第六十一話:幸福の鐘は鳴り続く
あのバレンタインデーから約五年後、この世で彼女以上に有能な秘書がいるだろうかというほど、凛とした空気を漂わせながら歩く桜姫は医院長室の扉に手をかけて開けば、そこにはディスクワークに勤しむ龍がいた。
貫禄は既に何年も勤め上げてきたというところだが、まだ彼は就任して一年足らずというところだ。
「主、失礼致します」
「ああ、どうした?」
「はい、今月の収支報告書をお持ち致しました」
「ありがとう」
龍がそれを受け取る間に桜姫はコーヒーの準備をする。医院長と言ってもインスタントコーヒーで構わないと言ったのだが、それは桜姫から猛反対されたため、今日もコーヒーメーカーが稼動するわけだ。
ただ、桜姫がせめてコーヒーぐらい良いものをと気を遣った理由はすぐに分かる。
「……おい、俺は利益優先主義者じゃないがけっして赤字を推奨する気もないぞ?」
「はい、ですが啓吾様と秀様が騒動を起こして壊れた備品並びに調度品を合わせれば黒字を脅かすもの」
医療の精密機器に影響は及んでないが、その他諸々はかなり悲惨なことになっている。あの二人の喧嘩は毎回被害という被害を出さないことはない。
ただ、唯一それが活かされる機会がオペであり、あの二人がいるオペは成功率がかなり高いと今や日本医学界ではかなりの評価を受けている。
「……本当に弁償させるか」
「そうですね、給料から引いておけばいいかと思います。ここの備品もいくつか壊されましたしね」
「一応、医院長室なんだがな……」
いつまでたっても相変わらずな二人に龍は深い溜息を吐き出すのだった。
一方、内科の診察室では研修医の柳が一ヶ月に約十回ペースで来る患者と偽った青年に今日も似たり寄ったりの質問をされているわけである。
「ねぇ、先生って彼氏いるの?」
「はい?」
いかにもチャラチャラした男が明らかに柳目当てで来たとでも言うかのように馴れ馴れしく聞いてくる。それに柳は心の中でどうしようかと困っていたが、近付いて来る空気に安堵を覚えた。
「いやぁさ、無茶苦茶可愛いから是非俺の彼女に……!」
その瞬間、空気が有り得ないぐらい凍てついた。言わずもがな、今や医学界を騒がせる腹黒麻酔科医である。もちろん騒がれている理由は彼の腕だけではないが……
そして、冷徹の塊といっても過言ではない麻酔科医は聴診器だけさっさと当ててすぐに診断を下した。
「頭に問題は有りますが至って健康、全く問題なし。冷やかしで病院に来てもらったら困りますね」
「いえ、けっして……」
本当に胃が痛み始めたのは間違いない。しかし、秀は柳に絡んで来るものは例え重症患者であろうと容赦するつもりはなく、健康体なら尚更苦痛すら喜んで与える。それだけ彼は愛妻家になっていた。
「因みに彼女は僕の妻ですから、手を出すならすぐに病院のベッドを開けますけど?」
「す、すみませんでした〜〜〜!!」
脱兎の如く逃げ出す、を見たのはこれで何回目かと言うところだが、それを平然として見ていられるスタッフというのがさすがこの病院で働いているだけあると評するべきか……
ただ、毎回秀から助けられている柳は申し訳なさそうに謝った。
「すみません、秀先生。助かりました」
「いいえ、看護師達から迷惑してると聞きましたからね。それよりあのシスコン外科医はこっちに来てませんか?」
「いいえ。ですが先程、鳳凰社長がいらっしゃってましたからその応対かと」
「ああ、そういえば新しい薬の説明を聞きたいとか言ってましたね」
「ええ、沙南先生のオペのためにって。何だかんだ言いつつ、あれで研修医思いなんですよね」
今や沙南の指導医になっている啓吾に柳はクスクス笑った。雑務諸々は沙南に任せてよく紗枝にド突かれているのもこの病院の名物だが、治療となるとそれは頼りになる指導医として啓吾の評判は高い。
