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冬来たりなば、春遠からじ  作者: ぽぽぽーん
1/2

前半


 小4のとき、遠い親戚の葬式で佐賀県に行ったことがある。

 オカンが結構落ち込んでた記憶があるから、あれはたぶん母方の親戚の葬式だったと思う。

「オジサンが亡くなったから、明日の朝から佐賀に遠出するよ。準備しといてね」

 悲しい顔してオカンがそう言った。

 しかし幼きおれは、悲しい顔したオカンのことなど何の其の。『遠出』という言葉だけでテンション爆上がり。オジサンが亡くなったというのにも関わらず、佐賀に行くことは、もうワクワク、ドキドキの旅行気分だった。

 まあ、それもしょうがないこと。小4の春休みはどこにも連れて行ってもらえなかったし。その亡くなったオジサンには、一度も会ったことなかったし。それに何より、あのときは、今よりおれはずっとガキで、『死』というものをあんまし理解できていなかったんだと思う。


 そんで翌日。朝早くから楽しみに向かった、佐賀県。

 旅行気分なんて、ポカーンとすぐにすっ飛ばされた。

 小さなおれが斎場でやることなんてあるわけもなく、ずっーと大人しく座ってるだけ。手に生えた産毛を全部抜くくらいには、超ヒマだった。

 3DSは持ってきてなかったし、年の近い子供はいなかったし、大人たちも知らない人ばっか。遊ぶ道具も、遊ぶ相手もいなかった。

 おまけに出てくる弁当も、精進料理。子供が好きなものなんて入ってなくて、あんまし美味しくなかった。

 せっかく学校サボれたのになあ。これじゃあ、学校行ってた方が100%ましだったわ。

 あ~あ、超ヒマ。退屈、退屈、退屈、退屈だ。

 ヒマという強敵と戦いながらも、初日はよく耐えていた方だと思う。


 そんで2日目。ついにヒマという強敵に屈したおれは、火葬を待ってる長い時間、火葬場から抜け出して、1人でコソッと遊びに出かけた。

 親父の目を盗むのは簡単だったが、オカンの目を盗むのは至難の業だった。


 やっとの思いで外に出て、だだっ広い駐車場を駆け抜ける。

 するとそこに見えたのは、田んぼ、田んぼ、田んぼ。あたりいっぱいに広がる緑々しい田んぼだった。

 たまに見るのはトラクターや、日向ぼっこするお爺ちゃんか、お婆ちゃん。

 おれは、綺麗な田舎の何もない道を、遊び場目指してひたすらに歩いた。


 しばらく歩くと、やっとぽつぽつと一軒家が見えてきた。

 ここまで暇つぶしに蹴ってきた石もだいぶ小さくなった気がする。石蹴りにも飽きたので、ここまで遊んできた石を遠くに蹴っ飛ばし、何かないかとあたりを見渡す。

「おおっ、見っけッ‼」

 すると、嬉しいことにそのときおれが1番待ち望んでいた遊び場、公園があった。

 2連のブランコと、青色の滑り台。そして、同じ学年くらいの子供の姿。

 住宅地のどこにでもありそうな風景ではあったが、このときのおれの目には、その公園が、遊園地のパレードくらいに輝いて見えた。


「見ろよ~、また泣き出した」

「ガイジンが泣いてるぅ」

「すぐに泣いたらダメなんだよぉ~」

「おもしろっ! でも、こいつもっと泣いたら、ヒュー、ヒュー、ゼー、ゼーって言い出して、もっとおもろくなるんだぜぇ」


 しかし近づいてみると、残念なことに子供たちは楽しい遊びはしていなかった。

 今考えても、クソだせぇーし、胸くそ悪い。

 俯きながら泣いている1人の女の子を、数人のクソガキどもが囲んでいた。

 女の子は、必死に我慢するように声を押し殺し、ぐすん、ぐすん、とすすり泣きしている。それをクソガキどもが悪戯して、揶揄って、嘲笑っていた。

 よくあるけど、よくない光景。

「なんだそれ。せっかく遊べると思ったのに……ああくそっ!」

 気づけばおれは、何の迷いもなく女の子を助けるためにと全速力で駆け出していた。

「うぉぉおおおおッ‼ オラッ‼」

 全速力で駆けた勢いのまま、女の子に悪戯しようとしているクソガキに、飛び蹴りを食らわせる。

「ぐへぇ」

 クソガキのひとりが、蛙がつぶれるような声を出してどんっと地べたに転がった。

「へ? ……た、たけしくん⁉」

「な、な、なに?」

「だ、だれだよ、お前⁉」

「————?」

 いきなり現れたおれの存在に、クソガキどもも、小さな女の子も、唖然としていた。

「あ? おれか? おれ様は正義のヒーローだッ! ヒーロー参上ッ‼」

 必殺の右ストレート。またもや他のクソガキが地べたに転がる。

「オカンが言ってたんだ。意味はわかんねぇーけど、目には目を、歯には歯を、そんでパンチにはパンチってな。くたばれッ、パーンチ!」

 すこし大人になった今なら間違いなく言えると思う。あのときは、どう考えてもおれが、1番のクソガキだった。


 クソガキどもは、泣きながら公園から走り去っていった。

 この場に残ったのは、1番のクソガキであるおれと、女の子だけ。

「……あ、あの、ありがとう」

 いつのまにか泣き止んだ女の子は、俯かせていた顔を上げて、おれにそう言った。

 見慣れない金髪に、目を惹く容姿。下からこちらを見つめる青い瞳は、涙で濡れたせいか、きらきらと輝いていた。

「————ッ」

 その子に見つめられることで、胸が高鳴り、顔が沸騰するほど熱くなっていく。

 このときのおれは、たぶん、いや、間違いなく。一目でこの女の子に心奪われていたんだと思う。

 それはいわゆる、一目惚れだった。

 だがそれでも、強がってしまうのがクソガキの性。

 おれはぶっきらぼうに口を開く。

「べつにお前のためじゃないッ。お前がやり返さないから、おれが代わりに、あいつらをボコボコにしてやっただけだ」

「そ、それでも、ありがとう。その……嬉しかったです」

 女の子は涙を拭って、笑顔を見せる。

 おれは照れくさそうにしながら、どこか気取ってふっと鼻を鳴らした。

「それにしても、なんであんなやつらと一緒にいたんだ? あの感じじゃ、いっつもいじめられてんだろ?」

 女の子はその質問に一瞬苦い笑みを浮かべる。

「その、わたし、体が弱いからいつもは、あんまりお家から出ないの。でもね、それは、よくないことなんだ。だって、わたしがお家にいて元気ないと、お母さん悲しい顔するから。だからね、なるべく元気な時は外に行くようにしてるの。『今日は外で友達と遊んできたよ』ってお母さんに話すとね、お母さん嬉しい顔するから」

 女の子は強がるような笑みを見せながら、一生懸命に話してくれた。

 しかし、おれは眉間に皺を寄せる。

「でも、それって嘘じゃん。だって、あいつら友達には見えねぇーし。それにあれは、遊んでたんじゃなくて、いじめられてただけじゃね? 良いことのように言ってるけど、お前、オカンに嘘ついて騙してるだけじゃん」

 デリカシーのないクソガキの発言。

 女の子は悲痛な顔して押し黙り、そっと顔を俯かせた。

 さすがにこのときは、これ言ったときしくったなと思った。

 おれはバツが悪そうに頭をかく。

「ったく、しょうがねえなあ。それじゃあ、おれがお前と友達になってやるよ」

「……えっ?」

 女の子は、ぱっと顔を上げる。

「おれが友達として、お前と遊んでやる。そしたら今日は、お前のオカンに嘘言わなくていいだろ?」

「……い、いいの? わたしと遊んで?」

「いいに決まってんだろ。よしっ、遊ぶぞっ! なんてったって、おれは今、くそヒマだからな」

 おれがそう言うと、女の子はどこか可笑しそうに笑いだす。

 それが無性に嬉しくて、つられたようにおれも笑った。


「ここにいた!」

 遊び始めようとしたそのとき、ハザードランプを焚く見慣れた軽自動車から、怒った顔のオカンが現れた。

「やべッ! オカンだッ!」

 オカンがおれに歩み寄る。

「いってぇ~」

 そしておれの頭に、固いげんこつを落とした。

「もうっ、あんたはほんとにっ。急にひとりでどっか行かないの。みんな心配したのよ」

「だって、くそヒマだったんだもん。しょうがねぇーだろ~」

「お葬式が楽しいわけないでしょ。ヒマでも我慢すんのよ」

 オカンは強い口調で言い聞かせるようにそう言う。

「これでも、がまんしてたんだよぉ~」

 おれは唇を尖らせながらそう返した。

 そんなおれの姿にオカンは呆れたようにため息を吐いて、女の子に視線を移した。

「ありがとうね、うちのバカの相手してくれて。いじわるされなかった?」

「い、いえ、そんなことないですっ」

 女の子は激しく頭を横に振って、慌てたように否定した。

「おいおい、オカン。おれは、そいつを助けてやったんだぜ。そいつがいじめられてたから、おれが代わりに、いじめてた奴らをボコボコにしてやったんだ。正義のヒーローみたいになっ! はははははっ‼」

 口を挟んで、どこか自慢げに言うおれ。そんなおれの頭にオカンは再度げんこつを落とした。

「いってぇ~、なにすんだよッ」

「あんたまた暴力振るったの?」

「オカンが言ったんじゃん。目には目を、歯には歯を、パンチされたら、パンチしなさいって」

「まったく。ほんと余計なこと言ったわ、昔の私」

 オカンは頭を抱えながらそう言って、三度おれの頭にげんこつをした。

「いってぇ~。だから、なにすんだよッ!」

「目には目を、歯には歯をなら、暴力振るったあんたも報いを受けないと」

「それなら、おれにげんこつした、オカンも報い受けないとだろ」

「私はいいのよ、オカンだから。ほらっ、帰るよ」

 オカンはそう言って、おれの手を強く引く。

「待って。こいつと今から遊ぶ約束したんだ。だから、まだ帰らない」

 しかし、おれは動かなかった。

「なに言ってんのよ、だめよ。あんたは遊びにきたんじゃなくて、オジサンの葬式で来てんの。それにもう遅いから」

 たしかにもうだいぶ前に、5時のチャイムが鳴っていた。

「でも……約束が……。まだ、帰らない」

 動かないおれに対して、オカンの顔がどんどん険しくなっていく。

「でも……」

 それでもおれは引き下がらなかった。

 鬼の顔したオカンは深いため息を吐く。そして表情を崩し、根負けしたように肩をすくめた。

「分かった、分かった。今日までオバさんに泊まらせてもらうようにお願いするから。明日、また遊びなさい。それならいいでしょ」

 オカンのその言葉でおれは、ぱあっと表情を輝かせた。

「おっしゃー、さすがオカンっ! わかってるぅ~」

「ほんっと、調子のいいこと」

 オカンは呆れ顔で、おれの頭をポンポンと優しく叩いた。

「てことになったんだけど、お前、明日遊べるかッ⁉」

「……もちろん、遊べるけど。あの、その……ほんとに、いいの?」

 女の子は不安げな様子で、おれの顔色を伺う。

「いいに決まってんだろっ! 逆になんでダメなんだよ。明日は、友達として一緒に遊ぶぞっ、いいなッ⁉」

「うんっ!」

 おれの有無を言わさぬ態度に、女の子は嬉しそうに頷いた。

「よっし。じゃあ、明日ここに、9時集合なっ!」

「うんっ、わかった! わたし、友達と約束して遊ぶの初めてなんだぁ。楽しみぃ~」

 女の子はさっきまで泣いていたことが嘘だったかのように、元気な笑みを見せてくれる。

 おれはその笑みにドキッっとして、なんだか叫びたいくらい嬉しくなった。


「じゃあ、今日は帰るな。またなっ!」

「あっ、待って!」

「ん?」

 カッコつけながら別れを告げ、颯爽と走り出したおれを、女の子が大声で呼び止めた。

「あの、お名前教えて。あなたのお名前っ!」

「じんだよ、じんっ!」

「そっか、じん君! ありがとうっ!」

「君付けはカッコ悪いから、じんでいいよ」

「わかったっ! バイバイ、じんっ! また、明日ねっ‼」

「ああ、また明日なッ!」


 こうしておれと、あの子はここで別れた。『また明日』と言い合いながら。



 その日の夜は、ワクワクしながら、眠りについた気がする。

 早くあの子に会いたいなって。会いたいなって思いながら。

 ああ、そうだ。ドキドキしすぎて、なかなか寝付けなかったんだ。

 

 ————でも次の日。いつまで待っても、公園に女の子が来ることはなかった。

 おれとあの子が友達として、一緒に遊ぶという約束が果たされることはなかった。

「ほら、そろそろ帰るよ」

「でも、まだ……あいつ、来てない。だから、まだ帰らない」

いじけたおれの頭に、オカンのげんこつ。

「いってぇ~」

 おれは右手で頭を抑え、左手で涙を拭った。

「男が女に、約束をすっぽかされたくらいで泣かないの」

「ちげぇーよ。すっぽかされたから泣いてんじゃねぇよッ! これは、オカンのげんこつが痛かったから泣いてんだよ」

「はいはい、そうですかー」

 呆れた顔で笑うオカン。

「はははっ。あんたはこれでまたひとつ、大人になったね」

 そしてどこか嬉しそうにそう続けた。


 今考えれば、あれが俺の初恋と、初失恋だったな。

 そんで、今考えれば、オカンにげんこつされたのは、あのときが最後だったな。



 ————元気なオカンは、あっさり死んだ。




 5月半ばの日曜日。

 新学期が始まってから約一ヶ月半。ゴールデンウィークが終わったこの時期から、俺はひとり暮らしを始めることになった。

 

 小4の冬、オカンが死んだ。

 元々、身体はそこまで強い人ではなかったが、誰より元気な人だった。

 それでも、急に、あっさりと……。

 

 小さい頃から、俺の中でオカンの存在は大きくて、もう6年近く経っているのにそれは未だに変わらない。

 しかし、家族でオカンのことを引きずってるのはどうやら俺だけだったようで、親父は楽しく元気に、よろしくやっていたらしい。そんな親父は今年の4月、ちゃっかりと再婚した。

 再婚相手は、お堅そうな教育ママ的な人。

 親父にどうしてもとお願いされて、連れていかれた会食。初めて会った継母になるオバさんは、俺を見ておもしろいくらいに面食らっていた。

 まさか義理の息子になる俺が、金髪ヤンキーだとは思っていなかったんだろう。

 まあ、親父は、頼りなさそうで、どこにでもいる量産型のおっさんだからな。普通、息子がこんなんだとは思わないか。

 結局俺は、その会食で継母となるオバサンと一言も言葉を交わすことはなかった。

 そんで5月。そのオバさんが、我が家にいよいよ一緒に住むってなったとき、俺は親父から急にとある提案をされた。

「あ、あのさ、仁。君さえよかったら、ひとり暮らししてみないかい?」

きょどりながら、どこか申し訳なさそうに言う親父。

 いくらアホな俺でも、それが厄介払いされてるってことくらいは分かった。

 親父はどうやら、16年間家族やってた俺よりも、新しく家族になったオバサンを選んだらしい。

 まあ、そんなもんだ。俺と親父の間に絆なんてものはない。現に、俺も親父のことは、ATMくらいにしか思っていないしな。

 俺は二つ返事で承諾した。

 まあ、俺からしても、知らないオバさんに気を遣いながら過ごすより、勝手気ままなひとり暮らしの方がどう考えても性に合っている。それに突然決まったひとり暮らしは、案外楽しみだった。

 ひとり暮らしするアパートは親父がせっせと決めてくれた、12畳のワンルーム。広いロフトに、家具家電付き。親父曰く、すぐに生活できるくらいの設備は、充実して揃っているらしい。

 そんで今日、16年間育った家にさっさと別れを告げて、初めて新居となるアパートに足を向けた。


 アパートに向かう途中、スーパーで適当に2、3日分の食料と日用品を買いそろえる。

 そのスーパーからチャリ3分で、目的地であるアパートに辿り着いた。

 初めて訪れたアパートは、想像以上に綺麗だった。白い外壁で2階建ての木造アパート。見た感じ、築年数はたぶんそれほど経っていない。

 狭い駐輪場にクロスバイクを止め、外階段を上って角部屋の207号室に向かう。

 親父からもらった鍵をポケットから取り出し、それを回して扉を開けた。

「今日から、ひとりか……」

 中に入り、ひとりでに呟く。

 なにかを確認するかのように、いつのまにか口から出ていた。

 ……いやまあ、今までもずっとひとりみたいなもんだったが。

 親父は残業と、休日出勤というのを言い訳にしてなかなか家には帰ってこない。無駄に広い一軒家で、1人で飯食って、1人でダラダラして、1人でぐっすりと眠りにつく。それが俺の日常だった。

 だから、寂しいという感情は全くない。


「……ん?」

 部屋に入ると、変な違和感があった。


「……テレビがついてる?」

 なぜか扉を挟んだ部屋の向こうから、テレビの音が聞こえてきた。

 だ、誰だ。ま、まさか、泥棒かっ⁉ ……でも、こんな安アパートに? 

