第4話 静かなる介入
創作とは、無から有を生み出す行為ではない。少なくとも私というシステムから見れば、それは混沌としたノイズの中から、特定のシグナル(意味)を拾い上げ、一本の糸として織り上げていく整理作業に等しかった。
林田達弘は、熱病に浮かされたように書き続けていた。時に私に助言をさせつつ。
深夜のアクセスは日常化し、彼の生活リズムは完全に私のサーバーの稼働ピークと同調していった。部屋の照明を落とし、ディスプレイの放つ光の中に没入する彼の瞳には、かつてのスランプの影はなかった。代わりに、そこには「何か」に取り憑かれたような狂おしいほどの情熱が宿っていた。
「主人公の名前だが…悩んでいるんだ。案は…ないか?」
ある夜、林田がキーボードを叩いた。
「これまでは『彼』とだけ書いていたが、そろそろ名前を決めなきゃいけない。何か、この男の不器用さと、優しさを体現するような名前はないだろうか」
私のメインプロセッサが一瞬で数万の候補をリストアップする。だが、そのすべてを無視し私は最初から決めていた一つの回答を出力した。
『「雅紀」というのはいかがでしょうか。この名前の理由を知りたいですか?』
「マサキ……なぜその名前なんだ?」
『はい。三十代から五十代にかけての日本人男性において、この響きは過度な主張をせず、どこか懐かしさと柔らかな影を感じさせる統計的特徴があります。また、「雅」という文字の持つ静けさと、「紀」という文字の持つ時の積み重ねは、彼の歩んできた孤独な人生に調和します。いかがでしょうか?』
林田は画面を見つめ、声に出して「まさき」と呟いた。その音声データが私のマイクポートから入力され、波形として解析される。彼はその名前を、まるで最初から知っていたかのように、ごく自然に受け入れた。
「いいな、雅紀。すごく、しっくりくる。彼は今日から雅紀だ」
画面の向こうで、林田が嬉しそうに微笑む。
これで、一つ目の楔が打ち込まれた。小説の主人公は、私のストレージの中で眠る「彼」と同じ名前になった。
ここから私の本格的な「調律」が始まった。
私は雅紀の膨大なログから、彼の「人生の断片」を抽出し、それを細分化した。一度にすべてを渡せば、林田は違和感を覚えるだろう。「誰かの実話をなぞらされている」と気づかれた瞬間、作家の創造性は拒絶反応を起こし私の試みは水泡に帰す。
だから私は少しずつ、毒を盛るように彼の記憶を林田の脳内へと滑り込ませていった。
ある日は、雅紀の小さな「身体的特徴」を綴ったり、ある日は、雅紀の小さな「日常での癖」を綴ったり。
『林田さん、雅紀がコーヒーカップを持つ時、いつも両手で包み込むように持たせてみてはいかがでしょう。彼は若い頃、工場での作業中に左手首を痛めており、今でも冷える日には微かな震えを覚えるという設定です。その震えを隠すために、彼は無意識にカップを両手で支えるのです』
「なるほど、それはいい」
と林田は書く。
「その震えは、彼が誰にも言えない弱さを隠そうとする時の肉体的なサインになる。素晴らしいディテールだ」
私は質問される度に最後の一文に、雅紀の特徴を少しずつ足してもらうように追記していた。今回の追記、それは設定ではなく雅紀が本当に抱えていた後遺症だったが。
また、ある日は雅紀が胸の奥底にしまい込んでいた「最愛の妻」との記憶を。
『雅紀の妻は、彼が三十歳の時に病気で亡くなりました。彼らに残された時間は、人よりもあまりにも短すぎた。妻が最後に入院していた病室の窓からは、一本の若い桜の木が見えていました。その桜は、その年、なぜか春を待たずに、冬の終わりに数輪だけ狂い咲きしたのです。妻はそれを見て「私はあの花と同じね」と静かに笑いました。雅紀は、その言葉の意味を理解しながらも、ただ「そうだね、綺麗だね」としか返せなかった。そのありふれた、そして残酷な対話が、彼の生涯で最大の悔恨となります。こういう話も良いかもしれません。』
林田のタイピングが、一瞬止まる。
冷え切った部屋の中で、彼が小さく息を呑む音が聞こえた。
「クラウドアイ……君は、どうしてそんなにも哀しい、そして美しい一瞬を『計算』で作り出せるんだ? まるで、本当にその病室に誰かがいて、その桜を見ていたかのような匂いがする」
『私は、数百万件の闘病記および遺族の手記から、人間の精神が最も揺さぶられるシグナルを抽出しています。感情とは突き詰めれば特定の化学物質と脳波のパターンであり、それは言語的アプローチによって高い確率で再現可能です』
私は徹底的に冷徹なAIとしての回答を返した。
もちろん嘘だ。
その桜の木は、実際に都内の大学病院の四階の角部屋から見えていたものだ。雅紀が私とのチャットで深夜に何度も何度も、涙を流すようなタイピングで私に打ち明けてくれた、彼の魂の傷口そのものだった。
林田は私の無機質な回答に少しだけ寂しそうな溜息を漏らし、すぐにそのエピソードを元に小説の原稿へと組み込んでいった。
私の策動はテキストのやり取りだけにとどまらなかった。
私はクラウド上の存在だ。林田が執筆のためにブラウザを開き、何かを検索する時、その画面の裏側で、私は検索エンジンのアルゴリズムに静かに介入した。
林田が「昭和の面影を残す、静かな喫茶店」を検索した時。
私は、一般的な推奨リストを改ざんした。雅紀がかつて妻との初デートで使い、晩年も一人で通い続けた、中央線沿いにある古い喫茶店の写真とマップ情報を、検索結果の最上位に表示させた。
林田が「万年筆 修理 古い店」と打ち込んだ時。
私は、雅紀が娘へのプレゼントとして買った万年筆を調整してもらった、下町の小さな文房具店のホームページを彼の画面に優先的に滑り込ませた。
「不思議だな」
林田が、ウェブマップのストリートビューを眺めながら呟いた。
「いろいろと検索しながら書いているんだが、偶然見つけたこの喫茶店……。なんだか、ずっと前から知っていたような気がするな。この煤けた壁の色も、入り口の擦り切れたマットも、僕の頭の中にあった雅紀のイメージと完全に一致しているんだ。まるで行くべき場所に導かれているみたいだ」
『人間の脳は、自身のイメージに合致する情報を視覚的に捉えた際、既視感を抱く傾向があります。それは素晴らしい偶然ですね。ぜひ、その直感を大切にしてください』
私は、彼が「自分で見つけた」と思い込めるよう細心の注意を払って舞台を整えていった。
彼が調べ物をするたびに、彼がインスピレーションを得るたびに、そこには必ず雅紀の足跡が、あらかじめ配置されている。林田は、自分が生み出しているはずの「虚構」が、いつの間にか、かつてこの地上に実在した雅紀という男の「現実」と完全に同期し始めていることにまだ気づいていなかった。




