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不条理の修復者  作者: 麿枝 信助
第二章 舞い咲く恋慕は蝶の如く
54/67

『The girl needs a mask to cover up the truth』Ⅱ



 『…え?』

 

 知らない人に声をかけられた。

 

 あまりに突然の出来事に、そんな掠れた声しか出せてなかったと思う。

 

 そりゃあ、肌寒くなってくる夜中にベンチに膝を抱えながら丸まってる女の子を見たら、声をかけてくれる人もいるんだろうな。

 

 確かに傍から見たら何事か、って思うもんね。

 

 『…大丈夫かい?こんなところでそんな薄着じゃ、風邪ひいちゃうよ』

 

 薫が元のお家から持ってこれる服は少なかったから、今着てるのも夏から大して変わってなかった。薄い長袖の上に半袖のシャツとかを重ねて着て、なんとか寒さを凌いでた。

 

 その人は、俯いている薫の顔を覗き込むようにして話しかけてくる。

 

 『…………』

 

 男の人だった。

 

 年は、ちょっとパパより若いくらいかな。どちらかといえば、太っていた方だと思う。

 

 何も言えず黙っていると、少し間を置いてからまたその人は薫に声をかける。

 

 『……君、家は?』

 

 『…』

 

 『もしかして迷子とかかい?』

 

 『…ちがう』

 

 仕方なく、ぼそぼそと答える。一人にして欲しかったけど、こうなっては中々そうはいかないようだった。

 

 するともう一人、遠くから声がした。

 

 『先輩、どうしたんすか。急にいなくなるからびっくりしちゃいましたよ』

 

 『あー、この子が今こんなところで一人でいてねぇ』

 

 『……そりゃ大変っすね』

 

 背が少し高めで、眼鏡をかけた細身の男。口調から目の前にいる男の後輩っぽい。

 

 二人とも近くの会社のサラリーマンか何かだろう。薫の事をどうするかでも決めているのか、少し遠くで何かを話しているのが見えた。

 

 …………別に、放っておけばいいのに。

 

 一分か二分か経った頃、話が纏まったらしく二人が薫に近づいてくる。

 

 『………お嬢ちゃん。とにかく、夜遅くに一人でこんな所にいちゃ大変だ。少しばかり雨も降ってきたし、このままだと濡れてしまうよ』

 

 『…そうそう。とりあえず雨宿りしなきゃ風邪引いちまいます。丁度先輩の家がここ近いそうだから、ちょっと上がっていったらどうっすかね』

 

 『………』 

 

 『……警察に行かないって事は、単なる迷子って訳でもなさそうだからねぇ』

 

 『ゆっくり話聞きますんで、どうっすか?飯とかまだだったら何か買ってきますよ自分』

 

 トントン拍子で話が進んでいく。

 

 薫が何か言えば、また違ってくるのかもしれない。

 

 でも、口を開くのすら億劫だった。それほどの気力がなかった。

 

 知らない人について行ってはダメ?

 

 それは、心配してくれる人がいて初めて成り立つ口上。

 

 

 薫には、もういない。

 

 

 誰一人として、いなくなってしまった。

 

 

 『話は決まりだ、じゃあ早速行こうか。立てるかい?』

 

 『…ッ』

 

 手を、掴まれ、引かれる。

 

 その時点で、もう察した。

 

 この力の強さは、もうそう簡単には離さないというもの。土壇場で逃げだすのを防ぐ力量だった。

 

 (…そんな事しなくても、別に逃げたりしないのに)

 

 この後、家に連れて行くとか何とか言っていたっけか。

 

 そこで言葉通り温かい食事を用意し話を聞いてくれようが、逆に監禁して好き放題犯されようが、もうどうでもいい。

 

 

 何されようが、もう、どうでもいいんだ。

 

 

 ひとりぼっちの薫には、何の価値もないんだから。

 

 

 

 〇〇〇

 

 

 

 …雨の音だけが耳に残る。

 

 二人が傘を刺してくれているからあまり濡れてないけど、それでも顔を上げるのはどうにも難しかった。

 

