表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
19/26

第19話 眠れない夜

その夜、私は数えようとした。


寝台に横たわって、天井を見上げて、数えようとした。


――何人だったろう。


数万、とミナさんは言った。


正確な数字を、私は知らない。前世で、そんなものを勘定した覚えがない。落とした街の名前は覚えている。焼いた城の位置も、季節も、天気さえ覚えている。


けれど、人の数は。


一度も、数えなかった。


・   ・   ・


数えられないなら、顔を思い出そうとした。


ひとつでいい。誰か一人の顔を。


目を閉じた。


炎が見えた。それはすぐに出てくる。赤の、もっと奥にある色。あの色は忘れようがない。


その中に、人がいたはずだ。


――誰か。


輪郭が浮かびかけて、すぐ崩れた。


もう一度、試した。


崩れた。


私は寝台の上で身体を起こした。


・   ・   ・


思い出せなかった。


一人も。


前世で、私が終わらせた人間の顔を、私は一つも覚えていない。


背中は覚えている。逃げていく背中。あれは風景として覚えている。


けれど顔は、ない。


――見ていなかったからだ。


私は、見ていなかった。


戦の前に敵の総数を数え、地形を測り、退路を塞ぎ、そして片づけた。片づけるものを、一つずつ見る必要がなかった。見ていたら仕事にならなかった。


だから見なかった。


そうやって十九年生きて、二十三で死んだ。


・   ・   ・


私は寝台から降りて、窓辺の椅子に座った。


膝を抱えた。


――ならば、私が背負っているものは、何なのだろう。


数も知らない。顔も知らない。名前など、一つも。


私が知っているのは「数万を焼いた」という言葉だけだ。


言葉だけを抱えて、私は罪だ罪だと言っている。


それは、償っていることになるのだろうか。


――なっていない。


はっきりと、そう思った。


罪の重さを感じている自分に、少し酔っていたのではないか。赦されてはいけないと繰り返すことで、何かをした気になっていたのではないか。


本当に背負うというのは、たぶん、そういうことではない。


けれど、では、どうすればいいのか。


分からなかった。


・   ・   ・


窓の外は、深い夜だった。


庭の輪郭がぼんやりと見える。タリアの木立。石畳。噴水。


――この国は、大陸に敵と呼ばれる。


昼間の書簡が、頭の中で繰り返される。


教会は大陸中の信徒に告知する。レーヴェンハルト帝国は災厄を庇護している、と。港が締まる。交易が滞る。


そのぶん、誰かが困る。


宿場の主人。息子が騎士団にいると言っていた。


削った石を取り合っていた若い石工たち。


かっこよかったですと言って走り去った侍女。


四十年で初めてだと言ったマルグリット夫人。


砂の上で膝をついて笑ったディーク・グレンツ。


――私のせいで。


膝を抱える腕に、力が入った。


・   ・   ・


扉が、小さく叩かれた。


「――起きているか」


私は顔を上げた。


「……はい」


扉が開いた。


アルヴィス様は、寝間着の上に上着を引っかけただけの格好だった。手に何も持っていない。


「灯りが見えた」


「窓から、ですか」


「私の部屋から庭を挟んで真向かいだ」


彼は言った。


「気味が悪いと思うなら、部屋を移していい」


「……いえ」


彼は扉のところで止まった。


「入ってもいいか。駄目なら帰る」


「……どうぞ」


・   ・   ・


彼は入ってきて、私の椅子の隣に来た。


そして、床に座った。


「アルヴィス様」


「うん」


「なぜ、床に」


「椅子は一つしかない」


「持ってこさせれば」


「この時間に人を起こすのは悪い」


彼は壁に背を預けて、膝を立てた。


皇太子が、寝間着で、床に座っている。


私は何と言えばいいのか分からなかった。


・   ・   ・


そして、彼は――何も聞かなかった。


なぜ起きているのか。何を考えていたのか。書簡のことを気に病んでいるのか。


一つも、聞かなかった。


代わりに、彼はこう言った。


「明日の予定を言おうか」


「……え」


「朝は東の会議室で通商の打ち合わせだ。長い。昼を挟んで、午後は北方の使者と面会。これも長い。夕方に軍の定例」


「……はい」


「そのあと、時間が空く」


彼は天井を見上げた。


「庭のタリアが、明後日には散る。今年は早い」


「そうなのですか」


「例年より十日早い。庭師が嘆いていた」


