二ノ幕
夏の陽がひときわ高いところから、乾燥した眩い日差しを地面に容赦なく照らし出していた頃。四人の年端もいかぬ童らが西の山の麓にある大木の陰に集まり、周りの熱を凌ぎながら、ひそひそ話を進めていた。
「しかし、山に行くとは言っても、どうしたら『もののけ』に会えるんだ? やみくもに進んでも意味がないぞ」
そう言って、経桐は鈍い黄土色をした衣の袖を、汗で濡れた自身の額へと持っていく。それを聞いた国松が、右手で湿った髪を掻きながら応える。
「ああ、それなら大体見当はつけてある」
うっすらと微笑を浮かべた国松の顔が、ある一点へと向けられた。時継たちも、彼の目線の先にあるものを追いかける。
そこには、神社へと続く石段があった。国松が、その一点のみを見据えながら続ける。
「まずはあの石段を上って、神社に行く。それから、神社のお堂の裏手にある小さな道を通る。そこを進んで……」
口をゆっくりと動かしながら、国松は右手の人差し指を山のあちこちへと忙しなく向けていく。
「少し行ったところに『御霊石』という石がある。何でも、もののけはそこに出るらしい。今日は、その御霊石をみんなで見張って、奴が現れるかどうかを確かめる!」
そう言って、国松はぱん、と軽く両手を叩いた。今の彼の勢いだと、もしかしたらもののけと戦っても勝てるかもしれない。ほんの一瞬でもそう思わせるほどの余裕が、眼前の黄ばんだ衣を纏う少年の表情に滲み出ているように、時継には感じられた。
「よく調べたね」
国松の顔に目を向けたまま、菖蒲が感嘆したような、呆れたかのような様子で口にする。その一言を聞いた国松は、目を輝かせて答える。
「ああ、夕べおっ父にやっとの思いで聞いたのさ。なかなか口を割らなくて大変だったんだぜ」
国松は、左手の人差し指で鼻の頭を擦りながら、白い歯を見せて笑った。すごいな。経桐が漏らした言葉に、時継は心の中で同調する。時継自身も昨夜、名主である父に西の山についての情報を得ようとしても、黙秘を貫いていたのだ。その代わり、その時々で言い回しが少し異なってはいたものの、時継の父は厳しい面持ちで、決まって同じ台詞を口にしていた。
――時継。西の山には、決して近づこうとするんじゃねえぞ。あそこは、俺たちとは違う世界で暮らす神サマ仏サマのもんだ。いたずらに興味を持つんじゃない。バチが当たるぞ。
ふん。時継は、そんな父の言葉を否定するように、鼻から大きく息を吐く。神サマだとか仏サマだとかはみんな、ちっとも姿が見えないにも関わらず、決まって自分たちを罰という言葉で脅かしてくる。別段何をしてくるわけでもない彼らを、家族は無条件に信じて受け入れているけど、おれは騙されないぞ。時継が心の隅っこで、誰に言うわけでもなく呟いているその一方で、国松の苦労話が大仰な身振りも交えつつ披露されていた。
「でさ、おっ父が話の間にいちいち『御霊石に近づいてはならん!』ってしつこくて。今朝もこうして、遊びに出ようとしたらおっ父に感付かれそうになって大変だったよ」
そうか、そりゃお疲れさま。経桐が労いの言葉をかけるのに対して、菖蒲だけはそう、と一言だけ呟いた。
二人の少年と少女との間にある温度差が、やがて場全体に沈黙をもたらす。そのまま数拍ほどの間をおいて、最初に口火を切ったのは経桐だった。彼は、時継へと顔を向け、声を少し潜ませる。
「なあ、時継も菖蒲に何か言ってやれよ。最初の言い出しっぺのお前が浮かない顔してちゃ、先が思いやられるだろう」
「えっ?」
経桐の言葉に、時継は思わず声を裏返らせた。彼としてはそんなつもりは毛頭なかったのだが、眼前の友人にはそう映らなかったのか。時継が自分の頬に手を当てる。ほのかに熱を発している汗の感覚を感じ取っていると、経桐が口元に笑みを浮かべながら、小声で畳み掛けてきた。
「まさかお前、今になって怖じ気づいたとか言わないよな。名主の子なのに」
「ば、ばかやろう。そんなわけあるかっ」
時継が、声を張り上げて反論する。そんな彼の顔は、頭のてっぺんからあごの先に至るまで、真っ赤に染まっていた。
「そんなことより、話もまとまったことだし、とっとと行こうぜ」
言い終わるやいなや、時継はひとり神社の石段へと歩を進める。広い木陰から一歩足を踏み出すと同時に、白い日差しが彼の目に差し込み、ほどなく全身を熱し始めた。少年は、強く瞼を閉じて、こめかみを伝う汗を半ばうっとうしげに袖口で拭い去る。そのまま、時継はちらと顔だけを後方へと向け、同い年の三人の仲間へと呼びかけた。
「おうい、行かねえのか」