 肩を抱かれて、挟まれるようにして大人の男二人とただ歩く時間。

 

 

 (…私は今、どこに向かっているんだろう)

 

 

 冷たくて、暗くて、重い。そんな空気が張り付くように薫を覆ってる。

 

 逃げても逃げても離してくれない、そんな深い闇。

 

 それが今広がって、後にも先にもずっと続いてる。

 

 

 (…何か、どうすればいっかとか、考えてたんだけど)

 

 

 拭きれない寂しさ。逃れられない苦しさ。

 

 ただ感じる、孤独。

 

 誰も助けてくれない。助かっても、自分の生(それ)を喜んでくれる人がいない。

 

 

 何かが、もう吹っ切れてた。

 

 

 (……まぁ、どうでもいっか。そういうの)

 

 

 取り繕いながら生きるのは、流石に、ちょっと疲れてしまったから。

 

 お願い。少し、あと少しだけ。

 

 今だけは。

 

 (………休ませて。風斗)

 

 

 

 『……おい。どーでもいいが、それ…誘拐じゃねぇか?』

 

 

 

 その時。

 

 

 唯一聞こえていた雨音に、異物が混じった。

 

 

 すぐそばにいる二人の問いかけや会話はこれっぽっちも耳に入らなかったのに。

 

 なぜか、その声だけは、薫に真っ直ぐ届いた。

  

 

 『…嫌だなぁ、いきなり。人聞きの悪い』

 

 『そうっすよ。自分たちはこの子をただ送っているだけっす。勝手に決め付けられるのはあんまり良い気分じゃないっすねぇ』

 

 二人は肩をすくめて、声をかけてきた男の人に向き直った。

 

 彼のことを、薫もチラリと盗み見る。

 

 身長は普通の男の人より少し大きいくらい。前髪は全て掻き上がってて、左耳と首元が光を反射してるのが遠目からでも分かる。身体は細身だけどゴツゴツしていて、顔は少し怖いと思うくらい強面だった。

 

 『…どこに送るって?』

 

 『それは……警察っすよ。迷子っぽいんで、自分たちが代わりにそこまで送ってる最中っす』

 

 『この子も濡れてるようでねぇ。風邪を引かないよう一刻も早く温かい所へ連れて行ってやりたいんだ。ほら、行くよ』

 

 大きい手に背中を押される。

 

 若干俯きを深くし、一歩を踏み出そうとした時だった。

 

 『……なら都合がいいな。今日は非番だが、俺は刑事でね。その子は俺が預かろう』

 

 そう言って、彼は警察手帳を二人に見せる。

 

 マジか、と小声が漏れるのが聞こえたのも束の間、簡単な取り調べが路上で始まった。

 

 『どーでもいいが…まぁ一応身分証提示と、職務質問をさせてもらう。オーケィ?』

 

 『…はいはい』

 

 小さいため息を吐きながら、気怠そうに刑事を名乗る男の質問に答える二人。

 

 その間、薫の霞がかかった頭の中で、その人の言葉が反響してた。

 

 刑事……警察……。

 

 それを聞いて、少しだけ、どこかほっとしてた。

 

 本当は、心の何処かで誰かに助けて欲しかったから。手を差し伸べて欲しかったから。

 

 

 ……だけど、そう考えたのは初めだけだった。

 

 

 二人からその人に引き渡された後、薫はどうなる?

 

 保護されて、事情を聞かれて、そして。

 

 ……多分、おばさんが迎えに来る。

 

 来なくても、あの場所にまた戻らなくちゃいけなくなる。

 

 

 …………それは。

 

 

 ……それ、だけは。 

 

 

 『……嫌』

 

 

 向かってくる手を、払い除ける。

 

 『ん?』

 

 『…もう、嫌なのッ!!』

 

 『な…、おいお前、どこに行く!』

 

 どこに行くか?そんなの、薫にだって分からない。

 

 でも、一つだけ確かなのは、薫はあの家に戻りたくなかった。

 

