4月~4月1日
まっさらな春の空の下、目覚めたばかりの街に人々が動き出す。
4月1日。
朝6時45分。先生の家の最寄り駅の改札前。
あのいつだったかストライキと言って家を出た私を、真夜中に先生が拾ってくれた駅だ。
程なくロータリーの向こうに先生の姿が見えた。ピジョンブルーのスーツと白いシャツが陽春の朝にとても映える。
先生も私の姿を見つけると頭の上に掲げた手を2、3度振ってみせて、こちらに駆けてきた。
「おはよう南条」
新しい朝の光の中で艶やかに輪が煌めく先生の栗色の髪が柔らかな風になびく。
「先生…おはよう」
「ごめんね、朝早くから」
先生は私の隣に立つとエスコートするみたいに私のラベンダー色のワンピースの背中に手を添える。
「コーヒーでも飲もう」
駅の向かいに見えるコーヒーショップに入ると、カウンターに立った先生が
「ブレンドとカフェモカ…で良かったかな?」
と注文しながら私を振り返る。
「あっ、うん!」
先生が飲み物のトレーを受け取ると上階に上がる。2階席は空いてちらほらとしか人の姿はなくて、私たちは朝陽の射し込む窓辺の小さなテーブルに掛けた。
席に着くと、正面に座る先生が真っ直ぐな視線を私に注ぐ。
「ごめんね、出勤前で慌ただしくて。でも今日一番に南条に逢いたかったんだ」
「う、うん」
長い睫毛に縁取られた鳶色の瞳が水晶のように瞬いて私を映す。改まって熱っぽい瞳に見据えられて鼓動がぐんぐん速まってしまう。
今にも胸から弾け出してきそうな心臓に両手を重ねると、先生の唇が動いた。
「南条舞奈さん。
ずっと貴女が好きでした。
俺と、付き合って下さい」
「……」
この日が来るのをずっと夢見てた。
そして、毎日を懸命に進んでいけばいつかこの日に辿り着くって、そう思ってずっと走ってきた。
なのにいざその時が来たら、胸を打ち鳴らす激しいときめきに震えて、言葉も出ない。
(先生…)
瞳も頬も身体中も熱い。
(ずっと貴方が…好きでした)
先生がくすっと笑ってこちらに手を伸ばす。
指先が目元に触れ、私は自分が泣いていることに気付いた。その指先が優しく涙を掬い取る。
「答えは?」
先生が少し背を屈めて私を覗き込む。
「…はい」
それ以外の答えなんてあるわけない。
どんなにかどんなにか待ってた。
全てが解き放たれて、まるで光に満ちた外へ駆け出し胸いっぱいに深呼吸するように、何の拘束もなく束縛もなく自由に貴方を愛せる時を。
好きです。
貴方が好きです。
誰が見ていようと、誰が聞いていようと、胸を張って世界に叫びたい。
溢れる想いを─
(先生…好き…)
私の答えを聞くと先生ははぁぁーと大きく息を吐きながらテーブルにしなだれ掛かった。
「病院に逢いに行った時つい思いっ切り口説いちゃったからね、今更何言ってんのって感じなんだけど。
それでもめちゃめちゃ緊張した…」
「ふふっ」
いつになく眉を下げて綺麗な顔をくしゃっと崩す先生に、私も泣き笑いする。
「先生、可愛い」
「まだそれ言うか?」
「可愛くて好き」
「っ…」
鳶色の瞳が見開かれると、たちまち先生の頬が紅くなる。
「ぁ…」
何か言おうと口を開きかけて、思い直したように止めると、困惑した瞳と左の掌を何か押し殺すみたいにぎゅっと閉じた。
深い溜め息をひとつ。ゆっくり眼を開けると困ったような表情で髪をくしゃくしゃと掻き乱して言う。
「あのね…朝からそういうこと言わないで」
「え?」
「仕事に行こうっていう気概が失せる…」
(えっ?)
なんで…?
先生が左手首の腕時計にちらっと眼を遣る。そしてもう一度小さく溜め息を吐いた。
「本当はもっと一緒にいたいんだけど。ごめん、行かなきゃならないな」
「あ…うん」
(もうそんな時間だったんだ)
先生が空になったカフェモカのカップをトレーに乗せて立ち上がる。
(私だってもっと一緒にいたい…)
少し心残りなまま私はその後を追う。
トレーを返却口に置くと先生はその手で私の手を取った。
(あ…)
絡まる指と指。こうして触れ合うのは初めてじゃないのに、今日はどこか新鮮で、気恥ずかしくて、嬉しくなる。
店を出ると再びふわりと春の陽射しに包まれる。
「そうだ、南条」
先生が思い出したように私を呼んだ。
「ん?」
「村田先生に聞いたよ。進学の件」
「あっ、うん」
先生が病院に来てくれたあの日の夜。父が病室を訪れた。
『お父さん…』
父が姿を見せるや、私はベッドの上に正座して頭を下げた。
『ごめんなさい!