「……」


「明日の夕方なら、まだ残っている」


私は、彼の横顔を見た。


「一緒に見るか」


「……はい」


「そうか」


彼は、それだけ言った。


・   ・   ・


しばらく、二人とも黙っていた。


夜の音がした。風が木立を撫でる音。遠くで見張りの交代を告げる短い笛。それだけだ。


「アルヴィス様」


「うん」


「聞かないのですね」


「聞いてほしいか」


「……いいえ」


「そうか」


彼は少し笑った。


「あなたは、聞かれると答えてしまう。答えてしまうと、自分を切り分けて説明することになる」


「……」


「それは、疲れる」


私は、膝の上に額を載せた。


・   ・   ・


「わたくしは」


しばらくして、口を開いた。


「顔を、覚えていないのです」


彼は何も言わなかった。


「一人も」


「……」


「数も知りません。名前も。わたくしが知っているのは、数万という言葉だけです」


夜が、静かだった。


「罪だと言っておきながら、わたくしは中身を何も持っていません。ずっと、言葉だけを抱えていました」


言いながら、涙は出なかった。


泣くようなことではないと思った。これは事実の確認だ。


「そんな者が、罪だ罪だと」


「ヴィオレット」


彼が、静かに言った。


「顔を覚えていない、と気づいたのは、いつだ」


「……今夜です」


「そうか」


彼は頷いた。


「では、あなたは今夜、変わったな」


・   ・   ・


私は顔を上げた。


「気づかないままでいることもできた」


彼は言った。


「実際、多くの者はそうする。数を抱えて、重い重いと言って、それで済ませる。その方が楽だ」


「……」


「あなたは、思い出そうとした」


彼はこちらを見た。


「思い出そうとして、思い出せなかった。それが今夜のあなたに起きたことだ。逃げていない」


「……でも、何も」


「今夜は、それでいい」


彼は言った。


「答えは出さなくていい。出るものでもない。ただ、逃げなかったことは覚えておいてくれ」


・   ・   ・


私は、また膝に額を載せた。


温かい何かが、目の奥にたまっていた。今度は泣きそうだった。


「……アルヴィス様」


「うん」


「なぜ、そんなに」


「うん」


「なぜ、そんなに、分かるのですか」


彼は、答えなかった。


長い沈黙があった。


やがて、彼は言った。


「――昔、似たようなことを考えたことがある」


私は、顔を上げた。


彼は天井を見ていた。


「昔、とは」


「ずいぶん、昔だ」


それきり、彼は何も言わなかった。


・   ・   ・


私は、いつの間にか眠っていたらしい。


目が覚めたとき、私は椅子の上で丸くなっていて、肩に上着がかかっていた。


彼のものだった。


床に、彼はもういなかった。


窓の外が、うっすらと白み始めている。


私はその上着を握りしめて、しばらくそのままでいた。


――昔。


彼は、そう言った。


十九歳の人間が「ずいぶん昔」と呼ぶものが、いったい何なのか。


シェラの言葉が、頭をよぎった。


――開始は、十五年前。あの男が、四つの歳のときでございます。


・   ・   ・


私は立ち上がって、窓に近づいた。


夜明け前の庭が、青く沈んでいる。


タリアの木立が揺れていた。風だ。


そう思って、目を凝らした。


風だ。


風のはずだ。


木立の影の中に。


――人が、立っていた。






第19話をお読みいただき、ありがとうございました(*´▽`*)


今回は派手な戦闘も、大きな事件もありません。

ですが、ヴィオレットにとっては、これまでで最も大きな一歩だったのかもしれません。


「罪を背負う」とは何なのか。

その答えは、簡単には見つかりません。

それでも彼女は、自分から目を逸らさず、初めて本当の意味で向き合おうとしました。


そして、そんな夜にアルヴィスが選んだのは、問い詰めることではなく、ただ隣にいること。


言葉よりも沈黙が語る時間を書いてみたかった回でもあります。


……そして、最後に感じた不穏な影。

夜明け前の庭に立っていた人物は、一体誰なのか。


次回から物語は再び動き始めます。

ぜひ引き続きお付き合いいただけると嬉しいです。


もし少しでも続きが気になったり、面白いと感じていただけましたら、ブックマークや評価で応援していただけると、とても励みになります!

よろしくお願いいたします♪

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