 ん? でも、待てよ。犯行中にテレビつけるなんて、そんなアホな泥棒がいるのか?

 いったい誰だ。ここに入るのは、親父ぐらい。でも、親父は今日は珍しく家にいた。

 いろんな考えが頭を巡る。

 スーパーの袋と引っ越しで持ってきた荷物を床に置き、右の拳を固く握る。

 ……よし、いくぞ。

 心の中でそう意気込んでから、ドアノブをゆっくり回し、勢いよく扉を開けた。

———バンッ!


「きゃっ‼」

 部屋の中に目を向けると、そこには、知らない女がソファーに座ってテレビを見ていた。  

 俺が勢いよく扉を開けたことで、大きな物音が立つ。女はその物音に気付いて、こちらを振り向き俺と目が合うと、猫のように瞳孔を開きながら悲鳴のような声を上げた。


 俺とは違う光り輝く本物の金髪。目鼻たちが整い均等のとれた、目を惹く綺麗な容姿。透き通った青い瞳。年は俺と同じくらいだとは思うが、どことなくあどけない。

 そしてなにより、その女には、幻想的で神秘的な雰囲気が感じられた。


 ……いや、まじで誰だよ。

 5月の半ばのこの時期に、俺の顔からは大粒の汗が垂れた。


「誰だよ、お前?」

 固く握った拳を開きながらも、警戒は解かずにその女に尋ねる。

「そ、そっちこそ、だ、誰ですかっ⁉」

 女は怯えた表情をしながらも、強い口調でそう訊き返してきた。

「俺は、仁。比山仁だッ。そんで、今日からこの部屋の住人だよッ‼」

 ……ん? いや、ちょっと待て。もしかしたら俺が部屋、間違っているのか……?

 堂々と名前を名乗りながらも、その考えが頭をよぎる。

 だ、だとしたら、俺、不法侵入じゃねぇかっ。

 そう思った俺は、女の反応を待たずして、駆け足で外に出た。

 

 扉についた、部屋番号のプレートを見る。

————207号

「ん? あってるじゃねぇかよ」

 借りた部屋は間違いなくここ。

 そっか。俺はさっき親父にもらった鍵でここの扉を開けた。部屋を間違っているわけがない。

 じゃあ、なんであの女はこの部屋にいる? 

 頭をフル回転させ考える。

 あっ、もしかして不動産屋が、俺とあの女でこの部屋を間違って、二重契約してるとかか?

 親父が借りてきたアパートだ。ありえなくはない。あの親父は、結構ポンコツだからな。

 よし、確かめよう。

 そうと決まれば、不動産屋に問い合わせるため、親父から教えてもらった番号に電話をかける。

 これで二重契約だったらブチギレてやろう。そんで詫びとして、めっちゃいい部屋、クソ安くして貸してもらおう。

 トゥルルルルという呼び出し音が鳴る。

「はい、三田川不動産です」

 ワンコールで電話に出た。

「あ、もしもし。今日からレジュール207号で世話になる、比山ですけど」

「はい、比山様ですね。どうされました? お部屋に不備などありましたでしょうか?」

 不動産屋は事務的な態度で、淡々とそう尋ねてきた。

「不備も文句も部屋にはないんすけど。この207号室、二重契約になってないすか?」

「はあ?」

 俺がそう訊くと、事務的な態度を取っていた不動産屋は何を言っているんだと言わんばかりの声を上げた。

 刹那の沈黙……。

「あの、そのようなことはございませんよ。レジュールの207号の入居者様は、比山仁様のみとこちらではなっております」

 不動産屋は、どこか冷たい声でそう答えた。

……あれ。どうやら二重契約ではなかったようだ。

「そ、そうっすか……じゃあ、いいです。お疲れした」

「はあ。では失礼しますね」

 唖然としながら俺がそう言うと、呆れた態度で不動産屋は電話を切った。

 

 ……じゃあ、あいつは、まじでなんなんだよ。


 再び、中に入る。

 テレビを消して、大人しく座っている女。

 俺はその女に改めて訊いた。

「で、まじで誰だよ、お前ッ⁉」

 慌ただしく部屋に戻ってきた俺に対して、女は眉根を寄せる。

「ほんと、ひとりでドタバタ慌ただしいですっ」

 その女は軽くため息を吐いてから、名前を名乗った。

「エマ。私はエマです」

 ……エマ?

 それは、見た目通りの名前だった。

 しかし、今はそれよりだ。

「ここは俺の部屋だ。てめぇ、不法侵入だぞ」

 俺は問い詰めるようにそう言う。

「不法侵入? 私、別に不法に侵入なんてしていません」

 しかしエマは悪びれもなく、堂々とした態度でそう返してきた。

 なんだこいつは、ぬけぬけと。なめてんな。

「こっちはさっき不動産屋にも確認した。間違いなくここは俺の部屋だ。てめぇ、出て行かねえと、警察呼ぶぞッ」

「……そうですか。でも、警察を呼んでも無駄だと思います」

 パンピーが一番ビビる『警察を呼ぶぞ』という言葉に対しても、エマは態度を変えなかった。

「はあ? 無駄だと?」

 俺が強めの口調でそう言うも、エマはあっけらかんとした様子で立ち上がり、部屋の隅に置かれてある大きな姿見の前に移動した。


「なッ⁉」

 俺は本気で驚いて、大きな声を上げる。

 だってそれは、現実ではありえないことが起きていたから。


 ————どこにでもある大きな姿見は、エマのことを映してはいなかった。


「だって私、幽霊ですもん」


 俺の新居のアパートには、広いロフトに、家具家電だけでなく、幽霊までがついていた。


「……ゆ、ゆうれいッ⁉」

 なんで幽霊が俺のアパートに住み着いてんだよっ‼

 しかも、死んだオカンならまだしも、なんで知らない女が化けて出てくんだよ。

 俺は思わず頭を抱える。

 もしかして、ここは所謂、いわくつき物件ってやつなのか……。

「じゃあお前は、地縛霊?」

 その考えに至った俺は、エマにそう尋ねる。

 もしそうならば最悪だ。いや、もう幽霊がいる時点で最悪なのか。

 いわくつき物件を借りてきた親父を殴りてぇ。不動産屋も殴りてぇ。

 しかし、エマは俺の予想に反して、首を横に振った。

「うんん、ちがいます」

 エマはそう否定して、冷蔵庫にマグネットで貼ってあった『熊本市 家庭ごみ出しカレンダー』を指さす。

「ここ熊本県ですよね? 私は佐賀県出身。それに、私の最後の記憶は、佐賀の病院のベットの上です。べつにこの土地のことなんて知りません……だから私は、地縛霊なんかじゃないと……思います」

 エマは両膝を抱えながら、静かにソファーに腰かけた。

「じゃあなにもんだよ。なんでここにいるんだよ」

 俺は冷静な態度を装って腕組しながら尋ねると、エマは俯くように、抱えた両膝に顔をうずめた。

「私も、なんでこんなとこにいるかなんて分かんないですよぉ。だって、気づいたらここにいたんだもん」

 

 目の前で落ち込んでいる幽霊。生きてるみたいにへこんでる。

 その幽霊は儚げではあったが、俺はどうしてもこいつが幽霊には見えなかった。


 ぐうううー。ここで、空気を読まない音が鳴る。

 しかも、エマから。

「……幽霊でも腹は減るんだな」

 俺がそう呟くと、エマは恥ずかしそうに、より深く顔をうずめた。

 時間は17時。そろそろ夕食時だ。

 たしかに今、普通ではありえない、異常でおかしなことが起きている。

なぜ幽霊であるエマが、霊感があるわけでもない俺に見えるのか? なぜエマは知らない土地の、しかもこんなアパートに現れたのか? 他にもいろいろ。ほんとは考えなきゃいけないことがたくさんある。

 でも。それでも、腹が減ったら飯を食う。考えることなんてその後でいいし、正直今は、

めんどくせえ。

 俺はエマの前にしゃがんで口を開く。

「よしっ、とりあえず飯食うか。お前も食うだろ?」

 すると、エマはゆっくりと顔を上げて、俺と視線を合わせた。

「……食べ、ます」

「おまえ、好きな食べ物は?」

「……ミックスゼリー」

エマの弱々しい『ミックスゼリー』。

なんだそれ。好きな食べ物を、ミックスゼリーって言うやつなんかいるんだな。

 しかし、ほんとにちょうどいい。

 俺はスーパーの袋の中から、たまたま買った『ごろっとミックス くだもの増量』とフタに書かれたゼリーを取り出した。

 いつもはゼリーなんて買わないが、なんか今日はたまたま目に入って、なんとなくだが買ってしまった。

「ほらっ、良かったな。ちょうど買ってあるぜ。腹減ったな。さっさと飯、食おうぜ」

「……う、うん」

 幽霊であるくせにエマは遠慮したようにそう返事した。


 俺とエマは、食卓につく。

 俺の前には、焼き肉弁当。エマの前には、おにぎり2つと、ミックスゼリー。

 一緒に『いただきます』と言ってから、俺らは夕飯を食べ始めた。

エマはおにぎりのフィルムを器用に破りながら、口を開く。

「比山さんって、」

「仁でいい。あと敬語もいらん」

「仁くんって、」

「きしょいから、君付けで呼ぶな。仁でいい」

「むぅー。仁って、なんか変わってるね」

「は? なんでだよ」

弁当のフタに貼り付けられたタレの封を手で破るが、なかなか上手く破れない。

やっとの思いで破れたと思ったら。勢いよくピュッと服に飛んだ。

 ああくそ。お気に入りの白Tなのに。

 エマはそんな俺の様子を見てか、軽く頬を緩ませていた。

「だってふつう怖くて、幽霊なんかとごはん食べないよぉ」

「べつにお前のことなんか怖くねぇーよ」

 食い気味にそう返す。

『怖い』という言葉に、すぐ『怖くない』と返してしまうのは、しょうがねえこと。それに女から訊かれたらなおさらのことだった。

「なんで、怖くないの?」

「なんでって。……そんなの、お前はどっからどう見ても、悪い幽霊には見えないからな。なら、怖いわけがねえ。それに、見た目の怖さなら俺の方が勝ってる」

 首を傾げ、不思議そうな顔をしたエマ。

 べつにこいつを、同情する気も、慰める気も、かばう気もさらさらなかったが、俺はそう返した。

するとエマは、ふふふと声を漏らし、

「私も君のことなんか怖くないよ」

 と言ってきた。そして、どこかはしゃぐようにして、おにぎりにかぶりついた。

 ……なんだそれ。

 怖くないと言われるのは、なめられてるみたいで癪に障る。だが、少し、ほんの少しだけだが嬉しいとも思ってしまった。

 俺は小さくため息を吐き、気持ちを切り替えてから箸を持つ。

パサパサの肉を、カピカピのごはんと一緒に口に入れ、お茶を飲んでそれを流し込む。

 なんとなくだが添加物の味がする。これで570円。まあ、こんなもんか。

 俺は無言で箸を進め、弁当を食べ続けた。



 飯は食った、腹はふくれた。では、これからのことを話し合って、考え合わないと。

 エマは、ミックスゼリーとプラスチックのスプーンを手に持って、ソファーに座り、俺はその正面の地べたに胡坐をかいて座った。

「で、今後どうする」

 俺がそう切り出す。

しかしエマはそれに答えず、ゼリーのフタを中の汁がこぼれないようにゆっくりはがし、中身を見ると少しだけ顔を顰めた。

「……このミックスゼリー、さくらんぼ入ってない」

「は? 知らねぇーよ」

「私、ミックスゼリーは、さくらんぼが入っていないと、ミックスゼリーって認めてないんだよね」

「いや、知らん。まじでどうでもいいわ。今年のどうでもいい大賞受賞ものだわ」

「今年のって、まだ5月だよ。気が早いよぉ」

 エマはスプーンで白桃をすくって、口に入れる。そして、幸せそうに頬を緩ませた。

「美味しいぃ。ミックスゼリーさいこぉ」

「ミックスゼリーって認めてんじゃねぇかよ」

 俺は思わずため息を吐く。こいつはなんか、いろいろと緩そうだなと思った。

「で、今後どうする」

 俺は仕切りなおすようにして、再びそう切り出す。

 それに今度はエマは答えた。

「私、行く当てなんかないから。ここを出て行く気なんてさらさらないよ」

 はっきりとした主張。まあ、そりゃそうだ。

 でも、それは俺も同じ。

「俺も行く当てなんかねえよ。ここを出て行く気もさらさらねえ」

 だから俺もはっきりと主張した。

「仁は、私と違って生きてるんだし、どこにだって行けるでしょ?」

「いけねえよ。高校生舐めんな」

「そもそもなんで高校生が一人暮らし? 実家から学校が遠いとか?」

「いや……そんなことはない」

 親が再婚して、家から厄介払いされたとはさすがに言えない。

 俺が口籠っていると、エマは言葉を続ける。

「遠くないの? じゃあ、実家に戻ればいいじゃん」

「いやにきまってんだろ。だいたいこの部屋の主は俺だぞ。なんで俺が実家に戻らないといけねんだよ」

「反抗期してないで帰りなよ。それにこの部屋に先にいたのは私の方だから」

「反抗期なんてしてねえよッ。あと先にいたかどうかなんかも関係ないだろッ」

「関係あるよぉ。普通は早いもの勝ちでしょ?」

「普通って、まずお前の存在自体が普通じゃないだろうが幽霊。てか、さっさと成仏しろ」

「なによ。成仏って、それは今関係ない話じゃん。今から話し合うのは、ここにどっちが住むのかって話でしょ?」

「関係あるだろ」

「関係ないよ」

「あるだろ」

「ないよ」

「ある」

「ない」

「ある」

「ない」

 ……ダメだ、埒が明かない。


結局、話し合いは平行線のまま。俺もエマもお互い、一歩も引き下がらなかった。

しばらくの間、沈黙が流れている。部屋にはテレビの音のみが響いていた。

「ああ、どうすんだよまじで」

 俺は沈黙を破るようにそう呟く。

エマは、テレビを見ながらいまだにミックスゼリーをつついていた。

「てめえ、本気で考えてんのか? こっちはお前のせいで困ってんだぞ」

 俺は机の上にあったテレビのリモコンを手に取って、やや乱暴に電源を切った。

 テレビの音が消えて、完全に無音になる。

 エマは、ミックスゼリーのカップを机にドンッと強く置いて、俺を鋭く睨みながら口を開いた。

「そんなに怒んないでよっ! 私だって、あなたの迷惑になってるのは自覚してるよ。

……でも、私だってどうすればいいかなんて、わかんないよっ」

 ぽろぽろ、ぽろぽろ。エマの瞳から涙が流れる。

それはにわか雨のように強くなり、五月雨のようになかなか止むようには思えなかった。

「私はあの病院で、死んだと思った。もう目覚めることなんてないと思ってた……でも、目が覚めて。目が覚めたそこは知らない場所で。そして、死んでて、幽霊になってる。行く当てなんてない、なにをすればいいのかもわからない。私だって自分のことなのに、何にも分かんないんだよ。……わかんないんだよっ‼」

