第一話
目を覚ますのは、いつも夕暮れだった。
昼と夜の隙間で見るのは、いつもあの空だった。
静かに苦しんでいた。たった一人で。
*
馬が、太陽を背にして走っていた。とても黒く、大きく、速かった。その体にはつやがなく、かげは曖昧で、揺らめいている;水墨画のように滲んだ輪郭であるので、まったく現実味がない。しかしながら、それはあまりに黒々としている;ゆく先に落ちる、それの長い影法師よりも、はるかに。黒暗暗。
西空の雲より速く駆けた。その草原のなによりも速く。けれども、太陽を置いていくことはできなかった;夕空の地平線に腰掛けて、ひとり。その背は、彼こそが向こうの暮れゆくのを眺めているみたいだった。
この巨大な馬が運んでいるのは、一人の男である。平らかな原っぱに、一人きりだった。わずかに草のはげた、細い道をなぞる。彼のはるか後ろの方から、行く末の消えいって見えなくなるまで、終わることのない小道に見えた。枯れたような草ばかりがしげる、寂しげな原に。
一度として止まらずに、走りつづけて、見えてきたのは山だった。草の原に、突然現れて、旅人の行く手をまったく塞いでいる。これは、南北にほとんどまっすぐに伸びていた。迂回する、あるいは乗り越える、などというありきたりな発想の数々は、こうした大自然の壁に対して発せられたならば、いかにも、大冒険に聞こえる。
その黒々とした山の腹、なだらかな斜面は、夕暮れをいっぱいに受け止めていた。太陽が投げかけるその光は、うすく伸ばされて、まんべんなく山々に塗り広げられていたが、一か所、それの溜まっているところがあった。不自然な、くぼみがあった。小さな匙ですくったような、大きな孔である。岳の土手腹にあるその窪溜りは、もう一つ山がすっぽり収まりそうなくらい大きかった。山が生き物であるならば、深手だっただろう。この傷口が、西に向かってひらいているので、入り日の光が、ちょうどそこに淀んでいるのである。
その隕石孔の内壁には、一面に真白の桜が咲いていた;遠くから見る限りはそのように映ったが、寄ると、すべて家である;白い建物が、埋め尽くしているのだ。家の並びや形はたいへん綺麗に整えられており、街全体が、階段となっていた。これらのことから、この都市は、ちょうど、半円形の、巨大な劇場のようだった。必然的に、一番ふもと側にある神殿、そしてさらにその奥の夕陽が、舞台に置かれるべき主役であり、それゆえに、街というものは、どこにいっても、およそ、そのような形である。
馬の運びは、街が近づくにつれて、穏やかになっていった;その動きは、まったくもって、彼の思うところに適っていた。彼の体の一部のように動いた。煙霞のようにつかみどころのないその体は、しかし、芯をもってそこに存在していた。
ゆるい坂を、登る。
近づいていよいよ分かったことには、街は、これは檻である。穴の縁を、壁がぐるりと囲んで、返しのようなものまでついており、登攀の気は削がれるばかりだろう。出口が、見当たらない。その壁が、山の斜面から流れ落ちて、一つに繋がる所に、それはそれは大きな塔が立っている;神殿だ。ほとんど単なる四角柱であり、実に簡素なつくりだが、その大きさと高さは、人々を畏怖させ、疑いなく崇めさせるには、十分に効果的であった。
さて、男は、その脇にこさえられた門の前に立った。この門扉は、石の引き戸が、何重にもかさなっているもので、一番外側のものが開き切ると、一つ奥の、二枚目が動き出すといった具合であった。壁の内側に控える者たちが、何人も協力することによって、それを成し遂げることができた。重たい音を立てて、のそのそと開く。じつに遅鈍である。ところが、その大男は、馬から降りて、少しも動かずに、待った;置物のように。
ところで、馬は、もうどこにもいなかった。