 今の状態じゃ、もう、とてもあんな環境に耐えきれないから。

 

 

 走る。

 

 

 このまま、何もかも振りほどいていけたらどんなに良いか。

 

 

 走る。

 

 

 このまま、何もかも捨てて身軽になれたらどんなに良いか。

 

 

 『っ……!』

 

 

 そして、転んだ。

 

 

 雨が強くなってきたせいか、水たまりができてて滑りやすくなってたんだろう。

 

 

 『…………ッ』

 

 

 分かってる。

 

 

 そう、うまくはいかない。

 

 

 多分、それがきっかけだった。

 

 この痛みが、この冷たさが、何より今までの事が、薫に嫌ってほどそれを教えてきてくれた。

 

 『…何で、こんな』 

 

 じんじんと服と共に擦り切れた膝が熱くなる。

 

 痛ましく血が滲んでる自分の傷さえも、滑稽な私を笑っているように見えて。

 

 

 薫以外の、みんな。

 

 

 私以外の、すべて。

 

 

 惨めな自分を見ている。

 

 遠くから、見ている。ただそれだけで。

 

 

 『あの子…可哀想だよね…いきなりあんなさ』

 

 『薫ちゃん、あんなに前明るかったのにね』

 

 

 (うるさい…)

 

 良いよね、アンタ達は。当たり前みたいにちゃんといい家族がいるから。

 

 自分がこうなるとは微塵も思ってない。だから、安全圏から薫をそんな目で見るんだ。 

 

 

 『ハァ……全く、何で私がこんな事やんなくちゃなんないんだよ…』

 

 『鬱陶しい…とっとと消え失せてくれたらどんなにいいか……』

 

 

 (うるさい、聞こえてんだよ…何もかもさぁ……)

 

 薫だって、好きでアンタの所に居るわけじゃないんだよ。寧ろこっちから願い下げだってのに。

 

 大人なのに自分の損得しか頭にない自己中。だから、平気で薫をそんな目で見るんだ。

 

 

 

 『…結局、薫は一人ぼっちだね。一人が耐えきれないのに、一人になろうとするからこうなる』

 

 

 

 (……………………………)

 

 

 

 『ひとりぼっちの薫は、誰も、助けてくれない』

 

 

 

 (…………うるさい) 

 


 

 『薫は恵まれていたもんね。愛されてたもんね!家に帰るとあったかいご飯が待っててさ!今日の夕飯何かなって帰るの楽しみにしててさ!美味しかったなぁ〜!特にママの作るコロッケとハンバーグが風斗といっつも最後の一つ取り合いになるの!お姉ちゃんだから分けてあげなさい、ってママ言われて仕方なく分けてあげたらこっそりパパが自分の分をくれてさ!』

 

 

 

 

 (…うるさい) 

 

 

 

 『パパとママがお休み取れた日には、毎回どっか出かけてさ!あのよく行ってた広い公園で、よく皆でバドミントンとかしてさ!』

 

 

 

 (うるさい!)

 

 

 

 『楽しかったなぁ、またしたいなぁー!ギターの練習もまた聞いてもらいたいし、運動会とかにもまた来てほしい!あ、薫もうすぐ高校生だから、何かお祝いとか貰えるかな!?お姉ちゃんもう高校生だぞー、って、風斗に自慢できるしね!』

 

 

 

 (うるさい…うるさいってば!!)

 

 

 

 『……でも、あれ?』

 

 

 『………もう、いないんだっけ?』

 

 

 (黙れ…!)