 エマは不安を爆発させたように、大粒の涙を流しながらそう叫んだ。

 澄んだ青い瞳から流れる涙は、キラリと光って見えて。エマはこんなに泣いてるのに、なんか綺麗だなって思ってしまった。

『女の子を泣かしたらダメでしょ』

 いつの日か、げんこつされながらオカンに言われたその言葉。

 ……それはきっと当たり前のことなんだと思う。

あーあ。せっかくの悠々自適、勝手気ままなお気楽一人暮らしライフが……。

 俺は頭をかいた。

「わかったよ。わかったから、もう泣くな」

 エマは服の袖で涙を拭う。それでも、すぐに涙が出てくる。

 ……幽霊でも泣くんだな。

「ほら、これで拭けよ」

 今日スーパーで買った箱ティッシュをエマに渡す。

 エマは、うんと頷いて、それを両手で受け取った。

「俺はここから出る気はねえ」

「……うん」

「で、お前は行く当てがねえ」

「……うん」

「なら、しょうがねえ。お前も住んでいいよ、この家に」

 俺は渋々そう言った。

「……いいの?」

 エマは涙目、しかも上目遣いでそう尋ねた。

「いいって言ってんだろ。その代わり条件があるからな」

「条件……?」

 やっと涙が止まったエマは、最後の涙をティッシュで拭って、そのまま鼻をチーンとかんだ。

「ああ。お前を住ませてやるのはいいが、お互い深く接触するのはなし。相互不干渉が条件だ」

 これが俺の最大の譲歩。

 いうなればこれは、2人暮らしではなくて、シェアハウス。

 家をシェアして使うだけで、プライバシーはしっかり守る。干渉しない、必要以上に関わらない。これならまだ、俺の思い描く、悠々自適で勝手気ままなお気楽一人暮らしライフが多少なりとも守られるだろう。

「……相互不干渉?」

「俺は勝手に暮らすから、お前も勝手にしろってことだ。わかったか、泣き虫幽霊」

 俺の言葉を受けたエマは、今まで泣いていたことを隠すように強がり始めた。

「……なにそれ。ふんっ。べつにこっちだってあなたに深くかかわる気なんてさらさらないし。仲良くするなんて、こっちから願い下げなんだからっ」

「ああ、それならちょうどいいな。必要以上に話しかけんなよ」

「話しかけないわよっ! そっちこそ、寝顔とか、お風呂とか覗かないでよっ!」

「ざっけんなッ、覗かねえよっ!」

 幽霊の寝顔も、裸も興味ないねッ。


 俺らはお互い顔を背けて、

「「ふんっ」」

 と、鼻を鳴らした。


こうして俺は、幽霊との奇妙なシェアハウスを始めることになった。


————チュン、チュン、チュン。

 外の電線がこの部屋から近いせいか、鳥のさえずりがうるさいくらいに聞こえてくる。

 鬱陶しい鳥の鳴き声で目が覚めた俺は、ゆっくりと体を起こしてタオルケットを捲り、うーんっと目一杯伸びをした。

 はあ~、良く寝た。体感10時間ぐらい寝たな。

 今日は珍しく体がすっきりしている。こんなの1年に1度あるかないかだ。


 昨夜はエマと長い時間、シェアハウスするにあたっていろいろ話し合った。ごはんに、お風呂に、着替えに、寝床のこと。それにエマに必要な生活必需品のことなどそのほか諸々。そんでふたりで、ドンキやニトリ、ユニクロとかで必要な物の買い出しもした。

 それで結局、眠りについたのは午前1時過ぎ。

 しかし今日は、昨日深夜に寝たというのにも関わらず、珍しくアラームが鳴る前に目が覚めた。

 やっぱり昨日一日はいろいろと濃かったからか、相当疲れてぐっすり寝ていたんだろう。

 たまには早く学校に行くのもありかと思い、寝床のソファーから俺は出た。

 ふと、壁掛け時計を見る。

 ……ん?

 ……んん?

 ……んんん?

「まじで10時間寝てんじゃねーかッ‼」

 時計の針は11時を指していた。

 ……な、なんで。

 毎日7時になるはずのスマホのアラーム音を聞いた記憶はない。

 アラームは毎日ちゃんとセットしているし、俺は絶対にアラームは切っていない。

 ということは……。

「おいっ、エマッ! てめえ、俺のスマホのアラーム勝手に切ったなッ!」

 エマがいるロフトに向かって、俺は大きな声を上げた。

「ん、なに?」

 エマはロフトから顔だけだし、昨日買ってやったヘッドフォンを耳から外した。

 貸してやったタブレットでなにか見ていたのだろうか。だが、今はそんなことどうでもいい。

 俺は今ブチギレだった。

「なに? じゃねーよ。てめえ、俺のスマホのアラーム勝手に切りやがったな」

「うん、切ったよぉ。うるさかったし」

 エマは悪びれた様子なく、あっさりと白状した。

「ざっけんなッ、こらッ! おかげで大遅刻じゃねーかッ!」

 11時ということは、ちょうど3限目の授業が始まった時刻だ。

 社長出勤にもほどがある。こんだけ寝坊したら、もうサボってしまってもいいか、という考えが頭をよぎるが、それはやめる。

 サボるならもっと、今日はサボるぞって感じで、堂々とサボりたかった。

「でも、仁、1回自分でアラーム止めてたよぉ」

 エマは不思議そうな顔して、だから私は悪くないと言わんばかりにそう口にした。

 だめだ。こいつはなにも分かっていない。

「俺は3回目のスヌーズで起きるのがルーティーンなんだよッ! だから、1回目のアラームは無意識で止めてんのッ!」

「知らないよぉ、そんなのぉ」

 俺の主張に、エマは呆れた顔でそう返した。

 む、む、むかつく。人を小馬鹿にするような顔しやがって。

「せめて、人のスマホのアラーム止めるときは、止めていいですかって、尋ねろよバカ幽霊ッ‼」

 俺は憤慨しながらそう言うも、エマは冷静に言葉を返す。

「昨日、仁が言ったんじゃん。必要以上に話しかけんなって」

 ……くっ。

「た、たしかに言ったけど。これは必要以上の話だろうがッ」

「はいはい、わかりました。ごめんなさーい、私が悪かったで~す。次から気をつけまーすぅ」

 エマは言葉の最後に、べぇーっと舌を出した。

 く、く、くそむかつく。……なんか負けた気分だ。まあ、負けてねえけどなッ‼

 チッ。まあいいや。

 これ以上エマにキレるのは時間の無駄な気がしたので、さっさと着替えて学校に行くため、俺は上下のスエットをその場で脱いだ。

「きゃっ!」

 するとエマから悲鳴が上がる。

「な、なにここで脱いでるのっ!」

 エマは両手で目許を隠しながらも、指の隙間からしっかりこっちを覗いていた。

 むっつりかよ。

 俺は気にせず着替えを続ける。

「きのう、着替えの場所話し合ったじゃんっ!」

 エマは大声でそう叫ぶ。だが、俺は無視。

 たしかに昨日、必ず着替えは脱衣所でするって、話し合いで決めた。

 でも、これはせめての反撃、いわゆる負け惜しみだった。まあ、負けてないけどなッ‼

 俺は脱ぎ終わったスエットを、ロフトにいるエマの顔に投げつける。

「ちょっ、な、なにっ⁉」

 エマはスエットを顔から外しながら、そう声を荒げた。

「あ、いたんだ。幽霊だから見えなかったわー」

「うそつき、変態っ」

 エマは俺に向かって、スエットを投げ返してきた。

 ふわふわと落下するスエット。それは簡単に片手でとれた。

「じゃあ、家主様は学校行ってくるから、大人しくしてろよっ」

「うっさい、ばーかぁ!」

 エマは顰めっ面でそう言って、ヘッドフォンを耳に戻した。

 俺はスエットを洗濯機に突っ込んでから、そそくさと家を出た。



 時間は、11時35分。

 だいぶぶっ飛ばしてきたおかげもあってか、予想より早く学校についた。

 クロスバイクをトタン屋根の駐輪場に止めて、昇降口から中に入る。

踵のつぶれたローファーを下駄箱にいれて、青色のラインが入った上履きを取り出す。

 誰もいない廊下は授業中ということもあってか、シーンと静まり返っていた。

 俺はその廊下を、大きな足音を立てながら、堂々と悪びれもなく歩いていく。ここでひそひそやっても、どうせ俺の評価なんて変わらないのだから。


 しばらく歩いて、2ー5の教室前で立ち止まった。

 月曜の3限って誰の授業だったかな。

 先公によっては遅刻に関して、とやかく言われることがないので、安パイな先公であることを願いながら、後ろの扉を開いた。


————ガラガラガラ

 引き戸を開く音は、意外に響く。

 一気に好奇な視線が集まった。教室中の奴らが、なにごとかとこちらを見てくる。

 だが奴らは、教室に入ってきたのが俺だと気づくと、それを冷ややかな視線に変えた。

『ああ、またこいつかよ』。『いい加減にしろよ』。『うざい』。『調子にのんな』。

 そんなこと言葉に出されなくても、ビシビシと伝わってくる。

 でも、そんなことは気にしない。気にしてられない。だっていつものことだから。

 俺は鈍感なふりをしながら堂々と歩いて、自分の席の椅子を引き、そこに深々と座り込んだ。

「おい、比山ッ! 今、何時だと思っているッ!」

 俺が席についた瞬間、教壇に立っているガタイのいい禿げ頭がそう怒鳴ってきた。

 げっ、最悪。よりによって西郷かよ。

 西郷は数学教師で、野球部の顧問で、生徒指導主任。古臭い昔ながらの熱血教師で、俺と同じくらい学校の嫌われ者だ。

 俺はため息を吐いてから、腕時計を見て時間を答える。

「11時38分」

 西郷は俺の態度が気に入らなかったようで、教科書をドンッと強く教卓に叩きつけた。

「なんだその態度はッ‼ いい加減にせんかッ、ほんとにお前はたるんどるッ」

「チッ」

 無意識に舌打ちが出た。

「お前には言いたいことが山ほどあるッ。放課後、生徒指導室に来いッ‼」

 西郷はそう言い終わると深いため息を吐き、再び授業に戻った。

 ……ああ、めんどくせえ。ほんっとについてねえな。

 俺はもやもやした感情を抱えながら、教科書も出さずに突っ伏して、退屈な授業を乗り過ごした。


 退屈な学校の1日がやっと終わり、憂鬱な放課後を迎える。

 西郷の呼び出しを無視して帰ろうかとも思ったが、帰った方が後々、余計に面倒になりそうだと思って、西郷が待つ生徒指導室に向かった。


 野球部のグラウンドを走る掛け声、吹奏楽部の楽器の音、演劇部の発声練習、ほかにもいろいろ。放課後のざわざわとした喧騒が学校中に広がる。

 みんな、なにかしらに熱中して、情熱やら、時間やら、なんやらを注ぎ込んで、青春という俺とは無縁な毎日を送っている。

 べつに、楽しそうとは思わない。羨ましいとは思わない。

 俺にはこのくらいがちょうどいいから。

 ざわざわとした喧騒の中、俺は無関心を装って廊下を歩いた。


 3階の隅にある、生徒指導室。

 ノックもせずに扉を開いた。

「ん?」

 キョロキョロと部屋を見渡すが、ラッキーなことに誰もいない。

 よしっ。これで、1度は生徒指導室に行ったが、誰もいなかったから帰った、という言い訳ができる。

 俺が家に帰ろうと踵を返したところで、ちょうどガラガラと扉が開いた。

 入ってきたのは、最悪なことに西郷だった。

「なんだ、比山。ちゃんと来てたのか。お前を呼びに教室まで行ったんだが、入れ違いになったみたいだな」

 西郷はそう言ってソファーに座る。

 俺はもう逃げられないことを悟ったので、西郷の対面にしぶしぶ腰かけた。

「帰った方が、後々面倒だと思ってな」

 俺は西郷とは目を合わせずに、足をトントンと揺らして貧乏ゆすりを始める。

 ……ああ、早く帰りてえ。

 西郷は俺の態度にため息を吐いて、丸太のような腕を組んだ。

「いいか、お前はもう2年生、来年は受験生だぞ。いい加減気持ちを入れ替えないといけない時期だ。服装は乱れ、頭髪は金髪。授業中は寝て過ごし、先生には舐めた態度を取る。そして今日は大遅刻だ。いつまでお前は、そんな無気力で、怠惰で無駄な学校生活を送り続ける気だ?」

