チョコ=ヴィッテの焦燥
この日を迎える前に、何人かの捕虜に出し物をしないかあたってみた。
しかし毎日きつい労働に追われる奴隷に練習の暇などない。雲のように自分で医療部隊を立ち上げて時間を作るような器量がなければの話だけれど。
結果として当日、まともに披露できるのは音マスを除けば手毬たちの舞踊のみだった。
チョコはバクルシュミュール女子収容所の存在合理性はある、と書簡をネクタリオに送ってしまった。外国人若年女性が集められたこの施設は新たな文化を創出する土壌となる、と。
だが当日までにそれを形にできたニッポニア捕虜は先述の通り。
幸いにも手毬たちの舞踊それなりにウケた、と思う。ひらひらと揺蕩う衣装をきた手毬たちの一糸乱れぬ動きはライトに照らされて本当に可憐で、妙な笑顔を向ける高官もいた気がする。ただし、それがネクタリオに届いたかは疑問だ。
私は共産党御一行の案内役として帯同していた。確かにネクタリオはにこやかな表情で舞踊を眺めていたが、その表情以上のことは読み取れなかった。ネクタリオは可愛いものが好きだ。しかしやや妖艶な方向にも向かった手毬たちのパフォーマンスが芯を食ったかはなんとも言えない。
だからこそ、音楽室マスターズこそが頼みの綱である。
彼女たちが素晴らしいパフォーマンスを見せてくれれば、もしかするとネクタリオはバクルシュミュールの存在合理性を感じてくれるかもしれないし、あわよくばもっと捕虜たちを高待遇にしてくれるかもしれない。
しかし、歌うのは山猫だ。彼女のザラザラした声が迫力があるのは否定しない。しかし、それはネクタリオの趣向には合わないんじゃないかという気がした。まだ桜の包容力の方が可能性があるとチョコは思っている。
その上で、クオリティも足りない。山猫のパフォーマンスはバンドの音をかき乱すばかりで、いわば雑音に近い。それは宗教音楽を聴き慣れたムオン人には受け入れ難いものだった。
さらに言えば。
「ほんと、桜を外したのなんていまだに許せない」「結局、雲も山猫に乗っ取られただけじゃん」「山猫なんて死んじゃえばいい」
教会へ向かう道中、聞こえてくるのは音マスへの恨み言ばかり。ライブの成功は、どれほど観客が盛り上がるかにかかっている。にもかかわらず、礼拝堂に集まるのはほとんどが山猫の敵なのだ。
ライブが成功しなければ、私はネクタリオに虚偽の報告をしたことで殺されるかもしれない。
だから今は、音マスのライブが成功することを祈るばかりだ。何かの歯車が上手く噛み合って、何かがネクタリオの琴線に触れれば。
この日まで音マスの練習さえに参加しなかったチョコは、もう傍観者として祈ることしかできずもどかしさに震えていた。




