謙信は二度も上洛した。
これには越後ならではの特殊な事情があった。
謙信の家である府中長尾家は越後守護代、つまり越後守護・上杉氏の家宰だったが、この頃、越後守護家は断絶していた。守護のいない守護代など、神輿の無い担ぎ手のようなものである。
都を牛耳る実力がありながら、三好家が遺恨重畳の将軍家を迎え入れざるをえなかったのと同じ、この時代ならではの事情による。
『分』は超えられない、どんなに『実力』があっても。
はじめて上洛した際は、守護職には任命されなかったものの、実質、越後守護として将軍から認められた。
二回目に上洛したのは、彼を頼って後北条氏から逃げてきた関東管領・上杉憲政の進退について、将軍の意を問うためであった。
甲斐武田家は守護だが、一段低い守護代の位にある謙信は、自らの進退についてより多く将軍の承認を必要とした。又、彼の父・為景が梟雄として名高かったため、後継者である彼は殊更に、身の潔白を天下に示さねばならなかった。
当然、謙信は、将軍の権威を損なおうと画策する三好一族を快く思ってはいない。
二度目の上洛の際、本国でどのような禍乱が起ころうとも、国のことは捨て置いて将軍に忠を尽くす、という覚悟を披露している。
五千の兵を率いてきた謙信の前に、今まで傍若無人に振舞っていた三好一族が、息を潜めてこそこそ隠れてしまうのを目にして、将軍家を奉ずる人々は、どんなに心強く、胸のすく思いをしただろうか。
「だからそなたが現れたとき、皆、喜んだのさ。」
嫌な目付きで美少年は言った。
「山内の使いだって。ふん、ただ家を追い出されただけの小娘に、大の大人が大騒ぎさ。関白が彼の機嫌を損ねて喧嘩別れしたって、皆、がっかりしていたからな。」
「隙あり!」
突っかけたが、軽くあしらわれた。
「そなたなんて」
美少年は唇を歪めた。
「俺の域に届くまで、百年早い。」
あれから紅は、度々、公方の夜の遠乗りに引っ張り出されている。
彼は別に盗賊団の頭でも何でもなかった。
お側仕えの奉公衆を率いて、深夜、都の北に広がる原生林の奥で、武術の訓練を人知れず行っていただけだった。
もちろん、三好の監視の目を掻い潜ってのことである。綺麗な若衆を集めて夜毎酒盛りしている、軟弱な公方だと思い込ませていたほうが都合がいい。
彼の剣の腕は、伊達では無い。
戦国時代きっての剣豪、塚原卜伝の直弟子であり、秘中の秘である奥義『一の太刀』を伝授された、僅か五人の高弟のうちの一人でもある。
後世、鎌倉から江戸までの歴代征夷大将軍の中でも、最強の人物ではないかといわれている。
「腕はまだまだだが」
公方は言った。
「この大人数に噛み付く、向こうっ気の強さが気に入った。余が自ら教えてやろう。」
で、夜は公方に、昼間も仕事の合間に、この美少年・摂津糸千代丸に、稽古をつけてもらっているのである。
摂津糸千代丸は、紅より二つばかり年上になる。
摂津氏は、公方の下で政所執事を務めていた伊勢氏が、公方の不興を買い、又、松永霜台と対立して失脚した後を襲って、政所執事になった。糸千代丸は、公方の義理の従兄弟の摂津晴門の嫡男であり、奉公衆の一員に連なる。奉公衆とは足利将軍の側近で、五ケ番編成の親衛隊である。
美しい顔をしているが、それと正比例して口が悪い。更に正比例して、憎たらしいことに、剣の腕もなかなかである。
彼の棒が手に当たって、握っていた自分の棒を、思わず取り落としてしまった。
「まっ!」
誰かが叫んだかと思うと、駆け寄ってきて、両手を広げて紅の前に立った。
「ちぇっ」
糸千代丸が舌打ちした。
「お姉さまに暴力を振るう者は、誰であろうとこの鞠が許しませぬ。」
高らかに宣言した。
「鞠さま。」
松永霜台の娘、鞠である。
あれからすっかり懐かれてしまっている。
相変わらず、いつの時代かという格好をして武衛陣を闊歩している。父の霜台が御相伴衆として日参しているので、それについて来ているのである。
あんまりべたべた纏わりつくので、紅が不思議に思っていると、
「母上を亡くされて日も浅いのに、霜台がすぐ後添えを迎えたからでしょう。淋しいのさ。」
小侍従が言う。
「しかも新しい母上は修理太夫{三好長慶}の娘で、何処の馬の骨だかわからないあの娘の母より出自が良い。おまけに、若い。霜台は大得意さ。」