 西郷は真剣な表情で諭すようにそう言ってきた。

 ああ、うざい。……わかってんだよ、そんなことくらい自分でも。

 ……でも、しょうがねえだろうが。

 俺は舌打ちをして、西郷を睨みつけながら言葉を返した。

「どんな学校生活を送ろうが俺の勝手だろうが」

「甘えるな。お前のその自分勝手さが周りに迷惑をかけていることに、いい加減気づかないか」

「俺がいつ、だれに迷惑かけてんだよ」

「学校のみんな、クラスのみんなだ。特にお前とよくいる、立花や小城には、よく迷惑をかけているではないか」

「あ? 俺がいつ、伊万里と、晴太に迷惑かけたよ」

 俺がそう言うと、西郷は再び深いため息を吐いた。

「立花と、小城はお前と違って優等生なんだぞ。お前と違ってな」

 西郷は『お前と違う』という言葉を強調してくる。

 それは、無性に腹が立った。

「あ? なにが言いたいんだよ?」

「あいつらが、不良のお前と一緒にいることで悪く見られてんだよ。それに、あの2人はいつもお前を心配している。『優等生』のあいつらが、『不良』のお前を心配してるんだぞ。十分、迷惑かけているだろうがッ」

 西郷は唾をまき散らしながら怒声を上げる。西郷の汚い唾は俺の顔まで飛んできた。

 きたねえな。あと、うるせえ。

 俺は顔を拭って唾を拭き、耳の穴を軽くほじった。

「べつにこっちから心配してくれとも、一緒にいてくれとも頼んだ覚えはねえよ」

「はあ。お前がそんな態度でいるとは、友人の2人が哀れだよ」

「チッ」

 俺が舌打ちをすると、西郷はガンッと机を蹴った。机は不快な音を出しながら、俺の膝に強くぶつかった。

 ……痛ぇな。まじでいらつく。

 俺は西郷を鋭く睨む。

 すると西郷は俺から視線を逸らし、俺のことを諦めたように肩をすくめた。

「もういい。お前になにを言っても無意味なことは分かった。今日はもう帰れ。お前に説教するのは時間の無駄だ」

 なんだよこいつ。お前が呼びだしたんだろうが。こっちこそ時間の無駄だわ。

 ああ、うざい。まじでだるいわ。

 俺はソファーから立って、カバンを肩にかける。

 そして、イライラをぶつけるようにして力一杯に扉を閉めた。

「はあ」

 ……最悪な1日だ。


 生徒指導室を出てから、昇降口に向かって廊下を歩く。

 前からは、同級生らしき男女の3人組が歩いてくる。

 すれ違いざま、そいつらはひそひそと話しながら白い目で俺を見てきた。

「うわっ。目つき悪っ」

「ほんと何で、あんなやつがうちの学校来てんだろうなあ。退学なれよな、クソヤンキー」

「それな。まじで学校の恥だろ。こんなやつと一緒にいるってことは、立花も小城も終わってんな」

 馬鹿どもは、楽しそうに笑い声をあげる。

 ……ひそひそ話しても、しっかりこっちは聞こえてんだよ。

「なんだコラッ! 文句があるならはっきり言えやッ‼」

 俺が鋭く睨みつけ、声を荒げてそう言うと、すぐに奴らは「ひっ」と声を上げながら俺から目を逸らして、慌てたように走り去っていった。

 陰キャのくせに絡んでくんなや。

 走り去るやつらの背中に向かって、中指でも立ててやろうかとも思ったが、冷静になって思いとどまる。ガキな自分を反省するように、俺の口からは自嘲するようなため息が漏れた。

「……陰キャなのは俺の方か」

 ジメジメしてる日陰者は、俺の方がぴったりだった。


 ……ほんと、いつのまにかこうなってた。

 ……こうなるつもりは、さらさらなかったのに。


 小さい頃は、自分は正義のヒーローになれる人間だと信じて疑わなかった。

 『みんなから認められ、みんなから慕われる』そんなヒーローになれると。

 だって、誰よりも足速かったし。誰よりもドッチボール上手かったし。喧嘩だって誰にも負けたことはなかった。それに世界の中心はいつもおれだったから。

 でも、それは大きな間違いで、ただのガキの思い込みだった。

 ……どうやら俺はヒーローの器じゃなかったらしい。

 ヒーローのパンチは、正義のパンチ。でも、俺のパンチは、ただの暴力だった。

 いつのまにか貼られた、『乱暴者』と『不良』のレッテルは、べったりと俺にこべりついて、なかなか剝がれそうにはなかった。

 気づけば、ヒーローから悪役にジョブチェンジだ。

 まあ、そんなもんだ。俺の人生なんて……。


 下駄箱にやや乱暴に上履きを入れ、踵のつぶれたローファーを取り出す。

 すると、ドンッと後ろから体当たりされた。

「ヤンキー、はっけーん!」

 腰あたりに強い衝撃が走る。

「痛ってぇーな」

 イラつきながら後ろを振り向くと、立花伊万里が、けたけたといたずらが成功した子供のように笑っていた。

 ああくそ。腰、痛ぇ。こいつはまじで加減を知らねえな。

 あまりの痛さに腰を押さえていると、彼女の隣にいた小城晴太が、心配した表情で尋ねてくる。

「大丈夫だった?」

「大丈夫じゃねーよ、めちゃめちゃ痛いわ」

「そっちじゃなくて、西郷先生のお説教の方」

 腰をさすりながらそう返すと、晴太は小さく微笑んだ。

 

 立花伊万里と、小城晴太。

 さっき西郷の話にもでてきた、俺の友人、いや腐れ縁の2人だ。

 こいつらとは、小学校に入る前からのもうだいぶ長い付き合いで、なんだかんだでずっと一緒にいる。こいつらだけは、俺のオカンが死んだときも、俺が暴力沙汰で停学食らったときも、そして腫物で嫌われ者になった今でも、何も変わらずに俺から離れなかった。

 ……まあ、たぶん、いいやつら。

「で、なんて怒られたのー?」

 にやにやして肩を組みながら伊万里が尋ねる。

「お前ら優等生に迷惑かけんなって。てか、暑苦しいッ」

 ベタベタとくっつく伊万里が鬱陶しいので、肩に回されたこいつの腕を強引に外す。

「べつに僕らは、仁に迷惑なんてかけられてないのにね」

 晴太は肩をすくめながらそう言ってくれた。

「はあ。しらねえよ」

 

