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冬来たりなば、春遠からじ  作者: ぽぽぽーん
2/2

後半



 今日は土曜日。学校のない休日だ。

 時間は午前7時前、なぜだか今朝は珍しくエマより早く目が覚めた。

 さっさと顔を洗って、寝癖を直す。

「たまには俺が朝飯つくるか」

 そう思い立った俺は、あまり使い慣れていない台所の前に立った。冷蔵庫を開ける。冷蔵庫の中身からして、うーん。卵料理が無難かな。

いつもエマが作るような大層なもんは作れないが、玉子焼きくらいならできるだろうと、卵を4つ取り出してかき混ぜた。


 ごとごとロフトから物音がする。どうやらエマが目覚めたようだ。

 エマはロフトから顔だけ出して、すぐに俺を見つけると、申し訳なさそうにしながら口を開いた。

「仁、おはよう。ごめん寝過ごしちゃったぁ」

「ああ、おはよう。気にすんな、俺が早く起きただけだ」

 俺がそう言うと、エマは壁掛け時計を見た。

「え? あ、ほんとだぁ」

 時間はまだ、7時過ぎ。

 エマは驚いたような顔をしながら、ロフトから降りてきた。

「朝飯作ったから、さっさと顔洗ってこいよ」

 エマは食卓を見つめる。

「えっ? 朝ごはんまで作ってくれたの? ありがとう~、嬉しぃ」

満面の笑みでそう言って、小走りで洗面所に向かって行った。


「「いただきます」」

 俺の作った朝飯を、エマは口に運ぶ。

「おいしいぃ~」

「それならよかった」

 どうやらエマのお口に合ったようだ。

「これなんていう料理?」

 エマは俺の作った朝飯のどんぶりを掲げながらそう尋ねる。

 俺は少し考えて、

「スクランブルエッグ丼ソーセージを添えて。だ」

 と、自信満々にそう答えた。

 そう、玉子焼きではなくスクランブルエッグ。卵は四角い形なんかにはならずに、ぐちゃぐちゃにスクランブルした。

そもそも、あの卵焼き専用の四角いフライパンなしで、玉子焼きをつくるなんて料理スキルゼロの俺からしたら無理な話だった。

もうなんでもいいやと開き直った俺は、レンチンした冷凍ごはんに、少し焦げたソーセージ、適当にちぎったおしゃれな葉っぱ、そして卵焼きのなれの果てのスクランブルエッグ、それら全部をどんぶりに突っ込んでみた。そしたら、なんと意外にも美味そうなのができてしまったのだ。

「ほんと美味しいよ~。ソーセージ丼スクランブルエッグを添えて」

「いや、逆な。スクランブルエッグ丼ソーセージを添えて、だから。あくまで主役はスクランブルエッグだ」

 エマは「どっちでもいいよぉ」と言って箸を進め、ふふっと幸せそうに笑っていた。


 朝飯を食べ終わり、ひと段落する。

 インスタントのコーヒーを2人分用意して、1つをエマの前に差し出した。

「ありがと」

「おう」

 そう短く言葉を返し、エマの横に腰かける。

 エマはテレビで何か面白いものはないかと、ころころとチャンネルを変えていた。

「あのさ、エマ」

 俺はそんなエマに声をかける。するとエマはすぐにリモコンを机の上に置いた。

「どうしたの?」

「今日、どっか行かないか?」

「ん? どっかって?」

「どこでもいいぞ。エマが行きたいとこならどこでもいい。成仏大作戦だ」

 俺がそう言うと、エマはボソッと、

「……成仏」

 ぎりぎり俺に届く声量で呟いた。

「エマ……?」

 彼女の表情は、少しだけ俺を不安にさせる。

 しかし、エマはすぐに「うんん」と言いながら首を左右に振って、俺の不安をかき消すように、にっこりと微笑んだ。

「あっ、そうだ! 熊本駅の、あの新しくできたショッピングモール行きたいっ」

「ああ、アミュか。いいな」

 アミュプラザ。去年、熊本駅近くにできた大型ショッピングモールだ。

 俺も何度か訪れたことがある。

「うんっ、それ! そこでぶらぶら散策デートしよっ」

 エマはそう言って、いじわるそうな顔して俺を見つめた。

 俺は思わず、コーヒーを吹き出しそうになる。

「デートじゃねえからッ! 成仏大作戦だからなッ!」

「はいはい。ほんと仁は、可愛いねぇ~」

 エマはテーブルの上に身を乗り出して、俺の頭を「よしよし、かわいぃかわいぃ」と言いながら撫で始めた。

「おいっ、な、なにすんだよ」

 俺は照れくさくなって、エマの手を優しく叩く。

「ええ~、いいじゃーん」

 エマは不服そうにぶうーっと頬を膨らませた。

「ほら、早く準備していくぞ。あそこすぐに人いっぱいになるからな」

「はーい。準備しまーす」

 エマは大きく手を上げそう言って、

「あっ、そうだ、仁。今日は目一杯おしゃれしてね」

 と、続けた。

 俺はその意味を汲み取ることはできなかったが、とりあえず頷いておいた。


 普段はあまりしない髪の毛をセットするために、洗面台の前に立つ。

どんな髪型にするか迷った結果、服に合わせてアップバンクにすることにした。

今の俺の服装は、オーバーサイズのオープンカラーシャツに、テーパードパンツのセットアップ。そして靴は、マーチンの8ホールブーツ。インナーの白T以外は、全部黒でまとめたモード系の俺の本気コーデだ。はしゃぎすぎて室内でもう靴を履いていたりもする。

 濡れた髪を、温風で前髪を上げるようにブローしていく。

しばらくブローし、良い感じに前髪が上がったら、次に少しだけワックスを手に取って、後頭部、トップ、サイド、前髪の順にワックスをつけて、シルエットを整える。そして最後の仕上げにスプレーをこれでもかと吹きかけて、髪型をガチガチに固めた。

 よし、完璧。服に合ってる、さすが俺。

「エマ準備できたぞ~」

 俺は自信満々で洗面所のドアを開け、エマを大声で呼んだ。

「はーいっ」

 エマはすぐに小走りでやってきた。

「おお~」

 そう声を上げながら、俺を品定めするように見つめていく。

 そして一通り見終えたら、ニコッと笑って口を開いた。

「75点!」

「意外と辛辣だなっ‼」

 俺は不服感を出しながら声を荒げる。

 エマは俺の肩にポンッと手を置いた。

「少し、ガラが悪すぎますねぇ~」

「どこがだよ。髪上げて、シャツにブーツの組み合わせは真面目そうだろ」

「ぜーんぜん。怖いよ、怖い。その金髪とその服装は、こわもてオーラがあふれ出ています。あと背、大きすぎっ!」

 エマはおもいきり背伸びするも、俺の目線には程遠かった。

「まあブーツ履いてるからな。たぶん今、185くらいはあると思う」

「でかっ! もうプロ野球選手じゃんっ! ……ん?」

 エマは首を傾げる。

 そして、目を見開き、俺の靴を見つめながら声を荒げた。

「てか、なんで部屋の中で靴履いてんのっ⁉」

 俺は、ちっちっちっと指を振った。

「分かってないな~、エマ。ファッションってのはな、足元から始まんだよ」

 エマは目を細める。そして、ちっちっちっと振っていた俺の人差し指を痛いくらいに強く掴んだ。

「は・や・く、靴脱ぎなさいっ! 床が汚れるでしょっ。もうっ、掃除してるのは誰だと思ってるの!」

 エマのあまりの圧力に、俺はそっと靴を脱いだ。

 一応、言っておくが、別にビビったわけじゃないからな。



市電に乗って、ゴトン、ゴトンと揺られながら、目的地に向かって進んでいく。

 車窓に流れる、上通りのアーケード商店街や、復興中の熊本城を眺めながら、俺とエマは横並びに座っていた。

「それにしてもチンチン電車って、地元民も乗るんだねぇ~」

「そりゃ乗るだろ」

「そうなんだぁ~。チンチン電車って、観光用の乗り物だと思ってた。私、初めて乗ったよぉ、チンチン電車~」

「そりゃよかったな」

 俺は肩をすくめてそう言う。

 エマは楽しげに『チンチン電車~、チンチン電車~♪』と口ずさんでいた。

 俺ら熊本県民からしたら、市電(路面電車)は身近なものであるが、県外の人からしたら珍しいものなのだろう。俺らで言うところの地下鉄みたいなもんかな。

 ちなみに熊本県には地下鉄がない。熊本市内での主な通行手段は、マイカーか、市電、バス。なので、我々熊本県民は、地下鉄という未知の乗り物にすこし憧れを抱いていたりもする。 

 まあ、そんなことはさておき。今はそれより気になることがあった。

「さっきからチンチン、チンチンうるせえな。なにお前、欲求不満なの?」

 今時、市電のことをチンチン電車なんて呼ばないんだよなあ。

 俺が呆れながらそう言うと、エマは顔を真っ赤に染めて、慌てたように口を開く。

「違うよっ! 私が言ってるのは、チンチン電車のチンチンっ! 仁が想像してるチンチンの方のチンチンじゃないからっ、変態っ!」

「変態はお前だろうがッ。チンチンどんだけ連呼すんだよッ」

 俺はツッコむようにそう言った。


『————ごっほん。』

急に俺の右隣に座るおばさんが咳ばらいをしてきた。

 なにごとかとそちらを振り向く。するとそこには、咳払いをしたおばさんをはじめ、車内にいる多くの乗客が蔑むような目で俺を見ていた。

 ん? 何事だ?

