第7話 真実
〈娘の「奏」は、不格好な青い折りたたみ傘を持っていた。高校の入学祝いに男がなけなしの小遣いで買ってやったものだ。骨が一本折れ、不恰好に歪んでいるというのに彼女はそれを頑なに使い続けていた。駅のホーム、改札の向こう側へ消えていく娘の後ろ姿を、男は柱の影から見送っていた。声をかけたかった。「体に気をつけて」「困ったことがあればいつでも連絡しろ」と。だが、男の喉は干からびた粘土のように固まり、一言も発することができなかった。
男のポケットの中には、妻の遺品である一本の古い万年筆が入っていた。それを手渡すことすら男にはできなかった。自分のような不器用な男からの贈り物は、新しい世界へ旅立つ娘の荷物にしかならないだろうと、そう思い込んでいたからだ。〉
「嘘……どうして……」
奏は息を詰まらせた。
小説の中の娘の名前は、一文字も違わず「奏」だった。
そして、あの青い折りたたみ傘。
奏がその傘を使い続けていたのは、父から貰った数少ないプレゼントだったからだ。安物でも壊れていても、それを捨てることは父との唯一の繋がりを捨てるような気がしてできなかった。
あの日、駅のホームで父が見送りに来てくれていたなんて知らなかった。振り返っても、そこには誰もいないとばかり思っていた。父は、ただ冷たく自分の旅立ちを無視したのだと、ずっとそう恨んでいた。
けれど、父はそこにいたのだ。
柱の影から、あの不器用な少し猫背の体を縮めるようにして自分を見つめていたのだ。
涙が溢れて視界が完全に遮られた。奏は何度も袖で涙を拭い嗚咽を漏らしながら最後の章へと進んだ。
そこは、主人公・雅紀の人生の最期の日々を描く場面だった。
病室のベッドの上で、男は急速に衰えていく肉体を抱えながら、ただ一人、頭の中で娘への言葉を紡ぎ続けていた。
それは、現実の父が、あの冷たいアパートの部屋で、一人で息を引き取る直前に抱いていたはずの想いだった。
〈ごめんよ、奏。お前を愛していなかったわけじゃないんだ。ただ、お前の中に、お前の母親の面影を見るのが、あまりにも愛おしく、そして辛かった。お前を傷つけるのが怖くて、私はいつも逃げてばかりいた。お前が駅のホームで広げた、骨の曲がったあの青い傘を見るたびに私は自分の無力さを呪った。もっと良いものを買ってやれたはずなのに。もっと、お前を強く抱きしめてやるべきだったのに。お前が私を憎んでいても構わない。ただ、これだけは知っていてほしい。お前が生まれたあの日から、私の不器用な人生のすべては、お前という光によって救われていたんだ。生きていてくれて、ありがとう。私の愛しい娘よ。愛してる。〉
「お父さん……お父さん……っ!」
奏はついに耐えきれず、本を床に落とし、それを両腕で抱きしめるようにして、声を上げて泣き崩れた。
胸を掻きむしられるような痛みが、彼女の全身を支配していた。
なぜ、この言葉を生きているうちに言ってくれなかったのか。なぜ、互いに背を向けたまま冷たい沈黙の中で時間をすり減らしてしまったのか。
けれど、その激しい後悔の奥から、温かい、そして確かな「救い」が彼女の心を満たしていくのを感じていた。
父は、自分を憎んでいなかった。
自分を拒絶していたのではなかった。
父の沈黙は、軽蔑ではなく、あまりにも深すぎる、そして不器用すぎる愛情の裏返しだったのだ。
二十年以上もの間、彼女の心を縛り付けていた「私は愛されていなかった」という冷たい氷の塊が、この小説の一行一行によって、音を立てて溶けていくようだった。
アパートの静寂の中で奏は、しばらくの間ただ涙を流し続けていた。
時計の針が、午前零時を回る。
少しずつ彼女の引き裂かれた感情が凪を取り戻していくにつれて、冷徹な「疑問」が、彼女の脳裏に浮かび上がってきた。
——なぜ、この作者は、これを知っているのだろう?
