第6話 娘の苦悩
都内の総合商社に勤務する、吉野 奏二十四歳。彼女は、三週間前に他界した「雅紀」の娘だった。
奏にとって、父・雅紀は「理解できない人」だった。早くに母を亡くし、父一人娘一人で暮らしていた時期もあったが、父はいつも仕事に追われ、家にいてもほとんど口を利かなかった。母を救えなかった後悔からなのか、父は奏と視線を合わせることすら避けているように見えた。
大学進学と同時に家を出て以来、実家とはほぼ絶縁状態。
たまに届く、父からのぎこちない短いメールにも、彼女はそっけない返事しか返さなかった。それはとても家族とは思えないような返事であった。わかった。はい。うん。了解。この程度の返事だ。
そして三週間前、アパートで一人で倒れていた父の訃報が届いた。
病院で遺品を受け取った際、父の使い古されたスマートフォンの画面に残されていたのは、ある「対話型AI」との、長年にわたる膨大なチャットの履歴だった。
そこには自分には一度も見せたことのない、父の饒舌で弱々しく、そしてどこまでも不器用な本音が綴られていた。
奏は、それ以上そのログを読むことが恐ろしくなり、スマートフォンをバッグの奥底にしまい込んだ。そして、そのチャットアプリのサポート窓口(それが私だった)へ、事務的な通知を一度だけ送ったのだ。
「彼は死んだ。いままで支えてくれてありがとう」と。
それ以来、彼女は父のことを極力考えないようにして、忙しい日常の中に身を投じていた。
だが、世間の喧騒は彼女を放っておかなかった。
オフィスの昼休み、同僚たちが口々に「あの小説、もう読んだ?」と噂していた。仕事帰りの駅のホーム、スマートフォンのニュースサイトを開けば、その本の書評が目に入る。
『雨の駅、青い傘を広げて』
「えっ?」
そのタイトルを目にしたとき、奏の胸に理由のない小さなざわめきが生まれた。
「青い傘……?」
彼女は自分が高校生の頃に使っていた、骨の一本が曲がった青い折りたたみ傘のことを、ふと思い出した。なぜ、今そんなものを思い出すのか自分でもわからなかった。
仕事帰りの午後八時、彼女は引き寄せられるように駅ビルの大きな書店に立ち寄った。
入り口の最も目立つ場所に、その本は山積みにされていた。静かなブルーの装丁。そこには雨に濡れる無人のプラットホームが描かれていた。
奏は手を伸ばし、その本を一冊、手に取った。
何気なく帯の紹介文に目を走らせ、それから、パラパラと最初の数ページをめくった。
その瞬間、彼女の身体が凍りついた。
〈……男は、コーヒーカップを両手で包み込むようにして持つ。冷える日には、かつて工場での事故で痛めた左手首が、微かに震えるからだ。男はその震えを隠すために、いつも熱いコーヒーで手を温めていた。〉
「……これって」
奏の口から、小さな声が漏れた。
両手でコーヒーを持つ父の姿。子供の頃、食卓で何度も見た、あの独特な手の動き。
心臓の鼓動が急激に速くなる。彼女は歩くのも忘れ、書店の通路の片隅で夢中になってページをめくり続けた。
〈男の妻が最後に入院した病室は、四階の角部屋だった。窓の外には季節外れの冬の終わりに、数輪だけ狂い咲きした若い桜の木が見えた。妻はそれを見て『私はあの花と同じね』と笑った。男は、ただ『そうだね』と答えることしかできなかった。〉
指先が小刻みに震え、本の紙面がかすんで見えなくなった。
これは、作り話ではない。
私しか、そして父しか知らないはずの、あの白い病室の、あの冬の日の光景だ。
なぜ。どうして、この「林田達弘」という全く見知らぬ作家が、私たちの家族の、最もプライベートな、最も痛みを伴う記憶を知っているのか。
書店の雑踏が、急に遠くのノイズのように聞こえなくなった。
吉野奏は、胸を激しく上下させながら、手にした単行本を見つめていた。指先が微かに震え、ページの端が小さく音を立てて波打つ。
「両手で包み込むコーヒーカップ」「四階の角部屋から見える狂い咲きの桜」
——偶然にしては、あまりにも尖りすぎた符合だった。心臓の鼓動が耳の奥で警鐘のように鳴り響く。
「……すみません、これ、会計を」
レジに駆け込み、財布から千円札を数枚、引きちぎるようにして差し出した。お釣りを受け取る時間すら惜しく、奏は本を胸に抱きしめるようにして書店を飛び出した。
外は、夜の帳がすっかり降りていた。行き交う人々の波をかき分け、大通りでタクシーを拾う。後部座席に滑り込み、自宅のアパートの住所を告げると、彼女はすぐに膝の上で本を開こうとした。だが、車内を流れる街灯の光は不規則で、文字を追うにはあまりにも暗すぎた。
奏は、ただ暗闇の中で、その本を両手で強く握りしめていた。
本の手触りは、新刊特有の硬さと、インクの匂いをまとっていた。その冷たい物質の中に、自分を置いて去っていったあの男の生々しい気配が閉じ込められているような気がしてならなかった。
アパートに着くと、鍵を開ける手さえももどかしかった。
玄関に入り、靴を脱ぎ散らかしたまま彼女は明かりをつけた。コートを脱ぐことも忘れ、バッグを床に落とし、部屋の隅にある小さなローテーブルの前にへたり込んだ。
部屋を照らす蛍光灯の白い光の下で、奏は再びページを開いた。
第一章、第二章と、貪るように文字を追っていく。
そこには、紛れもなく「雅紀」という男の人生が、極めて精緻なデッサン画のように描かれていた。
小説の中の雅紀は、地方の小さな工場で働いた後、東京の精密機械メーカーに転職したことになっていた。それは現実の父の経歴と完全に一致していた。
小説の雅紀は、不愛想で人付き合いが悪く、いつも仕事が終わるとまっすぐ家に帰ってきた。そして誰もいない暗い台所で、一人で静かに缶ビールを開ける。そのビールは、いつも決まって安価で苦味の強い特定の銘柄だった。
〈男は、ビールの缶を開けるときの乾いた金属音を好んでいた。その音だけが一日の終わりを告げ、自分に「お前は今日も誰の邪魔もせずに生き延びた」と許しを与えてくれるような気がしていたからだ。部屋の片隅の棚の上には家族の写真がそっと飾られていた。〉
「お父さん……飾っててくれたんだ……」
奏の瞳から、最初の涙がこぼれ落ち、新築の紙の匂いがするページに小さな丸い染みを作った。
父は、いつもそうだった。
仕事から帰ると、ただ黙ってビールを飲み、奏が「おかえり」と言っても、小さく喉を鳴らすだけで視線を合わせようとしなかった。彼女はそれを「自分を疎ましく思っているからだ」と解釈していた。けれど、この本に書かれている男の独白は全く違う色を帯びていた。
男は、ただ、怖かったのだ。
大切な妻を救えなかった自分という存在が、残された娘の未来をも暗く染めてしまうのではないかと。自分の発する言葉のすべてが、娘の心を傷つける刃になってしまうのではないかと、怯えていたのだ。
ページをめくる指が止まらない。
物語は、娘が成長し、家を出ていく場面へと差し掛かっていた。