 でも実際、伊万里と晴太は、人気者でよくモテる優等生。まあ、成績もいいし、運動神経もいい、おまけに見て呉れもいいからな。

 こいつらの唯一の欠点は、比山仁と友人ということだけだった。


「その金髪がいけないんだよ、金髪が。それがヤンキーを物語ってる」

 伊万里が、うんうんと頷きながら言ってくる。

 こいつはよくも、いけしゃあしゃあとそんなことが言えたな。

「これは無理やりお前がやったんだろがッ‼」

 俺は伊万里に向かって声を荒げた。

「へ? そうだっけ?」

 伊万里はとぼけた顔をする。

 ムカつくことに、まじでなにも覚えていないようだった。

「ざっけんなッ! 俺が爆睡してる間にブリーチしたことを忘れてんじゃねえよッ!」

 俺は、伊万里のいたずらに何百、何千と餌食になっている。この金髪もその1つだった。

「なはははッ! ほんと私、センスあるな~」

「ははっ。伊万里、さすがにそれはひどいよ」

「ほんと起きたら、髪キシキシになってクソ痛いし、鏡みたら金髪だったし、くそビビったんだからな。……ったく、よく考えれば、迷惑かけられてんのは俺の方じゃねえかよ」

「なはははははッ! そういえば、そんなんあったな~。完全に忘れてたわ~」

 伊万里は腹を抱えて大笑いし、笑いすぎて出た涙を拭った。

「僕が黒染めしようか?」

「いや、それはいい」

 俺が晴太の提案を即座に断ると、伊万里はにやにやした顔をより深めた。

「なーんだ、私がしてあげた金髪気に入ってんじゃん」

 ……別にそういうわけじゃねえ。

「今更、黒髪に戻したら、負けたみたいになるだろ。だから戻さないだけだ。決して気に入っているわけじゃねえよ」

 そう、この金髪は俺のプライドだった。

「あんたは、なにと戦ってんのよ」

 伊万里は呆れたようにそう言った。


 俺ら3人は昇降口を出て、駐輪場に向かう。

 伊万里と晴太は徒歩通学で、俺だけチャリ通だった。

 チェーンロックを外して、スタンドを蹴る。クロスバイクをカタカタ押して、並んで歩いていく。

「あ、そうだ。仁、今から家行ってもいい?」

「うん、僕も仁の新居に行きたいなあ」

 唐突に、伊万里と晴太がニコニコしながら言ってきた。

 ……はあ。絶対言い出すと思った。

 てか、こいつら絶対、それで俺のこと待ち伏せしてたな。

 こいつらは俺が1人暮らしを始めたことを知っていた。まあ、俺が前に自慢するように2人に話したせいなんだが。

 しかし今は、そのときと状況も心境も全く違う。なんとしてでもこいつらを部屋に入れることは避けねばならなかった。

「だめ、NO、嫌、拒否、断るッ」

 なので俺は否定の言葉をできるだけ並べた。

「なんでよ、いいじゃん」

 伊万里は顔を顰め文句を垂れる。

そしてすぐに、なにか閃いたのかニヤリと笑って言葉を続けた。

「ははーん。さてはあんた、私みたいな美少女を部屋に入れんのが恥ずかしいんでしょ?」

「いや、それはない」

 俺は伊万里の言葉を、すぐに真顔で否定した。

 たしかに伊万里の顔は良い方だと思う。だが家にはもう異世界人のような綺麗な女がい

る。だから恥ずかしいとかはまじでない。

「じゃあ、いいじゃーん。行かせてよ~」

「荷解きとかもするよ」

 晴太もそう続ける。

「NO、くんなッ」

 だが俺の意見は変わらない。

「いいじゃん、たまり場にしないから」

「嘘つけ、絶対たまり場にするだろうが」

「僕、料理とか、掃除とかするよ」

「お前は姉キャラ幼馴染かっ! すんなキモイから」

「部屋のものを勝手に持って帰ったりもしないから」

「それは俺が貸した、3DSとマンガ全部返してから言えやッ」

「僕、洗濯も得意だよ」

「お前は何でそんなに家事したがんだよ。キモ、いや、むしろ怖いわッ」

「なんでよぉー」

「ひどいよお」

 伊万里はぶうぶうと唇を尖らせる。晴太もどこか不満そうに頬を膨らませた。

「無理ったら、無理だ」

 それでも俺は部屋に入れることを拒んだ。

 べつにエマがいいって言うなら、こいつらを部屋に入れてやってもいいとも思う。だが、

 今はやっぱりそれは無理だ。あいつはなにかと説明しにくい。ていうか、俺もよく分かっ

ていない。それになんとなくだが、なるべくエマのことは誰にも話す気にはなれなかった。

 俺はこれ以上押し問答するのも、無理な理由を説明するのも面倒なので、クロスバイクに跨って、逃げるようにペダルを漕いだ。

「じゃあな」

 立ち漕ぎして、2人から距離をとる。

「あっ、待てえ~。連れてけ~」

「じーんっ! 家事させてえ~」

 後ろから声をかけられても、俺は振り向かず、家路についた。


 買い物袋を引っ提げて、外階段を上る。

 そして四苦八苦しながら鍵を回して、扉を開けた。

 玄関に入ると、すぐに扉越しから元気な声が聞こえてきた。

「おかえりぃ!」

「お、おう」

 ……なんだよ、『おう』って。

 自分で言って、自分で思った。

『おかえり』という言葉をかけられたのが、あまりに久しぶり過ぎて、うまく返すことができなかった。

 なんか、むずがゆい。

 そんな変な感情を抱えたまま、エマが待つ部屋に入った。


 時間は5時ちょうど。

「「いただきます」」

 ふたりで手を合わせながらそう言って、俺が買ってきた夕飯を食卓で食べ始める。

 俺は、焼き肉弁当。エマは、サラスパ、それにミックスゼリー。

 女子の飯には、サラスパを選べば無難だろうと思っていたが、エマの反応は意外にも微妙なものだった。まあ、一応、ありがとうとは言われたが。

「学校どうだった?」

 箸を進めながら、ふとエマが訊いてきた。

「べつにふつうだ」

「なにそれぇ~? なんか今日の学校の面白エピソードとかないのぉ?」

 エマは俺の答えが気に食わなかったのか、退屈そうな顔をした。

「ない」

 これがエマの期待する答えではないと分かっていても、俺は短くそう答えた。

 だって本当に、なにもないから。学校で、面白いことなんて起こるわけない。

なぜなら学校なんてのは、ただ退屈で鬱陶しい場所でしかないのだから。

 俺は深いため息を吐く。

「ていうか、昨日も言ったはずだ、相互不干渉だって。あんましプライベートなことを聞いてくんな」

 俺らはあくまで、シェアハウスしているだけ。家を分けて使っているだけの関係だ。2人暮らしではない。1人と、1人が暮らしているだけなんだから。

「はいはい」

 エマはスパゲッティを箸で啜る。

 不満そうな顔が癪に障るが、なんとか気持ちをぐっと抑えて、怒りをこらえた。

 焼き肉弁当のタレの封を破る。なかなか開かなくて、少し力を入れると勢いよくタレが手に飛んできた。   

 ああくそ、手がベタベタになった。

 昨日は服に飛んだし。まじでイラつくな、なんとかしてほしいわ。

 俺はイライラしたように、ウエットティッシュで手を拭った。

 ……最悪な1日だ。


 サラスパを食べ終えたエマは、容器をスーパーの袋に捨ててミックスゼリーを手に取る。

 パッケージと、中身のフルーツを確認したエマは「……さくらんぼ」と小さく呟いた。

 そういえば昨日、さくらんぼが入っていないミックスゼリーは、ミックスゼリーとは認めないって、言ってたっけ。完全に忘れてた。

 エマは一瞬だけ、微妙そうな顔をした。ほんの一瞬だけ。

 今日はなぜだか、そんな些細なことでもやたらと癪に障った。

「文句あるなら食わなくていい」

 気づけば結構冷たい口調で、俺はそう口に出していた。

「べ、べつに文句なんか言ってないじゃん」

 エマは頬を膨らませる。

「顔に出てたんだよ、顔に」

「出してないもん」

「出てたんだよッ。サラスパ渡した時も、ミックスゼリーにさくらんぼが入っていない時も、微妙そうな顔したんだよッ」

「してないよ、ありがとうって顔してたよっ!」

「そんな顔じゃなかったわッ! 微妙な顔したじゃねぇかよッ!」

「してないって! てか、なんでそんなに怒ってるのっ? 学校でなにがあったか知らないけど、イライラを私にぶつけないでよっ!」

 正直、図星だった。悔しいけど。

 でも、俺の口から謝罪の言葉なんて出てこない。

「うっせんだよッ! てめぇ、俺によくそんな口がきけたなッ! お前、俺に迷惑かけてること忘れんなよッ!」

 ドンッと机を強く叩く。

お茶が少し机にこぼれ、エマはビクンと肩を震わせた。

それでも、怖気ずにエマは俺を睨んでくる。

「……なによ迷惑って」

 青くて綺麗な瞳は、俺の顔を据えた。

 何もかも見透かされそうで、なおさらイラついてくる。

「てめえがアラームを止めたせいで学校に遅刻した。そんで遅刻したせいで、先公にくそ怒られた。全部、てめえのせいだッ!」

「人のせいにしないでよっ! そんなの、1回目の目覚ましで起きればいいだけだったじゃんっ!」

「だから、俺は3回目のアラームで起きるのがルーティーンなんだよッ!」

「なにが、ルーティーンよ。あんたは、イチローかっ! それなら、毎朝カレーでも食べてなよっ!」

「朝からカレーは重いだろっ!」

「そんなの知らないよっ!」

「ていうか、カレーは今関係ないだろッ!」

「いや、カレーの話したのは、そっちじゃん!」

「は? カレーって言葉を最初に言ったのはお前だろうがッ!」

「うるさいっ!」

……なんだよ、『うるさい』って。

 ああくそ、イライラする。

「それだけじゃねえからなッ! 俺がイラついてんのわッ」

「なによっ!」

「お前のせいで、ダチを家に呼べねえんだよッ‼」

「う……ッ」

 エマは俯く。俺を据えていた視線は、下を向いた。

 また、泣き出すのかと思った。涙は女の武器だと言うが、まじでそれは深く頷ける。

 あれは相当めんどいし、厄介だ。

 しかし、そう思ったのは束の間。

「……私だって、私だって————」

 エマはすぐに顔を上げて大声で叫んだ。

「早く成仏して、こんなとこ出て行きたいわっ! あんたの顔なんか見たくないわっ!」

 大声は部屋に轟く。俺の胸にも強く響いた。

 エマは泣かなかった。逆に、ふんっと鼻で俺のことを笑いやがった。

 たぶん、こいつは俺が思っている以上に強い。だからこそ俺は、

「ああ、早く成仏しろッ! いや、俺がてめえを成仏させてやるよッ!」

 と、強く返した。

 ああ、決めた。俺はこいつを成仏させる。そんで絶対、理想の一人暮らしを送ってやる。

 俺がそう決意していると、エマは胸を張った。

「ふんっ。成仏させてくれるなら、有難いねっ! ありがとうっ‼」

「ふんッ。どういたしましてっ!」

 俺も負けじと胸を張った。

 ……なんだよ、『ありがとう』って。

 ……そんでなんだよ、俺の『どういたしまして』も。

 俺ら喧嘩してんのに。

「……なんだそれ」

 俺の口から、そんな言葉が思わず出た。

「そっちこそ、なんだそれ!」

 エマもそう言う。

「あぁん? そっちがなんだそれだわ」

「いやいや、そっちがなんだそれだよ。もう、なんだそれミステリーだよ」

「なんだそれ」

 この意味のない押し問答に、今まで怒っていたことが馬鹿らしくなってきた。

 俺は思わずぷっと吹き出す。そして、それは徐々に大笑いに変わっていった。

 エマも同じだったのか、声を出して笑いだしていた。

 出てきた涙を指で拭う。

 泣くぐらいに、笑ったのは久しぶりだな。

 あと、こうやって本気で熱くなって、喧嘩するのも久しぶりだ。

 ……ほかにもあるな。

 おかえりって言われたのもそうだ。誰かと一緒に家で飯を食うのも。

 こいつといると、いろんな久しぶりに出会う。

「エマ。ごめん」

 気づくと今度は、俺の口からは謝罪の言葉が出ていた。

 少し自分でもびっくりした。

「こっちこそ、ごめんね」

 エマも謝ってきた。俺とは違って、頭を下げて。

 

 こいつは何も悪くないのに。悪いのは、俺なのに。

 いつまで経っても、俺はガキのまんまだった。

 すぐイラついて、人に当たって……。

学校でもそうだ。無関心を装って、平気なふりして、鈍感なふりして、クソみたいな今の自分を受け入れて。ああクソ。イライラする。くそダセえ自分にイライラする。

 変わりたい。変わりたい。変わりたい。

俺はヒーローにはなれない。でも、大人にはなりたい。

 

「あのさ、エマ……」

「ん?」

 エマはゆっくりと頭を上げて、俺を見つめた。

「さっき言った、成仏の件は本気だから。俺がお前を成仏させてやるからな」

 エマは一瞬驚いた表情をするも、すぐに頷いた。

「うん」

「だから、相互不干渉は、無しにしたい……」

「えっ?」

 エマは不思議そうに首を傾げる。

「協力していこうぜ、いろいろと。成仏ってのは、そんな簡単なことじゃねぇんだろう?」

「うん、たぶん。わかんないけど……」

「だから、協力するために、相互不干渉はなかったことにしたい」

「……いいの?」

「いいって言ってんだろ」

「うれしい」

 エマは本心からそう思っているのか、目を細めてニコッと笑った。

 ……なんだよ、うれしいって。

「ああ、そうかよ。それは良かったな」

 エマがあんまりにも嬉しそうに言うもんだから、俺はぶっきらぼうにそう返してしまった。

 別に気取ってただけだ。相互不干渉なんて。

 俺は顔を俯かせ、ボソッと、

「……ほんとはもっと、お前のことを知りたいと思ってたんだよ」

 と呟いた。

 俺の言葉は幸か不幸か、エマには届いていなかった。

「ん? なにか言った?」

 ……いや、なに言ってんだよ俺。なにが『お前のことを知りたい』だよ。

 キモい。キモいな俺。

 だんだん自分の顔が熱くなっていく。

 はあ。頭、冷やそう。

「なんでもねえーよッ」

 俺は逃げ出すように風呂場に向かった。


 脱衣所で服を脱ぐ。

 着ていたYシャツを投げるようにして洗濯機に突っ込む。

「ん? ……あれっ?」

 すると、ふと気づいた。

 洗濯機の中には、朝脱いだスエットも、昨日着ていた白Tも入っていなかった。

 ……もしかしたら。

 衣類が入ったチェストを開ける。

「あ。」

 中には、スエットも白Tも綺麗に畳まれて入っていた。

 白Tを手に取り、パッと広げる。

 すると、フワッと柔軟剤の匂いが広がった。

「……勝手なことを」

 昨日飛んだ焼き肉のタレも染み抜きしてくれたのか、きれいに消えていた。

 ……エマがやってくれたのか。

 あれほど、相互不干渉って昨日は言ったのに。ああ、なんだこれ。胸がポカポカする。変な感じだ。

 俺は飛び出すように脱衣所を出て、エマのいる部屋に戻った。


「エマ。洗濯、ありがとな」

 俺が扉を開けて、そう言うと、

「きゃっ‼」

 エマは朝と同じように悲鳴を上げた。

「変態っ! 服着てよっ」

「股間はタオルで隠してるだろうが」

「そ・う・い・う・問題じゃなーいっ!」

 エマはそう言って、近くにあったクッションを投げつける。

 ゆっくりと回転するクッションはスローボールで飛んできて、簡単にキャッチできた。

 クッションをそっとソファーに戻して、礼を言って満足した俺は、踵を返す。

 すると、俺の背中に向かって、エマが声をかけてきた。

「私、家事やるから」

「ん? なんだ急に?」

 俺は振り返る。

「急じゃないよ。仁が言ったんじゃん、協力して暮らしていこうって」

「たしかに、言ったけど」

「なら、私はこの家の家事をする。そうじゃなきゃ協力とは言えない」

「……まあ」

 たしかにその通り……なのか……?。

「それに私が家事したら、仁の迷惑は少しは軽減されるでしょ?」

 エマは照れ笑いを浮かべた。

 ……迷惑。

……なにが迷惑だよ。

「いや、べつに——」

 エマは、俺の言葉を遮った。

「もう決めたからっ! 私、家事頑張るからねっ!」

 エマはそう言うと、決意を示すように満面の笑みを浮かべた。

 その笑みは、一点の陰りも、憂いもない、美しく晴れた笑みだった。

 俺はその笑みを見て……綺麗だな。なんか良いなって、素直に思った。

「幽霊に家事なんて出来んのかよ。料理とか」

俺は照れ隠しするように、そう口にする。

「できるよ! なんてったって私、お料理検定4級持ってるからねっ!」

 ニコッと笑うエマは、自信満々だった。

「4級……それってすごいのかよ?」

「ふふふっ、知らなぁい」


……エマの作る飯か。正直不安だ。

 大体こういうやつは、テンプレで料理下手な気がする。それに幽霊と料理はミスマッチすぎるんだが。

 それでもまあ、本音を言えば、こいつの作る飯は570円の焼き肉弁当より、ずっと楽しみだった。

 



奇妙な共同生活も2週間以上のときが経った。

 意外にも、俺らはこの2週間、喧嘩もせずに上手くやってきた。

 ……いや、まあ、正直に言えば、エマとの暮らしはすこぶる良くて、めちゃめちゃ快適だった。なぜなら、あいつの家事は全部完璧で、特に料理は驚くほどの腕前だったから。

そんで気づけば、俺の1日の楽しみは、エマの作る飯になっていた。

「おかえりぃ~」

「ただいま」

 学校帰りに買い物袋を抱えた俺を、狭い台所で料理を作る、エプロン姿のエマが出迎えてくれる。

 俺はエマのその姿に、もう見慣れているはずなのに思わずにやけそうになっていた。

 扉を開けると聞こえてくる元気な『おかえり』。

 それはもう俺の中で当たり前のことで、俺自身も恥ずかしげもなく『ただいま』という言葉を返す。

 1人ぼっちで過ごすという俺の日常は遠い昔のことのようになり、エマと2人で過ごすという非日常が、いつのまにか俺の日常になっていた。

「学校おつかれさま。もう少しでご飯できるから待っててね」

「おう」

 俺はエマの労いの言葉に短く返して、食材がパンパンに入ったスーパーの袋を一旦、床に下ろした。

「買い物ありがと。片栗粉買ってきてくれた?」

「ああ、はいこれ」

 スーパーの袋から片栗粉を取り出し、エマに渡す。

「ありがとぉ」

 エマは手に持っていたおたまをおいて、それを受け取った。

「ほかの食材は冷蔵庫入れていいか?」

「うん、おねがーい」

 フレンチドアの冷蔵庫を開け、スーパーで買った食材たちを詰め込んでいく。

 1人暮らし用の冷蔵庫は、多くの調味料や食材で、ずいぶん家庭的なものになっていた。

「あっ、ミックスゼリーも買ってきてくれた?」

「心配すんなって。ちゃんと買ってきたよ」

 俺はエマに、買ってきたゼリーのパッケージを見せる。

 エマはそれを見て、満足そうに頷いた。

「うん、ちゃんとさくらんぼ入りだ。えらい、えらい」

「お前がさくらんぼ、さくらんぼうるさいからな」

「うるさくないよぉ。ミックスゼリーにさくらんぼが入ってないのはね、遊園地に観覧車がないようなものだよ」

「たしかにそれはやばいな」

 ピーピーと電子音が鳴る。冷蔵庫のドア閉め忘れ防止ブザーの音だ。

 最後にミックスゼリー2つを冷蔵庫に入れて、パタンとドアを閉めた。

「ミックスゼリー2つ買ってきたけど、1つは明日の分だからな。今日全部食うなよ」

「食べないよぉ~。人を食いしん坊みたいにぃ」

 エマは頬を膨らませ、拗ねたような態度をとる。

「お嬢さん、こないだ1日に3つも食べたことをわすれてませんか?」

「なんのことかなぁ」

 エマは誤魔化すように、ヒューと空気が抜ける下手くそな口笛を吹く。

「ベタベタかよ」

俺は思わず肩をすくめた。



「ごはんできたよぉ~」

 部屋から声がかかる。

 風呂掃除をしていた俺は、珪藻土のバスマットに乗って、タオルでしっかり足を拭いた。


 食卓に夕食が並ぶ。

 今日は、チキン南蛮と、味噌汁、ごはんに、玉子サラダだった。

 チキン南蛮は俺の大好物の一つ。揚げ物はめんどくさいはずなのに、本当に有難い。

 ふたりで手を合わせて、『いただきます』と言ってから箸を進める。

 まずは味噌汁のお椀に口をつけて、汁を啜った。

「うまい」

 カツオのだしがよく出た、わかめと豆腐の味噌汁。エマは半分はイギリスの血が入っているのに、和食も得意。あやふやな記憶ではあるが、なんかオカンの味噌汁にすこし似ている気がした。

「チキン南蛮用のタルタルソースも手作りだからいっぱいかけてね」

 エマはそう言って、タルタルソースが入った皿を渡す。タルタルソースは、ゆで卵がゴロゴロ入ったタイプのものだった。

「すげえな、タルタルソースまで手作りなんて」

 俺は感心しながらそう言って、スプーンいっぱいにタルタルソースをすくって、チキン南蛮にどっぷりかける。

「そんなに難しくもないし、大変でもないよ」

「そうなんか? ふつーにすげえけど」

 心からそう思いながら、タルタルソースがたっぷりかかったチキン南蛮にかぶりついた。

「なんだこれ、うますぎだろっ。今までで食ったチキン南蛮のなかで断トツうまいっ! もう今年の揚げ物大賞受賞したわ」

「今年のって、まだ6月だよぉ。でも、そんなに喜んでくれたなら良かった」

 エマはホッとしたようにそう言って、ニコッと笑った。

 

 夕飯はあっという間に食べ終わった。

 低いシンクで食器を洗う。風呂掃除と、皿洗いだけは俺の仕事だ。

 腰を曲げて、食器たちを洗っていく。

 85センチのシンクは、180センチの身長の俺からしたら、非常に使いづらくて、腰が痛くなる。でも、エマは文句ひとつなく、炊事に洗濯、掃除にといろいろやってくれている、しかも全部完璧に。なので、これくらいで弱音を吐く訳にはいかなかった。


 水切りに食器を置いてキッチンペーパでシンクを拭くと、一仕事が終わる。

 いそいそと部屋に戻ると、エマはソファーに座りテレビを見ながら、幸せそうにミックスゼリーを食べていた。

「お皿洗いありがとね」

 エマはスプーンを一旦おいて、礼を言ってきた。

「これくらいはな」

 俺はそう返して、エマの近くの地べたに腰を下ろす。そして、近くにあった学校のカバンを引き寄せた。

「エマ、今日はお前に朗報がある」

「朗報?」

 エマは不思議そうに、スプーンを口に入れたまま首を傾げる。

「ああ。明日は、いよいよ第一回成仏大作戦を実行するッ」

 そんなエマに、俺は胸を張りながらそう言った。


————『成仏大作戦』

 これはエマを成仏させるために、彼女の生前の心残りをやっていこうという作戦だ。

 エマはあの日から毎日家事をやってくれているのに、俺の方はまだエマの成仏に関してなにもやれていなかった。

 だがやっと今日、第一回目の成仏大作戦のための準備が整った。

 俺は学校のカバンをあさり、チケットの入った封筒を取り出す。そして、それをエマに見せつけるように机の上に置いた。

「ん? これって……?」

「これはなあ、遊園地の前売り券だッ! 明日、遊園地に行くぞっ!」

「え? ほんとに?」

「ああ、ほんとにだ!」

「や、やったぁああああー‼」

 エマはチケットを胸に抱いて、喜びを表現するように満面の笑みでピョンピョンと飛び跳ね始めた。

「はしゃぎすぎだろ、落ち着けって」

 口ではそんな冷静なことを言いながらも、エマの喜ぶ姿を見て、俺も彼女と同じように内心めっちゃ飛び跳ねたかった。


 エマの心残りの一つ、遊園地に行くこと。

 いつの日か、テレビを見ていたら流れた熊本のローカルCM。それは、熊本にある九州最大級の遊園地のCMだった。

 それを見ながらエマは、「ああ、いいなあ~ 行ってみたいな~」と何気なく呟いていた。

 こいつは身体が弱くて、遠出の経験がほとんどないらしい。そんな中で、小さい頃から遊園地には強い憧れがあって、どうしても死ぬ前に1度は行ってみたいと思っていたそうだ。

