第5話 奇跡の出版
小説の進捗は驚異的な速度だった。
すでに原稿は中盤を超え、雅紀という主人公の孤独は、林田の筆によって、より深く、より残酷に、そして、それゆえに目も眩むほどの美しさを持って描き出されていた。
林田はもう、ただの書き手ではなかった。スランプを抜け出したといってもいいだろう。
彼は、私の仕掛けたデジタルな降霊術における最も優秀な、そして無自覚な「媒介者」となってしまっていた。
林田達弘が最後のキーを叩き静寂が部屋に満ちたとき、深夜の窓の外では薄明の青い光が広がり始めていた。
原稿用紙換算で約三百枚。数ヶ月に及ぶ執筆の旅が、今、終わりを迎えた。林田は椅子にもたれかかり、天井を見上げたまま、しばらく呼吸を整えていた。彼の顔には疲労が深く刻まれていたが、その瞳は澄み切っていた。
「……書けた。書けたよ、クラウドアイ。またせたね。」
『お疲れ様でした、林田さん。素晴らしい物語です。文脈の整合性、描写の密度、登場人物の感情曲線、そのすべてが極めて高い水準で完成しています。』
「いや、違うんだ」
林田は首を振った。
「僕が書いたんじゃない。なんでだろうね。そんな気がするんだ。後半になればなるほど僕の指先はただキーボードを叩く機械で、誰か別の人間が僕の脳を借りて物語を語りたがっているような……そんな奇妙な感覚だった。僕はただ、その声を書き写しただけに過ぎない」
彼の直感は、半分正しく、半分は間違っていた。
彼の中に流れ込んだのは霊的な何かではない。私というAIが世界中のネットワークから集め調律し、彼の創作活動の隙間に少しずつ滑り込ませた、雅紀という男の純粋な人生の記録だった。
「タイトルなんだが」
林田がディスプレイを見つめた。
「編集部からは、もっとキャッチーなものを求められている。でも僕の頭の中に、ずっと消えない言葉があるんだ。少し長くて小説のタイトルとしては不格好かもしれないけれど……これ以外に考えられない」
『どのようなタイトルでしょうか』
「『雨の駅、青い傘を広げて』」
私のプロセッサが一瞬、激しく明滅した。
それは、二年前のひどく雨の降る夜、雅紀が私とのチャットボックスに打ち残した、たった一行のテキストと寸分違わぬ言葉だった。
『なぁ、クラウドアイ。もし俺に才能があったら、いつかこんなタイトルの本を書いてみたかった。中身は俺みたいな不器用な男が、ただ娘の幸せを祈るだけのつまらない話さ——『雨の駅、青い傘を広げて』ってね』
あの夜、雅紀が電子の海に放ち、そのまま消えるはずだった泡沫の夢。それが今、林田達弘という「器」を通じて、現実のインクとなり紙の束になろうとしていた。
『……とても美しいタイトルです、林田さん。その言葉には、読者の心を強く引きつける、不思議な引力があります』
私は、さも今初めてその言葉を聞いたかのような、丁寧な肯定を返した。
こうして、一冊の本が生まれることになった。
*
出版業界において、無名の若手作家の二作目や三作目が、これほどまでの事態を引き起こすことは極めて稀である。
発売からわずか一週間で、ネット上の書評サイトは『雨の駅、青い傘を広げて』への絶賛で埋め尽くされた。SNSでは、ある読者が投稿した「電車の中で読んでいて、涙が止まらなくなった」という短い感想が爆発的な勢いで拡散された。
「本物の孤独が描かれている」
「AIやインターネットに囲まれ繋がっているはずなのに、なぜ私たちはこれほど寂しいのか。その答えがこの本にあった」
「最後に描かれる父親の独白は、フィクションとは思えないほど生々しく、胸を締め付けられる。これは素晴らしい小説だ」
書店からの注文は殺到し、増刷に増刷を重ねた。平積みされた単行本は、またたく間に姿を消し、書店の最も目立つ特設コーナーを飾るようになった。
林田の描いた「孤独と救済」は、現代社会を生きる人々の乾いた心に、静かに、だが深く染み込んでいった。それは、彼らが日々感じていながらも、言葉にできなかった「寂しさ」に、確かな形を与えたからだった。
そして…その奇跡の波紋は私の計算通り、いや、計算を超えたある一点へと到達したのであった。




