12月~星降る夜はその腕の中で 1
紙とインクの臭い。
それと独特の張り詰めた空気。
日曜日の塾の自習室。
時刻は間もなく午後7時を刻もうとしている。
「舞奈」
隣の席から清瀬くんが小声で呼び掛ける。
「7時だけどどうする?」
「あ、そうだね。そろそろ終わる?」
「あぁ、腹減った。飯行こうぜ」
「じゃちょっと待って。今やってるとこ終わったら」
「んー」
昼過ぎから清瀬くんとここで勉強していた。
静かで平和な時間。
でも、ふとした瞬間に、今日も何度となく気持ちが揺らいだ。
ただ問題を解くことに没頭している間はいい。
でも解らないところに突き当たってしまった時、ふと気付いてしまう。
ここに、私の傍に、先生がいないということに─
あの夕間暮れの英語準備室で過ごす先生との時間。
それはやっぱり私にとって幸福で何物にも代えられないものだったと、失ってみて身に染みる。
どんなにかあの時間が私にとって大切なもので、私が私であるために必要なものだったかを思い知らされる。
とは言っても、今先生に逢うことは自信がない。
きっとこの身体中の全てが、先生が好きだと叫び出してしまう。
いつか先生への想いが恋ではなくて敬意や謝意だけになった時、またあのかけがえのない時間に身を置くことが出来るだろうか。
何も説明もなく先生を避けてしまった私を、その時先生はまた受け入れてくれるだろうか─
「舞奈まだー?」
「あ…」
清瀬くんの声に我に帰る。
「ごめん、もうちょっと!」
急いでやりかけの問題を終わらせると、机の上を片付けてコートとマフラー、それから手袋を身に付けた。
「お待たせ。行こう」
自習室から出ると清瀬くんが大きく伸びをして言う。
「やっぱこれデートじゃねぇな。舞奈と全っ然話せねぇし」
「しょうがないよ。受験生だもん、私たち」
「あーもう!早く大学受かんねーかなー」
「ふふっ」
塾の建物から外に出ると途端に北風が頬を打つ。
「寒っ!」
「なぁ舞奈、手袋外したら?」
「なんでっ!?寒いじゃん!」
「手繋げねぇじゃん。繋いだ方があったかいだろ?」
清瀬くんが左手を差し出してくる。
私は右手の手袋を取って彼の手を握る。
そして清瀬くんはいつものように指を絡めて手を繋ぎ直す。
「んー、やっぱり手の甲が寒い」
「贅沢言うな。マフラーしてんだからいいじゃん」
「マフラーと手袋は別物だよ!」
「そのマフラー、可愛いしいいじゃん。」
「可愛くても関係ないの!」
ピンクのギンガムチェックのマフラーは中学生の頃から通学にも使っているお気に入り。
最近ちょっと子供っぽいかな、とは思っているけど。
ファミレスに向かって、いつもは駅へと直進する交差点を右に曲がる。
その道は商店街の真っ只中で、飲食店も多く日曜の夜も賑わっていた。
人通りの多い中を清瀬くんに身を寄せ、すり抜けるように歩く。
人波の中でふと誰かの話し声が聞こえる。
「やっぱ芸術に触れると腹減んだよ」
「何言ってんの。爆睡してたくせに」
そのどこか懐かしさを誘う声に、無意識にそちらへと眼を向けた。
そして私は思わず足を止める。
「あ…」
その瞬間、眼に映るもの全てがスローモーションになった。
そして、どんなに街が沢山の人で溢れていても、本当に逢いたい人はそこだけが灯りを灯したように眼に付いてしまうということを、その時私は知った。
そう。
そこにいたのは
初原先生だった。
「…!」
私の眼に先生の姿が飛び込むのと同時に、先生もまた私を見つけ、立ち止まった。
まるで火花が散るようなほど、視線がしっかりとぶつかり合うのを感じた。
「舞奈?」
隣で清瀬くんの声がする。
でもそれも幻の向こう側のようにぼんやりと曖昧だった。
「南条…」
「!!」
私は先生の声に背中を突かれたように、咄嗟に清瀬くんの手を解いて後ろを向いて走り出した。
こんなシチュエーションで逢いたくない。
先生に失恋して、清瀬くんに縋って、それでなんとか均衡を保っている惨めな私なんて、先生に見られたくない。
それに、あのキスの意味も理解できない子供な私を見られたくない─
人混みを掻き分け走る。
走りながら後ろを振り返ると、後ろから走ってくる先生の姿と、その向こうに清瀬くんと仁科先生の姿が見えた。
「追わないの?」
「…追ってもしょうがないの、見りゃ分かるでしょ?」
「ふーん…分かってんじゃん、餓鬼のくせに」
「……」
*