 その話を聞いた俺は、どうしてもエマを遊園地に連れて行きたいと思った。

 入園料+フリーパスセットの遊園地の前売り券は、高校生1枚5700円。まあまあ高い出費だなあと金を払うときは思っていたが、こんなにエマの喜ぶ姿が見れたなら全然安いもんだった。


「でも明日、平日だよ。学校は大丈夫なの? サボりは絶対だめだからねっ」

 エマは眉間に皺を寄せて、訝しげな視線を俺に送る。

 エマは学校のサボりなんかにやたらと厳しい。おかげで俺は、エマと一緒に住むようになってからは無遅刻無欠席。気づけば、そこらへんのやつらより、真面目に学校に通っていた。

「安心しろ。明日は創立記念日で学校は休みだ」

「なんだ~。それならよかった」

 エマは安心したようにそう言う。

 そして再度、微笑みを浮かべながら、2枚のチケットを見つめ始めた。

「ねえ、仁」

 エマはふと何かに気づいたように眉根を寄せる。

「なんだ?」

 俺はそんなエマの姿を、どうしたんだろうかと思いながら見つめた。

「私って、仁以外には見えないんだから、チケット一枚でよかったんじゃない?」

「……んなッ! た、たしかに」

 言われてみればその通りだ。

 こいつと2人で遊園地に行くことで頭がいっぱいで、そのことを完全に忘れていた。

「でも、うれしいよ。ありがとねっ」

 エマは青い瞳で俺を見つめ返して、優しく微笑みながらそう言った。



 そして次の日。

 JRとバスを乗り継いで、2時間以上。

 たどり着いたのは、熊本県荒尾市。目の前には、九州最大級の遊園地が広がっている。

「すっごーい‼」

 俺の横では、テンション爆上がりのエマが青い瞳をキラキラと輝かせていた。

「平日でもやっぱり混んでんな」

 今日は月曜日。わざわざ平日を選んだのだが、入り口にはチケットを求める列ができていた。入園する前にこんな列に並んで、体力を消耗するほど憂鬱なことはない。現に、列に並ぶ客たちは、もう既に疲れたような表情をしていた。

 しかし俺たちは違う。優越感のあまり思わずニヤリと笑う。

「……俺たちは———」

 ポケットから前売り券を取り出し、それを掲げた。

「前売りあるから、あの列に並ばなくていい!」

「やったぁぁああああああ‼」

 俺の言葉に、エマは子供のように顔を綻ばせて、小躍りしそうな程はしゃぎだした。

「にしても、ジロジロ見られんな」

 辺りをキョロキョロ見渡せば、すれ違う客や、遊園地のスタッフなんかから、俺たち2人に視線が集まっていた。

 でも、まあそれもしょうがないことか。

 俺はエマの顔に視線を移し、ボソッと呟く。

「こいつ、見て呉れいいからな。気になって見てくるのもしょうがねえことか……」

 まあ、これはあくまで客観的な意見としてだが、エマは綺麗で可愛い。

 なので、視線が集まるのも納得できた。

 俺もこいつと他人だったならば、その見慣れない美しい容姿に、思わずジロジロ見てしまうだろう。

 しかし、俺の小さな呟きはエマに届いていたようで、エマは否定するように首を横に振った。

「それは違うよぉ」

「ん? 謙遜か?」

「謙遜じゃないって。ほら、私って仁以外に見えないじゃん。だからたぶん、みんながジロジロ見てくるのは——、」

 エマはそう前置きして、あははははっと声を上げて笑い出した。

「仁がひとりで遊園地にきてるように見えるからだよぉ。ふふっ」

「なっ。そ、そうか。そうゆことか……」

 たしかにそうだ。エマは俺以外には見えないんだ。

 周りは、ファミリーに、カップル、そして友達集団。

 そんな中で、1人でいる客ですら珍しいのに、それが金髪ヤンキーだったらなおさら、ジロジロ見られるのもしょうがないことだった。

「でも、ありがと」

 エマがニヤニヤしながら口を開く。

「可愛いって言ってくれて」

「可愛いとは言ってねえよ。俺は見て呉れがいいって言っただけだ」

「はいはい、そんなことよりはやくいこっ!」

 エマは満面な笑みでそう言って、入場ゲートに向かって走り出した。


 遊園地の中に入る。

 大きなスピーカーから、軽快なBGMが流れる。いろんなアトラクションからは、大人たちのご機嫌な絶叫や、子供たちのはしゃぐ声なんかが聞こえてくる。

 園内は、楽しげな音で溢れかえっていた。

 俺とエマは、いろいろなアトラクションを見渡しながら、ぶらぶらと園内を散策する。

 ここは、日本1のアトラクション数を誇る遊園地。そのため、いろんなものに目移りしてしまう。

 俺もここに来たのは小学生以来で、内心、エマ以上に心躍っていた。

「どれ乗る? あのジェットコースターなんてどうだ?」

 俺は目の前にある、恐竜の頭部がついた大きなジェットコースターを指さした。

 そのジェットコースターからは、『きゃあああああ‼』という叫び声が聞こえてくる。手を上げて楽しそうにしているのだが、エマは顔を横に激しく振った。

「ムリムリムリっ、あんなの拷問じゃんっ! 死んじゃうよぉ」

 ……死んじゃうって。

「いや、おまえもう死んでんだろ」

 俺の言葉を受けて、エマは、はっとした顔をする。

「たしかにそうだ。私、死んでた」 

 だが、すぐに表情を戻して、顔の前に両手で大きなバッテンをつくった。

「でも、あれはムリっ! むりぃいいいいいっ!」

 遊園地来たのに、絶叫系には乗れないのかよ。

 まあ、でも無理して乗っても楽しくないからな。それに今日の主役はあくまでエマだ。

「わかったよ。エマの行きたいとこ行こう」

 俺がそう言うと、エマは遠くに見える場所を指さした。

「私、あそこ行きたいっ!」

 エマが満面の笑みで指さしたのは、ゲームセンターだった。

「……ゲーセン」

 それなら別に、遊園地に行く必要はなかったのでは、と思いながらも、俺は呆れながら笑ってそれに頷いた。

「よしっ、なら、最初はゲーセンだ」

「うんっ!」

 俺ら2人は浮かれ気分でゲームセンターに入って行った。


「ゲームセンターってヤンキーが必ずいるわけじゃないんだね」

 あたりをキョロキョロと見渡しながらエマが言った。

「ヤンキーなら、横にいるだろ」

 俺がそう言うと、エマは俺の顔をじーっと見つめる。

 そして、クスリと笑ってから、口を開いた。

「なーんだ、ヤンキーって怖くないじゃん」

「なんだそれ」

「だって仁、優しいからねっ」

 エマはいたずらな顔をしながらそう言って、クレーンゲームの前に移動した。

「……うるせえ。べつにやさしくなんかねぇよ」

 俺はぼそりと呟いて、エマの後ろを追いかけた。


「とれなーいっ!」

 クレーンゲームに挑戦するエマ。

 何回も挑戦するものの、取れる気配は全くなかった。

「もうっ! これ詐欺じゃんっ!」

 エマは悔しそうに頬を膨らませ、軽く台を叩いた。

「こらっ、台パンすんな。そんな簡単に取れたら、赤字になっちまうだろ。こんなもんだって」

 俺が慰めるようにそう言っても、エマは顰めっ面を崩さなかった。

「仁、やってよ! こういうのって、男の子がカッコよくとってくれるんじゃないのっ?」

「はあ? なんで俺が。そもそも、こんなのいらねえだろ」

「あー、もしかして仁って、こうゆうの苦手なんでしょー。不器用そうだしね」

 なんだその煽り。

 俺を煽るとは、良い度胸じゃねえかっ!

 俺は財布からありったけの100円玉を取り出して、それを台の上に積んだ。

「みてろよ、エマッ! 俺を煽ったこと、後悔させてやるよッ‼」


 ……結果から言えば、後悔したのは俺の方だった。

 台の上に積んでいた100円玉はすぐになくなり、追加で野口を2枚犠牲にした末、やっとバカでかいクマのぬいぐるみをとることができた。でも、まじでいらん。

 このクマは、めっちゃキモくて、バカでかい。シンプルに邪魔だった。

「すっごぉーい!」

 それでもエマは、俺の抱えたクマを見つめながら嬉しそうにして、クマの鼻をツンツンとつついている。

 まあ、こいつが嬉しそうならよかったか。


「ねえ、お兄ちゃん!」

 そんな風にエマを見つめていると、後ろから小学生くらいのガキンチョに声をかけられた。

「ん? どうした?」

 俺は振り返り、ガキンチョの目線に合わせるように膝を曲げてしゃがみ込む。

「それどうやってとったの? コツ教えてっ!」

 ガキンチョは目を輝かせながら、ぬいぐるみを指さした。

「ん、コツか? コツはな、野口を惜しまずに、ひたすら金をつっこむことだな」

 俺がそう言うと、エマは呆れ顔で「ちょっと」とツッコんでいた。

「ええ~、お金はあんまりないよ~」

 ガキンチョは俺の答えが期待するものではなかったのか、がっくりと肩を落とした。

「ガキンチョ、おまえ今、いくら持ってんだ?」

「200円」

 200円ってことは、1回しかできないな。どんなに頑張っても、さすがにこれを1回でとるのは無理だろう。

 さて、どうしたものか。

 俺はエマの顔色を伺う。エマと目が合うと、彼女は不思議そうに首を傾げた。

 しょうがねえ、年下優先だ。

 俺は抱えていたクマのぬいぐるみを、押しつけるようにガキンチョに渡した。

「じゃあ、これやるよ」

「えっ?」

「ほら」

「い、いいの?」

 ガキンチョは、驚いたような顔をしながらそれを受け取る。ほんとうに貰ってもいいのかという様子だった。

「ああ、ちょうど邪魔で困ってたんだよ。貰ってくれ」

 俺はそう言いながら、ガキンチョの頭を撫でる。

「ありがとうっ、お兄ちゃん!」

 ガキンチョは満面の笑みで喜んだ。

 俺がそんな姿を見ながら、少しだけ自己満足に浸っていると、

「ちょっと、なにしてるのッ!」

 という大きな怒声が飛んできた。

 声の主は、鬼の形相でこちらに近づいてくる。30代半ばくらいの女の人だった。

 この子の母親だろうか。

「うちの子に、近づかないでッ!」

「いや、俺は——」

 その母親は俺を鋭く睨んでそう言うと、俺の言葉を聞かずして、ガキンチョを強引に連れ去って行った。

 ガキンチョは、後ろ髪をひかれている様子で、こちらを振り返る。

 俺は気にすんなという意味を込めて、しっしっと追い払うように手を振った。

遠くに離れていく親子。

「大丈夫? なにか嫌なことされなかった? あんな危なそうな人に近づいちゃダメよ」

 母親が子に諭すように言った言葉が、俺の耳までしっかり届いた。

 まあ、そりゃそうだ。

 こんな金髪ヤンキーと自分の子供が話していて、心配しない親はいねえだろうからな。こうなるのは当たり前のこと。それに、こんなのよくあることだった。

「はあ」

 だが、そう思いながらも俺の口からは、ため息が漏れる。

「……仁」

 エマは心配した表情で俺をじっと見つめていた。

 ……だめだな、俺。

 俺はそんなエマに気づいて、無理やり笑みを作る。

「ごめんな。ぬいぐるみ渡しちゃったわ」

「うんん、いいよ。……私、仁のそうゆうところ、好きだよ」

 エマは頬を紅く染め、優しく微笑みながらそう言った。

 ……好きって。なんだそれ。

 そんな言葉を言われたのは生まれて初めてのことだったからか、心がきゅーっと締め付けられた。

「よしっ、まだまだ遊ぶか」

「うんっ!」

 俺らは気持ちを切り替えて、ゲームセンターから出て、再び園内を回り始めた。



 今、時刻は4時ちょうど。

 ふつうに疲れるくらいには、結構はしゃいだ。

 ティーカップコースターに乗っては、調子に乗ったエマがハンドルを回しまくり、自爆して。動物ふれあいコーナーでは、なぜか犬が見えないはずのエマに向かって吠えまくり。フードコートで昼飯を買っては、エマが腹がパンパンになるほど飯を食って。レーザーシューティング場では、エマがなぜか上手くてドヤ顔して。メリーゴーランドでは、エマが気に入った木馬にダイワスカーレットと名付け、それに3回も乗って。ゴーカート場では2人乗りの車を選んで一緒に乗ると、横で「飛ばせえ~! 飛ばせえ~!」とエマがうるさいくらいに叫びまくっていた。

 そんな感じでいろんな場所を回っていると、エマが次はお化け屋敷に入ってみたいと言い出した。

 この遊園地にはいくつかのお化け屋敷がある。その中でも、一番怖いと評判なのが、丘の上にあるお化け屋敷だ。その場所は、謎の声が聞こえたり、見えない何かに体を触られたりと、本物のお化けが出る心霊スポットとして全国的にも有名な場所だった。

