契約花嫁は、化け物と対峙する
「血……!?」
りぃん、りぃん、りぃん、りぃん……!!
鈴の音が、激しく鳴る。
外に、いったい何がいるのか。
窓の外を覗き込もうとした瞬間、ウメコが叫んだ。
『まりあ様、外は危険です! 姿勢を低くしてくださいま――』
キイイイイイイイイン!!
金属を爪先で引っ掻くような音が、突然鳴り響いた。
『あうっ!!』
ウメコの変化は解け、川獺の姿に戻ってしまった。
「なっ、ウメコ!?」
先ほどの怪音で耳がやられてしまったのだろう。コハルは意識がなくならなかったものの、ぐったりしていた。
まりあ自身は、気持ち悪さと耳に不快感があったが、意識が保てないこともない。
「いったい、何者ですの!?」
『まりあ様、おそらく、あやかしの、仕業、かと』
「なっ!?」
夜間に暗躍する通り魔の話は耳にしていた。あやかしの仕業だというのも囁かれていたが、まさか自分達が襲われるとは夢にも思っていなかった。
『きっと、わたし達と、同じなんです』
「同じ、というのは?」
『操られているんです』
あやかしが何者かに操られて、悪行を重ねる。
そんなことが、可能なのか。
思考の波に呑み込まれそうになった瞬間、銀の鈴が激しく鳴った。
りぃん、りぃん、りぃん、りぃん……!
馬車の車体が大きな衝撃に襲われる。
ドン! という大きな音と共に、馬車は横転した。
「きゃあ!!」
まりあの体は、強く打ち付けられる。
一瞬、意識が遠退いたように思える。
しかしながら、耳をつんざくような叫びを聞いてハッと我に返った。
『ギュルルルルル!!』
人の形をした化け物が馬車の扉をこじ開け、まりあを見下ろしていた。
姿形は、成人男性そのものである。
しかしながら、目は真っ赤で、鼻は穴がいくつもあり、口は耳辺りまで裂けていた。
蛇のような長い舌に、鋭い牙が見える。
あやかしが転じた、人ではない化け物で間違いない。
『ギュオオオオオオ!!』
飛びかかってきた瞬間、まりあは即座に判断する。
帯にしまっていた呪符を取り出し、即座に投げつけた。
「――巻き上がれ、下風!!」
ただの紙片が、旋風を起こす。
『ギャアアアアア!!』
人の形をした化け物は、車内から外へ吹き飛ばされた。
実戦で呪符を使ったのは初めてである。
だが、安堵できない。
男の背中に、ありえないものが張られていたのをまりあは見た。
それは、呪符である。
人が作ったものが、なぜ化け物に貼られているのか。
コハルが言っていたように、誰かがあやかしを操っているからなのだろう。
ウメコの意識は戻っていない。
「コハル!」
『ここに』
この状態でも、コハルは意識を保っていたようだ。
まりあを守るように、腹の上によじ登る。
『こんどは、まりあ様を、お守り、します』
健気なコハルの頭を、まりあは撫でる。
小さな存在を、守らなければ。
恐怖はあったが、まりあを守ろうとするコハルの存在が、奮い立たせてくれる。
あの化け物はやっつけたわけではない。再び襲いかかってくるだろう。
まりあはコハルを首に巻き付け、先ほど百貨店で購入した刃が仕込まれた傘を握る。
化け物が接近したら、鈴が鳴る。
今は何も反応していない。馬車から脱出する時間はあるだろう。
「ウメコ、あとで助けてあげますので」
ウメコの額を撫で、まりあは横転した馬車から脱出した。
幸いにも、塞がれたのは出入り口ではなかった。
扉の枠を握り、腕の力だけで外まで這い出る。
りぃん、りぃん!
銀の鈴が、警告するように音色を鳴り響かせる。
『ギュウウウウウ!!!!』
外に出た瞬間、化け物の爪が眼前に迫る。
まりあは咄嗟に傘で受け止めた。そして――叫ぶ。
「コハル!!」
『はい』
コハルは前に飛び出し、口に銜えていた呪符を化け物の眼前へ貼り付けた。
同時に、まりあは叫ぶ。
「――包み込め、水球!!」
『ゴ、ゴボッ!!』
呪符から湧き出た水が、化け物の体を包み込む。身動きが取れない状態にした。
まりあは馬車から飛び降りると、化け物と距離を取る。
水球は長持ちしない。どうにかしなくては。
暴走の原因は、呪符である気がしてならない。
背中に貼られた呪符を、剥がせば大人しくなるかもしれない。
「コハル、背中に貼られた呪符が見えます?」
『呪符? あ、はい! 見えます!』
「呪符をどうにかすれば、動きが止まるはず」
『わ、わかりました』
まりあは傘の柄を強く握り、刃を引き抜いた。
どうやら、戦うしかないようだ。
化け物は体をぶるりと震わせる。周囲の水は、きれいさっぱり弾き飛ばしてしまった。
ぱち、ぱちと瞬きをする間に、化け物はまりあに接近した。
「くっ!!」
刃は間に合わない。
襲い来る爪を、着物の袖で受け止める。
鋭利な爪は、袖を両断した。
肌で受け止めたら、骨まで切り裂かれていただろう。ゾッとする。
視界の端に、切れた裾が飛んでいく。
コハルが先ほどのように呪符を貼り付けようとしたが、腕で払われてしまった。
『ひゃあ!』
「コハル!!」
小さなコハルの体は、地面に強く叩きつけられてしまった。
ぐったりしていて、動かない。
『ギョオオオオオ!!』
コハルを気にしている場合ではなかった。
化け物が眼前に迫る。
剣道の嗜みがあったものの、化け物相手では刃が立たない。
けれども、剣道で習った戦う気持ちが、まりあを奮い立たせる。
爪を刃で受け止めたものの、化け物が妙な叫び声をあげる。
振動が手に伝わり、柄から手を離してしまった。
『ギャアアアアアア!!』
裂けた口が、まりあに迫る。
もうダメだ。
ぎゅっと目を閉じた。
装二郎は夜に外に出てはいけないと言っていた。
彼の言いつけを守らなかったから、こんなことになるのだ。
「ごめん、なさい」
ふいに目の前が、真っ暗になる。
否、大きな黒い生き物が、まりあの目の前に立っていたのは――。
「こ、これは、な、なんですの!?」
以前博物館で見かけた、羆の剥製よりも大きな、黒い九尾の狐だった。