第19話 眠れない夜
その夜、私は数えようとした。
寝台に横たわって、天井を見上げて、数えようとした。
――何人だったろう。
数万、とミナさんは言った。
正確な数字を、私は知らない。前世で、そんなものを勘定した覚えがない。落とした街の名前は覚えている。焼いた城の位置も、季節も、天気さえ覚えている。
けれど、人の数は。
一度も、数えなかった。
・ ・ ・
数えられないなら、顔を思い出そうとした。
ひとつでいい。誰か一人の顔を。
目を閉じた。
炎が見えた。それはすぐに出てくる。赤の、もっと奥にある色。あの色は忘れようがない。
その中に、人がいたはずだ。
――誰か。
輪郭が浮かびかけて、すぐ崩れた。
もう一度、試した。
崩れた。
私は寝台の上で身体を起こした。
・ ・ ・
思い出せなかった。
一人も。
前世で、私が終わらせた人間の顔を、私は一つも覚えていない。
背中は覚えている。逃げていく背中。あれは風景として覚えている。
けれど顔は、ない。
――見ていなかったからだ。
私は、見ていなかった。
戦の前に敵の総数を数え、地形を測り、退路を塞ぎ、そして片づけた。片づけるものを、一つずつ見る必要がなかった。見ていたら仕事にならなかった。
だから見なかった。
そうやって十九年生きて、二十三で死んだ。
・ ・ ・
私は寝台から降りて、窓辺の椅子に座った。
膝を抱えた。
――ならば、私が背負っているものは、何なのだろう。
数も知らない。顔も知らない。名前など、一つも。
私が知っているのは「数万を焼いた」という言葉だけだ。
言葉だけを抱えて、私は罪だ罪だと言っている。
それは、償っていることになるのだろうか。
――なっていない。
はっきりと、そう思った。
罪の重さを感じている自分に、少し酔っていたのではないか。赦されてはいけないと繰り返すことで、何かをした気になっていたのではないか。
本当に背負うというのは、たぶん、そういうことではない。
けれど、では、どうすればいいのか。
分からなかった。
・ ・ ・
窓の外は、深い夜だった。
庭の輪郭がぼんやりと見える。タリアの木立。石畳。噴水。
――この国は、大陸に敵と呼ばれる。
昼間の書簡が、頭の中で繰り返される。
教会は大陸中の信徒に告知する。レーヴェンハルト帝国は災厄を庇護している、と。港が締まる。交易が滞る。
そのぶん、誰かが困る。
宿場の主人。息子が騎士団にいると言っていた。
削った石を取り合っていた若い石工たち。
かっこよかったですと言って走り去った侍女。
四十年で初めてだと言ったマルグリット夫人。
砂の上で膝をついて笑ったディーク・グレンツ。
――私のせいで。
膝を抱える腕に、力が入った。
・ ・ ・
扉が、小さく叩かれた。
「――起きているか」
私は顔を上げた。
「……はい」
扉が開いた。
アルヴィス様は、寝間着の上に上着を引っかけただけの格好だった。手に何も持っていない。
「灯りが見えた」
「窓から、ですか」
「私の部屋から庭を挟んで真向かいだ」
彼は言った。
「気味が悪いと思うなら、部屋を移していい」
「……いえ」
彼は扉のところで止まった。
「入ってもいいか。駄目なら帰る」
「……どうぞ」
・ ・ ・
彼は入ってきて、私の椅子の隣に来た。
そして、床に座った。
「アルヴィス様」
「うん」
「なぜ、床に」
「椅子は一つしかない」
「持ってこさせれば」
「この時間に人を起こすのは悪い」
彼は壁に背を預けて、膝を立てた。
皇太子が、寝間着で、床に座っている。
私は何と言えばいいのか分からなかった。
・ ・ ・
そして、彼は――何も聞かなかった。
なぜ起きているのか。何を考えていたのか。書簡のことを気に病んでいるのか。
一つも、聞かなかった。
代わりに、彼はこう言った。
「明日の予定を言おうか」
「……え」
「朝は東の会議室で通商の打ち合わせだ。長い。昼を挟んで、午後は北方の使者と面会。これも長い。夕方に軍の定例」
「……はい」
「そのあと、時間が空く」
彼は天井を見上げた。
「庭のタリアが、明後日には散る。今年は早い」
「そうなのですか」