 どうしたんだと考え込む。

……あっ。

 しかし、よくよく考えてみると、エマは俺以外には見えないし、声も聞こえない。

なので、周りから見たら今の俺は、ひとりで『ちんちん』と連呼している、完全にヤバイ奴だった。

 もしかしたらたまに見かける、人生に疲れ果てたようにしてブツブツと、ひとりでなんか言ってるヤバそうなおっさんも、あれって幽霊と会話していたのかもしれないな。

……うん、そんなわけないか。

そうこうしている内に『次は熊本駅前。熊本駅前です』という女性のアナウンスが流れた。

そのアナウンスからしてすぐに熊本駅前に辿り着く。大人ひとり分、170円を払って電車を降り、そこから俺とエマはいそいそとショッピングモールに向かって歩いた。

目的地に辿り着いた俺たちは、正面入り口から中に入る。

するとすぐに、落差10メートルある人工の滝が歓迎するように待ち構えていた。

 清涼感のある音をたてながら流れ落ちる大量の水。周りに配置された緑々した木々たちも相まってか、まるで大自然の中にいるかのようだった。

「すごーい」

 エマがひっくり返るぐらいに首を真上に傾けながら、感嘆の声を上げる。

 まるで高層ビルを見上げる田舎者だな。

 そんなことを思いながら、俺は苦笑いを浮かべた。

「すげえだろ。それって、小国の鍋ヶ滝をモチーフにして作られたらしいぜ」

「ああ~、鍋ヶ滝。知ってる、知ってる。あの、お茶のCMのところでしょ?」

「そうそう。滝の裏にも入れて、春にはライトアップもされる、めっちゃ綺麗な場所なんだぜ」

「へぇ~、そうなんだっ! 行ってみたいなぁ」

 エマは子供のような表情をしながらそう言った。

「そうだな。でも、今日は滝じゃなくて、買い物だ。そろそろ行こう」

 俺は先に歩き出す。エマも滝から目を離し、俺の後をついてきた。

 エマは自然が好き。また新たな一面を知れた。

「で、どこ行きたい?」

 歩き出したはいいが、どこに行くかは決めていない。

 こうゆうときに、まずどこから回ればいいかなんて俺には皆目見当もつかない。なので、とりあえずエマに主導権を譲るようにそう訊いた。

 エマはうーんと言いながら、首を傾げる。

「下の階から回っていく?」

「そうだな」

 まあ、それが無難か。

「下の階にはなにがあるの?」

「ちょっと待ってくれ」

 俺はスマホを取り出して、フロアガイドを調べる。

 そして、それを適当にざあーっと眺めながら、エマの興味がありそうな店名を上げていく。

「アーバンリサーチ、ユナイテッドアローズ、ビームス、ハレ————」

「最初に、服はちょっといいかなぁ」

 エマは申し訳なさそうにしながら言う。

 たしかに服見るのって、なんかいらん気合入るし、試着とかすると意外と疲れるからな。いきなり服を見るのは俺も嫌だ。俺は『そうだな』と頷いて、さらにスマホをスワイプ

していく。

「フランフラン、ステラおばさん、コスメショップ、パン屋、カルディ——」

「あっ、はいっ! カルディ行きたいですっ!」

 エマは元気一杯に手を上げた。

 最初にアパレルとかコスメとか選ばないあたり、なんかエマらしいなと思った。

「よし、じゃあそこから回って行くか」

「うんっ!」

 人混みのなかを、波に乗るようにして進んでいく。

 今日は土曜日ということもあり、うじゃうじゃと人がいた。

 俺が人を風除けするようにして、エマの前を歩いていると、ふとエマが俺の手を握った。

 俺は少しびっくりして、思わず後ろを振り返る。

エマは顔を紅くしながら、慌てたように口を開いた。

「は、はぐれちゃいそうだったからっ! ……だめ?」

 顔を真っ赤に染めたエマの上目遣い。

「ダ、ダメじゃねえよッ」

 胸がバンッと撃ち抜かれたような気がして、早口で俺はそう返した。

 エマは嬉しそうに、ふふふと笑った。

「こ、これは、あくまで、はぐれたら面倒だからだぞ。……決して、恋人の手繋ぎなんかじゃねえからな」

俺は一体、誰に言い訳しているんだと、自分でそんなことを思いながら、エマの手をぎゅっと握り返した。


「なに買うんだ?」

 カルディに入って店内を巡る。

視線をせわしなくさ迷わせているエマが気になってそう訊く。

エマは頬に手を当て歩きながら考え込み、目の前に冷蔵コーナーが見えると、

「あっ、チーズみたいっ!」

 と声を上げ、歩みを速めた。

 冷蔵ショーケースの中には、チーズをはじめ、生ハム、サラミ、ソーセージなど酒のつまみが沢山並んでいた。

 エマはその中から、名前を聞いたこともないようなチーズを手に取る。

細長い三角の形をした、真っ白なチーズ。パッケージには、『ペコリーノ・ロマーノ』と書かれ、ヤギの写真が載っていた。

「なんだそれ、おいしいのか?」

 俺がそう訊くと、エマはどこか自慢げな顔をした。

「うんっ。おいしいよぉ」

「へえー」

 こういうオシャレなチーズってあんまし馴染みないんだよなあ。

俺の中でこういうチーズは、ワインとかのつまみのイメージが強い。おしゃれな大人か、イキった大学生が買うものという認識だった。

「やっぱこれってそのまま食うのが一番いいのか?」

 俺がそう問いかけると、エマは、

「んー、そうだね~」

 と前置きして、したりげに言葉を続ける。

「そのまま食べるのもおいしいけど、これって少ししょっぱいからね。やっぱりパスタソースにするのが一番かなぁ」

「パスタソース?」

「うんっ。それこそ本場のカルボナーラソースは、このペコリーノ使うんだよ」

「へえ~」

「こないだ作ったやつは妥協して、パルメザンの粉チーズで作ったけど、これ使ってたら3倍は美味しくなってたと思うよ」

 さ、さ、さ、さんばいっ⁉ ……なん、だと……?

 あのバカ美味かったカルボナーラの3倍なんて、あ、ありえるのか。もし、そんなの食ってしまったら、俺がエマより先に天に召されてしまうんじゃないのか……。

 俺はペコリーノをじっと見つめる。

 ……いや、天に召されてもいいんじゃないか。

「よしっ、買おうッ‼」

 俺はそう決心した。

「どうする5つくらい買う?」

「そんなにいらないよぉ」

「じゃあ、3つ?」

「1個でいいですっ」

 エマは呆れた顔でそう言った。


 レジにできた長い列に並び、お会計を済ませる。

 結局買うことになったものは、ペコリーノ1つと、瓶のジンジャーエール2本だった。

「んっ」

「ああ」

店をでると同時に、頬を紅く染めたエマが俺に左手を差し出してきた。

 俺はカルディのオシャレな紙袋を左手に移し、平静を装いながらエマの冷たい手をそっと握った。

 そしてまた、手を繋いで人混みのなかを歩き始める。

「つぎは、どこいこーか?」

「んー、そうだなー」

「つぎは、仁の行きたいとこいこうよ」

エマは俺の顔を覗き込むようにしてそう提案してきた。

うーん。俺の行きたいところかあ……正直、行きたいところは別にないし、欲しいもの

も特にない。だが、こうゆうデートで自分の意見を言わない男はダメだと、前なんかのテレビで見た気がする。まあ、これはデートじゃねえけど。

 しばし考え込む。

「キャンプ用品とかみたいかも」

 必死に考えを巡らせた結果、俺は適当にそう答えた。

「キャンプ用品、いいねっ。おもしろそぉー、行きたいっ、行きたいっ!」

 どうやらお眼鏡にかなったようで、エマは興味ありそうなご様子だった。

「じゃあ3階行くか」

「うんっ」


 エスカレーターに乗って、アウトドアメーカーのある3階に。

 俺らはキャンプ用品が豊富に揃った店に入り、ぐるぐると店内を巡っていた。 

ふとエマが立ち止まる。彼女の視線の先には、座り心地が良さそうなローチェアがあった。

「座ってみろよ」

「いいのかな?」

「ちょっと座るくらいならべつにいいさ」

 俺がそう促すと、エマは「それじゃあ」と言って、スカートを気にしながらゆっくりとローチェアに腰かけた。

「おお~」

「いい感じか?」

「めっちゃいい感じぃ~、ちょっとほしいかも。これに座って焚き火したーい」

エマは満面の笑みでそう言いながら、リラックスしたように足を伸ばし、リクライニングを少しだけ倒した。

「同じようなローチェアなら実家にあるぞ」

「へぇー。仁、キャンプとかするんだぁ」

「ああ、結構やるぞ。ソロキャンとかな」

 俺の唯一の趣味、ソロキャンプ。

最近はまったく行っていないが、以前は月1程度にはひとりでキャンプに行っていた。

ソロキャンプは、大自然のなかで誰ともかかわらず、気楽で自由に過ごすことができる。

ソロキャンプをしているときだけは、日頃の悩みや、鬱憤、不安など嫌なことを全部、すっぱりと忘れられて、ひとりでもいいんだと肯定されているような気がするから好きだった。

だからまあ、エマと一緒に暮らすようになってからは行く必要がなくなったわけだ。

「いいな~、キャンプ。大人の趣味って感じがする~」

 エマがしみじみ呟いた。

 身体が弱かったエマのことだ、もちろんキャンプの経験なんてないだろう。俺の頭の中で、大自然に、焚き火に、テントに、星空にと、はしゃぐエマの姿がすぐに想像できた。

「じゃあ今度行くか? おすすめの俺流キャンププランがあるんだ」

 俺は自慢げにそう言う。するとエマは目をキラキラと輝かせた。

「俺流キャンププラン……?」

 エマの嬉しい反応。俺の頬は思わず緩んだ。

「目的地は、小国でな」

「小国って、阿蘇にある?」

「そうそう。だが、まずキャンプ場に向かう前に、道中にあるジェラート屋に行くんだよ」

「ジェラート⁉」

 案の定、エマがジェラートに食いついた。ローマの休日を見た時もジェラート食べたいって言ってたしな。

「そう。搾りたてジャージー牛乳専門店があってな。そこのジェラートはレベチで美味いんだよ」

「さいこうじゃん。食べたいっ!」

 エマは前のめりになる。そんな興奮した姿に思わず、鼻でふふっと笑ってしまう。

「で、そのジェラートをしっかりと堪能した後に、いよいよキャンプ場に向かう」

「おお~」

「俺のおすすめのキャンプ場はな、景色がいいのは大前提として、値段が安い割に設備がちゃんとしてて、温泉浴場なんかもあるんだ」

「へぇー、いいねっ!」

「だが俺流キャンププランでは、そこの温泉には入らない。焚き火して、キャンプ飯食って、大自然を十分楽しんで、これぞキャンプってのを満喫したら、温泉浴場を無視してそこを去る」

「えぇー? なんで温泉入んないのぉー?」

 コロコロと変わるエマの表情。話していてとても面白い。俺は思わずニヤリッと笑った。

「そんなのそこ以上に、最高の温泉があるからに決まってんだろ」

「さいこうの温泉?」

 俺はスマホの写真ホルダーを漁り、1枚の写真をエマに見せる。

「えっ、すごいっ。お湯が青いよっ⁉ きれいだねっ‼」

 俺がエマに見せたその写真は、山の裾野に広がるホワイトブルーのお湯が張られた絶景の露天風呂だ。

「ここって貸し切りの家族風呂だから、この温泉、この景色をひとり占めできるんだぜ」

「すごすぎじゃんっ‼ ……ん? でも貸し切りの家族風呂ってことは……」

 何かに気づいたように、急にエマがジト目を俺に向け、

「仁と一緒にそこに行くなら、一緒にその家族風呂入るってことじゃん。……えっち」

 と蔑むように言ってきた。

「ちげーよッ! そんな下心があってここを勧めたわけじゃねえッ‼」

 俺は必死に弁解するように声を荒げる。

 すると、エマは、ふふふっと笑った。

「わかってるよぉ。もう、そんなに必死になっちゃって。可愛いねぇ~」

 こいつ、絶対俺のことなめてるし、めっちゃ馬鹿にしてる。

 まあ、だが不思議とそんなエマとの関係は心地よかった。

「でも、ほんと熊本っていい場所いっぱいあるよね」

「ああ。九州は福岡一強と思われがちだけど、俺は熊本も充分張り合えると思ってる」

 やっぱり、自分が生まれ育った場所を褒められることは嬉しい。俺はにやけながら自信満々にそう言う。するとエマは、拗ねたように眉根を寄せた。

「佐賀だって負けてないよっ!」

 俺はエマのその言葉に思わず、ふっと鼻で笑ってしまった。

「ああ~、バカにしたっ!」

 エマは思いっきり頬を膨らませる。

 その姿は愛らしくて、俺はますます揶揄いたくなってしまう。

「じゃあ、佐賀の良いところ行ってみろよ」

「…………。」

 俺の問いかけに、エマは真一文字に口を結び、険しい顔して押し黙った。

 しばしの沈黙……。

「い、いや、あるだろっ! ほら、佐賀牛とか、呼子のイカとか」

 何も答えないエマになんか申し訳なくなって、俺は慌てたようにフォローする。

「あっ、そうだ!」

 ここでエマは、何か思いついたように手を叩いた。

「名前がカッコいい! 佐賀って名前カッコよくない? ほら、カタカナだと特に。

『サガ』だよっ。ほんとカッコいいじゃん!」

 しばらく考え込んでそれかよ、とも思ったが、たしかに『サガ』という言葉は俺の奥深くに眠る厨二心を微かにくすぐった。

 ……うん、でも。

「……え? それだけ?」

 と思わず俺の口から漏れる。

 それにエマは、アルカイックスマイルを浮かべながら、

「佐賀も、福岡も、熊本も、同じ九州です。みんなちがって、みんないい。こんな醜い話はもうやめましょう」

 と悟ったようにそう言ってきた。

「結局ないのかよ」

 だから俺は、そうツッコまざるを得なかった。



 しばらくして、俺らはキャンプ用品店を出た。そしてまた、手を繋ぎながら歩いていく。

「そういえば今日、仁、リングもしてるんだね」

 ふとエマが、俺の左手の人差し指に嵌めたリングを見つめながらそう言った。

「ああ、これか?」

 俺は左手をエマに見せつけるように、彼女の前に差し出す。

 普段はつけない、シンプルな幅広の銀のリング。

 これは去年の誕生日に、伊万里と晴太から共同のプレゼントとしてもらったものだった。

伊万里曰く、『仁は、一生薬指に指輪なんて嵌めることなんてないだろうからね。寂しくないように、一生つけれるくらいお高い指輪を2人で奮発して買ったんだよ』とのことだった。だから俺は、普段はケースに大事にしまって、ここぞと気合を入れるときにだけ、このリングを嵌めるようにしていた。

「かっこいいねっ‼」

「だろ? お気に入りなんだよ」

「いいなぁ~、私ってあんまりアクセサリーしたことないかもぉ」

 エマが羨ましそうに言う。

 たしかにエマにアクセサリーのイメージはない。だが彼女には、装飾品なんてものは、不要なんじゃないかと俺は思った。

 そんな小恥ずかしいことを考えていると、エマが「あっ、そうだ」と声を上げ、

「次は、アクセサリー見に行こっ」

と提案してきた。

『エマにアクセサリーなんて必要ねえ。お前はそんなもんしなくても十分綺麗だ』。もちろん恥ずかしくてそんなこと口に出せるわけもなく、

「そうだな。見に行くか」

 と頷いた。

 

 そんな訳で俺たちは、4階にある雰囲気の良さそうなアクセサリーブランドの店に入った。

充実した店内をキョロキョロと見渡す。するとすぐに、おしゃれなショップ店員が「なにかお探しですか?」と笑顔で声をかけてきた。

 うわっ、でた。

 心の中で、顔を顰める。

 こうゆう店のショップ店員は、客のセンスはどの程度なものかと、見定めていそうで苦手なんだよなあ。

俺は、いつもの調子で無愛想に「大丈夫です」と言葉を返す。店員はその言葉を受けて優雅に一礼してから、颯爽とその場を離れていった。

 アクセサリーといっても、リング、ピアス、イヤリング、ネックレスと、この店には様々なものが置いてある。

「どんなものがいいんだ?」

「リングみたーいっ!」

 俺の問いかけに、エマはすぐにそう答えた。

『リング』。もしかして、俺がリングしてるから、エマもリングしたいとか、か……?