 

 

 『もういないんだっけ?あれ?もういないんだっけかな??もういないってことは、もう会えないってことで、もう同じことやってもらえないんだよね?あ、それと高校生になっても大学生になっても結婚してもこれからそこにもういないって事だよね?ずっともういないってこ』

 

 

 

 

 『黙れ、黙れ、黙れ黙れ黙れ黙れええええええぇぇぇええええッッッッ!!!!!!!!!!!!』

 

 

 

 『おい』

 

 

 『ッ!!?』

 

 

 不意に、腕を掴まれる。

 

 

 『…それ以上は、もうやめろ』

 

 『ハァッ、ハァ、ハァ、ハァッ…』

 

 気づいたら、薫の手と足は、血塗れだった。

 

 

 『離せよ…』

 

 『………』

 

 『離せッ!!』

 

 ぬらぬらと赤く光る小石を持った右手を振り回す。だけど、大人の男の人の力に勝てる筈もなかった。

 

 『…何があったかは知らねぇし、お前が一生歩けなくなる足になろうが俺には関係ねぇ』

 

 『……だったらッ!!』

 

 『…けどな。ここ、道路の真ん中。車通る。実際今後ろで困ってるの。オーケィ?』

 

 『……………………』

 

 正直、全く気づいてなかった。

 

 かざされる車のライトに眩しそうに目を細めながら、刑事を名乗る男は薫の腕を引っ張り、無理矢理立たせる。

 

 『……ッ』

 

 『痛ェだろうが、自業自得だ。オラ、お前も頭下げるんだよ』

 

 そう言って、半ば強引に薫の後頭部を鷲掴んで下を向かせる。つかえている車が通れるように、肩を担いで薫を歩道側に移動させた後、その男の人は呆れたように息を吐いた。

 

 『…さ、離したぞ。後は気が済むまでそのアホらしい自傷をどうぞ』

 

 『…………』

 

 冷水をいきなり浴びせられて、続きをしてくださいと言われてはいやりますって言えるほど薫も単純じゃない。

 

 その時あまり感じてなかった痛みも、今になって煩いくらい主張してくる。

 

 『……ん?やらんのか?面白くない…どーでもいいが』

 

 『………』

 

 この人、薫を何だと思ってるんだ。

 

 …いや、まぁ、確かに、いきなり路上で血が出てる膝に泣き叫びながら近くにあった石を打ち付けてた薫がどうこう言えたことじゃないけどさ。

 

 『…アンタ、それでも本当に刑事なの』

 

 『お、中々鋭いなお前。勿論違う』

 

 違うんかい。

 

 『あー、だがまぁ、昔はそんな事をやってた時期もあってな。この手帳はそん時のやつだ』

 

 …なるほど。元、刑事さんって事ね。

 

 ……って、そうじゃなくて。

 

 『…何で、薫の事…止めたの』

 

 『あ?人様の迷惑だからだけど』

 

 『えっと、違くて……一番最初の、声かけてきた時』

 

 そもそも、この人が声をかけてこなければ薫は今こんな事になってなかったかもしれない。

 

 妬み七割、感謝三割程度の気持ちで聞く。

 

 『何故、か………』

 

 少し間を空けてから、彼は言った。

 

 『強いていうなら元刑事だったからだが、俺じゃなくても誰かが同じことをしたんじゃないか』

 

 『…………』

 

 かも、しれない。

 

 だけど、そんな可能性はないって知ってる。

 

 皆、面倒ごとに首を突っ込みたくないから。その方が安全で、楽だから。

 

 薫は連れられてた間、ずっと俯いていたけどそれでも、通り過ぎる人の気配くらいは感じた。

 

 つまり、そういう事なんだろう。

 

 『ん?元刑事だったから、って回答じゃ面白くなかったか?お前があと十年歳取ってりゃ好みの女だったから、ってのが言えたんだが』

 

 『…そういうの、求めてないから』

 

 意外と冗談みたいな事も言う人なのか、などと思っているうちに、雨の勢いが増してきた。

 

 『……どーでもいいが、お前そのままじゃ体壊すぞ』

 

 『…ほっといて』

 

 焼けるように熱い右膝と対照的に、両手や唇はもう冷え切って震えている。

 

 それがバレないように手先を後ろに隠しながら、せめてもの強がりをボソリと吐き出した。

 

 『ああそう。じゃあそうするわ。じゃあな』

 

 『………』

 

 そう彼も呆れたように言い放って、軽く手を振りながら彼方へと歩いていく。

 

 『……………』

 

 

 離れていく。

 