紅が悩んでいることも、鞠の事情も、何も言っていないのに全てお見通しなのに紅が驚くと、小侍従は、
「当たり前でしょ。霜台の娘よ。動静に気を配っておくのは。」
と、さばさばと言ったものである。
さて、鞠である。
「あなたって人は」
糸千代丸に言った。
「いっつも剣を振り回して、ほんとに野蛮だわ。摂津は元は中原氏{朝廷に仕える地下人の一族}の出なんだから、ちょっとは光源氏の君を見習いなさい。」
「馬鹿馬鹿しい。」
糸千代丸も負けずに言った。
「頭の中、本のことしか無いんだから。」
鞠は、王朝文化にはまっている。
雅な宮廷文化に憧れ、ただ憧れるばかりでなく自らの生活をも、宮廷人になぞらえている。
何処ぞの貴族の蔵からおんぼろの牛車を引っ張り出してきて、夜のお散歩としゃれ込んだのが、そもそも紅との馴れ初めである。
「宮廷文化なんて、とっくの昔に滅んじゃったのに。」
糸千代丸とは犬猿の仲である。
先日牛車を追いかけていたのは、公方の一行に驚いた牛が走り出したのを止めようとしてのことだったが、
「ちっとは薬になったろ、なんてったってあの、いけすかない霜台の娘、だし。」
「危ないじゃない、何考えているの!」
紅を激怒させた。
もっとも牛車の件は、鞠の知るところではない。でも何となく感じるところはあるらしく、
「今に見ていらっしゃい。そのうち、誰も彼もが源氏を読み、伊勢を論ずる時代が来るから、絶対。」
主張して憚らない。
「へん」
糸千代丸は相手にせず行きかけて、ふと立ち止まった。
「そういえば」
鞠に言った。
「修理太夫は如何した。近頃、さっぱり姿を見ぬが。」
「さあ、どうなさっておいでかしら。」
鞠は一向興味が無いらしい。
「三好の者もお会いしてないみたいだけど。」
「そうか。」
頷くと、紅に、
(又、夜、な)
と目配せして去った。
「お姉さまは何故、かような下賎な者とお付き合いなさるのです?」
鞠が言った。
「お付き合いって。お互い、別にしたいわけじゃないけど。」
紅は口ごもった。
「ひょっとして」
はぁっと言って、鞠は手を口に当てた。
「彼の者が想い人、とか?」
「まさか!」
慌てて否定した。
おしゃまな鞠は、紅に付きまとっては、彼女の生活を詮索したがる。
迷惑だったが、毎日のように顔を合わせる身分の高い人の娘にすげなく応対するわけにもいかず、ほとほと困っていた。
三好に対抗する為に訓練しているんです、と、当の三好の家中の者に言うわけにはいかない。
仕方なく言った。
「何しろ人手が足りないでしょ?すぐ疲れてしまうので、身体を鍛えているのです。ほら、清少納言だって、中宮さまに御奉仕していらしたじゃないですか。」
「ああ!」
ぱっと明るい顔になった。
「枕草子!私、清少納言も大好きです!あの御本は、如何にも華やかな生活を送っているのを自慢しているように見えますけれど、本当は、中宮さまが没落して淋しい生活を送っていらっしゃるとき、楽しい出来事をつづってお慰めしたのが、そもそもの始まりなんだそうですよ。紅さまは清少納言みたいです!」
「ええっ、そ、そう?」
清少納言って、女の才はかえって不幸を招く例にたとえられ、宮廷を離れた後は落剥して{おちぶれて}、鬼のような姿になったとかいうけど。
「一生懸命、働いていらっしゃるところが、です!」
鞠は無邪気に言った。
「私も習います!」
「え、何を?」
「仲間に入れてください、剣術の稽古の!」
「鞠さまに剣術なんか必要は無いでしょう。」
「私もそのうち宮廷に上がるかもしれません。身体を鍛えたいのです!」
墓穴を掘ってしまった。
「何だって、あんな女を仲間に加えなきゃなんないんだよ!」
糸千代丸にはさんざん怒られたが、その彼とて、括り袴を身に着け、襷掛けも勇ましい鞠に敵うはずも無かった。
昼間の稽古に鞠も加わり、糸千代丸は文句たらたら監督していたが、鞠が、上手く出来ないのは指導が悪いせいなどと減らず口を叩くのに音を上げて、
「もう一人連れてくる。」
と言って友人を呼んできた。
大館岩千代丸という奉公衆の一人である。
大館一族は長年上杉との取次を務めていて、義輝の信用も厚い。糸千代丸より二つ三つ上だが、大柄でおっとりしている。彼が加わることで、随分とその場の空気が和んだ。
裏庭に、糸千代丸の合図で剣を振るう元気な声が響くのが、いつしか武衛陣の日課となっていった。