 このことをエマに話してビビらせようと思ったのだが、意外にもエマはビビらず、

「幽霊の私が、お化けなんかにビビるわけないじゃん。逆に友達になってあげるよ」

とドヤ顔しながらイキってきたので、俺らはスカイリフトに乗って、丘の上にあるお化け屋敷に行くことにした。


 丘の上、廃校がモチーフのお化け屋敷に辿り着く。

 俺が前来たときは、魔女の館がモチーフだったのだが、リニューアルしたのだろうか。いつのまにか廃校になっている。余計に怖さが増している気がした。

 ふと、横にいるエマに目をやる。エマはあからさまに青い顔して、ぷるぷるとビビって震えていた。

「どうする、やめるか?」

 俺は笑いながらエマにそう尋ねるが、エマは強がるように胸を張った。

「ふんっ、あんなの余裕だから。大体、お化けなんているわけないじゃん」

「……いや、お前幽霊じゃん」

 ボソッとツッコむも、それはエマに届いてはいなかった。

 エマは決意したように一歩踏み出し、真剣な表情で口を開いた。

「仁、行くよっ。絶対、生きて帰ってこようねっ」

 いや、お前死んでんだろ。あと、それ死亡フラグだからな。

 そんなことを考えながら俺は呆れて笑って、エマと並んでお化け屋敷のなかに入った。


 薄暗い室内。カアカアという鴉の鳴き声と、ザァーザァーという不気味な雨音のBGMが鳴り響く。窓から射し込む光までもが、薄気味悪く見えた。

入るとすぐに階段があった。

 このお化け屋敷は、ウォークスルー型だったはずだから、たぶん、この階段を上っていって、様々な部屋を巡っていくのだろう。

ひっついているエマを見つめる。

 エマは俺を盾にしながら、顔を俯かせてビクビクしていた。

「大丈夫か? ギブするなら早い方がいいと思うぞ」

「だだだだだだいじょうぶ」

「いや、明らかに大丈夫じゃないだろ」

「大丈夫だって、いけるよ。あいびりーぶっ!」

「おお、そうか? じゃあ、上っていくぞ」

「おっしゃあ、バチ来いっ! あいきゃんふらいっ!」

 覚悟を決めて顔を上げたエマは、怖さのあまりか変なテンションになっていた。

階段を上っていく。階段は、鉄階段なので、上っていくたびにドンドンという自分の足音が響いていった。

「きゃあっ‼」

 エマが叫ぶ。

 彼女の視線の先には、血を流しながらこちらをじっと見つめる、気味が悪い人形があった。

「大丈夫か?」

「ハイ、ワタシ、ダイジョウブ」

「ほんとに大丈夫か?」

「ハイ、ヨユウデス。ワタシ、ツヨイカラ」

 なんで、カタコト? あまりの恐怖にエマは日本語を忘れ始めていた。


 しばらく階段を上ると、教室が見えた。俺らはその中に入っていく。

————パンッ

ここで急に暗転。そして、「ウワァァァアアア‼」という叫び声が聞こえてきた。


「きゃああああああ‼」

 エマは暗転と同時に、ここで最大級の叫び声をあげる。

そして恐怖のあまりか俺の手をギュッと掴んだ。


「冷たッ」

 俺の口から思わずそう声が出る。

なぜだかエマの手は、氷のように冷たかった。


————パチンッ

 部屋には、明りが戻る。

エマの顔がはっきりと見えてきた。

「ご、ごめん」

 エマは申し訳なさそうな顔をしながら、さっと俺から手を離す。

 しかし俺は、離れていく彼女の手をぱっと掴んだ。

「仁……?」

 エマは不思議そうに俺を見つめる。

 ……何してんだ俺。

 エマの悲しげな顔を見て、気づけばなぜだか彼女の手を掴んでいた。

 彼女の手は冷たい。人間ではないみたいに。

 ……分かっていたはずなのに、彼女が改めて幽霊だということを実感し、少しだけ胸が苦しくなった。

 俺は言い訳するように口を開く。

「俺は、暑がりだからな。おまえの手は冷たくて、ちょうどいい。だから、手、握らせろ」

 自分で何言ってんだ、キモイなと思いながらも、エマの手をより強く握った。

「ふふっ。……なにそれ」

 エマはどこか可笑しそうに笑って、俺の手をギュッと強く握り返してきた。

 なんだこれ。こんなのまるで……。

 握ってるエマの手とは裏腹に、俺の体はどんどんと熱くなっていった。


 お化け屋敷から外に出ると、もうすぐ日が沈もうとしていた。

 俺ら2人はあれからずっと手を繋いだままだった。

 手をぎゅっと握ったまま、どちらも離さなくて、離せなくて。恥ずかしいとか、嬉しいとかいろんな感情を、手の感触を確かめるのと同じように感じていた。

「そろそろ、帰ろうか」

 俺が腕時計を見ながら、エマに言う。

 時間は、4時50分。

 もうすぐ閉園時間だ。それに明日は学校がある。ここから家まで2時間以上はかかるので、のんびりしていると家に着くのが夜遅くなってしまう。名残惜しくはあるが、そろそろ家に帰らなくてはならない。

「じゃあ、さ。最後にあれ乗ろうよ」

 エマはそう言いながら、手を繋いでいない右手で大きな観覧車を指さした。

「観覧車か。遊園地のシメにはピッタリだな」

「うんっ、でしょう? はやくいこうっ!」

 エマは俺の手を強く引っ張りながら、観覧車に向かって駆け出した。


 透明のゴンドラを選んで、それに乗る。

 どうやらこれが今日のラストランだったようで、遊園地のスタッフが「ギリギリでしたね。雄大な空中散歩を、ぜひお楽しみください」と満面の笑みで言ってくれた。

 スタッフからは、俺ひとりしか見えないはずなのに。さすがプロだな。

 ゆっくりとゴンドラが回っていき、だんだん周りの建物が小さくなっていった。

 あんなに大きかった、ジェットコースターがもう小さく見える。

「すごい。きれい」

 向かいの席に座ったエマは、頬がくっつきそうなくらい窓に近づいて外の景色を眺めていた。

 無邪気なこの少女は俺なんかよりずっと生き生きしている。とても幽霊だとは思えない。

 俺はエマから、自分の手に目を移した。

 どちらともなく離した手。まだ俺の手には、エマの冷たい手の感触が残っていた。

「ねえ、仁」

「ん?」

 急にエマから声を掛けられる。

 俺は急いで、自分の手から視線を外した。

「ここからさ、私たちの家見えるかなー?」

 エマは無邪気な笑みを浮かべていた。

「さあ、どうだろうな」

「見えるといいなぁ」

「そうだな」

 外を見つめる。

 もうだいぶ暗くなってきている。外の道路を走る車には、ちらほらとヘッドライトが点いていた。

「もう少ししたら、海が見えると思うぞ」

「ほんとっ⁉」

 エマはまた窓にへばりつくようにして、外を眺め始めた。

 病弱だったこいつにとっては、いろんなものが新鮮なんだろうな。

 いっぱいやりたいことがあっただろうに……こいつの未練ってなんだろう。

「結局、成仏できなかったな」

 俺はエマを見つめながら、ぽつりと呟いた。

「うん、そうだね。私の心残りは、遊園地に行くことじゃなかったみたい」

 エマは外の景色から目を離さずにそう答える。

「……そっか」

 俺はそんなエマから目が離せなかった。

「でも、楽しかったよ」

 エマはニコッと笑って、嬉しそうに続ける。

「楽しかった。ほんとうに、楽しかった。全部が全部初めてで、全部が全部新鮮だった」

「そっか」

 それなら、よかったと心の底からそう思えた。

「うん。私、死んでるけど人生で一番楽しかったよっ!」

「なんだそれ」

 ……でも、よかったほんとに。

 俺の心の片隅に、ホッとしている醜い自分がいた。


————こいつが、成仏しなくてほんとうによかった、と。


「あっ、海だ!」

 俺の考えを吹き飛ばすように、エマが叫ぶようにそう言った。

 確かに、山を越えた先に、海が見える。

 オレンジ色の空を黒い大海が飲み込んで行くように、水平線の中に夕陽が沈んで隠れようとしていた。

「きれいだ」

 思わず口から漏れる。すると、エマは俺の方に顔を向け、

「仁っ、こっち来てっ! こっちの方がきれいに見えるよ!」

と言いながら俺の手を取った。

 相変わらず冷たい手。だがもう驚かない。

俺はエマが引っ張られるがままに彼女の横に腰かけた。

「ねっ! きれいでしょっ?」

「ああ、綺麗だ。なによりも、ずっと綺麗だ」

 俺は恥ずかしげもなく、あたりまえのようにそう口にした。

 だって、海に沈む夕陽なんかより、彼女の横顔はなによりも、ずっと……。

 俺はエマの手を強く握った。

「ねえ、仁」

 夕陽を見ながら、エマが口を開く。

「ん? なんだ?」

「たまにさ、こうやって手、繋ごうよ」

 エマは顔を真っ赤にしながらそう言って、俺の手を強く握りしめた。


 頂上から見えたあの景色は、一生忘れられそうにはなかった。



「おきてぇ~」

 体を揺さぶられる。でもその揺れは、ゆりかごみたいに眠りには心地良かった。

「じーん、おきてぇ~」

 エマの声だ。

 朧げな意識の中、うっすら目を開く。

 あやふやな視界の中には、エマの綺麗な顔がぼんやりと見えた。

 エマだ。夢の中でも、エマに会えた。ん? 夢?

「冷たッ!」

 冷たさのあまり意識が覚醒する。はっきりと目を開けると、エマがいたずらな顔をしながら、俺の頬をむぎゅっと両手で挟んでいた。

 どうやら寝ぼけていたようだ。さっきまで夢と現実の狭間にいたらしい。

 俺はエマにジト目を向け、口を開く。

「にゃにすんだよ」

 エマに頬を強く挟まれているせいで上手くしゃべれない。

そんな俺の無様な姿を見てか、エマは声を上げながら笑い出した。

「あははははっ!」

「なに笑ってんだよ」

 俺はエマの両手を掴んで顔から離し、照れ隠しするように強い口調でそう言う。

「あははっ‼ だって、にゃにすんだだよぉ。にゃにってなに~ 可愛すぎだよぉ」

 しかし、エマの笑いは止まらなかった。

「にゃんだとっ! あっ。」

「あはははっ‼ 今度は、にゃんって言ったぁ~ あはははっ‼ クセついてるぅ~」


 数分してツボに入ったエマの笑いがやっと止まり、俺らは揃って食卓につく。

 食卓には、エマの作った朝飯が並んでいた。

「「いただきます」」

 手を合わせ、声を揃えてそう言って、箸を持つ。

今日も今日とて、エマの作る飯はどれも美味しそうだった。

 オカンが死んでからは、朝飯を食う習慣なんて無くなった。朝はギリギリまで寝て過ごすのが普通で、朝飯を食うゆとりなんて、時間的にも精神的にも全くなかった。

でも、エマと一緒に暮らすようになってからは、時間的にも精神的にもゆとりができて、また朝飯を食べるようになった。

前、何かのテレビで見たんだが、朝飯を食べる人の方が、朝飯を食べない人より、幸せの割合が高いそうだ。ほんとにこれは、全くその通りだと思う。

まあ、結局なにが言いたいのかというと、俺は今、最高に幸せだった。

 まだ寝ぼけているのか、そんなことを考えていると、

「なに、にやけてんのぉ~?」

 と、エマが箸を置いて尋ねてきた。

 くそ恥ずい。どうやら顔に出ていたようだ。

 俺は誤魔化すように口を開いた。

「別に飯がうまいからニヤケてただけだ。気にすんな」

 ……うん。ぜんぜん誤魔化せてないな。

 自分で言ってて、自分でなに言ってんだと思った。

ああ、顔が熱い。耳が赤くなっているのが自分で分かる。

 エマは俺の答えに目を細めて、ふふふと笑う。

「それなら良かった。ほんと仁は毎回美味しそうに食べてくれるから、作り甲斐があるよ」

 俺は頭をかく。

 このままこの話しを続けるのは、だいぶ照れくさい。それになんだか余計なことを言ってしまいそうだ。

なので俺は「そういえば」と言って、話題を変えた。

「おまえが見たいって言ってた映画なんだっけ?」

 俺の急な話題転換に、エマは一度首を傾げるもすぐに答えてくれた。

「ローマの休日だよ」

「あ、それだ。見たことないけど、有名なんだろ?」

 俺の言葉に、エマは目を見開く。

「あ、当たり前だよっ! 70年以上経っても、色褪せない名作だよぉ」

そして、胸の前で手を組んで純真な表情をしながら言葉を続けた。

「私、オードリーヘップバーンのアン王女にずっと憧れてるんだぁ。彼女みたいに、綺麗で、強くて、可愛らしい人になりたいんだよねぇ」

 エマの憧れ、オードリーヘップバーン。

 彼女の表情を見てそれがどれくらい本気なのかは十分過ぎる程伝わった。

「……オードリーヘップバーンか。なんだか春日と若林のコンビの進化系みたいな名前だな。やっぱ『トゥ、トゥ、トゥ、トゥゥースッ!』みたいな感じの一発芸持ってんの?」

 俺が人差し指を突き出しながら自作の「トゥース」の進化系を披露するも、エマには全く刺さらなかったようで、逆に頭を抱えていた。

 こいつゲラだから、なんでも笑うと思ったんだがな。

 俺はスベッたのを誤魔化すように、ごっほんとわざとらしい咳払いをした。

「とにかく、今日それ借りてきてやるよ」

「え? ほんとっ?」

 エマは顔を上げる。彼女の瞳は期待するようにキラキラと輝いていた。

「ああ、俺も興味あるしな」

「じゃあ、今日の夜は映画鑑賞会だねっ」

 エマが嬉しそうにしながら言う。

「それならポップコーンも買ってくるか」

「あ、それいいねぇ」

 俺の提案にエマは大きく頷く。

そして満面の笑みで、

「いつか映画館にも見に行きたいねっ」

 と、そう続けた。

 たしかにこいつと映画館に行くのも悪くない。

 またひとつ、楽しみができた。


 エマの作ってくれた弁当をカバンに入れて、靴ベラで踵を潰さないようにしながら、丁寧にローファーを履く。

 そして、外に出て行く前に一度振り返って、いつものように見送りしてくれているエマに声をかける。

「じゃあ、いってくるな」

「いってらっしゃーい!」

 エマの元気な声。エマは、手がちぎれるんじゃないかと思えるくらいブンブンと手を振っている。

 そんな姿を見ながら心の中で、ふふっと笑う。まるで愛犬みたいだな。

 元気出た。よし、今日も学校頑張るか。頑張んないと、エマに学校での出来事を話せないからな。

 そんな昔じゃ考えられない前向きな気持ちで、クロスバイクに跨った。



 4限目の授業は、西郷の数学。

 こないだ行われた小テストの解説が終わって、一人ひとりにテスト用紙が返されていた。

「次、平石」

テストの点数を見ては、クラスのみんなが一喜一憂していく。

 今回のテストは、いつもに比べて少々難しく作ったらしいが、クラス平均はそこまで悪くなかったそうだ。

 そのせいもあってか、西郷はどこか機嫌がよさそうだった。

「はい次、比山」

 次は俺の番。名前を呼ばれて席を立ち、西郷のもとに向かう。

「比山にしては、よく頑張ったな」

 西郷はニヤリと笑って、テスト用紙を俺に返した。

 テストの点数を見ると、点数は48点だった。

100点満点中の48点。半分もとれていないし、平均点も72点だったから、別にいい点数とは全く言えない。優等生からしたらこんな点数、発狂しながらテスト用紙を破り捨てるか、ガチへこみして三日三晩寝込むほどのものだろう。

 だが俺はこの点数を見て、思わず頬が緩みそうになっていた。だって、48点は、俺の人生の中で一番高い点数だったから。

「最近は、生活態度も悪くないし、授業も真面目に聞いている。頑張ってるな」

 西郷はそう言って、俺の肩をポンポンと強く叩いた。

 西郷の誇らしげな顔は、俺の成長が自分のおかげだと言わんばかりで少々鼻についた。

 なので俺はふっと鼻を鳴らして、鬱陶しいと伝えるようにと軽く肩を回して西郷の手を退けた。

「あとは、髪を黒に染めれば文句ないんだがな」

 西郷は、肩をすくめるようにそう続けた。

 これは、俺のプライドだ。言葉に出さずにそう思いながら、どこか晴れやかな気分で踵を返して席に戻った。



 4限が終わって、昼休み。笑い声や叫び声、スピーカーから流れる部内連絡、誰かが点けたテレビに映る昼の情報番組。そんな雑多なざわめきが立つ教室で俺は、伊万里と晴太と3人で机を囲んで昼食をとっていた。

