第1話 憐れなネズミ
客から受け取った薄いクリーム色をした紙袋を軽く振ってみると、カサカサと軽い音がした。
うっすらと油染みがついた紙袋を覗き込めば、ふわりと甘い匂いが鼻先をくすぐって夏の暑い空気の中へと散っていく。
おいしそうな匂いだ。でも僕はそのいかにも食欲をそそる香りに、嫌な気配を感じて沈黙した。
中身は何の変哲もないクッキーである。丸やハートやスペードの形をしたオーソドックスな焼き菓子。
その真ん中に真っ赤なジャムが艶めいているのも、まあよく見る形。
だけど客からもらう差し入れとしては、ちょっと高価かもしれない。
うちは冒険者御用達の魔導具屋で、客の中には迷宮攻略で大成功して貴族も裸足で逃げ出すような金持ちもいる。でもうちの店自体は庶民向けだし、僕も店主のじいさんも、下級市民よりちょっとまし程度の金しか持ってないから万年金欠である。
いや、僕の金欠は雇用主のじいさんのせいだけど。
このバタークッキーは見るからにサクサクとしていて香ばしく、高級な材料が使われているとわかる。バターも砂糖も、中層階級以下の人間にとってはまだまだ高級品だ。
少なくとも、うちの国を含めて多くの国では高級品だと決められている。
商品の支払いはもう済んでいるし、それと一緒に売った僕の愛想代としては少しもらい過ぎだ。
僕は視線を紙袋から客へと戻した。
刺すように真っすぐ空から届く真夏の太陽光で、客は真緑色にブルンブルンしている。
大昔に勇者によってテイムされ、意思を持ち、そのまま勇者没後もこの迷宮都市ボアダムで市民権を買って住むスライム型の住人は、さっきから何かを期待するように僕を見ていた。
……――緑色のゼリーの塊の中に浮かんだ六つの眼球が血走っている。
僕は無言のまま口の端っこを吊り上げると、ひさしのある店先を出て、太陽の反射光で火傷しそうなほど暑い道を少しだけ歩く。
そして側溝の蓋の上に、紙袋を逆さまにしてクッキーをぶちまけた。
クッキーは側溝に溜まった煙草の吸い殻や何かの包み紙、虫の死骸や干からびた落ち葉と一緒にゴミになる。
スライム型住人、オッタヴィアーノさんの肩らしき部分がしょんぼりと落ちた。
「あー……すみません、手が滑りまして」
逆さにした紙袋を振って甘い匂いのする粉まで全部落とすと、僕の足元をちょろちょろと影が走り抜けていく。
頭が二つある双頭のネズミだ。ダブルヘッドラットと単純な名前で呼ばれる、都市部でありふれたネズミの魔物である。
ラットはこの暑いなか真っ黒な毛皮をくねらせて、僕がうっかり落としてしまったクッキーに突撃し、嬉々としてそれを手に取った。
文字通り降って湧いたご馳走に、クッキーの苺ジャムと同じような赤い目が二つの頭で輝いていて……――白目をむいた。
バタンと横に倒れたダブルヘッドラットは、時々ピクピクと痙攣しながら無防備に体をさらしている。
死んだわけではないようだ。意識はあるみたいだけれど、意思はなさそう。
あ、立派な門歯からよだれが。
「オッタヴィアーノさん?」
僕が常連客の名前を呼ぶと、緑色のスライムはドキッとしたように大きく震えた。
「クッキーに何か入ってたんでしょうかね? いやわかってますよ、まさかオッタヴィアーノさんが変な物を入れるわけないですし。適当な店で買ったクッキーなんでしょ?」
オッタヴィアーノさんの体の色がちょっとだけ発色が落ちて、また大きくブルンと震えた。
彼の体の中の目がひとつ、僕の足元に転がるネズミを見ている。
ネズミは時折、乱れた息遣いで喘いでいる。
「まさか勇者にそういう目的でテイムされたっていっても、もう最後の勇者が召喚されてからずいぶん経ちますし? そういう本能を抑え込んだからこそ、この迷宮都市ボアダムの市民権を認められたわけで、ね?」
ブルルルン。
「いやあよかったなあ、偶然手が滑っちゃって。僕が食べてたらと思うと怖いなあ。え? まさかそれを期待してたわけじゃないですよね? 魔物とはいえ真っ当で善良な住民であるオッタヴィアーノさんともあろう人が」
いやまじで。
なんでわざわざ色気もそっけもない普通の魔導具屋の店番に変なものを食わせようとしたのか。まあ一応僕も女だけれど。
とはいえもっと他にいたでしょ、そういうのにふさわしい見かけのやつが。
店のある通りをもう少し先に行けば世界一を誇る繁華街もあるのに、なんでこんな一般人にそんなもん渡したんだ。謎すぎる。
オッタヴィアーノさんはまるで冷や汗のように体の天辺から粘液をどろりと垂らして、ぶるぶると震えた。
けれどつつぅっと伸ばした触手を、喘ぎながら痙攣するダブルヘッドラットの体に巻き付けて持ち上げ、体の中に収納する。
ダブルヘッドラットは抵抗することもできずに真緑色のスライムの中に囚われて、血走った五つの目でじーっと観察されている。
勇者によってそういう目的に進化させられたと噂されているスライムの体の中は、どう見ても空気なんかなさそうなのに窒息もしない仕様のようだ。
憐れなネズミ。
まあでも、目の前に突如現れたおいしそうな餌へ、警戒心なく飛びついたほうが悪いのだ。
満腹というネズミにとってのささやかな幸せ――食欲が、それを上回る大きな欲に負けただけ。
誰かにとっての願いは人によっては強欲で、自分の幸せを願った裏では誰かが不幸になっている。よくある話だよね。
とりわけここ迷宮都市ボアダムは、誕生した時からそういう場所なんだからさ。
だけどもしかしたらそれはボアダムだけじゃなくて、この世界そのものが丸ごと願いと欲でできているのかもしれない。
世界征服に欲を出した魔王。その魔王の討伐と魔族の殲滅を願ったこの世界の人間と、そのために異世界のニホンという国から召喚された勇者たち。
勇者が魔王を倒し、魔族が全滅して百年くらい経ったけれど、僕らの生活基盤はその時に生きていたやつらの願いと欲で成り立っているのだから。
特に勇者たちの欲望は底なしだった。
彼らは上下水道を整備して、トイレを作った。
法を定めて、道を整え、世界中を旅できるようにした。ダンジョンを改造し、倒した魔物からお金が落ちるようにして全世界共通の貨幣を生んだ。
おいしい食事をするために広大な森を更地にして畑を作り、肉のために動物を狩りつくし、気軽に海を割って魚を獲って、温泉に入るために火山を削った。
そして僕の住むボアダム東地区には、おっぱいパブを作った。
特に僕の店周辺には、オッタヴィアーノさんみたいに勇者と直接関りがあった人たちが多く住んでいる。
だから勇者たちが蒔いた欲は枯れることがない。
いつの間にか庭に生えていたミントみたいに、今もまだこの世界に根を張って、繁殖し続けている。
そんなことを思いつつ、僕はこちらを向くオッタヴィアーノさんの六つの目のうちのひとつを見上げて、小さく首を傾げた。
己の欲に負けて、善良で温厚で真面目に働く僕に手を出した。
結果として欲の達成はできず、僕は無事だったけれど、商売の邪魔をしたツケは払ってもらわないとね。
「――で、追加で何買います?」
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