街は、静かだ。この巨大な都市にいるはずの多くの人々は、どこにも見当たらなかった。審問官を出迎えたのは、物言わぬ人形であった。どれもずた袋を被っていて、顔が分からない。人のように動くが、イシがあるようには見えなかった。
彼もそうである;フードを、深く、深く被っていて、顔は見えない。というのも、ヘルムを被って、頭をすっかり隠してしまっている。
目の位置で横に走り、鼻筋に沿って、顎まで落ちる、T字のスリット。彼の、金属の顔。フードの下から、蜂の凶悪な顎がのぞき見えているみたいだった。それは金属であるが、なにやら動き出してカチカチと音を鳴らしそうな、あるいは噛みついてきそうな、そういう雰囲気があった。
一人、小柄な男が、せかせかと巨漢に近づいてきた。その濃い灰色の服は、真っ黒な異端審問官の前では、汚れた白にしか見えなかった。太陽に仕えるその聖職者は、焦りか、恐怖か、あるいはその両方によって、声を震わせながらも、巨人に挨拶する。はやる気持ちは、言葉が出てくるのを、不自然に速くさせた。
「ああ! お会いできて光栄です、デセ閣下。太陽公がその御許よりお遣わしになったお方。このたび拝顔の栄にさずかれたことは天恩にございます。太陽の正義がその御光によってかなうことを、お待ちしておりました」
その男の、老けた顔は、ちょうど審問官の腹の高さにある;岩壁に向かって話しかけている気分になった。
デセと呼ばれた大男は、無言をもって、続きを促す。
「例の、例の魔女たちは、既に捕えてあります。さ、こちらへ」
巨大な塔を起点にして、太い道が、ずっと上の方まで伸びている。このオベリスクの影が途切れるあたりまで上ったところ、また広場がある。中央には、大きな台座があって、そこに、太陽を模した球体のオブジェが乗っている。
ここには、前述の不気味な兵士たちがたくさんいた。何かを囲んでいる。女たちだ。三人、横に並べられている。手を縛られ、跪いたまま、動けないでいた。
「私は魔女ではありません! 本当です! 太陽に誓って、魔女ではありません! お願いします!」
「あぁぁ……お赦しを……」
ある者は無実を訴えて、はばかることなくわめき、またある者は、ついに現れた審問官を見て、呆然と涙している。
「………」
しかしながら、最後の一人だけは、安らぎにあった。穏やかな表情だった。自分は魔女とは言われないという、相当の自信があるらしい;あるいは、ひょっとすると、これから起こることを、すでに受け入れていたのかもしれない。
審問官は、ゆっくりと彼女たちに歩み寄っていく。二メートルはあろうかという体で、鎧も着込んでいるが、静かな足音だった。ほつれが一つとしてない、その黒いマントが、わずかにゆらめく。その姿は、恐ろしくもあるが、高貴で、洗練された印象を受ける;審判を下される側にとっては、ただ恐ろしい。
デセが、まず一番左端の女の前に立った;やんやと泣きたてて、命乞いをしていた者だ。この時には、さすがに、この女も黙りこくっていた。死がもう目の前にいたからである。
ところが、このインキシドールは、彼女に一目くれてやると、「この女は違う」と言い放って、その隣の女にも同様の言葉をかけた。それで、彼女たちはすぐさまに解放された。命が助かったことに感激を覚えたこの二人は、訳も分からぬまま、お門違いの感謝を述べつつ、逃げていった。
――ひとりの女が残された。デセは、もう結果が分かりきっていて、それだから、剣を抜いてから、彼女の前に来た。長く伸びる、太い影が、彼女を覆う。
「こいつが、魔女だ」
そう告げる審問官の声は、低く、ひどくひしゃげていた。作り物の声だった。鼓膜だけでなく、身体をも震わせるような低さだった。
「そう。私は、魔女です」
不惑の魔女は、それを肯定した。落ち着きの裏に、どこか寂しさをたたえた声。
「こいつは、この街にずっといたのか」
デセの問いかけに、離れたところに控えていた神官が、すばやく二、三歩、前に出る。