 モテない勘違い男のような気持ち悪い考えが、俺の頭に浮かぶ。すぐに頭を激しく横に振って、その気持ち悪い考えを放り投げた。

「……仁?」

 そんな俺の奇行を見てか、エマが俺を心配したように見つめながらそう呟く。

俺は誤魔化すように視線をさ迷わせ、慌てたようにして口を開いた。

「リ、リングだな。あっちにいいのありそうじゃね?」

「うん、そうだねっ」

 エマは俺の言葉に微笑みながら頷いた。

 移動して、リングが並んだショーケースの前に立つ。ショーケースには、シルバーリングから、天然石や人工石のリング、それにレディースにしては珍しい太めのゴツいリングなど様々なものが並んでいた。

「おっ、これいいんじゃねえか?」

 ひとつのリングが俺の琴線に触れる。そのリングは、クロスラインにゆるやかなウェーブが施されている銀のリングだ。中心には、青色の小さな宝石が光り輝いていた。

「どれどれー?」

「これ」

 エマは俺が指さすそのリングに視線を落とす。そして、

「……すごく、きれい」

と感動したように呟いた。

 そんなエマの姿を微笑ましく思いながら、いくらだろうかと値札を見る。

 値札には、57000円と記載されていた。

「5万7千円か……」

 正直、高2の俺からしたら気が滅入る値段だ。背伸びするにしても、少し高すぎる。

 でも、横目でエマを見つめると、エマはそのリングに憑りつかれたように釘付けになっていた。

 くっ、買ってやりたい。でも、高い。んー、でも————

 値札とエマを交互に見る。

 最近は、キャンプギアとかも買ってないし、今欲しいものも全くない。それに今後のことを考えて貯めている貯金を下ろせば、買えないこともないしな。

よしと心の中で覚悟を決める。

「買ってやろうか?」

「えっ?」

 俺の言葉に、エマは目を大きく見開いた。

 しかし、すぐに頭を左右に振って遠慮したように、

「うんん、大丈夫。見てるだけで十分だよ」

 と言った。

 エマの表情を見てますます買ってあげたくなる。それにもう俺の心は決まっていた。

「こんくらいなら買えなくはないぞ。それにお前に似合ってるからさ」

 俺がカッコつけたようにそう言うも、エマは再度、頭を左右に振った。

「そう言ってくれるのは嬉しいけど、ほんとに大丈夫だよ。さすがにこれは高すぎるもん。だって、ミックスゼリー570個も買えるんだよぉ」

「そんなにミックスゼリーいらないだろ」

「いるよぉ~。ミックスゼリーは、なんぼあってもいいですからねっ」

「なんで急にミルクボーイ? てか今、ミルクボーイもミックスゼリーも関係なくね?」

「あはははっ。うん、関係ないね」

 エマは高い声を上げて笑ってから、「もう行こう」と俺に言う。

 だが、俺はあのリングに後ろ髪を引かれていた。

「いいのか、ほんとに買わなくて?」

 エマにそう尋ねる。

「いいって。ほら、行こっ」

 しかし、エマはそう答えて、駄々をこねる子供を引きずるように俺の手を引っ張った。

 ……買ってやりたかったな。

未練たらしいようにそう思いながらも、俺とエマはアクセサリーブランドの店を出た。



「ちょっとトイレ行って来ていいか?」

 少し歩いてからお手洗いが見えたので、俺はエマにそう訊く。

「もちろん。じゃあ、私あそこで待ってるね」

 エマは休憩用に置かれているソファーを指差しながら言った。

「いや、大でめっちゃ長いから、どっか見てていいぞ」

「そう? じゃあ、あそこの雑貨屋さん見てていい?」

「ああ。じゃあまた後でここ集合な」

「はーい」

 エマは返事してから、雑貨屋に向かって歩いて行った。

 俺はトイレには入らずに、エマの後ろ姿を見つめる。そして彼女が店に入っていくのを確認して、その場を離れた。

 

 やっぱり、どうしてもあのリングを見つめているエマの顔が忘れられなかった。なので俺は再び、アクセサリーブランドの店に戻ってきた。

 あのリングが並んだショーケースの前に行き、苦手なショップ店員に声をかける。

「あの、すいません」

「はい? いかがなさいましたか?」

 店員は微笑みを浮かべていた。

「あの、これください」

 あのリングを指さしながら言う。

「こちらで御座いますか?」

 店員は白い手袋をつけてショーケースからリングを取り出し、それを黒いジュエリートレーに乗せて、俺に見せた。

 リングの中心で、青く煌めく宝石。小さな宝石ではあるが、それでもキラキラと星屑のように輝いていた。

「はい」

 俺は店員の言葉に短く頷く。少しだけ俺の声は緊張したように上擦っていた。

「かしこまりました。ご準備致しますね」

 店員はそう言って、購入の準備をしてくれた。


 支払いまで終わって、リングをケースに入れて渡される。俺はそれを受けとって、早々にズボンのポケットにしまう。

 さすがにレディースもののショップバックを持って歩くのは恥ずかしいので、袋に入れてもらうのは断った。

「彼女様にプレゼントですか?」

 店員は優しく微笑みながらそう訊いてくる。

「……まあ、はい」

 エマは決して彼女ではないのだが、ここで違うと言っていちいち俺とエマの関係を説明するのも面倒。俺は歯切れ悪くそれに頷いた。

 すると店員は、ふふっと笑い、

「そちらの指輪の宝石は、ブルーダイヤモンド。宝石言葉は『永遠の幸せ』です。それを渡せばきっと彼女様とも末永くお幸せになれますよ」

 と言った。

———永遠の幸せ。

なんだか、その言葉が俺の心に深く響いた。

「……そうですか。あ、ありがとうございます」

 俺は照れくさくなって、店員に早口でそう言う。

「いえ、こちらこそ。お時間いただきましてありがとうございました」

 店員は満面の笑みでそう返してきた。


 店員に見送られ店を出て、集合場所に早足で戻る。

だが戻っても、まだエマの姿は見えなかった。

さて、このリングをどうやって渡そうか。せっかく気合を入れて買ったんだ。どうせなら、ちゃんとして渡したい。

ポケット越しに、リングの入ったケースをそっと触ると、思わず、ふふっと口から笑みが漏れる。

エマの喜ぶ姿が鮮明に浮かんで、心がはしゃぐように踊っていた。


エマはまだかと、うきうきしながら待ちぼうける。

すると、

「ヤンキー、はっけーんっ‼」

 いきなり後ろから、元気一杯のうるさい声が轟いた。

 聞き覚えのある声。はっとなって後ろを振り返る。

————ドンッ‼

「ぐッ……」

 思わず口から、苦悶の声が漏れる。

 俺の胸元に向かって、砲弾のように人が飛んできた。

「なははははッ‼」

 甲高い笑い声。

 俺は笑い声の主の頭に、鋭い手刀をストンッと落とした。

「いた~い! なにすんのよっ」

「なにすんのよ、じゃねえよ。それはこっちのセリフだわ」

俺の体にコアラのように抱き着いて、上目で見てくる伊万里に向かって、俺は肩をすくめながらそう言った。

 ほんとこいつの、俺を見つけたら突っ込んでくるのはなんなんだよ。闘牛かっ。赤い服なんて着てないんだけどなあ。

 胸に収まっている伊万里を無理やり引っぺがし、

「で、おまえなにしてんの?」

 と、俺は伊万里に問いかける。

 伊万里は後ろを振りかえってそれに答えた。

「ほれ、今日は友達と買い物」

 伊万里が見つめる視線の先には、嫌悪を隠そうともせずに俺を見てくる3人組の女の集団がいた。

なんか見覚えはあるから、たぶんおんなじ学校の奴らだろう。まあ、名前は知らんが。

「で、あんたはそんなおしゃれして、ひとりで何してんの?」

「ひとりじゃねぇよ」

 あっ。言ってすぐに、やばいと思った。

 エマの存在は、俺以外には見えないし、わからない。

それにこんなこと、こいつに言ったら……。

「なに~? 誰と来てんのよ~? もしかしてデートぉぉ~?」

 そう、こんなふうにニヤニヤしながらいじってくるからめんどくさい。

 俺は頭をかいて、誤魔化すように口を開く。

「デートじゃねえよ。ひとりで買い物だ」

「はあ~? さっきひとりじゃねえって言ったじゃん」

「あ、あれは、見栄張っただけだ」

「ほんとに~?」

「ほんとだよ。お前は、俺がこんなとこに連れて来る相手がいると思うのか?」

「思わないっ!」

 ……即答すんなよ。

 伊万里は豪快に、なはははっ! と笑って言葉を続ける。

「あんた、私と晴太以外に友達いないもんね」

 そんなことはないと胸を張って言い返してやりたいが、まあ、実際そうだった。

 エマは友達ではないしな。

 俺が押し黙っていると、伊万里はニヤっと笑って俺の肩をポンポンと叩いてきた。

「かわいそうな仁くん。いっしょに遊んであげましょーか?」

 む、むかつく。まじで頭にチョップしたい。

 俺がこいつにどんな天罰を下してやろうかと考えていると。

「いまりちゃんっ!」

 ここまでずっと黙っていた女子集団のひとりが口を挟んできた。

「んー? どしたー?」

 伊万里は、女の子が怒っていることに気づかないようにして、軽い口調でそう言う。

「いい加減やめなよっ、いまりちゃんっ!」

 女の子は、そんな伊万里に声を荒げた。

「やめるってなにを?」

「その人と関わることだよっ‼ 幼馴染か何か知らないけど、その人のせいで、いまりちゃん悪く見られてるんだよッ‼」

 目の前でこんなはっきり言われるとは、いっそ清々しいな。

 俺は何も言わずに、口を噤んだ。

「えー、そんなことないって」

 伊万里はなおも軽い口調でそう言う。

女の子の眉間の皺は、ますます深くなっていった。

「そんなことあるよっ! いまりちゃん、騙されてるんだよ! お願いだから、その人と一緒にいるのもうやめて!」

「大丈夫、大丈夫~。こいつに、人を騙す頭なんてないから。それに最近は真面目で大人しいんだよ~」

 伊万里はそう言って、何も言わずに黙っている俺の肩を抱き寄せる。

「最近はでしょ? 昔はどうなのっ⁉ その人、1年のとき暴力事件起こして停学になってるじゃん! 結局、その人は暴力振るう、ただの不良なんだよ!」

 女の子は地団駄を踏むようにしてそう言いながら、ギラリと鋭く俺を睨んだ。

 はあ。ほんとため息が出る。まあでも、正直、ぐうの音も出なかった。

まあ、暴力事件を起こしたのは事実だし、俺はこの子の言う通り、ただの不良には違いないのだから。

 俺は自分の肩に置かれた伊万里の手をそっと外し、彼女から離れるように大股で歩き出す。

「ぐへっ」

 俺の口から再び苦悶の声が漏れた。

伊万里は『離れるな』と言わんばかりに俺の首根っこを引っ張った。

「あかり。もうそれ以上、仁の悪口言わないでくれるかな。こいつは、私の大切な親友なんだ。さすがに不愉快だよ」

 伊万里は今までのふざけたような雰囲気を消して、真剣な表情でそう言った。

「な、なんでよ」

 女の子は、そんな伊万里の一変した態度に明らかに狼狽していた。

「仁は、優しいやつなんだ。誰よりも馬鹿で不器用で、誰よりも優しいやつなんだよ」

「でも、暴力事件……」

「あの暴力事件は、仁がただ絡まれている女の子を助けようとしただけなんだよ。こいつはむしろヒーローやろうとしてたんだよ」

「……え?」

「確かに暴力はなにがあってもいけないことなんだと思う。でもね、仁は意味もなく手を上げたりはしないんだ。こいつが手を上げるときは、絶対誰かのためなんだ。このヤンキーはね、人のためにしか手を出せない、エセヤンキーなんだから」

 伊万里はそう言ってニシシと笑い、俺の頭をわしゃわしゃと撫で回した。。

あーあ、せっかく髪の毛セットしてんのに。てか、だれがエセヤンキーだよ……でも、まあ、伊万里の言葉は嬉しくて、俺の心は曇天が晴れたようにすっきりとした。

 俺はわしゃわしゃと撫でまわす伊万里の手をそっとほどき、ゆっくりと頭を上げた。

「エマ……?」

 俺はぽつりと溢す。頭を上げると、遠くからこちらを見ているエマと目があった。

 エマは涙を拭う。そして、俺からぱっと目を離すと、逃げ出すようにその場を走り出した。

 なんで泣いてんだ。なんで……?

