決別と門出
キメラの運命を左右した一連の事件から十数年の月日が流れ、東京支部の現存する東京都には、電波塔東京スカイツリーや新たな総合商業施設が入れ替わり立ち代わり建ち並び、街は変わらず賑わっている。
聖アンデレ教会礼拝堂の何ブロックか先に、赤煉瓦とガラスを交互に組み合わせ市松模様を模した壁面に、わずかにカーブを描いた半円柱形の五階建てのビルが変わらず立っていた。テナントも以前と変わらず映画館と雑貨店。そしてバー「レスト」が地下二階で営業している。
晴れ渡る空には雲ひとつなく太陽が遠慮なく光を地上に降り注いでいる。
道行く人々はタオルや扇子又は団扇片手にやや重い足取りで行き交う。季節は夏で歩道にミストシャワーが作動しているところや芝生のスプリンクラーは定期的に動いて涼を取れるように工夫されていた。
年々全国的に気温は上がる一方だ。熱中症で倒れる人もしばしばある。
数年前からバー「レスト」はランチを始めていた。
季節の食材を使ったランチだ。この時期は夏野菜をふんだんに使った冷製パスタが人気で客足も多い。デザートにはフルーツをたっぷりあしらえ、アイスクリームを添えたかき氷も好評だ。
「いらっしゃいませ。こちらの席へどうぞ」
爽やかでよく通る声が店内を明るくする。今は禁煙席が当たり前になっており喫煙室は別に用意されていた。
無垢材と落ち着いたインテリアの店内は変わらず健在で、白熱色のLED電球にほんのり照らされたカウンターの中には、綺麗に整えられた自慢の鼻髭を蓄え、きっちり七三分けした白髪混じりのロマンス・グレーな中年男性の姿がある。蝶ネクタイにベスト、そしてサスペンダーで引き上げられたパンツ。シャトーリオンの変装は完璧だ。
この上品な渋さに女性ファンも多いと聞く。
お客様の相手をしているのは、髪を肩辺りで揺らし中肉中背の手足の長めの女性キメラだった。十代の頃とは違い随分落ち着いた雰囲気で、マッチ棒のようだった体に女性らしい丸みも加わり、ぎこちなかった笑顔も今では自然で魅力的になっている。そして身のこなしも自信に満ち何よりも彼女自身が輝いていた。
「キメラ、オフィスに材料が届いている。取りに行っておくれ」
お客から引き上げた食器をトレイに乗せようとしていたところ、キメラは危うく取り落としそうになった。
「は、はい」
返事をするものの気が乗らない。
テーブルの上の食器を片付ける手を休めることなく、念入りにテーブルを拭く。
ダージリンと二人きりになりたくなくて時間稼ぎをしたかった。
作業を続ける手が僅かに震え心臓が早鐘を打つ。
キメラの脳裏にバースとストラスアイラ、ダージリンと話し合った日が蘇った。
自分の気持を伝え、侍所で履物を履き、寝殿を後にしようと門を潜る寸前に後ろから腕を掴まれた。驚いて振り返ると憮然とした表情のダージリンの姿があった。百七十センチはある自分の身長を優に超える百八十センチ以上の長身、その割に線は細く柔らかい雰囲気を普段纏っている彼が、今十分すぎるほどの威圧感を醸しだしている。キメラの見開かれた葡萄色の瞳は不安に揺れた。彼の表情からキメラの決断に満足していないのは明らかだった。
「先ほど言ったことは本気なのですか?」
ダージリンの突き刺すような視線が怖くて思わず息を吸い込んだ。彼の菫色の瞳を覗き込むと首を縦に振って頷いた。苛立たしげに溜息を付き、キメラを捕まえていない方の手で乱れた前髪をかきあげる。こんなに感情を露わにしたダージリンは珍しい。
「良心の呵責から思い付きで取り返しのつかないことを言っているのは分かっていますか?その場の感情で思いついた話に、バースも了承したものだ」
忌々しげに唇を歪め軽く舌打ちした彼は、獲物を狙った鷹のような視線をキメラに投げた。身が竦む思いでキメラは一歩後退くと掴まれた腕を振り解こうと捩じってみた。増々力が入りダージリンの指が食い込む、その手は放してくれそうにない。
二人の間に一陣の風が吹きキメラのマントが煽られ腰まである長い髪が流れる。臙脂色の髪が光に透けて淡い色に薄まり光りを受けた毛先が山吹色から黄金色にきらめく。以前黒髪だった名残は全くない。
幻想的で美しい彼女の髪色にダージリンは顔をしかめ思わず顔を背ける。その風は彼の頬を撫で瓶覗色の髪を乱して遊ぶが彼の体にぴったりと纏った純白のコートは裾を揺らし赤い裏地を少し覗かせるくらいだ。
切なげに眉を寄せてダージリンは言葉を続ける。