「いえ、こやつは、街に、最近忍び込んできたようです。台帳には名前がありませんでした。ネズミと仲良くしているところを捕らえた次第にございます」
魔女の周りに、黒い煙が、渦を巻いて、まとわりつく。薄く、透いている。濃い墨を、透き通った水に一滴垂らしたような、みずみずしさがある。
「ああ! なんとおぞましい! これが、魔女……」
信心深いと思われる男は、軽蔑と恐怖を、女に、直接に投げつけた。それを受けてなお、彼女は、微笑むことさえした。張りの無い、しわがやや目につく笑みであるが、とても柔らかだった。
「無駄だ」
デセは、魔女の象徴たる、その黒い煙を、我が事としてあやつり、雲散させた。傍からは、抵抗を試みた妖女が、あっけなく負かされたように見える。
「どうやって街に入った」
剣の先を、首に突きつける;ところが、魔女たちに対して、つねづね、こうした脅しは、断然、効果が無い。
女は、顔を上げて、自分を殺そうとしている男を、じっと見つめた。
彼女は、静かに笑っている;腹が、立つ。
「どうやって私がこの街に入ったか、知りたいの?」
「別に」
「あれ、そうなのね」
ふふふ、と優しく笑う。首に当てられている剣に、ぎ、と力がこもる。
「どんなに高い壁で塞がれていても、必ずどこかに、別のいきかたがあるものよ」
「黙れ。街に、なぜ入った」
デセは、声にも力を入れ、ますます脅しをかける。しかし、魔女は、答えなかった。
「戻ってやり直すことはできないけれど、道はいくらでもあるから。まっすぐな一本の道は、無いの」
そして、微笑んでいた。
「また会いましょう」
「それは、魔女につたわる、お決まりの命乞いなのか? もういい。死んでくれ」
魔女には、いつもイラつかされる;その苛立ちは、たぶん、自分に対して。
デセは、剣を振り上げて、素早い動きで、その首をはねた。
泣いていた。
落ちる頭が、やけに重そうに見えた。長い髪の、自由に乱れるのが、羨ましくて。
「会うわけがなかろう」
亡き骸は、倒れこんでからすぐに、黒いもやに包まれる。それから、体もそれになって、霧消した。風は吹いてもいないのに、ひそやかに、夕日影に消えていった。そこには、彼女の服と、身に着けていたわずかの持ち物が、残されるばかり。二度目の「また会いましょう」が聞こえたのは、自分の記憶の中なのか、頭の中なのか、分からなかった。
大柄の審問官は、こうして、課せられた使命を、粛々と、また一つ果たした。
ちょうど、それを待っていたかのように、彼の頭に痛みが走る。鋭くはないが、ぎゅうっと締め付けられる感じがした。それから、目まいもする。いま目に映っているのとは違う、見たこともない景色や音が、つぎつぎに頭に入り込んできて、視界が強烈にぼやけるのである。それは、父からの知らせだった。痛みとともに、「会いに来なさい」という念が伝わってくる。それなので、デセは、ふもとの神殿に向かった。
神殿は、大きなモノリスだ。夕日を背に受けて、縁がぼんやり輝いている。風をかきわけるみたいにして、エッジを正面に向けている。たいへんに大きいので、近くに立つと、ただの壁だ。
これの前の広場には、複数の警備兵がうろついていたが、通り過ぎる審問官には、いくらかの興味も示さなかった。彼らは一様に、布の袋を頭から被って、背格好も一緒である。それが持つ槍の、その穂先は、夕影に、うっすら光っていた。
このタワーには一見すると入口が無かったが、正面の角のまえに立つと、ご、と音がした。稜線に沿って、一部が、ずるずると、滑り落ちていく。斜め下へ、沈み込んでいく。角を小さく切り取られた四角柱。
進んで、奥にある、著大な四角い空間。これは、人々が祈るたびに食糧に満たされるが、今は、空っぽだ。さらにその奥には、至聖所がある。ここに幾度も踏み込んできたのは、デセくらい。