 ……わ、わからない。

「仁っ?」

「わりぃ、俺行かないとッ」

 俺は伊万里に一言そう告げ、エマを追いかけるために脇目を振らずに全力で駆けた。


 人混みのせいで、なかなか進むことが出来ない。どんどんとエマと距離が離れていく。

 ……ああくそ。

 あの涙の意味が分からない。エマとの距離が離れるたび不安がどんどんと増していった。


ショッピングモールから外に出たところで、やっとエマに追いついた。

「はあ……はあ……」

 肩で息をしてしまう。俺は深呼吸して息を整え、

「エマッ‼」

 と大声で叫んだ。

 俺が大声を出したことで、ざわざわと周囲から視線が集まる。だが、今はそんなことは気にしない。気にしている余裕はなかった。

 エマは一瞬振り向くも、すぐに前を向いて再び走り出す。

彼女の青い瞳は、涙できらきらと光っていた。

「待てよっ!」

 俺も全力で走って、エマに追いつく。そして、彼女の手を取り、強引に振り向かせた。

「なんで逃げるんだよ」

 俺は彼女に問いかける。しかし、エマは俯いたまま何も答えなかった。

「……エマ」

 俺の口から弱々しくそう声が漏れる。

「離してっ」

エマは俺の手を強く振り払い、

「……もう帰る」

 とだけ言った。

なんだよ。なんなんだよ。意味わかんねえよ。

 俺の手には、エマの冷たい手の感触が残る。それは俺の心までキシリと冷やした。

俺らは、そこからずっと無言だった。

 行きはあんなにはしゃいだチンチン電車も離れて座り、なんの言葉もないまま、帰路についた。

 

アパート前につく。

 ……はあ。

モヤモヤを抱えたままの俺は、少し前を歩くエマに向かって声をかける。

「なあ、エマ。なんでそんな不機嫌なんだよ。俺がなんか悪いことしてたなら、謝るからさ。だから、なんか言ってくれよ。俺、馬鹿だから、言ってくれなきゃわかんねーよ」

 俺の言葉を受けたエマは顔を俯かせたまま、そっとこちらを振り返った。

「……あれ誰だったの?」

 エマの弱々しい小さな声。それは涙交じりの声だった。

 誰ってなんだよ……。

それは俺の全く想像していなかった言葉で、少しだけ戸惑ってしまう。

「だ、誰って……あれは、伊万里だよ。立花伊万里、ただの幼馴染」

「……ただの幼馴染って、ほんとにそうなの?」

「ほんとにってなんだよ。ほんとに決まってんだろ」

 なんでそんなこと聞くんだよ。俺はその言葉の意味を推し量ることも、理解することもできなかった。

 エマはそっと顔を上げる。そして、むっとした表情を俺に見せた。

「でも、親しげだったじゃん。あの人、仁のこと深く理解してるようだった……。私には、ただの幼馴染には見えないよ」

「な、なに言ってんだよ。あんなのただじゃれてただけだろ。ふつうだって」

 張り詰めた空気を纏うエマに、俺はおどけるようにそう言った。

「……ふつうじゃない」

「え?」

 ボソッと言ったエマの言葉が聞き取れなくて、思わずすぐに聞き返す。

「ふつうじゃないよっ‼」

 するとエマは、腕を振りながら声を荒げた。

「…………。」

 俺はその声に驚いたようにして押し黙った。


 ぽろぽろぽろ。

 エマの瞳からは涙がまた流れ始める。

 俺には、その涙をどうすればいいかなんて分からなかった。

「……私は、ずっとひとりだった。……ずっとひとりぼっちだったのにっ‼」

「エマ……?」

 エマは涙を拭う。そして唐突に、ははっと乾いた笑い声をあげた。

「なんだ……そうゆうことか。私に成仏してほしいのはそういうことだったんだね。遊園地も、映画も、買い物も、全部そうだったんだ」

 エマは、心の芯まで凍るような冷たい口調でそう言った。

「な、なんだよ」

 俺は動揺を隠しきれなかった。

「私のためじゃなくて、あの幼馴染のために、今まで仁は、私にいろいろやってくれてたんだね、優しくしてくれてたんだね。なーんだ、私、ずっと勘違いしてたんだ」

「は? 何言ってんだよ」

「仁はあの人を部屋に呼びたいんでしょ。それで邪魔ものの私を部屋から追い出したいんでしょ……。 だから仁は、私を必死に成仏させようとしてるんだ……」

「そんなことないっ! 俺はお前のことを思って、お前のことを考えて——」

「私のことなんか考えてないよっ! だって何にも分かってないじゃんっ! 私の気持ちなんてこれっぽっちも分かってないじゃんっ‼」

 エマは悲痛に叫ぶようにそう言って、また逃げ出すように走り去って行く。

 彼女の瞳からは、大粒の涙があふれていた。

「…………。」

 俺の体は、金縛りにあったように動かない。一歩も踏み出すことができない。

結局俺は、涙を流しながら走って行くエマを追うことができなかった。



「くそッ!」

 部屋にひとり戻った俺は、ポケットに入れていたリングケースを取り出し、イライラをぶつけるようにソファーにそれを投げつけた。

投げつけた衝撃のせいでケースが開いて、中からリングがぽとりと床に零れ落ちる。

 せっかく買った、ブルーダイヤモンドのリング。

 さっきまでは、うきうきしながらどうやって渡そうかなんて考えていたのに。

 ああくそ……なにやってんだか。

 やるせない気持ちを抱えたまま、リングを拾い、それをケースにしまってそっと机に

置く。そして、少しでも熱くなった体を冷やすようにとシャツを脱いで、クローゼッ

トのハンガーラックにそれをかけた。

「いてっ」

 シャツをかけると、クローゼットの棚の上から、頭になにか落ちてきた。

 しゃがみこんでそれを拾う。

「ははっ……オカンのげんこつ」

 俺は思わずそう呟いた。

 俺の頭に落ちてきたのは、実家からこっそり持ってきたオカンの遺影だった。

……しっかりしろってことかな。

遺影に映ったオカンが、げんこつを落としながら俺にそう言ってるように思えた。



 真っ白な病室。

そんな殺風景な部屋に色を添えるように、床頭台の上には、白とピンクのクリスマスローズが1輪ずつ、ガラスの花瓶に挿してあった。

「あんた別に、毎日来なくてもいいのよ。大変でしょうに」

 オカンが呆れたような顔をしながらそう言う。でも、その言葉とは裏腹に口元は少しだけ緩んでいた。

「大変じゃねえーよ。よゆうだ、よゆうっ!」

 足元にランドセルを下ろしたおれは、揚々とそう返した。


オカンはこの1か月で10歳くらい年を取った。首筋と手首は幽霊みたいに真っ白で、唇はなくなってしまったみたいに色が薄くて、頬には黒い影ができていた。

弱っていくオカンの姿を見るのは……本当は嫌だった。

現に親父はそんなオカンを見たくないと言って、あまりお見舞いには来ない。

それでもおれは、1日も欠かすことなく毎日この病室に通った。

だって、なんだかお見舞いに行くことをさぼってしまえば、オカンが消えてしまいそうな気がして……怖かったから。


「いいの? 伊万里ちゃんや晴太くんと遊ばなくて」

「いんだよ! オカンが退院したら、また、あいつらとは遊んでやるつもりだから」

「遊んでやるって、なんであんたはそんなに上からなのよ」

 オカンはおれの上からの物言いに苦笑いして肩をすくめた。

「で、今日学校はどうだったの?」

 オカンのいつもの問いかけ。お見舞いに行くとオカンは必ずこれを訊いてきた。

 だからおれも、いつものように今日の出来事を思い返しながら、嘘はつかずにそれに答えた。

「今日はな、体育のなわとびで、おれひとりだけハヤブサができたんだ」

「おお、それはすごいね~、さすが私の息子」

「あっ、あとな、給食でカレーが出たんだけど、変な豆が入っていてクソまずかったんだ。でもなカレーだから、ちゃんとお代わりしたんだぜ。偉いだろ~」

「はははっ、わんぱくだね。いっぱい食べることはいいことよ」

「だろっ! ああ、それとな、今日はみんなで遊ぶ日だったんだけど、先生も入って昼休み、ドッチボールしたんだ」

「へえー」

「先生、元高校球児だからって普段めっちゃイキってんだけど、おれの方が余裕でドッチボール強かったんだぜ!」

「はははっ、先生の立場ないねぇ~」

 オカンは楽しそうに笑っている。おれはそれが本当に嬉しかった。

「で、勉強の方はどうだったの?」

「そ、それはいつも通り」

「はははっ、いつも通りダメなようね。じゃあ恋愛の方は? そろそろ好きな人のひとりでもできた?」

「できてねえよッ‼」

 おれは慌てて否定する。

「あっ、でも今日、伊万里が、隣のクラスの鈴木に告白されてた」

「あら、ほんとっ⁉ で、伊万里ちゃんなんて言ったの、その鈴木君に?」

「好きな人がいるからムリっだって」

「へえー。もしかしたら、その好きな人って仁かもね~」

「は、はあ⁉ そ、そんなことねえよっ!」

「あらあら、照れちゃってぇ~」

 ……伊万里がおれを……す、好きとか、そんなんキモいから。

 おれは恥ずかしさのあまり、不貞腐れたような態度をとった。

 ……おれから話しを逸らさないと。オカンがうざい。

「にしても鈴木のやつ、よく伊万里に恥ずかしげもなく好きなんていえるよなあ」

「はあ~。あんたはまだまだガキねえ~。ほんとに好きって気持ちはね、どんなに我慢しようとしても勝手に溢れ出てしまうものなのよ」

 オカンはどこかしたり顔でそう言った。

「なんだそれ」

「はははっ。今は分からなくても、あんたもいつか絶対に、好きって気持ちを言葉にして、伝えなきゃならない時が来るよ」

「そんなとき来ねえーよ」

「くるって」

 オカンは楽しそうに、ふふっと笑う。

「ほんと仁は、どんな人をお嫁さんにするのかなあ~。私の夢はね、仁がお家にお嫁さんを連れてくることなんだから」

「つ、つれてこねーよッ! おれは、す、好きなやつとか、そんなんできねえからッ!」

「これじゃあ私の夢は、まだまだ叶いそうにないわね。当分、天国に行けそうにないわ~」


 ……なんだそれ。

 オカンのその言葉に、ただそう思った。

「……じゃあ、もしおれがお嫁さんなんて連れて来なかったら、

オカンはずっと生きて、天国なんて行かないのかよッ‼ ……うぐ……うっ……」

「こーら、泣かないの」

 オカンはどこか寂しそうにそう言って、おれの頭を優しく撫でた。 


 