「例年より十日早い。庭師が嘆いていた」
「……」
「明日の夕方なら、まだ残っている」
私は、彼の横顔を見た。
「一緒に見るか」
「……はい」
「そうか」
彼は、それだけ言った。
・ ・ ・
しばらく、二人とも黙っていた。
夜の音がした。風が木立を撫でる音。遠くで見張りの交代を告げる短い笛。それだけだ。
「アルヴィス様」
「うん」
「聞かないのですね」
「聞いてほしいか」
「……いいえ」
「そうか」
彼は少し笑った。
「あなたは、聞かれると答えてしまう。答えてしまうと、自分を切り分けて説明することになる」
「……」
「それは、疲れる」
私は、膝の上に額を載せた。
・ ・ ・
「わたくしは」
しばらくして、口を開いた。
「顔を、覚えていないのです」
彼は何も言わなかった。
「一人も」
「……」
「数も知りません。名前も。わたくしが知っているのは、数万という言葉だけです」
夜が、静かだった。
「罪だと言っておきながら、わたくしは中身を何も持っていません。ずっと、言葉だけを抱えていました」
言いながら、涙は出なかった。
泣くようなことではないと思った。これは事実の確認だ。
「そんな者が、罪だ罪だと」
「ヴィオレット」
彼が、静かに言った。
「顔を覚えていない、と気づいたのは、いつだ」
「……今夜です」
「そうか」
彼は頷いた。
「では、あなたは今夜、変わったな」
・ ・ ・
私は顔を上げた。
「気づかないままでいることもできた」
彼は言った。
「実際、多くの者はそうする。数を抱えて、重い重いと言って、それで済ませる。その方が楽だ」
「……」
「あなたは、思い出そうとした」
彼はこちらを見た。
「思い出そうとして、思い出せなかった。それが今夜のあなたに起きたことだ。逃げていない」
「……でも、何も」
「今夜は、それでいい」
彼は言った。
「答えは出さなくていい。出るものでもない。ただ、逃げなかったことは覚えておいてくれ」
・ ・ ・
私は、また膝に額を載せた。
温かい何かが、目の奥にたまっていた。今度は泣きそうだった。
「……アルヴィス様」
「うん」
「なぜ、そんなに」
「うん」
「なぜ、そんなに、分かるのですか」
彼は、答えなかった。
長い沈黙があった。
やがて、彼は言った。
「――昔、似たようなことを考えたことがある」
私は、顔を上げた。
彼は天井を見ていた。
「昔、とは」
「ずいぶん、昔だ」
それきり、彼は何も言わなかった。
・ ・ ・
私は、いつの間にか眠っていたらしい。
目が覚めたとき、私は椅子の上で丸くなっていて、肩に上着がかかっていた。
彼のものだった。
床に、彼はもういなかった。
窓の外が、うっすらと白み始めている。
私はその上着を握りしめて、しばらくそのままでいた。
――昔。
彼は、そう言った。
十九歳の人間が「ずいぶん昔」と呼ぶものが、いったい何なのか。
シェラの言葉が、頭をよぎった。
――開始は、十五年前。あの男が、四つの歳のときでございます。
・ ・ ・
私は立ち上がって、窓に近づいた。
夜明け前の庭が、青く沈んでいる。
タリアの木立が揺れていた。風だ。
そう思って、目を凝らした。
風だ。
風のはずだ。
木立の影の中に。
――人が、立っていた。
第19話をお読みいただき、ありがとうございました(*´▽`*)
今回は派手な戦闘も、大きな事件もありません。
ですが、ヴィオレットにとっては、これまでで最も大きな一歩だったのかもしれません。
「罪を背負う」とは何なのか。
その答えは、簡単には見つかりません。
それでも彼女は、自分から目を逸らさず、初めて本当の意味で向き合おうとしました。
そして、そんな夜にアルヴィスが選んだのは、問い詰めることではなく、ただ隣にいること。
言葉よりも沈黙が語る時間を書いてみたかった回でもあります。
……そして、最後に感じた不穏な影。
夜明け前の庭に立っていた人物は、一体誰なのか。
次回から物語は再び動き始めます。
ぜひ引き続きお付き合いいただけると嬉しいです。
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