因みに秀も日本に戻ってきて啓吾の指導を受ける羽目にはなったが、それは毎日多くの被害が出ていたことは言うまでもない……
「だけど、もう初執刀させるなんてさすがは啓吾先生ということなんですかねぇ」
「秀先生は麻酔に入らないんですか?」
「ええ、兄さんのオペがありますからね。それに他にも雑務がありますし」
麻酔科医という立場上、熟さなければならない仕事はかなり多いが秀のいう雑務は龍のサポートも含まれている。
事実、秀からかなりの被害を受けたものがここ数年、後を絶たないと裏社会では有名な話だ。
「それより午前の外来が終わったみたいですし、そろそろ兄さんのところに行きましょうか」
「そうですね。それにしても話って今度の公開オペのことでしょうか?」
「ええ、公開オペもありますけどもしかしたら……」
何となく最近感じていたことも踏まえた秀の予測は見事に当たるのである。
そして、シスコン心臓外科医は沙南のオペと今度の公開オペも踏まえ、薬とさらに最新医療機器について鳳凰から説明を受けていた。
「すまなかったな、鳳凰。わざわざ出向いてもらってよ」
「いや、気にすることはない。こちらも助かっている」
医療の現場にデュパン社あり、といわれるほど大きく成長した会社の社長となっていた鳳凰は啓吾が五年前に出した条件をきちんと守っていた。
それは龍が医院長になった時、デュパン社の力を貸すこと。それで全てをチャラにすると啓吾はフラン社長に持ち掛けていたのである。
そして今、薬だけではなく医療の精密機器まで扱うようになっていたデュパン社はかなりのバックアップをしてくれているわけだ。
「それで奥方は元気か?」
「ああ、おかげさまで。こちらの産婦人科で世話になってる」
「そうか、もうすぐ二人目が産まれるんだったな」
本当に早いものだと啓吾は思う。五年前は騒動という騒動に巻き込まれてばかりだったが、今や平和ボケでもするんじゃないかというほど穏やかに毎日が過ぎているわけで……
「まっ、今度お前んとこは女だったからうちの息子の嫁にでも来いよ。あいつは誰に似たのか紗枝をいつも独占しやがって……!」
「二歳児に嫉妬するな。それにうちの娘を嫁に出すのは構わないが紗枝殿を独占する手段に使うのはやめろ」
「いや! お前だって息子がいるんだから」
「俺に似ていて嫉妬する要素があると思うか?」
それだけで納得してしまうのは何故なんだろう。しかし、もし良い父親度があるとすれば、間違いなく鳳凰の方に軍配が上がるに違いない。
「だが、産婦人科といえば……」
そのあとに続く鳳凰の言葉に啓吾は目を丸くするのだった。
医局から医院長室に向かう紗枝は本日もご機嫌麗しいようだ。今や一児の母となってるわけだが、子供の面倒は彼女の祖父やらたまに日本に来るシュバルツ博士、おまけに闇の女帝が一人ぐらい増えても構わないと見てくれている。
そのおかげか、彼女はすぐに職場復帰出来て助かったと感謝している訳だ。
そして、医院長室に向かっている最中、彼女の後ろから明るい声が掛かる。
「紗枝先生!」
紗枝が振り返れると可愛らしい弟妹達がいた。五年前は幼い声をしていた末っ子組もいまや高校生、ただ容姿は少し大人っぽくなったものの可愛らしさは健在だ。
そして、一番成長したのが翔と紫月だ。相変わらずな応酬を繰り広げつつも、大学生になってから付き合うようになった。とはいえども、兄達のような甘さが皆無というところはさすがだが……
「皆お揃いでどうしたの?」
「うん、兄さんに呼ばれてきたんだ」
「龍ちゃんから?」