 俺の頬を涙が伝う。

 その涙はするりと流れて、床にぽたぽたと零れ落ちた。

「ほんと、俺はダセえな」

 涙を拭い、ひとり呟く。

 エマの言葉に、エマの表情に気圧されて、あいつを追うことを俺はできなかった。間違いなく、あれは追いかけるべきだった。

「はあ」

自分の不甲斐なさが本当に嫌になる。俺はほんとに、弱くて、ダサくて、子供だ。

 俺は右の拳を固く握る。そして、それを自分の頭に固く落とした。

「ははっ、いって。……よし」

落ち込むのも、反省するのも、もうここまでだ。

 凹むのも、嘆くのも、無気力になるのも、人のせいにするのも、もうここまで。

エマが成仏したがっていることを言い訳にして、あいつの気持ちに目を背けるのも。

好きじゃない、愛じゃない、恋じゃないと自分の気持ちに嘘をつくのも。

もうここまででやめる。全部やめる。


————俺は、エマが好きだ。大好きだ。


 なんでもいい。どうなってもいい。ただそれだけが俺の芯の部分だ。

 覚悟を決めた俺は、遺影を上の棚にそっと戻し、机の上のリングケースを持ってから、エマの元に向かって駆けた。



 いろんなところを探し回るが、エマは全く見つからない。

 絶え間なく汗が流れ続ける。走り続けた影響か、エマが見つからないという焦燥感のせいか、胸がパンクしそうなほど苦しい。

「はあ……はあ……」

 膝に手を置いて肩で息をする。

「ほんと、さっきのブランコ何だったんだろうね」

「うんうん、まじで怖かった~。何もないのに勝手に動き出すなんてね~」

「やばかったね、あの公園。私、心霊現象初めて体験したよ」

前方から大学生くらいの3人組が歩いてくる。すれ違いざまにうっすらと話声が聞こえてきた。

『勝手に動くブランコ』、『心霊現象』。

……もしかして。

 俺は深呼吸してから口を開いて、3人組を呼び止めた。 

「あの、すいませんッ」

「は、はい? どうかしました?」

 俺が声をかけると、3人組は不思議な顔しながらも立ち止まってくれた。

「さっき心霊現象とか、勝手に動くブランコとか聞こえたんスけど。その公園どこにあるっすか?」

「ああ、その公園なら、中央公園だよ。ここから、真っすぐ行った場所」

中央公園。小・中学のとき何度も遊んだ公園だ。もちろん場所は分かる。

「あざっす」

 俺は軽く頭を下げて、早々とまた走り出す。

 3人はそんな俺に唖然としながらも、

「ほんとうに危ないかもだから気をつけてね~」

 1人がそう声を後ろからかけてくれた。

俺は一度振り返って、ぺこりと頭を下げた。


「エマッ!」

 中央公園に辿り着く。

 エマは俯きながらブランコに乗って、黄昏るようにそれに揺られていた。

 俺はエマに向かって声をかける。

 すると、彼女は一瞬だけ俺と視線を合わせるも、すぐにまた顔を下げた。

「……エマ」

 エマに近づき、再度声をかける。

 覚悟は決めたはずなのに、俺の口から出た言葉は想像以上に弱々しかった。

「……帰ってよ」

 エマはそっと口を開く。声はぎりぎり聞こえるくらいの小さな声量だったが、それは、はっきりと俺まで届き、胸に深く突き刺さった。

 それでも俺は、胸の痛みを振り払うように、首を激しく横に振る。

「帰るなら、一緒にだ。お前も一緒に帰るんだよ」

「……なんで。私のこと、邪魔なんでしょ」

「そんなわけあるか。邪魔なわけねえだろ」

「……嘘つき。私を、成仏させようと必死になってるくせに」

「それは、お前のことを思って——、」

いや、違うな。それはただの言い訳だ。俺の覚悟がなかっただけだ。

俺は自分の言葉を遮った。

必死に成仏させようとしてたのは、ただの言い訳。自分の気持ちに嘘つくこと、エマの気持ちに気づかないフリすることの言い訳にしてただけだ。

 俺は、鍵を閉めて、胸の奥深くに閉じ込めた、あの気持ちをさらけ出すようにして、口を開いた。

「エマ、もう成仏すんのやめろ」

 しばしの静寂が流れる。

「……なによそれ」

 ゆっくりとエマは言葉を返した。

「ほんとは俺、お前に成仏なんてしてほしくねえんだよ」

「……なんで? なんでそんなこと言

おかげで俺は変われたんだ。うの?」

 エマは顔を俯かせたまま。その言葉の意味が分からないようにしてそう言った。

 ……なんでって。そんなの————

「————そんなのお前のことが、好きだからに決まってんだろ」

 ついに言った。言っちまった。

でも、オカンが言ってた『あんたもいつか絶対に、好きって気持ちを言葉にして、伝えなきゃならない時が来るよ』ってのは間違いなく今だった。これでよかったんだ。

「……え?」

 エマはゆっくりと顔を上げる。

「俺はずっとお前は成仏したがってるって自分に言い聞かせてた。俺はずっとお前は、こんな俺のことなんて好きなわけねえって自分に言い聞かせてた」

だってそう信じるのが楽だったから。だってそれなら辛くて苦しい思いをしなくて済むから。

でも逃げるのはもうやめた。そう、

「もう全部やめたんだ。自分に嘘つくのも、気づかないフリすんのももうやめたんだ」

 だって俺は……、

「エマ。俺は、お前のことが好きなんだよ。大好きなんだよ」

 俺は涙ぐんだ声でそう言った。

「……仁」

 エマはぽつりと俺の名前を呼ぶ。しかしすぐに、俺の気持ちを否定するかのように、ゆっくりと頭を左右に振った。

「ほらっ、仁って優しいからね。だから、幽霊みたいな、こんなめんどくさい私にもそう言ってくれてるんでしょ? 同情してくれてるんでしょ? ねえ、そうなんでしょ?」

 エマは悲しく微笑みながらそう言う。

 その笑みは寂しくて、苦しくて。俺の心を締め付けた。

 ……ああくそ。

「馬鹿にすんなッ! 俺が優しさだけで、こんなこと言うわけねえだろうがッ!」

 俺は叫んだ。涙を強く拭いながら。気づけば、雨に降られたようにして、俺の顔は涙でぐしゃぐしゃだった。

「俺はなあ。俺の頭はなあ、お前のことでいっぱいなんだよッ!」

 俺の本心。心の内を全部さらけ出すように俺は続ける。

「気づけば俺は、お前のことばっかり考えてる。今、どんなこと考えてんだろうとか。あいつ、こんなの好きかなあとか。これしたら喜ぶかなあとか」

 エマの気持ちで一喜一憂する自分。でも、そんな自分が不思議と悪くないと思っていた。

「それに、お前の億劫で起きるのが嫌だった朝も、今日のエマの作る朝飯何かなって考えたら、朝起きるのが楽しみになったし。鬱陶しくて面倒な学校も、学校で起きた1日の出来事をエマに話せると思ったら、全然面倒じゃなくなった。ほかにもたくさんある。たくさん。寂しくて代わり映えしない灰色の日常が、エマのおかげで、色鮮やかな青春ってやつに変わってたんだ」

 青春なんて自分に一番程遠い言葉だと思ってた。

でも、そうじゃない。そうじゃなかった。

俺が気が付かなかっただけなんだ。手が届く距離に、ずっとそれはあったんだ。

「俺は、お前のことが大好きなんだよッ‼ わかったかッ‼」

「……うん」

 ぐすん、ぐすんとすすり泣きしながらエマは小さく頷いた。子供のようにすすり泣くその姿は、無邪気なエマらしいものだった。

 俺は、エマの子供のような無邪気さに心惹かれた。

 いや、それだけじゃない。綺麗な顔も、煌びやかな髪も、美しい体も、家事が完璧なところも、料理が上手なところも、優しい性格も、遠慮する謙虚さも、自慢げに語る姿も、不器用なところも、めんどくさいところも、他にもいっぱい。いっぱい。いーっぱい。


俺は、こいつの全部が好きなんだ。


俺はエマの前に跪く。そしてポケットに忍ばせたリングケースを両手で開いた。

「エマ、好きだ。一生、死ぬまで永遠に、俺とずっと一緒にいてください」

 小さなブルーダイヤモンド。宝石言葉は『永遠の幸せ』。


 エマはボソッと苦笑交じり、

「死ぬまでって。わたし、もう死んでるよ」

 と言う。

「関係ねえよ。ずっとそばにいろ」

 俺は表情を変えずにそう返した。


「わたし、めんどくさいよ」

「しってるよ。でも、そんなとこも大好きなんだよ」

「わたし、すぐ嫉妬しちゃうよ」

「関係ねえ。俺はお前しか見えてねえから」

「わたし、体、冷たいよ」

「だからなんだよ。暑苦しい俺にはピッタリじゃねえか」

「わたし、わたし——」

「うるせえッ! どんなお前でも、俺はエマが大好きなんだ。

だから、ずっと、ずぅーっと、ずぅーーーーっと、死ぬまでずっとそばにいろッ‼」

エマは涙を拭って美しく微笑む。

「うん、ずっとそばにいる」

そしてブランコから立ち上がり、指輪をそっと受け取った。

「私も、仁が好きです。大好きです」

 彼女は指輪を、左手の薬指にゆっくりとはめる。

 俺は彼女が指輪を嵌め終わったのをみて、彼女の体を抱き寄せた。

冷たい体だ。冬みたいに冷たい体だ。……でも、そんなの大したことじゃねえ。

ふたりなら、きっと何でも乗り越えられる。俺らなら、必ずハッピーエンドを迎えられる。

 俺は覚悟を決めて、エマを強く抱きしめた。

そして彼女の唇に、そっと————。



 同じ寝床で眠りにつく。

 胸にいるエマが、そっと顔を上げて俺と視線を合わせた。

「ねえ、仁」

「ん?」

 俺はエマの煌びやかな髪を優しく撫でる。

「私、死んじゃってるけど……卒業したってことでいいのかな?」

 エマは照れ笑いを浮かべてそう言った。

 ……たしかにな。

 でもまあ、エマが死んでるとか、幽霊とか、今はそんなこと些細なことだ。

 だって俺は今、幸せの真っ只中にいるんだから。

「さあな」

 俺はエマを抱きしめる。苦しいくらいに強く。

 それにエマは、ふふっと笑いながら、離れないようにと強く抱きしめ返してきた。 

「エマ。お前が好きだ」

「うん。仁、私も大好きだよ」


 冬のような彼女の体は、熱くなった俺の体を少しだけ冷やしてくれた。


 6


 わたしは、身体が人より弱かった。

 ちょっと走れば、すぐにこんこんと咳が出るし、ちょっと頑張れば、体調が悪くなって、すぐに熱が出る。

 そんなわたしは、劣等感を抱えながらずっと生きていた。

わたしは、見た目が人とは違った。

 会ったことはないけれど、わたしのお父さんは外国人らしい。おかげでわたしの髪は金色で、瞳の色は青色だ。

 そんなわたしは、疎外感を抱えながらずっと生きていた。

人より弱くて、普通と違う。だから、わたしにとって生きるということは、つらくて、くるしいことだった。

朝が来なきゃいいのにって、毎日思ってた。このまま目が覚めなきゃいいのにって、毎日思ってた。それくらいわたしにとって、生きることは、つらくて、くるしいことだった。

それでも、わたしは必死に生きてた。だってわたしが死んだら、きっとお母さんが悲しむだろうから。


お母さんは、小さい頃からわたしをいつも心配していた。

咳が出ると心配して、熱を出すと心配して、友達が出来ないと心配して、いろんなことで心配して。そしてお母さんは、わたしを心配するたびに悲しい顔して『元気な子に産んであげられなくてごめんね』と謝るの。

 ……わたしはそれが本当に大嫌いだった。

だからわたしは、お母さんに悲しい顔をさせないようにと、心配をさせないようにと、できるだけ普通で元気な子を演じていた。



小学校4年生のある日。

この日は体調がずっと良くて、久しぶりに学校を早退しなくてすんだ。

 まあそれでも、体育のサッカーは見学で、給食は昼休みまで居残りで、先生以外と一言もお話しなんてしなかったけどね。

 それでも、わたしにとっては調子の良い日であることには違いなかった。

帰りの会が済んでから、ひとりで通学路を歩いていく。道端には、ピンク色のサクラソウが咲いていて、大きく広がる田んぼには、緑々しい麦が揺れていた。春の景色があった。

お家に着くとお母さんが満面な笑みで出迎えてくれる。

「おかえりなさい、えまちゃん」

「ただいま、お母さん」

 わたしが今日1日中ずっと元気で、早退もせずに帰ってきたからか、お母さんの機嫌がいつも以上に良い。

 お母さんの嬉しそうな顔を見ただけで、わたしは少しだけほっとした。

「えまちゃん、体調は大丈夫?」

「うん、だいじょうぶだよ。今日はとっても元気なの」

「それは良かったわ。えまちゃんが元気だとお母さんも嬉しいよ」

「う、うん」

 頬を緩め、目を細めるお母さん。

そんなお母さんのその言葉に、わたしは歯切れ悪く頷いた。

 お母さんに悪気はないことはわかっている。でも、お母さんのよく言う『えまちゃんが元気だとお母さんも嬉しいよ』という言葉。それはわたしにとっては、プレッシャーのある言葉だった。まるで元気でいることが良いことで正しいことで、元気じゃないことは悪いことで罪であるかのよう。だからわたしは、ほとんど毎日、罪悪感を抱いていないといけなかった。

「夕ご飯、今から急いで作るから待っててね」

「急がなくていいよ。今から外で友達と遊んでくるから」

 わたしは、何気ないのを装ってそう言った。

「あらっ。おともだちと、今から?」

「うん。放課後、公園で遊ぼうって友達と約束したんだ」

「そうなの~」

 お母さんは嬉しそうに笑う。

 お母さんのその笑みは、罪悪感という名の針に変わって、わたしの胸をちくりとさした。

「じゃあ、いってくるね」

「あ、えまちゃん。走ったらだめだからね。ケータイと、吸入器も忘れないようにね。あんまり遅くなっちゃだめよ」

「うん。わかってるよ、お母さん。いってきます」

 玄関にランドセルを置いたわたしは、手洗いうがいをしないまま、すぐにまた外に出る。どんより重い足取りで、きゅーっと締め付けられるようなおなかの痛みに耐えながら。


 家からすぐ近くにある小さな公園。

 わたしは時間をつぶすように、ぼぉーっとひたすらにブランコに揺られていた。

 このまま誰も来なきゃいいんだけどなあ。

 今時間は、4時30分。学校の決まりで、5時のチャイムは家で聞かないといけない

から、もう少しで家に帰れる理由ができる。もう少しの我慢だ。

きぃーこ、きぃーこ。

 錆びたブランコのチェーンが一定のリズムで鳴り響く。その音は退屈な時間を早めてくれるような気がして、少しだけ心地よかった。


 しかし、その音は聞き覚えのある苦手な声でかき消された。

「おいっ、ガイジンがいるぞ!」

 男の子の大きな声。わたしの肩はびくんとはねた。

「はははっ、ほんとだ」

「またひとりでいる~」

「ここは鎖国してんだぞ~」

「「「「あははははっ」」」」

 突然やってきたクラスメイトの人たちが、見下したような目でわたしを見ながら、楽しそうにせせら笑う。

 ……なんでなの。もうすこしなのに……。

公園にやってきたのは、わたしが苦手な人たちだった。

 ……むねがいたい。おなかがいたい。いきがくるしい。

「ご、ごめんなさい」

 わたしは慌てて謝って、すぐにブランコから降りて立ち去ろうとする。

「ちょっと待てよ。俺たちが遊んでやるよ」

 しかし逃げるなと言わんばかりに、わたしの腕はひとりの男の子の大きな手に掴まれた。

「嬉しいだろぉ、ガイジン。俺たちに遊んでもらえて」

 ……ぜんぜん、嬉しくなんかない。

 わたしにかまわないで欲しいのに。

……いたい、はなして。

「わ、わたし、か、かえらないと」

 わたしは逃げようとして、掴まれた手を振り払おうとする。

「逃げんなッ」

 しかし大きな男の子の力は強くて、わたしの弱い力では彼の手を振り払うことは出来なかった。

「あぁん? おまえ、俺たちが遊んでやるって言ってるのに帰るってのか?」

 男の子は、わたしを鋭く睨み、手の力をぎゅっと強めた。

「……ごめん、な、さい」

 ……いたい、こわい。はなして。

 わたしの口からは、弱々しい『ごめんなさい』というそんな言葉しか出なかった。

「ごめんで済んだら警察はいりませーん」

「「「「あははははっ」」」」

楽しそうな馬鹿にした笑い声。

 またわたしは嘲笑われた。

 ……なんで笑うの? わたしの体が弱いから? 

……なんで笑うの? わたしが人とは違うから?