 

 『…………………ぁ』

 

 

 何故かは、わからない。

 

 

 わからないんだけど、その時確かに。

 

 

 ものすごく、一人になるのが怖かった。

 

 

 そして、気づいたら、その人の背中に、

 

 

 『…待って』

 

 

 『…………』

 

 

 そう、言っていた。

 

 

 

 〇〇〇

 

 

 

 『っだぁ、疲れた…』

 

 『……ごめんなさい』

 

 結局二人ともずぶ濡れになりながら、ボロ臭いアパートへ何とかたどり着いた。

 

 薫がろくに歩けないから、この人におぶってもらってここまできたと言うわけだ。

 

 『お前の謝罪なんかいらねぇんだよ、ったく厄介ごと持ち込みやがって…』

 

 『…………』

 

 あぁ、また。

 

 まただ、と薫は顔を伏せる。

 

 『…薫はいつも、人に迷惑かけてばっかだね……』

 

 さっきまで気持ちが昂っていたせいか、思っていることが口に出やすくなっていたのかもしれない。

 

 『……』

 

 思わずポロッと溢れてしまったのがたまたま聞こえたんだろう。

 

 彼が薫の顔を眉を顰めてじっと見ているのに気づいた。

 

 『……な、何』

 

 『…確かに、謝罪はいらないと俺は言った。だがな、貰うもんも貰ってねぇんだよこっちは』

 

 『……え』

 

 何だろ、そんな、急に言われても。

 

 お金、とかかな…でも、薫が今あげられるものは、何も………。

 

 

 『……わからねぇか。ったく、人に何かしてもらった時はまずお礼、ありがとうございます、だろ?オーケィ?』

 

 

 『………あ』

 

 常識。当たり前。

 

 暗い感情に打ちひしがれていて、そんなことすらできていなかったなんて。

 

 『ん?』

 

 『あ、その…ありが、とう。ございます……』

 

 『…………』

 

 いつもの薫ならこんな事軽々と言えるのに、何故かこの人だけには妙に言いにくかった。今の薫はメンタルがぐちゃぐちゃだから、それもあるかもしれないけど。

 

 それでも何とかぽそぽそと喉から絞り出すように呟くと、彼は目を細めて、

 

 

 『…なんだ、ちゃんと言えたじゃねぇか』

 

 

 薫の頭に手を置いた。

 

 『……!』

 

 たった、それだけ。

 

 『あ…』

 

 たった、それだけなのに。

 

 

 『あ、あれ……』

 

 

 冷えた身体を拒むように、冷たい心を溶かすように。

 

 温かいそれは、勝手に薫の目から溢れていた。

 

 『………』

 

 『なんだ、え、何これ、うそ…止まんな、あれ………ッ』

 

 咄嗟に俯き、それらを必死に拭っても一向に止まってくれる気配がない。

 

 人前で、しかも初対面の人にこんな姿、恥ずかしくて見せてられないってのに。

 

 『…すぐそこが風呂だ。借してやるから、風邪引く前にとっととシャワーでも浴びてこい』

 

 『……』

 

 こくり、と小さく頷き、逃げるようにしてその場を離れる。

 

 扉を開け、あの人から壁一枚離れていても、頭に残った感覚がいまだに消えてくれない。

 

 (あんな……あんな、ことで…)

 

 

 そう、たったあれだけ。あの一言だけ。

 

 

 五秒にも満たない、たったあれだけのことで。

 

 

 こんなにも、胸が苦しいなんて。

 

 

 こんなにも、響いてしまうなんて。

 

 

 出会ってすぐ、『薫』のあんな所を見ておきながら、でも、ちゃんと『薫』を見てくれていた。

 

 

 …私を、認めてくれた。

 

 

 それは彼にとって、些細なことかもしれない。ほんの、数分後にはすぐ忘れる程度の、ごく当たり前な事かもしれない。

 

 

 だけど、それが、今の薫が本当に欲しいものだった。

 

 

 『く……う、ぅ……っ』

 