休憩中に全員集合と言われていたため、てっきり医者達だけの会合だと思っていたが、どうやら年少組も参加するようだ。それほど重大な発表など考えても出て来ない。
「ああ、病院関係の事なら家で話すだろうし、かといってうちも何かある訳じゃないし」
「まっ、本人に聞けば分かるわよ。医院長室に行きましょ」
そう促され一行は医院長室に向かう。年少組が全員この病院で働くのも、そう遠くはない話だ。
それから医院長室にたどり着いた一行が扉を開ければ、既に兄達が桜姫のコーヒーで一息ついていたところだった。
「皆様、お久しぶりです」
「オウ! 桜姫姉ちゃん久し振り!」
「龍兄さんも久し振り」
久し振りに会ったのが桜姫だけではなく龍もというあたり、いかに龍が多忙なのかよく分かる。もちろん、啓吾や秀もかなり忙しいのだが要領の良さが共通する二人はうまく時間を作っているようだ。
それからたわいもない話をしていると、ドタバタとこちらにかけて来る足音に気付いて一行はドアの方に視線を向けた。
「すみません、遅れました!」
初々しい研修医が息を切らして飛び込んでくるのに一行の口元が綻ぶ。ただ、一番綻びそうな医院長は相変わらず真面目な質問を投げ掛けた。
「沙南先生、遅れた理由は?」
「外科部長と治療方針を話し合ってました」
「ん? また新しい入院患者でも増えたのか?」
「違いますよ。啓吾先生が」
「ああ、分かった。後から俺が聞いとくから」
龍以外がそれだけで納得した。きっと啓吾がいろいろやって出来た患者だと分かったからだ。
とりあえず、これ以上突っ込まれては後々面倒だからと啓吾は話題を切り替えた。
「それで、話って何なんだよ」
「やっぱり経営難ですか?」
「自覚してるなら改めてもらいたいがな」
それには桜姫もコクコクと頷く。けっして赤字ではないが、黒字を下げるような真似は控えてもらいたいところだ。
しかし、それが違うとなれば一体何事かと龍に視線が集中すると、彼は相変わらず恋愛事に弱いままなのか顔を真っ赤にして報告した。
「結婚しようと思ってな……」
当然、相手は沙南であり彼女がニッコリ満面の笑みを浮かべているのを見ると、医院長室から歓喜の声が溢れた。
「おめでとう!」
「やったぁ!!」
「沙南お姉ちゃん、おめでとう!!」
「やっとか」
反応は様々、それに相変わらずドS達は早速これからの準備やら計画やらと話し合っている。どれだけ龍が多忙でも、結婚式の準備からハネムーン、さらにはその先まで完璧に彼等が取り仕切ってくれそうだが、啓吾は龍の傍に来てボソリと零した。
「龍、もう一つあるんじゃねぇのか?」
「ん?」
「沙南お嬢さん、妊娠してんじゃねぇの?」
「……へっ?」
何とも間の抜けた返答が返って来る。どうやら彼女が産婦人科を受診したということは彼の耳に入っていないらしい。
それから完全にフリーズしている龍に変わり、啓吾は内線で産婦人科に掛けると、やはり沙南の指導医だからと産婦人科の婦長は柔らかい声で教えてくれた。
「啓吾様、婦長は何と?」
盛り上がっている一行から一旦抜けてきた桜姫は穏やかな表情で尋ねると、啓吾は悪戯な笑みを浮かべて答える。それは想像出来ないくらい楽しみな未来だから……
「ああ、沙南お嬢さんは……」
幸福の鐘は騒々しく、しばらく鳴り止むことはない……
はい、これで終了〜〜!!
かなり長い連載になってしまいまして、しかも放置プレーもしてすみません……
とりあえず、書き上げられて良かったなぁと。
随分ハチャメチャな話にもなりましたが(笑)
天空記はあとノクターンが残ってますので、それを書いたら一応完結予定です。
でも、そっちも長いなぁ……
では、最後にここまで読んでいただきましてありがとうございました☆
リクエストしてくださったベルトさんにも感謝いたします。