その笑い声は、わたしの胸を強く痛めつける。

 ぽろぽろぽろ。

 わたしの目から涙が零れ始めた。

 泣いたらダメなのに。泣いたらまたお母さんが心配するのに。

 ……なきたくないのに。まけたくないのに。

 必死に泣くのを我慢しようと力を込めても、わたしの涙は止まらなかった。


「見ろよ~、また泣き出した」

「ガイジンが泣いてるぅ」

「すぐに泣いたらダメなんだよぉ~」

「おもしろ~。でも、こいつもっと泣いたら、ヒュー、ヒュー、ゼー、ゼーって言い出して、もっとおもろくなるんだぜぇ」

 くやしい、かなしい、くるしい、つらい。いろんな感情がわたしの心をぐるぐる回る。

 わたしはただお母さんを喜ばせようと思っただけなのに……。

……なにもできない弱いわたし。ほんとうにわたしは、ダメな子だった。

 わたしはもうなにも出来なくて、考えることを諦めた。ただただ時間が過ぎるのを待つように、目をぎゅっと瞑って俯いた。

 ……だれか、たすけてよぉ。

 そう願った直後、

「うぉぉおおおおッ‼ オラッ‼」

「ぐへぇ」

 突然、雄たけびのような叫び声と、苦しそうなうめき声がわたしの耳に響いてきた。

「へ? た、たけしくん⁉」

「な、な、なに?」


 なにが起きたの? なにが起こっているの? 

 諦めたように俯いていたわたしは、ゆっくりと目を開けて、何事かと顔を上げた。

 目を開いたその先に見えたのは、倒れたひとりのクラスメイトと、不敵に笑う知らないひとりの男の子だった。

「だ、だれだよ、お前⁉」

 同じように驚いているクラスメイトのひとりが、その知らない男の子に向かって尋ねる。

「あ? おれか? おれ様は正義のヒーローだッ! ヒーロー参上ッ‼」

 男の子はしたり顔で自信満々にそう答えると、問いかけたクラスメイトの男の子を思いっきりパンチした。

「オカンが言ってたんだ。意味はわかんねぇーけど、目には目を、歯には歯を、そんでパンチにはパンチってな。くたばれッ、パーンチ!」

 わたしの目の前には、無敵で無邪気なヒーローが現れた。


 ヒーローは、悪役のクラスメイト達を、正義のパンチと、正義のキックでいとも簡単に追い払ってくれた。

 わんわんと泣きながら走り去っていくクラスメイト達。その中のひとりに、わたしはなにかヒドイことを言われたような気がしたが、そんなこともうどうでもよかった。

ヒーローを思わず見つめる。

草汁が飛んだ白いシャツに、皺のよった黒のズボン。背は大きくて、やんちゃな顔つき。

目には自信に満ち溢れていて、にっと白い歯が見えるように笑う顔はきらきらと輝いている。太陽みたいで、かっこいい。本物のヒーローみたいだ。

わたしは、このかっこいいこのヒーローに、周りのことがどうでもよくなるくらい夢中になってしまっていた。

「……あ、あの、ありがとう」

 わたしは緊張しながらお礼を言う。

 すこしの沈黙。

 ヒーローはわたしをじっと見つめていた。

 ……な、なんだろう。

ヒーローと目が合うたびにわたしの顔が熱くなる。初めての感覚でおかしくなりそう。

胸がどきどきして苦しい。でも、この苦しさはまったくつらくはない。むしろ、なんだか嬉しくなった。

 わたしがそんな初めての感情に振り回されていると、ヒーローはぶっきらぼうに口を開いた。

「べつにお前のためじゃないッ。お前がやり返さないから、おれが代わりに、あいつらをボコボコにしてやっただけだ」

 ヒーローはそう言って照れたように、わたしから目を逸らす。

 その姿は愛らしくて、なんだか微笑ましかった。この人はヒーローなのにどこか身近に感じてしまう。

「そ、それでも、ありがとう。その……嬉しかったです」

 涙を拭う。気づけばわたしは、嬉しくて笑っていた。

「それにしても、なんであんなやつらと一緒にいたんだよ。あの感じじゃ、いっつもいじめられてんだろ?」

 ヒーローがふとわたしに尋ねた。

たしかにわたしは、いつもあの人たちにいじめられる。ガイジンと馬鹿にされ、体が弱いと馬鹿にされ、いろんなことで馬鹿にされて嘲笑われる。

それはほんとうにつらい。あんな人たちと一緒になんかいたくない。

わたしだって本当はひとりがいい。寂しくても、孤独でも、ひとりがいい。

ひとりなら、周りと比べられることなんてないから。つらい思いしなくて済むから。

でも、ひとりでいることは普通ではない、ダメなこと。

だからわたしはできるだけ普通で元気な子のふりをするんだ。


————またお母さんが悲しい顔をしないように、と。


わたしは強がって笑ってみせながら、すべてはお母さんのためだと話した。


……でもヒーローには、嘘って言われた。

それはお母さんに嘘ついて騙してるだけだって。

わたしがやってることは、お母さんのためを思った良いことじゃなくて、お母さんを騙す悪いことだって。

なんでヒーローはこんなヒドイこと言うんだろうとも思ったけど、たしかにって納得する自分がいた。

そうだ、わたしは嘘つきだ。お母さん、そして、自分を騙す嘘つきだ。

わたしは、顔を俯かせた。

だって、また涙が出てきそうだったから。この人に泣き顔なんか見せたくない。泣いてるブサイクなわたしなんかを見られたくなかった。

するとヒーローは、

「それじゃあ、おれがお前と友達になってやるよ」

 と言った。

「……えっ?」

 思わず口から変な声が漏れた。

 わたしは、ぱっと顔を上げる。

ともだち? ともだちってあの友達? わたしに友達?

 わたしと友達になってくれる人なんかこの世界にいるとは思わなくて、わたしの涙はいつのまにか引っ込んでいた。

「おれが友達として、お前と遊んでやる。そしたら今日は、お前のオカンに嘘言わなくていいだろ」

頭が混乱する。だってこんなの夢みたいだもん。

ヒーローが友達になってくれるなんて。もう嘘つきにならなくて済むなんて。

「……い、いいの? わたしと遊んで?」

 わたしは、夢じゃないかと自分の頬をつねって確かめるように、ヒーローにそう尋ねた。

「いいに決まってんだろ。よしっ、遊ぶぞっ! なんてったって、おれは今、くそヒマだからな」

 するとヒーローは、にっと白い歯を見せながら笑った。

 心がぽかぽかする。変な感じだ。わたしはなぜだかヒーローのその笑顔がどこか可笑し

くて、思わず心の底から笑ってしまっていた。


「よっし。じゃあ、明日ここに、9時集合なっ!」

「うんっ、わかった! わたし、友達と約束して遊ぶの初めてなんだぁ。楽しみぃ~」

 結局、あのあとヒーローのお母さんが来て、わたしたちは、また明日改めて遊ぶことになった。

 少し残念に思ったけど、友達と遊ぶ約束をすることもわたしにとっては初めてだったから、どっちにしろ嬉しかった。


「じゃあ、今日は帰るな。またなっ!」

 ヒーローはそう言って立ち去っていく。

 わたしは、そんなヒーローに、

「あっ、待って!」

 と声をかけた。

「ん?」

 ヒーローは立ち止まって振り返ってくれる。

「あの、お名前教えて。あなたのお名前っ!」

 わたしは自分でもこんな大きな声が出るんだと思うくらいに、大声でそう叫んだ。

「じんだよ、じんっ!」

 ……じん。

 なんかぴったりで素敵な名前だなって思った。

「そっか、じん君! ありがとうっ!」

「君付けはカッコ悪いから、じんでいいよ」

「わかったっ! バイバイ、じんっ! また、明日ねっ‼」

「ああ、また明日なッ!」


こうしてわたしと、じんはここで別れた。『また明日』と言い合いながら。


その日の夜は、ワクワクしながら、眠りについた。

早くじんに会いたいなって。会いたいなって思いながら。

 これが恋っていうのかな。胸がますますドキドキと高鳴った。


————しかし、次の日。わたしは高熱を出し、公園に行くことができなかった。

わたしは、じんとの大事な約束を破ってしまった。


 こんこん、こんこんと咳が出る。

「ほら、えまちゃん。しっかりお布団かぶって」

「……お母さん、わたし、外に遊びに行きたい」

 わたしは、生まれて初めて駄々をこねた。

 しかし、お母さんは悲しい顔して首を振り、優しくわたしの頭を撫でた。

「しっかり休まないと、だめよ。また元気になったらお外で遊びましょう」

「……でも、友達と約束したんだよ。またあした遊ぼうねって。……だ、だ、だから、わ、わ、わたしぃ、わたしぃ……うぅ……うぅっ……」

 涙があふれる。お母さんの顔が見えなくなるくらいの大粒の涙が。

わたしは、涙のせいでこれ以上言葉を紡ぐことができない。

 せっかく、友達ができたのに。せっかく、遊ぶ約束ができたのに。せっかく、お母さんに嘘つかなくて済むと思ったのに。せっかく、大好きなひとができたのに。

……くやしいよぉ。

 お母さんは、泣きじゃくるわたしの頭を再度、優しく撫でた。

「ごめんね、えまちゃん。元気な子に産んであげられなくてごめんね。ごめんね」

かすれたような涙声で、いつもの呪いの言葉をわたしにかけながら。

 ……じん、ごめんなさい。


 時間が経ち、中学生になって、わたしの体はますます悪くなっていった。

中学生になってからは、入退院を繰り返す日々。わたしは、ほとんど学校に行くことができなくなった。

そして、中学3年生になったころには、いよいよ、学校に行くどころか、病院から出ることすら難しく、家にも帰れない日々が続いていた。

 

シーンと静まり返った診察室。

 そんな静寂の中で、お母さんの嗚咽しながら泣く声だけが響いていた。


————『余命3カ月』。


 お医者さんにそう診断された。

 わたしの病気はだいぶ悪くなっているようで、移植手術っていうのをしないと確実に死んじゃうらしい。

 お母さんは子供のように泣きじゃくる。

 お母さんの涙は何度も見たつもりだったが、こんなに人目を気にしないようにして泣く姿を見るのは初めてだった。

「……お母さん」

 慰めるようにわたしは呟く。

 わたしは、お母さんに言葉をかけれるくらいには平気だった。

 だって、自分が長く生きられないのは、大人になれないのは、なんとなく気づいていたから。

 ……やっと、やっと終われる。

 心の中で、どこかほっとしている自分がいた。

わたしには、余命宣告が、『頑張ったね。もう君は、ここまででいいよ』という言葉に思えた。

もういいんだ。もう。

どうせこれ以上生きても、この身体じゃ何もできない、どこに行くことも出来ない。

遊園地に行ってはしゃぐことも、大きなショッピングモールに行って買い物をすることも、学校に行って友達を作ることも……。

そして、好きな人を作って、恋をすることも。

どうせなにも出来ないんだから。わたしに、心残りなんて……。

————じん。

ふとあの日の男の子の顔が浮かんだ。

背が大きくて、やんちゃな顔つき。目には自信に満ち溢れていて、にっと白い歯が見えるように笑う顔はきらきらと輝いている。太陽みたいで、かっこいい本物のヒーロー。わたしの唯一の友達。


そして、わたしの初恋のひと。



 私は、パッと瞼を開いた。

 夢を見ていた。昔の、わたしが生きていたときの夢だ。

 なぜこんな夢を見ていたんだろうか。それにしてもよく寝たなあ。

 私は、ふいに横を見る。横には、寝ているはずの仁がいなかった。

「……仁?」

 あちらこちらを見渡し、仁を探す。しかし、仁がいる気配はまったくなかった。

 仁はどこに行ったんだろうと思いながら、何気なく壁掛け時計を見る。

 時計の針は、4時を指していた。

ん? 4時にしては外は明るいな……ん? ……も、もしかして?

わたしは、急いでテレビをつける。テレビの左上に表示されている時刻は、4:02だが、やっている番組は、朝の情報番組ではなくて、夕方のワイド番組だった。

「……なっ!」

 こんなこと初めてだ。たしかに昨日は仁と、そ、その、い、い、いろいろあって眠るのは遅くなってしまったが、まさかこんな時間まで寝てしまうとは……。

 仁、ちゃんと学校行ったのかな?