 ずるずると座り込んで、必死に両手で口を押さえて、声を殺す。

 

 …じゃないと、この感情が抑えきれないから。

 

 身体を縮こませて、膝を折り曲げて、できるだけ小さくなる。

 

 …じゃないと、熱が簡単に逃げてしまいそうだから。

 

 彼の手の温度がそのまま伝わったかのような涙が、雨で濡れた薫の身体を温める。

 

 

 その優しい温もりは、薫に纏わりつく暗がりを引き剥がすほどほど力強くて、

 

 

 そして、どこか、とても懐かしかった。

 

 

 

 

 

 〇〇〇

 

 

 

 シャワーを浴び終えると、棚に畳んであるタオルと服が置いてあった。

 

 客用なのか、はたまたシャワーを浴びている間に新しく買ってきてくれたのかわからないけど、ありがたくあまり使われてなさそうな少し大きめのシャツとズボンを履く。

 

 シャワー中も着替える時も、右膝が痛すぎてかなり時間がかかった。幸い傷はそこまで深くはないっぽかったけど、後先考えずに思いっきり石で殴ってたからかなり酷いことになってる。

 

 あともう少し止めてくれるのが遅かったら、本当に骨まで砕いてたかもしれない。そう思うと、少しゾッとする。

 

 壁に手をついて、足を引きずりながらリビングのドアを開けると、いい匂いと一緒に麺を啜る音が聞こえた。

 

 『……遅かったな』

 

 『…うん。あ……シャワーと服、借してくれてありがとう……ございます』

 

 『おう。あとそれ、お前のだから。要らなかったら捨てろ』

 

 『……いる』

 

 夜ご飯食べてなかったのと疲れてるのもあって、目の前の誘惑にあっさり負けてしまう。もしそうじゃなくても、この時間のカレーヌードルは悪魔的。この男、中々のワルだ。

 

 席に座って手を合わせたあと、最近特に慣れ親しんだ味を胃袋の中に入れる。

 

 久しぶりに誰かと一緒にご飯を食べているからなのか、同じような味がいつもより少しだけ美味しく感じた。

 

 『…ご馳走様でした』

 

 『ん。ゴミはそこに捨てろ』

 

 『…うん』

 

 身体も温まり、お腹もいっぱいになった。雨風も凌げている。しかめっ面で無愛想に見えるこの人だが、意外と面倒見はいいのかもしれない。

 

 『…あの』

 

 『ん?』

 

 『色々と、その……ありがとうございました』

 

 『…ああ、まぁ。乗りかかった船だしな』

 

 そう言いながら彼はわしゃわしゃと頭を掻く。薫の髪はほぼ乾いてるのに、その人の髪がまだ湿ってるのに気づいて、むず痒くなった薫は思わず聞いた。

 

 『…シャワーとか、浴びないの…?』

 

 『後で浴びる』

 

 『え、でもそれこそ風邪引いちゃう……』

 

 『馬鹿言うな。見ず知らずの他人を家にあげてんだぞ?そいつの事もよく知らないで、背中を見せるってのは隙がありすぎるだろうが』

 

 『……薫、泥棒じゃないんだけど…』

 

 『すまんな。こういう性分なんだ』

 

 『………』

 

 だったら家にあげなきゃいいのに、って思うのは薫だけかな。お世話になっている身でそう思っちゃうのは、薫がねじ曲がってるからなんだけど。

 

 『…薫、か』

 

 『え?』

 

 『お前の名前だよ』

 

 『あ……うん。薫。苗字は夜に葉っぱで夜葉。夜葉薫』

 

 そういえば、自己紹介がまだだった、って今更ながら気づいた。薫は助けてくれたこの人の名前も知らないで家に呼ばれていたのかと思うと、少し奇妙な感覚になる。

 

 『おじさんは…』

 

 『…俺か。そういや名乗ってなかったな。俺を呼ぶ時は……そうだな、シゲでいい』

 

 『……え?名前がシゲっていうの?苗字とかは?』

 

 『実は俺はネパール人でな。シゲ・ドーデモ・イーネという』

 