もう一年…もう一年だけチャンスを下さい!!』
他に思い浮かぶ手はなかった。それでも父がそれを認めてくれる確信もなかった。でも、一縷の望みを懸けて懇願した。それしかなかった。
『舞奈』
ベッド脇の円椅子に父が腰掛ける。
『顔を上げなさい』
いつもながらの厳格な父の重々しい声。私はそろそろと顔を上げる。
『この半年間、自身を振り返ってお前は何をやって来た?』
眉間に皺を寄せた父の視線が私を射抜く。
『私…は…』
ここで怯んではいけない。
『自分の出来る精一杯を、やってきたつもりでした』
『……』
『毎日目標を立てて、それをこなしてきたし、お兄ちゃんや先生に進捗を報告してアドバイスももらって…あ!実際外大は受かってるし、国大の模試だってA判定に上がってるし!』
『……』
『だから、あの…』
『……』
眉ひとつ動かさない父は娘ながら畏怖を感じる。
『舞奈』
沈黙の後、父がおもむろに私の名を呼んだ。
『…はい』
『その壮気を更に1年維持出来るのか?』
『!
出来ます!もちろん!!』
縋りつく思いで父の眼を見た。
(お願い…どうか…)
父がゆっくりと口を開く。
『その必要はない』
『え…?』
『春から外大に行きなさい』
『…お父さん?』
『お前の姿をずっと見てきた。投げ出すことも腐ることもなく必死に努める様を見て、本気なんだと伝わってきた。
その心意気のまま、東京で頑張ってきなさい』
『お父さん!』
厳めしい父の顔がふわりと綻んだ。
『身体の方はどうだ?怪我はないのか?』
『うん…大丈夫』
『そうか』
『お父さん、あのね…』
『なんだ?』
『……
ありがとう』
『どうせ目標が定まっているなら無駄な1年を過ごす必要はない。
知ってるか?舞奈。1年入学が遅れれば1年社会に出るのが遅れる。すると受け取れるはずだった1年分の給与が取得できなくなる。
ここで言う1年分は新入社員の1年分、即ち2、300万とかいう小さい話じゃない。社会人生活の最後の一年、例えばお前ならそうだな、年収3000万とか、そういう金額の話だ。
生涯年収のうちの3000万が無駄になるとなれば、入れるものなら1年でも早く大学に入った方がいいに決まっている』
『年収3000万て!うふふ。
分かったお父さん。私頑張ってくる』
『応援しているよ、舞奈』
*
「外大進学おめでとう」
先生からの『おめでとう』はやっぱり何より格別に嬉しくて。
そして私は先生の、その存在の全てに感謝を込めて答えるんだ。
「ありがとう…」
*
先生と一緒に一駅電車に乗り、いつも乗り換えるターミナル駅で降りる。ここから先生は学校に行く。
「仕事終わったらまた連絡する」
「ん」
慌ただしく人々が行き交う朝のコンコースで私たちは繋いだ手を解いた。途端に掌も指先もひやりとして寂しくなる。
離れてしまうのが怖い。
だって私は…
私は明日の電車で東京に行く─
そんな気持ちが見抜かれたんだろうか。
唇を小さなキスが素早く奪った。
「!!…えっ、あ…」
先生はいたずらっ子みたいな笑みでひらひらと手を振ると、踵を返し直ぐに雑踏に消えていった。
私は熱い顔のまま見えなくなった先生を見送る。
(こんな人混みの中でキス…)
混み合うコンコースに春の風が舞った。
去年の今頃、ここで貴方と出逢った。
ちょうどあの時と同じ匂いがする風。
私は明日この街を離れる。
生まれ育って、そして、先生と1年間を過ごした街。
(でも大丈夫。だってこれからは─)
どこにいたって私には先生がいる。
もう熱い想いを隠さなくていい。
まるで悪いことをするみたいに言い訳をしながら傍にいなくていい。
もう何人も私たちの邪魔は出来ない。
私たちは、愛する自由を得たのだから。
私は人波に立ち尽くしたまま、昨日までと打って変わって、堂々と愛し、愛される幸せをひとり噛み締めた。
* * *
夕方、先生からメールが届いた。
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Date: 20xx 04/01 18:19
From: Subaru Hatsuhara
〈xxx_pleiadesxx1212@……〉
Sub:
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今朝は早くから呼び出してごめん。
でも、会えて嬉しかった。
本当は伝えたいことがもっと沢山あったんだけど、伝えきれなくて、でもどうしても伝えておきたいと思ってメールします。長くなると思うけどごめんな。
俺はずっと、舞奈と過ごす英語準備室での時間が何より貴重で幸福だった。
未来に向かって輝いて、時には悩み、もがき、それでも立ち上がり前に進もうとする、そんな君の息吹を間近であたかも全身に降り注ぐように感じる時、いつしか夢や希望みたいなものが色褪せていた俺に、消えかけていた気持ちを甦らせてくれていた。
そんな君の瑞々しく眩しい空気に当てられて、いつしか君を愛していた。
柄にもないな。なんか恥ずかしいかも。ごめん、とても読み返せないからこのまま送る。
-END-
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