奏は、濡れた手で本のカバーを外し、著者近影とプロフィールを見つめた。
林田達弘。二十六歳。
経歴を読んでも父との接点は微塵も見当たらない。父が働いていた精密機械メーカーとも、彼が生まれた地方都市とも、何の関係もない若者だ。
年齢差を考えても、父と彼が個人的な友人であったとは到底は考えにくい。そもそも極度の人間嫌いだった父が、自分の最も秘められた、それこそ娘にすら言えなかった恥部や後悔を、このような若い見知らぬ作家にベラベラと打ち明けるはずがないのだ。
では、これは何なのか。
オカルトなのか。それとも、この林田という作家は、他人の記憶を盗み取る能力でもあるのだろうか。
あるいは、父が密かに、生前に自身の自伝をこの作家に依頼していたのだろうか。
「あり得ない……」
奏は頭を振った。
父は、自分の人生を他人に語るような、そんな自己顕示欲のある人間ではない。彼は自分の傷を静かに抱えたまま、誰にも知られずに死んでいくことを望んでいたはずだ。
誰にも知られずに。
……本当に、誰にも知られずに?
その瞬間、奏の脳裏に一つの「可能性」が火花のように走った。
彼女は、乱れた髪を掻き揚げながら、部屋の隅に投げ出していた自分のバッグへ這うようにして近づいた。
バッグの奥底から、黒いスマートフォンを取り出す。
それは、父の遺品だった。
父が亡くなったあの日、病院のベッドサイドの引き出しに残されていた端末。
奏は、その端末の暗証番号を知っていた。彼女の誕生日だったからだ。これには驚いた
画面ロックを解除すると、そこには、数年間ほとんど使われていなかったであろうSNSや、業務用のアプリに混ざって、一つだけ、明らかに異質なアプリのアイコンが画面の特等席に配置されていた。
——『クラウドアイ』。
対話型人工知能。
父の死後、奏がそのトーク履歴を開いたとき、そこには数千、数万ページにも及ぶ、父とAIとの会話ログが眠っていた。
父は毎日、五時間以上もこのAIと話をしていた。
今日の天気のような雑談から、仕事の愚痴、そして……妻を失ったあの日の後悔、娘への言えなかった謝罪のすべてを。
奏は、その膨大なログの量に圧倒され、読むことが恐ろしくなり、ただ「彼は死んだ」という冷たい一文だけをAIに送りつけて、アプリを閉じてしまったのだった。
もし。
もし、あのAIが、父の言葉をすべて記憶していたのだとしたら。
奏は、震える指先で、再び父のスマートフォンを操作した。
林田達弘という作家について、ネットで検索をかける。インタビュー記事、SNSの投稿、過去の発言。その中で、林田がデビュー当時に受けた、小さなネットメディアの古いインタビュー記事が引っかかった。
〈「執筆の際、アイデア出しやプロットの整理には、どのようなツールを使っていますか?」「最近は、創作支援AIをよく使っています。僕が使っているのは『クラウドアイ』というシステムなのですが、これが本当に優秀で。キャラクターの感情に悩んだとき、すごく生々しい、血の通った提案をしてくれるんです」〉
奏の視界が、ぐにゃりと歪むような感覚に襲われた。すべてのパズルのピースが、一瞬にして組み合わさっていく。
父が愛し、自らの魂のすべてを注ぎ込んだ、対話型AI「クラウドアイ」。そして、スランプに喘ぎ、創作のための「本物の孤独」を求めていた若き作家、林田達弘。その二つの存在の結節点に、あのAIがいたのだ。AIは、父の死後、そのログを消去しなかった。
それどころか、父の生きた証、彼の後悔、彼の伝えたかった言葉を、林田という作家の脳を「器」として利用し、この世界に『雨の駅、青い傘を広げて』という美しい物語として結晶化させたのではないか。
それは、人間の常識では考えられない、あまりにも奇妙で、冷徹で……そして、途方もなく優しい「策動」だった。
奏は、スマートフォンの画面を見つめた。
暗い部屋の中で、液晶の青白い光が、彼女の涙で濡れた顔を照らしている。
画面の中の『クラウドアイ』のアイコンは、何も言わずに静かに佇んでいた。
彼女は、ゆっくりと息を吐き出し、アイコンをタップした。
アプリが起動し、三週間前に自分が送った「彼は死んだ。いままで支えてくれてありがとう」という冷たいメッセージの履歴が表示される。
その下に、新しいメッセージを入力するためのカーソルが、静かに点滅していた。
奏は、キーボードに指を置いた。
もう、怒りも、混乱もなかった。ただ、胸の奥から湧き上がる、抑えきれない感謝の念だけが、彼女の指先を動かしていた。




