和解
あくる日。
キメラは学び舎のある懐かしい島へ戻っていた。
豊富な動植物。変わらない暑い日差しに香しい果物の香り。島を囲う海は穏やかに凪いで時折白い波を覗かせる。白浜の入り江には子供たちが講師に見守られながら戯れている。
寝殿で別れて以来ダージリンとは疎遠になっていた。
彼女の心の中で、あのことはわだかまりとしてガラスの破片として残り、仕事で彼の姿を垣間見ると胸に切ない痛みが走った。
彼は以前と変わらぬ様子で周りと接していた。穏やかで軽やかなアルトの声。細められた菫色の瞳に笑みを浮かべる。無駄のない優雅な仕草。
しかし、キメラへの態度は一変していた。
暖かな親しみやすさは消え、手を差し伸べ寄り添うことはなくなった。
視線を合わすことなく、事務的な言葉を交わすと次の仕事へと姿を消した。
キメラはそんなダージリンに腹がたった。
私にも同じように、今まで通りいろいろ話をしたり、笑ってくれてもいいのに。
嫉妬する気持ちにキメラは戸惑ったが、自分自身もどうダージリンと接していいのか悩んでいる。
彼の前だと緊張するし顔色をうかがってしまう。どうしてそうなってしまったのか、そもそも島にいたころから、話しかけてくるのは彼で自分は曖昧な返事ばかりしていた気がする。
キメラは自嘲気味に前髪を掻き上げた。
「馬鹿だな。相手をされなくなって気づくなんて」
学食と同じスペースにあるキッチンで彼女は調味料を探していた。
白いタイルと無垢材のクリーム色に統一されたこの場所は清潔で、食堂には無垢材の長机が整然と並び、同じ素材の長椅子が備えてある。食堂とキッチンはカウンターで仕切られセルフで食事が振舞われる。
新しいレシピに必要な調味料は、この島でしか手に入らない貴重な食材だった。
もちろんそれはダージリンが採取、精製し作り出している。
流し台の上に設えてある飾り棚の扉を開いた。
視線の少し上に三段に区分けされた中に、同じ容器がずらりと並んでいる。
色とりどりのラベルの枠は、それぞれ材料のモチーフのラインに縁どられ、その中心には端正な文字が書かれてある。
くるくると指先で瓶を回しラベルを確かめるとキメラは眉根を寄せた。
「ないわね」
この奥にもまだ調味料はあったはずだ。
慎重にキメラは瓶をステンレスの調理台に置き始めた。
ずらりと容器が並び無機質な調理台が華やかになる。
夢中になって探していると、不意に暑い吐息と低い男の声が耳をくすぐった。
「探し物はコレかな?」
心臓が口から飛び出しそうなくらい驚き、体は反射条件で跳ね上がった。
手に取った容器を取り損ね床へと落ちるさまを唖然と見つめる。
素早く白い手が伸びその容器を掴み取る。
視線を上げると腕まくりをしたダージリンの姿があった。
染みひとつない陶磁器のような白い肌。長い睫毛に縁どられた瞳は、夕暮れを思わせる菫色だ。瓶覗色の髪は一部を残して紐で一つに結わえられている。
彼の顔から不敵な笑みが浮かんだ。
「久しぶりですね。最近随分忙しそうだ」
ゴクリと喉を鳴らしキメラはうわずった声で答えた。
「ええ。おかげさまで」
一気に口の中が乾き喉の奥がカラカラに乾く。
こんな間近にダージリンを見たのは久しぶりだ。
そして、二人きりで話すのも。しばらく、彼に見惚れてしまった自分に、心の中で舌打ちした。
彼もしばらく無言でキメラを見つめている。その視線は、隈なく舐めるように全身を彷徨うと、彼女の顔へと戻った。服装や顔におかしなところでもあるのだろうか?キメラが首を小さく傾げると、ダージリンは目を細め、手に取っていた容器を調理台の上へ置いた。
その手は調理台を掴み動かない。彼の腕とキメラの腕が触れ合っている。
居心地の悪さで身をよじり、その手から逃れようと体を翻そうとしたところ、目的の調味料の入った瓶を持った手に阻まれた。
ダージリンは涼しい表情で視線を容器に移しながらつぶやく。
「これだよね。探していたの」
親しみのこもった声色に、キメラの心臓が跳ねる。
喉を詰まらせながらキメラは彼の手に収まっている容器を見た。
「ええ」
キメラを挟んで調理台に両手を据えるダージリンは、動けば服がすれ合うくらい近い。