祭壇がある。質素だが、厳かである。これの一番上には、球体があった。それだけが、白く照らされて、闇に浮かびあがる。金属のようでありながら、しかし、その光沢は、ぼやけ、にごっている。大きさに関して言えば、二、三人で抱え上げられそうだったが、それと同時に、何によっても動かされないような重々しさがあった。
デセは、その手前に立った。うつむいたまま。
「やあ、我が息子」
その声は、老いていた。まるで人間味が無い。囁くような音だが、ずいぶんと耳障りで、ねじ曲がっていた。くぐもっているのに、デセは、鼓膜のすぐそばで響いているかのような、不愉快な感じを覚えた。かきけそうにも、かきけすことができない、身勝手な声。
「お前は、とても優秀だね。しかし、まだ僅かな迷いがあるようだ」
「はい」
「自分の力と、魔女の力が、同じものだと思っているのだろう?」
「はい」
「その力は、魔女のそれとは、大きく異なる。魔女は、悪い奴だ。悪しき魔女を見つけ出し、無力にし、魔女たちに救いを与える。それが、太陽公の息子であるお前の、なすべきこと。よいな、我が息子よ」
「はい」
親と、子。太陽と、太陽から生まれ出た子のいる場所は、暗暗としていた。世界は、その不気味なスフィアと審問官だけがいるかのようだった。闇がどれほど広かろうとも、光が無ければ、狭狭しいのだ。
しゃがれた声が、優しく、諭すように、そそのかす。
「では、次は、南へ向かいなさい。南の村に、魔女がいるとの情報が入った。全員、殺してあげなさい」
「はい」
「成すべきことをせよ、我が息子」
「はい」
――では、よしなに。
それだけ言い残すと、太陽の化身である太陽公は、喋らなくなった;それなので、デセは、すぐさまにそこを立ち去った;立ち去ったはずなのだけれど、どこか、いまだに、あの老いた声が、頭の中に、直接にささやきかけてくるように感じる。どれだけ離れても、逃れることができない。いつも聞かれ、見られ、繋ぎ止められているような、そういう感じがするのだが、それは、気のせいではなくて、かなりの部分、肉体的な実感をも伴っていた。
あの球を、神官たちは、太陽公と繋がる、聖なるチャンネルだと崇める;太陽の光は、あまねく大地を照らすのだ、と。デセにとっては、ただの父だ。
――頭が痛い。
世界の音が、耳から頭の中に入ってきて、出ていこうとしない。地面のざわめき、風の耳鳴り、あの街のうなり、一つ一つが、全て、粒だって聞こえて、押し寄せる;頭が痛いのは、これのせいだろうか。
それとも、頭の中で意味もなく繰り返される、ぽやけた記憶のせいだろうか。
デセは、懐からビンを取り出した。それには、大量の錠剤が入っていた。ずいぶんと質の悪いものだった。いくらかを手のひらに出し、ヘルムをちょいと押し上げて、口に流し込む。飲み込む。そしたら、先ほどまで苦しかったのが、一気に気分が良くなった。ふわふわして、これは、たいへんに気持ちがいい。
焼け石を飲み込んだみたいに喉が熱かったが、この際、それは些細なことだった。
幼い頃から、太陽公がくれたこの薬のおかげで、苦しみを和らげることができた。感謝を捧げるほかなかった。
「太陽、私に道を御示しください」
焼けただれた喉から出た祈りの言葉は、冷え切った空気によくなじんだ。
街を出る。またあの門から出る。夕陽へ向かう。
出たところで、影が集まったかと思うと、それは馬になったので、飛び乗った。とぼとぼと歩く。
一度、振り返って、あの塔を見た。今はもう、ずっと向こう、小さなタワー;人々は、それを仰ぎ見る。
どの街も同じだ。どこに行っても、また同じ場所に来たように思う。首を切られた魔女たちの顔も、その後の、父との会話も、いつまでも変わらない世界の、一部。それを、太陽が、何よりもまず教えてくれる。
――あの魔女も、誰かの母だった。
デセは、思い切って、馬を全力で駆けさせた。
ぐんぐん山は薄く、小さく、かすんでいき、やがて、地平線になった。