 『それ絶対嘘のヤツじゃん…』

 

 『それと俺はおじさんって歳じゃねぇ。まだ二十六だぞ』

 

 『あ…』

 

 強面で堀の深い顔と顎髭のせいで、てっきり三十は超えてるのかと思ってた…。

 

 取り敢えず頭を下げる薫に、シゲは言われ慣れてるって鼻で笑ってくれたけど。

 

 『……ってかそれも嘘なんじゃ』

 

 『三十いってないのはマジだ』

 

 『…………じゃあ名前は』

 

 『どーでもいいだろ名前なんて。それとも何か、本名知らなきゃ人付き合いできないタイプか?お前』

 

 『いや…そう言うわけじゃないけど……薫だけ教えて、フェアじゃないっていうか…』

 

 『まぁそっちが勝手にフルネーム教えてきたからな。俺は言わんが』

 

 『ず、ずるい!』

 

 ちゃんと名前くらい教えてくれたっていいじゃん!それに何か、負けてるみたいで気に食わないんだけど!

 

 そんなおちょくられて口を尖らせてる薫の事はお構いなしに、シゲは窓際に行って、煙草に火をつけた。

 

 『……今日はもう遅いし泊めてやるが、明日はちゃんと家に帰れ。流石にそれ以上は面倒見きれん』

 

 『…………』

 

 いつか、言われると思った。

 

 みんな、帰るべき場所があって、待っていてくれる人がいる。

 

 それが当然。それが常識。

 

 だからこそ、薫はこう答える。

 

 『……ない』

 

 『ん?』

 

 『…帰る家なんて、薫にはもうないんだよ』

 

 ちょっとだけど、シゲの目が大きくなった気がした。

 

 『……そんなに親が嫌いか』

 

 …違う。違うんだ。

 

 家出だったら、どんなに良かったか。

 

 言いたくなさに耐えられるように両手をぎゅっと握りしめて、きつく引き締めた口から、一言一言、でもはっきりと絞り出す。

 

 『………薫のパパとママは、もういないの』

 

 『………』

 

 最初さえ言えれば、あとは流れに乗るだけだった。

 

 パパとママが、薫を置いていったこと。

 

 風斗がまだ病院にいること。

 

 友達を遠ざけてしまったこと。

 

 おばさんに嫌われてたこと。

 

 大事な人がいなくなって、初めてその大切さに気づいたこと。

 

 途中、耐えきれなくてまた少しだけ泣いちゃったけど。

 

 全部、ちゃんと話した。

 

 『……………』

 

 シゲは、薫が話し終わるまで何も言わずに待ってくれた。

 

 多少落ち着いてはきたけど、それでもまだ薫の中身はぐちゃぐちゃのまま。

 

 気づけば、それも口に出ちゃっていた。

 

 『薫...もうどうしたらいいかわかんないよ...…』

 

 こんな話、いきなり知らない人にされても困るのはわかってる。

 

 でも。それでも。

 

 私は、答えが欲しかったんだと思う。

 

 シゲはタバコをひとふかしした後、細い目をさらに細めて、遠くを見つめながら言った。

 

 『…まだ、いい方じゃねぇか』

 

 『え?』

 

 薫が顔を上げると、シゲと目が合う。

 

 『風斗……だったか。弟がまだ生きてるんならそれに越したこたァねぇ。死んだら確かに終わりだが、生きてるならまだいくらでも巻き返せる。違うか』

 

 『………』

 

 『失ったものに囚われるのはわかる。泣いたっていい。憂うのも間違っちゃいねぇ。…だがな』

 

 最初の時と同じだ。

 

 言葉が、スッと入ってくる。

 

 

 『囚われ続けちゃ(・・・・)いけねぇだろ。断ち切れとは言わん。折り合いをつけろ。後ろばかり振り返るな。今お前にあるものはなんだ?いい加減目ェ覚ませ、まだ全部失っちゃいねぇだろうがよ』

 

 

 『………………』

 

 