「あっ」

 テーブルの上に1枚のルーズリーフを見つけた。

『おはよう。 エマへ

気持ちよさそうに寝てたし、昨日は疲れただろうから、起こさなかった。

 朝飯も昼飯もなんとかするから気にすんな。おまえには、いつも感謝してるから。

 本当にいつもありがとう。

冷蔵庫にはミックスゼリーが入ってるから食ってくれ。ちゃんとさくらんぼ入りだ。

 今日は出来るだけ全力マッハで返って来る。

                        じゃあ、いってくるな。 じん』

 達筆な字でルーズリーフにはそう書かれていた。

「ふふふっ」

 幸せがあふれ出すように、思わず声に出して笑ってしまう。

ほんとに私の大好きな人は優しくて、あったかい。

あらためて、仁を好きになって良かったなって思った。

————『じん』

君付けはカッコ悪いから、じんでいいよ。

————『仁』

きしょいから、君付けで呼ぶな。仁でいい。


————がたんッ

ふらっと意識が揺らぎ、視界がぼやける。

 私は、急に力が抜けて思わずその場に倒れ込んでしまった。

「そっか。そうゆうことか」

 私はそう小さく呟く。

 明りのない薄暗い部屋には、命の灯みたいなオレンジ色した夕陽の光がうらうらと差し込んでいた。

————『じん』

わたしのヒーロー。ただひとりだけの、わたしの友達。わたしの初恋のひと。

————『仁』

 私の恋人。ただひとりだけ、私の声が聞こえて、私のことが見える人。私の大好きな人。

 

……やっとわかった。

 なんで私は、仁にだけ見えるのか。なんで私は、知らない土地の、しかもこのアパートに現れたのか。そして、私の心残りは何だったのかが、全部分かった。

 なんで今まで気が付かなかったんだろうか。あの『じん』が、『仁』であることに。

 それだけ、私たちが会ったのが相当昔だったってことかな。

だって仁、変わりすぎだもん。髪の毛染めてるし、おっきくなり過ぎだし。ほんとかっこよくなり過ぎだ。気づかなくてもしょうがないよぉ。

ふふっ。それに、向こうも気づいてないから、おあいこだね。

 私は真っすぐ左手を伸ばす。

そして、ツーっと一筋の涙を流しながら、左手の薬指につけたリングを見つめた。


 薄暗い部屋の中で、青い綺麗な宝石は、星屑のように小さく輝く。

「……やっと大好きって言われたのになあ。やっとキスできたのになあ。やっと仁と両想いになれたのになあ」

 涙が止まらない。感情が全部あふれ出すように大粒の涙が零れる。

「……死にたくないなあ。消えたくないなあ」

 ほんとに不思議だ。生きてるときには、こんなこと1度も思わなかったのに。死んでから、『死にたくない、消えたくない』って思うなんて……。


 それでも私は、袖で涙を強く拭った。


 ……でも、私は消えなきゃだめなんだ。

 私は幽霊、もう死んでいる。

死んだ人間。幽霊の私が、生きてる人、仁のそばにいるのは正しいことじゃない。よくないことなんだ。

今の私は、仁に憑りついている厄介な悪い幽霊。だから私は、仁のために……。

うん。仁のために覚悟を決めなければならない。

あなたのためを思えば、辛くなんかないよ、苦しくなんかないよ、怖くなんかないよ。


大好きだよ、仁。

だから私は————




 学校が終わり、家路につく。

————早くエマに会いたい。

 生徒の誰よりも早く校門を出て、路面電車より速くクロスバイクを漕いでいく。立ち漕ぎしながらペダルを漕いでいくたびに、生ぬるい風が俺の肌を撫でる。

もうすぐ夏の季節だ。


今日は、いつもよりだいぶ早く家に辿り着いた。

 夕飯なにかな~。朝、昼、どっちもエマの飯じゃなかったからな、楽しみだ~。

 それに……むふっ、えへっ。いやいや、あんましがっつきすぎるのもなあ。

そんなアホみたいなことを考えながらクロスバイクを駐輪所に止めて、弾むようにして

外階段を上る。そして今日はお出迎えに来たエマをぎゅっと抱きしめてやろうと意気込んで、揚々と扉を開けた。


「…………?」

 しかし、今日はいつものエマの元気な『おかえり』は来なかった。

 ……ど、どうしたんだろうか。

電気は点いているから、まだ寝ているということはないと思うが……。

 不思議に思いながら、

「ただいま」

 と声を上げて部屋に入った。

 

「エマ……?」

 部屋に入ると、エマは机に突っ伏して、すーすーという規則正しい寝息をたてていた。

 彼女の体を軽く揺らす。すると、すぐに彼女は目を覚ました。

 エマは目の焦点を合わせるように眼をこすって、口を開いた。

「あ、ごめん、じん。おかえりなさい」

「ただいま」

 なんだか体調が悪そうなエマ。静かに不安の波が押し寄せて来た。

「大丈夫か? 眠いなら、寝てていいぞ」

「うんん、だいじょうぶ」

「そうか? 大丈夫ならいいんだけど……」

 俺は一抹の不安を抱えたままそう返した。

「ごめんね。今日は朝ごはんも、お弁当も作って上げられなくて」

「いや大丈夫だ、気にすんな。お前の作る飯がどんだけありがたいもんか、改めて実感できたよ。これからも、ずっと俺のために飯つくってくれ」

 俺はそう言って、照れくささをかき消すように頭をかく。

 するとエマは、夕立のように突然ぽろぽろと涙を流し始めた。

「ど、ど、どうした?」

 な、なんで急に泣き始めたんだ……。 

俺にはさっぱり見当も付かなくて、慌ててそう尋ねる。

 それにエマは涙を拭って、わざとらしいくらいにふにゃっと笑った。

「ふふっ。ちょっと思い出し涙」

「思い出し涙……?」

「うん。ちょっと夢で見たこと思い出しちゃって」

「……夢で見たこと? 本当に大丈夫か?」

「うん。ほんとに大丈夫だよ」

 エマは再び微笑みを浮かべる。

 なぜかその笑みは、俺の不安をますます募らせた。

「そんなことより、実はさ、仁にお願いがあるんだ」

「お願い……?」

「そう。今から連れて行って欲しいところがあるの」

「連れて行って欲しいところ?」

「うん」

 エマがどこかに連れてって欲しいというのは初めてだ。

 俺はそれが嬉しくて、喜んで頷いた。

「いいぞ、どこにでも連れて行ってやるっ! で、どこに行きたいんだ?」

「佐賀」

「……佐賀?」

 なんで急に佐賀……? たしかにどこにでもとは言ったけど……?

 俺の頭に多くの疑問符が浮かぶ。

「なんで佐賀?」

「それはヒミツっ」

 エマは口に人差し指を当て、いたずらな笑みを浮かべた。

「……ヒミツって」

 俺はそれに苦笑いする。

「でも、今から佐賀行くなら、着くのは相当遅くなるぞ。週末じゃダメなのか?」

 今時間は、5時すこし前。ここ熊本から、佐賀まではおそらく2時間程度はかかるはずだ。なので着くのは、7時くらい。帰りのことも考えたら、今日行くのは得策ではないと思うが……。

 それでもエマは、

「どうしても行きたいの。お願いっ!」

 と頑なにそう言った。

 なんでエマがここまで必死になっているのかは分からない。それになんだか嫌な胸騒ぎもする。でも、大好きなエマの願いだ。恋人としては、叶えてあげたい。

「よし。じゃあ行くか、佐賀」

「いいの?」

「いいに決まってんだろ。準備するから待っててくれ」

「うんっ! ありがとう仁、大好きっ‼」

 エマは満面の笑みでそう言った。

 その笑みを見て俺は、この選択は間違いじゃなかったと思い込んだ。


 佐賀県神埼市。

 そこがエマが行きたいと言った目的地。どうやらそこがエマの地元らしい。

 スマホで行き方を調べて、高速バスで行くのが一番良さそうだったので、俺らは市電に乗って近くのバス停まで行き、そこから高速バスに乗って佐賀県に向かった。

後ろから3番目の座席。エマが窓側で、俺が通路側の席に座る。

 平日、しかも今は、帰宅時間から少しずれているせいか、バスの乗客はほとんどおらず、車内はとても静かで、バスの中は、アナウンスと、エンジン音のみが響いていた。

『道路交通法により、全座席シートベルトを——————』

 外は少しずつ暗くなり始めている。高速道路からたまに見えるラブホテルには、もうネオンの光が灯っていた。

 高速バスに乗ってからエマはずっと口を閉ざしている。まだ眠たいのか、うとうとした様子でぼんやりと窓の外を眺めていた。

儚げな彼女の横顔を見ていると、胸がざわめく。

 相変わらず、不安という波が凪にならない。むしろ、荒々しく波打っていた。

 福岡県を超えて佐賀県に入る。

途中、基山という場所でバスを乗り換えて、俺たちは目的地である神埼に辿り着いた。

「エマ着いたぞ」

 夢現のエマの体を揺らす。

「んー。ありがと。降りよっか」

 エマは大きく伸びをした。

 家を出てから、予定通り2時間程度で目的地に着くことができた。

 高速バスの停留所から、急な石階段を下って一般道路に降りる。

「すげー。超綺麗な田舎だな」

 俺は思わずそう口にした。

 目の前には、水が張られた田園が広がり、上を見上げれば、月光に照らされる世界の終りのような大きな雲が見えた。

瑠璃色の空と、儚い雲。黒色の田園はその景色をリフレクションしている。

……神秘的だ。

俺は、この景色に息を吞むほど魅入られた。

「ここは、ほんとに綺麗で良いところなんだよぉ」

 エマは地元が褒められたのが嬉しかったのか、どこか誇らしげに胸を張る。

「じゃあ、行きたいところに案内するね。いこっ」

 そして、ニコッと笑って一歩踏み出しながらそう続けた。


「……ここって?」

 住宅地にある小さな公園。

 そこには、2連の錆びれたブランコと、俺の背丈くらいの小さな滑り台しかなかった。

 エマはブランコのひとつに腰かける。そして、ゆっくりと揺られ始めた。ブランコは、きぃーこ、きぃーことどこか心地よい音をたてる。

「……俺、ここ知ってるわ」

 どこにでもある小さな公園。それでもなぜかこの公園は、俺の記憶に残っていた。


 ……そうだ。

 ここは、いじめられている女の子を、ヒーロー気取りのおれが助けた場所だった。

ここは、その女の子に友達になってやるって、おれが偉そうに言った場所だった。

ここは、その女の子とまた明日遊ぼうねと約束した場所だった。

ここは、その女の子に約束を破られて、おれが初めて失恋した場所だった。


 俺は、はっとなってエマを見つめた。

 金髪に、目を惹く容姿、青い瞳の女の子。

 ……なんで今まで、気づかなかったんだろうか。


————ここは、初めてエマに出会った場所だったんだ……。

エマはブランコに揺られながら、ふふふっと小さく笑った。

「昔ね、私、ある男の子に恋をした」

「えっ?」

 素っ頓狂な声が俺の口から思わず漏れる。

 それにエマはニコッと笑って話を続けた。

「その男の子はね、わたしのヒーローで、わたしの唯一の友達でもあったんだ」

 エマはブランコから優雅にぱっと飛び降り、陽気に笑って、いたずらな顔を俺に見せた。

「名前は『じん』ていうんだ」

「それって……」

「うん。『仁』、あなたのこと」

「……エマ?」

 エマは急に口籠る。そしてなぜか自分のスカートをぎゅっと握りしめた。

公園の小さな電灯が俺らを照らす。まるでここが舞台上で、登場人物にスポットライトを当てるかのように。

「……せっかく友達になって、また遊ぼうって約束したのに。次の日、遊びに行けなくてごめんなさい」

 エマはそう言って、頭を下げた。

 ……ごめんなさいって。なんで、いまそれを……謝るんだよ。

 俺はエマの『ごめんなさい』という言葉に、ただ頭を横に小さく振ることしかできない。

 それほど今の俺には分からないこと、そして考えることがとても多くて、いろいろと頭が追いついていなかった。

「わたしの心残りはね、もう一度仁に会うこと。……そして、あの日の約束を破ったことを謝ることだったんだ」

————バサッ

エマは大胆にスカートをたくし上げた。


「————ッ!」

 それに俺は息を呑む。

艶めかしいエマの脚を見たからではない。


————彼女の脚は、透けていた。


「……な、なんだ、それ……?」

 意味が分からない。考えがまとまらない。いろいろと頭が追いつかない。

頭がぐらんぐらんと混乱している。

「どうやら私ね……あとちょっとで消えちゃうみたいなんだ」

 エマはそう言って優しく微笑んだ。

 悟ったような優しい笑み。しかし、彼女の瞳には涙のしずくが溜まっていた。

「なあ、嘘だろ? なんの冗談だよッ⁉」

 俺は抗うようにそう叫ぶ。

 考えたくない。考えたくない。そんなの……ありえないだろ。

 嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だッ!

 しかし俺の考えを見透かしているかのように、エマは優しい笑みを見せたまま、首をゆっくりと左右に振った。

「うんん、冗談じゃないよぉ。もうね、あんまり力も入らなくなってきてるんだ」

 エマは困ったようにそう言って、手のひらでグーパーを繰り返す。

 ……嘘だ。そんなのって、ないだろ……くそっ。

……分かっては、いた。いつかこうなることくらい。でも、早すぎるだろ。なんでだよ。

 俺の頬を鬱陶しいくらいに涙が伝う。

 もう見れない。見たくない。もう、エマを見たくない。

 俺は現実から逃げ出すように顔を地に俯かせた。

しかしエマは、俺が逃げ出すことを許してはくれなかった。

「私をちゃんと見てっ! 私の大好きな仁の顔をしっかり見せてっ!」

「な……なんだ、それ……」。

「わたしね、仁の笑った顔が好きなんだぁ。不器用だけど、誰より優しく笑う顔が大好きなんだぁ。だからね、お願い笑って」

 エマの青い瞳からは堰を切ったように涙が零れだす。それでも彼女は意地でも笑みを絶やさなかった。負けじと俺も涙を拭って、無理やり笑ってみせた。


エマの手を握ったまま無言で歩いていく。

先を歩く彼女の歩みはとても遅い。そして俺が握っている彼女の手もうっすらと透け始めていた。

……消えるな。消えるな。消えるな。消えるな。消えるな。消えるな。消えるな。

 ただそれだけを必死に願いながら、俺は彼女の手を強く握り、彼女の後ろをゆっくりと歩いた。


「ついた」

 エマはそう言って俺から手を離した。

 俺は彼女の手から視線を外し、周りを見渡す。するとそこは、小さな墓地だった。

 いくつかの墓石が並び、1つの街灯がそれら全部を照らす。

「あった。ここだ」

 エマはあるひとつの墓石の前に移動した。

————『千代田家之墓』

墓石にはそう彫られていた。

白い造花が供えられたその墓は、周りと比べるととても新しい。

 エマはその『千代田家』の墓に手を合わせる。そして何かを伝えるようにそっと目を瞑った。

 再び、言葉のない世界が広がる。

 田舎らしい虫と蛙の大きな鳴き声だけが、鬱陶しいくらいに耳に響いていた。

 俺はその場に立ちすくんで、ただじっとエマを見つめる。

 なぜ墓地に? なぜ今ここに? なぜこの墓に?