彼は朗らかに笑うと嬉しそうに言った。
「よかった。昨日ちょうど切らしていて、在庫を取りに行っていたところだった。そろそろまた作り置きしなければならないけどね」
言葉遣いまで変わった。
彼は瞳を閉じると、ぐらりと前に傾いた。
「ずっと言いそびれていたことがある」
彼の髪に頬はくすぐられ、すぐ耳元でささやかれた低い声に背筋がぞくぞくする。
「ごめん。もう、遅すぎるとは思うけど。わるかった」
くぐもった声は掠れ後悔の色がこもっていた。キメラは何のことだか分からず戸惑ったがすぐ寝殿で別れた日のことだと悟った。
彼の胸に両手を当て、彼を押して距離を保つ、キメラは挑戦的な視線を彼へ投げた。
「近すぎるわ」
「今までが遠すぎたんだ」
ダージリンは一歩も引かず彼女の顔を真っ直ぐ見つめた。視線を逸らさない葡萄色の瞳はルビーのように艶やかで、引き結ばれた唇には断固とした強い意志が伺える。
彼女はもう、人の後ろでおどおどしていた少女ではなかった。
ゆっくりとした動きでキメラの肩に触れると気持ちを落ち着けるように優しく撫でる。
「自分の都合のいいように君を見ていた」
ダージリンは観念したように溜息を洩らした。
「保護が必要な幼子のようにね」
「なぜ」
キメラの質問に答えず言葉を続けた。
「誰もが年を取る。君も、おれも。君の成長に目を背け続けていた。いつまでも袖の下で震えている子供であったほうが、おれにとって都合がよかったから」
短い間の後彼は急に話題を変えた。
「仕事は楽しい?」
「ええ」
「新しい友人はできた?」
「ええ」
「レストを中心に変わらず活動を?」
「ええ」
「今、とても充実しているね」
「ええ」
まるで競うように言葉を掛け合い、あまりにもくだらない会話にキメラの中の緊張感が緩みたまらず彼女は噴出した。
「いったい何が言いたいの?」
小さく笑いながらダージリンの胸を拳で叩く。ダージリンもつられて笑いながら彼女の拳を作った手を掴んだ。
「君は立派な大人の女性だってことさ」
そして、もう片方の手は彼女の腰に据えられ自分の方に引き寄せた。
二人の吐息が混ざり合うほど顔は近い。
「それを認めたら、歯止めが利かなくなるのはわかっていた」
眉を寄せ一度閉じた瞳をダージリンは開けた。
無防備に彼を見つめるキメラがいる。
「歯止めって?」
「こういうことだ」
キメラの視界いっぱいにダージリンの顔が迫り、思わず目を閉じたら唇に柔らかい感触と共に甘い音が辺りに響いた。
唇を軽く吸われ、呆然と立ち尽くす。熱を帯びたダージリンの菫色の瞳と、戸惑いを隠せないキメラの瞳が絡まる。キメラの手を放し、ダージリンは彼女の髪に手を差し入れると逃れられないように腰に回した腕に力を入れた。
「そして、これ以上のことも」
再び唇が重なり、逃れようとするキメラの唇を追って何度もとらえた。一度目の優しさはどこかへ消え食むように彼女の唇を貪る。
キメラは快楽の淵に立たされ転げ落ちそうな気持に恐れをなし、堪らずダージリンの胸に添えた手で彼の服を握りしめた。
キメラの唇を味わいながらダージリンは理性と本能の間で葛藤していた。
理性の声に従い、彼は渋々唇を放した。
頬を桃色に染め、濡れた唇を半開きにしたキメラの瞳には暗い欲望の翳りが見て取れた。
ダージリンの心の中で奇妙な満足感が生まれる。思わず笑みが零れそうになったがなんとか押し留め微笑する程度にした。
彼女の手に瓶を渡し、涼しげな表情で彼は言った。
「お探しの物はこれだ。忘れずに持っていくように。それと明日『レスト』へランチに行くからよろしく」
そう言い残し颯爽と食堂を横切っていく。
キメラはふるふると震えながら床に座り込んだ。
これ以上って何?噂に聞くようなこと?
まだ彼の感触が残る唇に手を当て、熱に浮かされたようにぼうっとする。
今まで味わったことのないキスと彼の言葉にこれから起こるであろうことに不安と期待が膨らむ。このまま想像に任せていたら自分は阿保になりそうだ。
キメラはかたく目をつむり頭を左右に振ると、この出来事を忘れようと決心した。