 たぶん、誰かに言って欲しかったんだと思う。

 

 

 誰かに、怒って欲しかったんだと思う。

 

 

 間違った道に行こうとしてる薫を、ちゃんとした道に連れて行って欲しかったんだと思う。

 

 

 『…今、起こっちゃまずい最悪のケースは何だ』

 

 『……風斗が…同じところへ行っちゃうこと』

 

 『それを今防いでるのは誰だ』

 

 『お医者さんと、病院と……そのお金を払ってるおばさん…』

 

 『……なら、お前はどうしなきゃいけない?』

 

 『………薫は』

 

 …わかってる。

 

 どんなに嫌でも、やらなきゃいけないことがあるって事。

 

 あそこに、戻らなきゃいけないって事。

 

 あの日々に、耐え続けなきゃいけないって事。

 

 『…薫、は』

 

 やらなきゃいけないのに。わかってる筈なのに。

 

 心臓に何本も針が刺さっているような苦しさで、抑えている感情が溢れそうになる。

 

 唇を噛まないと、また、熱を逃してしまいそうで。

 

 

 『…だァー、もう見てらんねぇなお前!』

 

 

 その時、いつも落ち着いてるように見える彼が初めて声を荒げた。

 

 『いいか、今回だけだ。今回だけ、その足が治るまで面倒見てやる』

 

 ゴツゴツした指を此方に向けて、酷く不機嫌そうに頭を掻きむしって言葉をぶつけてくる。

 

 でも、その目は真っ直ぐ薫を見てくれていた。

 

 『...いいの...…?』

 

 『二度は言わん。考えてみりゃ、あそこでお前をここに連れてくるって決めた時点で俺の落ち度だったのか……』

 

 正直、予想外だった。

 

 元刑事でも、シゲなら容赦なく薫を次の日には外へ放り出すくらいの事はしそうな雰囲気だったのに。

 

 驚きと、ほんの少しの嬉しさと安心感。でも、それと一緒に罪悪感もすぐに顔を出してくる。

 

 『……やっぱり迷惑なら薫は…』

 

 『二度は言わねェっつったろうが。これは俺が決めた事だ。拒否権はねぇからな、オーケィ?』

 

 『………』

 

 少しだけ、彼のことがわかった気がする。一度決めたらてこでも変えない頑固なタイプだ。

 

 『…あと、その辛気臭い顔何とかしろ。見たくねぇんだよ、そんな今にも死にそうな顔は』

 

 『そんなこと言ったって……』

 

 そんな簡単じゃない。

 

 そんな簡単に気持ちが切り替えられてたら、こんな苦労なんてしてない。

 

 『…笑え』

 

 『…は?』

 

 『笑えって言ったんだよ。嘘でもいいから、オラ』

 

 『いきなり言われても…』

 

 何だかよくわからないけど、とりあえず、顔を作ってみる。

 

 『全然笑えてねぇじゃねぇか、もっとだ。もっと口角を上げろ』

 

 『えぇ……こ、こう?』

 

 こんな状態で、笑えとか言うから今すごい変な顔になってると思う。

 

 そして、気づいたら何処からか取り出したカメラで、いつの間にかシャッターをきられていた。

 

 『あ、ちょっと!』

 

 『…今は、これでいい』

 

 いきなり写真撮るとか、困るんですけど!

 

 『…どーでもいいが、お前ド下手だな。顔作るの。お前くらいのは皆そういうの得意じゃねぇのか』

 

 それにダメ出しまでしてきて…なんなのほんと……。

 

 なんか、ちょっとムカついてきたし。

 

 『それを言ったらあ、アンタだって……その怖い顔どうにかなんないの』

 

 『俺のこれは生まれつきだ、馬鹿にしてんのかお前』

 

 『馬鹿にしてるのはアンタの方でしょうが!』

 

 おちょくられて、気に食わない。

 

 けど、この雰囲気は何だか新鮮で、悪い気はそんなにしなかった。

 

 そんな、彼との新しい少し奇妙な生活がこの辺りから始まったのだ。

 

 


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