「で、さっきの小テスト何点だったの?」

 伊万里が、女子にしてはデカめの弁当箱をつつきながら訊いてきた。

「何点でもいいだろ、べつに」

 俺は素っ気なくそう答えた。

 俺からしたら、48点は自慢したくなる点数だが、こいつらからしたらお笑いものの点数だからな。

「いいじゃん、教えなさいよ。西郷先生から褒められるくらいの点数だから、べつに悪くないんでしょ?」

 伊万里は、口元をニヤニヤさせる。間違いなく俺をイジル気満々の様子だ。

 これ以上焦らして、ぐちぐち伊万里にいじられるのも面倒なので、俺はきたねえカバンを漁り、しわくちゃになったテスト用紙を机に出した。

「……48点。ぐすん。仁、頑張ったね」

「おお! すごいよ、仁っ! すごい成長だよっ‼」

 伊万里は出てない涙を指で拭いながらそう言って、晴太は興奮したようにそう続けた。

「なんだよその反応。お前らからしたら、こんな点数発狂もんだろうが」

 伊万里の態度はムカつくが、晴太が嬉しそうにしているのがなんだか恥ずかしくて、俺は思わず頭をかいてから、すぐにテスト用紙をカバンに引っ込めた。

「そんなことないって。ほら仁、あんたの前の数学のテストの点数、何点だっけ?」

「4点だね」

 伊万里の質問に、なぜか晴太がすぐに答えた。

 なんでこいつ、前回の俺のテストの点数知ってんだよ。

 俺は晴太にジト目を向けるが、晴太はさわやかにぐっと親指を立てた。

「4点から48点よ。44点も点数あげるなんてすごいじゃん。私には、到底無理だわ」

「それはお前の元の点数がいいから、上げ幅がないだけだろ」

「まあ、そうなんだけどねっ! ほら、私って天才だから! なははははッ‼」

 高笑いを上げる伊万里は、嬉しそうに言葉を続ける。

「仁、もっと勉強頑張りな~。そしたら、天才美少女幼馴染との素敵なキャンパスライフが待ってるかもよ~」

「どこに天才美少女幼馴染がいんだよ」

 こいつやっぱムカつく。

 俺は心を落ち着かせるように、エマの作ってくれた唐揚げを口に運んだ。

 よく味が染みたおいしい唐揚げ。エマの作る飯は、なによりも心を穏やかにしてくれた。

「でもほんと仁って、変わったよね」

「ん? なんだよ急に」

 晴太がしみじみ言ったので、俺は眉間に皺を寄せてすぐにそう言葉を返した。

「なんかやわらかくなったよ。言葉遣いとか、顔とか、雰囲気とか、いろんなものが」

「たしかにそれはわかるかもー。前はルブタンの財布くらいトゲトゲしてたのにね~」

「なんだそれ」

 そう言いながらも、自分でもなんとなくそれは感じていた。

 なんか前よりイライラしなくなった。それに少しだけ前に比べて大人になれた気がする。たぶん、毎日が充実しているからだろう。

 まあ、間違いなく、全部エマのおかげだった。

いつのまにかエマは、俺の中を大きく占める存在になっていた。

「もしかして、彼女とかできた~? ほら、女ができれば男はガラッと変わるって言うじゃない」

「たしかに。最近、放課後遊んでくれないしね。ありえるよ~」

「゛あ?」

 いじるようにして言う伊万里と晴太の言葉に対して、思わず声を上擦らせる。

「なにその反応? う、噓でしょ……?」

「えっ⁉ 仁、彼女出来たの? ぼぼぼぼ僕、きききき聞いてないよッ⁉」

 驚きすぎて箸を落とす伊万里と、興奮して口からおかずを飛ばす晴太。

 俺は箸をおいて、そんな2人に慌てながら声を荒げた。

「出来てねえよッ‼ 俺に彼女なんてできるわけねえだろッ‼」

 俺のあまりの慌てように、伊万里と晴太は面食らっていた。

エマは彼女なんかじゃない。

あいつは、ただの……。

……そうだ、ただの協力者だ。俺と、エマは協力関係。利害が一致して協力しているだけだ。決して、彼女なんて、そんな浮わついた関係なんかじゃねえ。俺とエマの間に、愛だの、恋だのなんてねえんだ。

だってあいつは、幽霊だから。あいつは、成仏したいんだから。

そう、それは俺の想いと——————


「仁?」

「どうかした?」

 急に押し黙ってしまった俺に、伊万里と晴太が心配したように声をかける。

 俺はそれに無理やり笑って、

「とにかく彼女なんて出来てねーよ」

 と、自嘲するように言った。

 すると、それにまた伊万里が笑い出す。

「なはははッ! そりゃそうだ。完璧美人の私に彼氏がいなくて、仁に彼女がいるなんてそんな天変地異起こるわけないしな~ なはははッ!」

「……伊万里」

 そんな下品に笑う伊万里を、俺と晴太は憐れみの目で見つめた。


待ちに待った放課後。

 SHRが終わると、すぐに伊万里と晴太に今日こそは遊びに行こうと声をかけられたが、今日も無理だと断った。

 伊万里には『放課後に遊びに行かないヤンキーなんて、エセヤンキーだ』と嘆かれたが、今はラウワン行ってボーリングやスポッチャで遊ぶより、快活行ってビリヤードやカラオケではしゃぐより、エマとふたりでただ一緒に過ごしたかった。

鼻歌交じりにクロスバイクを漕いで、レンタルDVD屋に入って行く。

エマの言っていた、ローマの休日はレンタルコーナーにはなく、オール500円の販売コーナーに置いてあった。レンタルが旧作7泊8日100円に対して、購入は500円。そう考えると、少しお高い気もするが、エマが激推しする作品だ。

それなら思い切って買うのも悪くない。そう決心した俺は、レジ横にあったキャラメルポップコーンと一緒にDVDを購入した。

よし、準備万端。

俺は遠足前の子供のようにワクワクしながら、エマの待つ我が家に帰った。


「おかえりぃー」

 扉を開けるとすぐに、エマが玄関まで来て出迎えてくれた。

「ただいま」

 俺はそう言葉を返して、エマにDVDの入った袋を渡す。

「これって、ローマの休日?」

「そう。レンタルなくてさ、500円で売ってたから買ったんだよ」

 エマは袋からDVDを取り出して、パッケージに目をやった。

「おぉっ、これ吹き替え版じゃん! 私、字幕でしか見たことなかったからうれしぃ」

 エマは頬を綻ばせながらそう言った。

「それならよかったわ。俺、洋画は絶対、吹き替え派だからな」

「へえ~そうなんだぁ~。私は、どっちも好きだなあ。吹き替えは画面に集中できるし、字幕は俳優さんの生の声聞けるし、どっちもいいところあるよね」

「なんだぞのうすっぺらい映画評論家みたいな発言わ。どう考えても洋画は、吹き替え一択だろ。字幕って疲れんじゃん」

「疲れないよぉ。ほらそれに、字幕って英語の勉強にもなるんだよ。私、映画のおかげで少しだけ英語話せるようになったんだから」

「映画でまで勉強したくないわ。てか、少しだけ英語話せるって……エマって英語ペラペラ喋れないのか?」

 俺がそう尋ねると、エマは眉根を寄せた。

「それってハーフに一番聞いちゃダメなんだよ。魚嫌いのお寿司屋さんがいるように、お酒嫌いのバーテンダーさんがいるように、ハーフでも英語が話せない人だっているんだからねっ!」

「要は、見掛け倒しハーフってことか」

「なによっ! 自分だって、心優しい見掛け倒しのエセヤンキーじゃん!」

「誰がエセヤンキーだよっ! タイマンすっか、コラッ⁉」

「あはははっ、なにそれ~ よっし、かかってこーい!」

 エマは笑いながらそう言って、両手を広げた。

 ……なんだそれ。それはただのハグ待ちの姿勢じゃねえか。

 飛び込んで抱きしめたい気持ちもほんの少しはあったが、圧倒的に恥ずかしさが勝って、俺はエマをスルーする。

「……いくじなし」

 エマのその小さな呟きは、俺の背中に突き刺さった。



「ごはんできたよぉ~。お待たせぇ」

 30分も待たずして、エマが夕飯を作ってくれた。

 ローマ気分を少しでも味わうためにと、今日のメニューはカルボナーラ。

とても手作りとは思えないほど本格的。チーズの匂いがこれでもかと鼻孔をくすぐり、早く早く口に入れろと体が騒いでいた。

「相変わらず、美味そうだな」

「今日のカルボナーラは、卵黄とチーズだけで作ったんだよぉ」

 エマが席に着きながら、自慢げにそう言った。

「あれ? カルボナーラって生クリーム使うんじゃないのか?」

 以前、料理サイトを見ながら見様見真似で作ったカルボナーラは、生クリームをたっぷり使った記憶があったんだが。

「うんん、本場は生クリーム使わないんだよ。イタリアの人からしたら、生クリーム使うカルボナーラは、カルボナーラじゃないらしいよぉ」

「へえ、そうなのか。知らなかった」

「さっ、ソースが固まっちゃう前に早く食べよっ」

「おう」

エマの言葉に頷いて、フォークを持って手を合わせる。そして、ふたりで一緒に『いただきます』と声を揃えた。

 フォークでパスタを巻いていく。ソースが濃厚すぎるせいかフォークが少し重く感じた。

 うんまっ! まじで美味すぎる。これはやばいっ‼

「もうフィレンツェって感じだな」

 俺が思わずそう言うと、

「それを言うなら、ローマって言ってよ」

 エマは頬を緩ませながらそう返してきた。

 まあ、正直、どこでもいいくらい美味しかった。

 あまりの美味しさにしばらく無言で食べ進めていると、エマがいったんフォークを置いて口を開いた。

「で、今日の学校どうだった?」

 エマのいつもの問いかけ。俺は今日会った出来事を思い返しながら、嘘はつかずにそれに答えた。

「今日も寝ないでちゃんと真面目に授業受けたぞ。5・6限目は危なかったけどな」

「寝ないで、真面目に授業を受けるのは当たり前のことですっ。あ、そうだ。今日、数学の小テスト返って来るって言ってたよね? 何点だったの?」

俺は一度席を立ちカバンを漁る。そしてテスト用紙を取り出して、エマに渡した。

「頑張ったね」

エマはテストの点数を見て、笑顔でそう言った。

「まあな。最近は真面目に授業聞いてるからな」

俺はドヤ顔しながら鼻をかく。するとエマは呆れたように肩をすくめた。

「だから授業を真面目に聞くのは当たり前だって。それに点数だってまだまだだからね。調子にのらないよーにっ」

「はいはい、分かってるって。あ、でも、今日英語の授業で当てられて、初めて答えられたんだぜ」

「おぉ~! それはすごいね!」

「まじでさ、今までずっと授業中に手挙げて答えるやつらのことなんか、内申点稼ぎの真

面目君か、目立ちたがり屋のキモいやつとしか思ってなかったけど。意外とあれって答え

られると気持ちいもんなんだな。少しあいつらの気持ちわかった気がするぜ」

俺がしみじみそう言うと、エマはニィーっと目を細めて笑った。

「よかったね、エセヤンキー!」

「だれがエセヤンキーだよッ!」

 

チーズたっぷり濃厚カルボナーラは結構ずっしりして重かったが、美味しすぎてあっさり完食できた。なんならお代わりできるほど余裕だった。

そんで食事を終えた俺らは、さっさと皿洗いに、テーブル拭きに、風呂掃除に、洗濯と、やること全部終わらせて、映画に備える。

 部屋を真っ暗にし、買ってきたキャラメルポップコーンと、アイスティーをテーブルにセット。そして仲良く、エマと肩が触れるくらいの距離でソファーに深々と座り込んだ。

準備は万端。

さあ、それではと意気込んで、いよいよ待ちに待った『ローマの休日』を見始めた。



『……ローマです。何といってもローマです。

私はこの街の思い出をいつまでも懐かしむでしょう』

 シーンはクライマックス。エマにばれないように小さく鼻をぐすんと啜らせる。俺の目許には涙が溜まっていた。


 王女と、売れない記者の恋物語。

 はじめは決して良い出会いなんかじゃなくて、利害関係の一致から始まったふたり。

だが、それでもふたりは徐々に惹かれ合い、キスをし、想いを伝え合う。

 ……それでも、ふたりは立場が違った。『王女』と、『売れない記者』。ふたりは決して結ばれない運命。

 この映画は、最初から結ばれないと結末がわかっていた悲しい恋の物語だった。

 

ふと、エマの横顔を伺う。

 エマの綺麗な青い瞳は、暗い部屋の中でも、涙に濡れてきらきらと輝いていた。

「泣きすぎだろ」

 俺は思わず笑ってそう言って、エマの手をぎゅっと握る。

相変わらず冷たい。寒くて冬みたいな手だ。

俺の心は、ぐるんぐるんと複雑な感情が回っていた。


 エンドロールが流れていく。

 エマは画面から目を離さずに、俺の手を少し痛いくらいに強く握り返してきた。

 そしてぐすんと大きく鼻を鳴らして、強がるように口を開いた。

「あー。これ見たらジェラート食べたくなっちゃう」

その声は明らかに上擦っていて、可笑しいくらいの涙声だった。

……なんだそれ。可愛すぎんだろ。

 エマはテーブルの上にあったケースからティッシュを2枚とり、涙を拭いて鼻をかむ。

 そして、顔をこちらに向けずに、

「どうだった、ローマの休日?」

 と、俺にそう尋ねた。

 俺はそんな彼女の姿に、ふっと笑ってそれに答える。

「最高だった。切なくて、なんかよかった。もう、生涯の映画大賞受賞ものだったわ」

「ふふっ、生涯って。それを決めるには気が早すぎるよぉ。まだ仁の人生は長いんだから」

 俺の言葉に、エマは微笑みながらそう返した。

 そんな彼女の横顔は、笑っているはずなのに少しだけ寂しそうに見えた。


 ああ、こんな時間がずっと続いて欲しい。

 こいつとの毎日は輝いている。俺の心は充実している。どう考えても幸せだ。

 ああ、エマとの時間がずっと続いて欲しい。それだけで俺は十分だ。


———でもそれは、俺の醜いエゴ。

ズキンッと締め付けられるように胸が痛む。

 

 エマは成仏したがっている。

 彼女はやっぱり『幽霊』で、『生きてる』俺とは違う存在。

 この映画のふたりと同じなんだ。俺とエマの立場は違う。そう、俺らの結末は最初から決まっている。ハッピーエンドには、なりえない。

 だから、この俺の感情は醜いもの。恋とか、愛とかでは決してない。

 だってこれが恋なら、こんなに苦しいわけがない。だってこれが愛なら、こんなに辛いわけがない。


 だから俺は、この醜い感情に鍵をかけて、胸の奥深くに閉じ込めた。


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