時継の言葉を受け、国松と経桐はおう、と一言答えて、早歩きで彼の後をついて来る。続いて、菖蒲もまた三人の後に続くかのようにゆっくりと歩き出した。彼女の表情は、依然として浮かないままだ。
その様子を満足げに目にしていた時継の心中は、朝方見た夢に対する奇妙な不安でいっぱいであった。だけど、おれだって男子だ。名主の息子なんだ。恐れることはない。そう自分に言い聞かせながら、時継は再び神社の石段へと向かっていった。
*****
山中の杉や松、椚の葉が、夏の陽の光を受けて青々と生い茂る。これら一本一本は、微妙に色の異なる枝葉を空へと向けており、所どころに皹の入った堅い幹は、まるでそれぞれの樹の齢の長さを物語っているかのようだ。そうして連なる木々が生み出した影に沿って、時継たち四人は麓から神社へと続く石段を歩いていた。
不揃いに整えられた石段を構成する大小さまざまな形をした石は、あるものは角がごっそりと欠け、またあるものは青緑色の苔が一面にびっしりと付いている。自然による造形が形作るいびつな光景を前に、時継の脳裏で昨夜の夢の内容がゆっくりと、鮮明に再現されていく。
夢で見た男は、石段の石と特徴のよく似た岩の上に立ち、どこにでもある山吹色の法衣を羽織っていた。さらに、頭は亡くなった和尚のそれと同じく、きれいに剃り上げられていた。もしかしたらあの男は、経桐が口にした帝のもののけだったのだろうか。ふと思った時継は、これまで両親をはじめさまざまな人が噂話で口にしていたことを思い起こし、まだ見ぬ平安京の貌を思い浮かべる。
帝や貴族、そして平家一門が行き交う朱雀大路や六波羅。千体もの仏があるという蓮華王院本堂。想像も追いつかないほどの贅沢の数々が、十歳の少年の頭の中で際限なく展開されていく。それと併せて、時継は疑問も感じていた。彼の思いつく限りの贅沢を並べた中でも、特に帝は、宮中の貴族よりもはるかに華美な衣装を纏っているのだ。そんな帝なら、わざわざ庶民の着物を着ることもないだろう。
だとすれば、あの男はいったい何者だったのか。呼び起こされる疑問が、時継の中で大きく膨らんだときだった。
「ねえ、時継」
不意に声をかけられ、時継は勢いよく声のした方を振り返る。見ると、数段下を歩いている菖蒲が、彼の顔をじっと見つめていた。その様子を見て、少年は安堵の溜息とともに口にする。
「なんだ、菖蒲か」
「『なんだ』って何よ。小さい頃からの幼なじみに向かって」
菖蒲が不機嫌そうに目を逸らすのを見て、時継はばつが悪いといった調子で返す。
「悪かったよ、考え事してたんだ。それで、何だよ急に」
「今からでも山を下りない?」
「何をいまさら」
時継は、眼下の少女へと向かって声を張り上げながら、ちらと上へと視線を動かす。国松と経桐は、自分たち二人を置いてわれ先にと、先へ先へと進んでいる。そして、あらためて菖蒲へと顔を向けた時継は、幼子を宥めるかのような口調で続けた。
「ここまで来たら、もう後戻りはできないぜ。とことん行けるところまで行くしかないだろう」
「でも、これ以上は――」
「『もののけに祟られる』か?」
菖蒲の発言を遮り、時継は彼女が言わんとしていた言葉を口にした。それを聞いた菖蒲は、思わず身体を小さく震わせる。
「祟りだなんて、あほらしい。そんなものあるわけないだろ。あんなの、大人がおれたち子どもを従わせるためだけに作り出した、下らない迷信だよ」
「どうして、時継はそう思うの?」
「それは……」
時継は、その場で少し考え込む。やがて、彼はゆっくりと言葉を選び取るように口を動かした。
刹那、時継の脳裏に今回の冒険に反対する父の表情が浮かび、眼前の少女の顔と重なった。少年は、思わず言葉に詰まりそうになる衝動をぐっと抑えこむ。これは幻だ。実際に、おれの前にいるのは菖蒲だ。父上ではない――そう自分に言い聞かせながら、時継は臆する素振りを見せず、はっきりと喋り始める。
「おれは、いつまでも子どもではないという証を、父上たちに示したい。そのためには、おれ自身が強いんだってことを示さないと」
――時継。西の山には、決して近づこうとするんじゃねえぞ。
少年の頭の中で、昨日父が言った言葉が何度も木霊する。まるで、自分の発言を根底から否定されているような気分だ。それに負けじと、時継はさらに言葉を重ねる。
「だから、おれは皆が口々に噂するもののけとやらにも、負けたくはない。何をするか分かったもんじゃない怪異相手に黙って指をくわえて見てるだなんて、ごめんだ」
――いたずらに興味を持つんじゃない。バチが当たるぞ。
ぼんやりとしてきた幻の顔が、容赦なく鋭い視線を投げかける。うるさい、静かにしていろ。時継は、心の内でそれを牽制しながら、なおも喋るのを止めなかった。彼の全身から、滝のごとく汗が噴出する。