「君が僕らにすごく感謝しているのはわかっています。それを何かの形で返したい気持ちもわかります。でも、君の気の済むまで恩を返した後はどうするのですか?このまま一生恩返しを一生続けるつもりですか?」
「そ、それは。確かにいつまでと期限は決めてないけれど。気の済むまで皆を手伝い、少しでも助けになれればと思っているの。私はこの世界が好き。人の世界に戻るなんて考えられない。だから、私にできることをここでしたい」
「僕は君に人間の世界に帰れとは言ってない」
強い口調で苛立たしげにダージリンは声を荒げた。
彼は我に返り鋭く息を吸い込むと口をつぐんだ。
僕が言いたいことはこんなことじゃないのに、キメラもそういうことを言っているわけではない。口から飛び出た失言にダージリン自身驚いていた。
「そうじゃない。私が言いたいのはいつまでもあなた達と共にいたいってことなのよ。今まで通り、自然と共存しこの調和のとれた世界で生きていたいの」
声を張り上げ、震えながら訴えるキメラの瞳に涙が薄ら浮かんだ。
わかっている、そんなことはなからわかっているさ。
心の内で唱えながら、ダージリンは奥歯を噛みしめた。
「ああ、そんなこと言われなくてもわかっているよ。だけど、その我が身を犠牲にした恩返し的な仕事を君は一生続けるのが満足なのかと思ってね」
なんて嫌味な言い方だ。
ダージリンは自分の口振りに呆れ感心しつつ、心の中はキメラへの心配事でいっぱいだった。
「キメラ、やっと全てを受け入れ自由になれたんだ。自分ために好きに生きていいんですよ。何よりも自分のために、これから生きなければいけない」
火事で両親を失い。
人としての幸せになる権限を奪われ。
自分で選んできた道は知らずと人に導かれてきた人生。
彼の胸の内で彼女に与えてきた苦痛が渦巻いていた。
傷ついた表情でキメラは、掴んでいる手に手を重ねた。頬を涙が一粒伝う。
どうしてこんなに彼は怒っているのだろう。
そして、私を理解してくれないのだろう。
困惑しつつキメラは、必死に彼に理解を得ようと言葉を探した。冷静にゆっくりここは話さなければ。
「ダージリン、お願いだからよく聞いて。私は何も一生奉仕する人生を送ろうと考えているわけじゃない。どんな形にせよ私の仕事が皆を支え貢献していくのよ。私は、不自由じゃないの。自分で選びその答えに満足している。」
キメラは震える声を抑えながら、堂々と言った。
「ねえ、あなたは受講で言ってたわよね。いかなる仕事もみんなの支えとなり大事な要素が含まれている、無駄な仕事は一つもないって」
腕を掴んでいたダージリンの力が緩んだ。やがてその手は彼の脇に力なくぶら下がった。
観念したように彼は呟いた。
「その通りだ」
長いような短いような気まずい沈黙が二人の間を流れた。一メートルも離れていないのに二人の間には大きな距離が生まれている。つかず離れず、寛大な心でキメラを包んでいたダージリンの愛情は幻のように消え失せていた。
「もういい。好きにしろ」
まるで子供のような捨て台詞を吐いて一度もキメラの顔を見ることなく引き戸を潜る。
「ダージリン、私」
彼女の言葉を阻み引き戸が鋭い音と共に引かれた。
一枚板の向こうの彼をキメラは呆然としたまま見送ることしかできなかった。
それから数か月、本職の仕事は引退したもののキメラは様々な仕事を体験した。
寝殿の管理の仕事。屋内外の掃除もさることながら、週一回の庭の手入れが大変だった。
学び舎での講師アシスタント。教材準備、食堂、施設の手入れなど雑用全般など盛りだくさんだった。
果樹園、敷地内の手入れ。害虫駆除、剪定、雑草抜きなど一日中の外仕事。
階級代表助手。人間、翼あるもの、地から這い出るもの、闇を好むものなどの外交やさまざまなトラブル解決など。
あらゆる仕事を網羅したが、その中で取り分け東京支部拠点「レスト」での調理、配膳の仕事を気に入った。彼女が作ったレシピを人間も彼らも喜んで食べるのだ。
リクエストも多く様々な食材を選び、考える仕事は楽しかった。
出前や出張料理も面白そうだ。
アイディアが次々と浮かびキメラは生き生きとレシピの提案をした。
ストラスアイラやバース、上層部の許可を得て「レスト」を中心に料理人として腕を磨き続けた。
やがて世界各国に設けられているバーやレストラン、病院や塾など、様々な形の拠点へ出向き調理の指導をするようになった。
キメラのレシピは国により形を変え味も変えたが、そのおいしさは世界共通だった。
忙しく世界中を駆け回り充実した生活は生きる喜びと今までにない自信を彼女にもたらした。