「おれだって、この村の名主の男子……いずれは、村の皆をまとめる人間になるんだ。罰なんてもん、いちいち恐れていたら。強くは、なれない」
そこまで言って、時継は瞼を閉じ、汗でしとどになった額を右手の平でさっと拭い取った。手のひらに、熱い滴の感覚が伝わってくる。汗が目の中に入ってこないように気をつけながら、時継が再びゆっくりと瞼を開けると、彼の父の幻は消え失せ、どこか悲しげな表情をした菖蒲の姿だけが映った。
「うん。時継の気持ち、何となく分かるよ。けれどわたしは、それでも祟りはあると思う。もののけや怪異とか、異形のものばかりじゃなくて、人間の心の弱さが時にそれを生み出すことだって、あるかもしれないから。だから」
「おーい! 時継、菖蒲! そんなところで何やってんだよ、早くこっち来いよー!」
国松の叫び声が、山中に響く。時継と菖蒲が揃って声のした方角へと顔を向けると、石段を上りきった先で、国松と経桐が両腕を勢いよく左右に揺らしていた。
「分かった、すぐ行くー!」
時継も、国松たちに負けじと大きな声で応じた。そのまま、彼は石段を素早く駆け上がる。数段ほど上がったところで、時継がちらと後方を見やると、菖蒲が何も言わずに少年の姿を見上げていた。
「行くぞ、菖蒲」
時継が、少女へと顔を向けて一言そう告げると、再び仲間を追いかけていった。
*****
百段近い急な石段を上りきると同時に、時継はその場で立ち止まり、肩で息をする。そんな彼の顔は、熱い汗が幾筋も伝い、天狗のように真っ赤になっていた。そんな時継に対し、国松が両手を組みながら追及する。
「遅いぞ時継。何やってんだ、まったく」
「ごめんごめん、悪かったって」
「おい、時継。菖蒲はどうしたんだよ」
経桐が訝しげに問いかける。時継と国松は、一瞬互いに顔を見合わせると、きょろきょろと辺りを見回した。確かに、自分たちの中で唯一の紅一点の姿だけが見当たらなかった。時継が、石段の方へと顔を向けようとしたとき、経桐が唇の端を引きつらせながら口にする。
「まさか、もののけの仕業だとか」
「ばか言うな」
時継がぴしゃりと、彼の言葉を退ける。右手で目元をかりかりと掻きながら、時継は二人の友へと向き直り、不愉快な様子で続けた。
「きっと、先に帰っちまったんだよ。何か乗り気じゃなかったからな、あいつ。これだから女は」
「時継、ちょっと言いすぎじゃ……」
「とにかく、おれたちだけでも行こうぜ。ここまで来たら、前へ進むのみだ」
時継はそう言って、国松と経桐の間に割って入るや否や、その先にある変わった風体をした鳥居を見上げた。赤黒く塗られたそれは、中央にある巨大な明神鳥居の両脇に、一回りほど小さな鳥居が添え付けられている。さらにその先には、まっすぐ伸びた石畳が続き、軒下に蔦が絡まった古い社が見て取れた。すると、国松が一度唾を飲み込んで、感嘆の溜息混じりに告げる。
「変わった鳥居だな。三つも合わさってる上に、この色……なんだか血みたいだ」
「気にするな、たまたまそういう鳥居なんだろ。とりあえずは、ここを潜っていこう」
「おう、そうだな」
三人は顔を見合わせて、ゆっくりとうなずく。そして、時継たちはほぼ同時に鳥居を潜った。
鳥居の先に広がる神社の境内は、石畳が敷かれているほかには草木が一面に茂るばかりで、長い間人が立ち入った形跡はまったく見られなかった。あちこちに立っている石灯籠にも大量の苔が自生し、何より境内の中央に置かれた小さなお堂は、壁や柱のいたる所で腐敗が進み、完全な廃屋となっている。
「こりゃまるで、神社というより森の一部といった感じだな」
時継が漏らした一言に、国松も同意するかのようにうなずいた。
「確かに。もしかしたら、ここはもうもののけの家になってたりして」
「まさか、仮にも神社だろ……おい」
不意に、時継が周囲を見回し始める。国松は、そんな彼の様子を目にして半ば興奮気味に尋ねる。
「どうしたんだ、まさか本当にもののけが出たのか」
「いや、違う。ただ」
時継が、真顔で国松の顔を見つめる。それと同時に、神社の境内一帯に、今が真夏とは思えないほど冷たい風が一陣ぴゅうと吹き付け、汗で濡れた少年らの髪を揺らした。
「経桐は、どこ行った……?」
ゆっくりと告げられた思わぬ一言に、国松もまた辺りを見渡す。そのまま四方八方を注意深く観察して、彼はようやく時継の言葉の意味を理解し、顔色が見る間に青く染まっていった。
確かに、いないのだ。
先ほどまで確かにいたもう一人の仲間――経桐の姿が、どこにも見当たらなかったのである。