 いろんな『なぜ』で俺の頭は侵食され、息ができないように、不安の波に飲み込まれていく。

 エマは目を開け、手と手を離す。

 そして、ゆっくりとこちらを振り向き、口を開いた。

「ここにね、わたしのおじいちゃんとおばあちゃんが眠っているんだ」

 ……おじいちゃんと、おばあちゃんの墓?

「だから、なんだよ。なんでそのじいちゃんとばあちゃんの墓に連れてきたんだよ?」

「お母さんがね、千代田家の人間は死んだらここに入るって言ってたんだ。だからね、私もたぶん、ここに眠ってると思うの。だからね、ここにきたんだよ」

 分からない。こいつはなにが言いたいんだ。俺に、なにを伝えたいんだ。

 分からない。分からない。分かりたくないッ!

「私は幽霊で、あなたは生きてる。私たちが一緒にいるのは普通なことじゃない。よくないことなんだよ」

「……なんだそれ。そんなことねえよッ‼ お前が幽霊とか俺はそんなの気にしない」

 俺の言葉に、エマはふにゃっと笑った。

「最初に会った時、仁言ってくれたよね。お前はどう見ても悪い幽霊じゃない、だから怖くないって。それね、ほんとにうれしかったんだ」


 エマと初めて会った日に、

「怖くないの?」ってエマに訊かれて、

「怖くねぇーよ」って食い気味で俺は返した。

 あんときは少し強がったけど、今はそうじゃない。

 俺はエマが、生きた人間でも、死んだ幽霊でも、そんなことどうでもいいんだ。

 どんなエマでも、ただエマがいるだけで、そんだけで俺は嬉しいんだ。

そんくらい俺は、エマが大好きなんだ。


 しかし、俺の思いとは裏腹の言葉をエマは続ける。

「でもね、それは違う。私はね、悪い幽霊なんだよ。好きな人に憑りつく、欲深い幽霊なんだよ」

「そんなことねえッ」

 俺は声を振り絞った。

 そんなことない。こいつが欲深いとかそんなことあるわけねえ。

 こいつは、死ぬまで、遊園地にも、ショッピングモールにも行けなかったんだぞ。

 こいつは、死ぬまで、友達を作ることも、恋をすることもできなかったんだぞ。

 いろんなことを我慢して、いろんなことを諦めて、いろんなもんを失ったんだぞ。

「欲深いなんて、そんなことあるわけがないだろうがッ‼」

 しかし、エマは首を横に振った。

「うんん。そんなことあるんだよぉ」

エマは困ったようにえへへと笑う。

彼女の瞳からは、また涙が流れていた。

「ずっと一緒にいるって言ったじゃねえかッ!」

「言ったよ、死ぬまで一緒ってね。でも……でもね。ほら、私、死んでるからぁ」

 ……なんだ、それ。

 ……屁理屈じゃんか。

「消えんなよ。成仏すんなよぉ——」

 俺の弱々しい言葉を遮って、駄々をこねる子供をあやすようにエマは俺を優しく抱きしめた。

 冬のように冷たくて、蜃気楼のように儚い体。俺を抱きしめるエマの力はとても弱い。俺は彼女が消えないようにと強く抱きしめ返した。

「いたいよ」

 エマはふふふと笑いながら言う。

「しらねえよ」

 俺は気にせずもっと強く抱きしめた。

「ねえ、仁」

「なんだよ」

「私ね、仁が大好きだよ」

「俺もだよ。俺もエマが大好きだ。お前さえいれば他は何もいらない」

「ふふふっ。ありがとう。でもね、それじゃだめなんだよ。仁は誰よりも優しくて、誰よりもカッコいい人なんだから。私の大大大だーい好きな仁はね、もっと多くの人に愛されるべき人なんだか————」


————がくっ


「おいっ、エマッ‼」

 崩れ落ちるように、エマの体の力が抜ける。

 まるで、もう力なんて残っていないみたいだった。

エマの体を抱えながら、消えかかってる手をぎゅっと掴む。


 エマがそっと口を開く。

「ねえ、じん」

 彼女の瞳は焦点を失ったようにして、もう俺をとらえていなかった。

 俺は涙を強く拭う。

ここで泣いたらいけないような気がした。だから強がるように笑ってみせた。

「ん? なんだ?」

「さいごにキスして」

 照れながらエマが言う。

「……さいごじゃねえよ。今から、何百、何千、何万、何億回でもしてやるよ」

 絞り切ったような声で俺はそう返した。


エマの唇にゆっくりとキスをする。

やわらかい唇。


頼むから……お願いだ。

消えな————、


唇を離し、エマは嬉しそうに微笑んだ。

「じん、だいすき」



抱きしめていた体がすぅっと消える。

そして、彼女の左手の薬指にはめていたリングがすとんッと地に落ちた。





こうして、エマは消えた。

———まるで彼女が今まで存在していたことが夢だったかのよ



 あまりの寒さに目を覚ます。タイマーをかけておいた暖房はずいぶん前に消えていたようで、布団から出ていた俺の顔と足は凍てつくように冷え切っていた。

また朝が来た、煩わしい朝が。また退屈な1日が始まる。

 朝目覚めるといつも思う。なぜエマはいないのに、俺はまだ生きているのかと。灰色のこの世界に、俺はひとりぼっちで取り残されていた。


壁掛け時計を見ると時間は11時。

「もう朝じゃなくて、昼じゃねえか」

 自嘲するようなふっという笑い声が漏れる。

 寝床であるロフトから降りた俺は、いつものように小さな青い宝石が付いたリングを首から下げた。

「つめたっ……」

チェーンが素肌に触れてひんやりする。その冷たい感触で、俺はまだ生きているのだと実感させられた。

 

 エマが消えてから、夏、秋と季節が過ぎて、今は冬。

俺は未だに彼女に憑りつかれたままだった。

 時間が流れていき季節が変わっていくことで、1つ気づいたことがある。それは、世界ってのが、俺が思っている以上に、俺たちには無関心であるということだ。

どんなに願おうとも、どんなにあいつが存在していた証を肌身離さず持ち続けようとも、エマが帰ってくることなんてなかった。世界は俺たちなんかには無関心でいつものように回っていく。

 世界ってのは、どうしようもないほど……クソだった。


 だらだらと身支度を済ませ、ゆっくりと歩きながら学校に向かう。

 家を出たのは、13時過ぎだったから着くのは5限の授業中だろうか。

まあ、どうでもいいけど。

 雨入り前のような倦怠感を感じながら、モノクロな冬の道を進んでいった。


 これで何度目の遅刻だろうか。あいつがいなくなってから、朝起きることが日に日に億劫になっていき、学校に行くことが日に日に面倒になっていった。

俺は遅刻や、欠席を毎日のように繰り返していた。

やりたいことなんてない。なりたいものなんてない。なんにもない。

もう、学校に行く意味すらわからなかった。

 授業中の教室の扉を開ける。

 扉を開ける大きな音で、どうでもいい奴らの白い目が俺に集まる。しかし、そんなことはどうでもいい。気にせず俺は自分の席に歩いていく。

「比山ッ!」

 歩みを進めていると、教卓から怒声が飛んできた。

 そちらに顔を向ける。怒声の主は、西郷だった。

「はあ」

 俺の口からため息が漏れる。もう、うんざりだ。

「お前、何度目の遅刻だッ! いい加減——————」

 耳障りな西郷の怒鳴り声。ほんとこいつは口を開けば怒ってんな。

 俺は自分が怒られているのに、傍観者のようにそれを聞いている。西郷の言葉は俺には全く届かない。ハウリングしたようにキーンと耳に響くだけで、不快感しか感じられなかった。

「おいッ! おまえ、聞いているのかッ」

 そんな俺に西郷は鬱陶しいほどの距離まで詰め寄り、俺の頭を平手で何度か叩いた。

 ……来るんじゃなかった。

 俺は押し黙って、ただそれを受けた。

「最近のお前は特にひどいぞッ。本当に見ていて不愉快だッ」

 ……うるさい。

 ひどいことなんて自覚している。でも、もうどうでもいいんだ。どうでも。

「大体、お前はいつまでそんな幼稚な姿でいるんだ。もう少しで3年だぞ、将来をどうするつもりだ。お前の人生はこれからも続いていくんだぞ。しっかりしなくてどうする?」

 ……人生は続いていく? 

は? エマはもういないのにか? そんな人生意味あんのかよ。

「いい加減気持ちを切り替えて、その髪の毛を黒く染めろ。あと、そのチャラついたチェーンをはずせッ!」

「さわんなッ‼」

 血が上り、体が熱くなっていく。我を忘れたように俺はそう叫び、首元のチェーンに触れようとしてきた西郷を思い切り突き飛ばした。

 机と椅子が倒れ、シーンと静まり返った教室で大きな物音だけが響く。

 西郷は、机と椅子を巻き込みながら床に激しく倒れ込んだ。

 体が溶けてしまいそうな程熱くなり、心臓が中から体を殴りつけてるみたいに鼓動が早くなっていく。

 俺は、怒りの感情に支配されてしまった。

『あああああああああああああああああああ———————————————————』

 悲痛な叫び声が頭の中で轟き、強く脳みそを揺らす。

 俺は、拳を振り上げた。

「仁ッ!」

 そんな中で急に外から、名前を呼ばれる。

 声の方を見ると、心配したように顔をこわばらせる伊万里と目が合った。

 ……なにやってんだろう。ほんと、救えねえよな。

伊万里の瞳を見つめると、俺を支配していた怒りの感情が一瞬で後悔に変わる。溶けそうな程熱くなっていた体は一気に冷めきって、寒くて怖くて震えそうになっていた。

……くそが。死にてえ。

俺は伊万里から視線を外し、だらんと腕を下ろす。そして、逃げるように早足で教室を出た。

もうここにはいれない。これで終わりだ。

死にたい。消えたい。いなくなりたい。

零れそうな涙を必死にせき止めながら、俺は廊下をどんどんと歩いていく。

「仁ッ!」

「待って、行くな仁ッ!」

 すると、俺を追ってきたのか伊万里と晴太が叫ぶように俺を呼び止めた。

 もう、こいつらとは関わっちゃいけない。俺はもう、だめなんだから。

 俺はその呼び声には振り返らずに、聞こえないふりをして歩みを進めた。

「待ってって言ってんじゃん!」

 しかし、走ってきた伊万里に腕を掴まれ、俺の足は止まってしまった。

 ……もう、放っておいて欲しい。かまわないでほしい。じゃないと俺は、ますます惨めになっちまう。

 俺は一度目許を拭ってから、伊万里たちの方を振り向き、

「離せ。もう俺にかまうな」

 と鋭く2人を睨みつけながら強い口調でそう言った。

「なにそれ。あんたに凄まれたって怖くないんだから」

 伊万里はそう返しながら、俺の腕を握る手の握力を強めてくる。

「離せ」

 俺はそれが縛られて行くように感じて、力を込めながら腕を上げ、伊万里の手を強引に振り解いた。

 伊万里はそれでも俺から視線を外さない。むしろ俺を見透かすように見つめてくる。

 今の俺にはこいつの瞳が、寝起きの太陽くらいにまぶしくて、鬱陶しかった。

「あんたほんとどうしたの? 先生にブチ切れて、暴力振るって。なんか仁らしくないよ」

「そうだよ、仁。ほら、早く戻ろう。一緒に先生に謝って上げるから、ね」

 体が熱くなる。自分が自分じゃないみたいに怒りや、不安、劣等感、いろんなクソみたいな黒い感情に飲み込まれていく。

「うるせえなッ‼ ……もうどうでもいいんだよ。どうでも。もう俺にかまうなて言ってんだろうがッ‼」

 気づけば、そう声を荒げていた。

「「…………。」」

 伊万里と晴太は俺の汚い言葉を受けて、困惑した様子で口を噤む。

 俺は2人のその様子を見て、我に返ったようにすぐに自責の念に駆られた。

 心配してくれてるこいつらにまでキレて、ほんとクソだな俺。

「わりぃ…………今日はもう帰るわ」

 俺はすぐに小さな声でそう謝り、逃げるように走り出す。

 伊万里と晴太はなにも言わず、これ以上、俺を追うことはなかった。



 なにやってんだろう……。

 涙を拭いながら、帰路につく。

 何度も、何度も、何度も、強く目許を拭っても涙は全く止まる気配がない。

 いつからこんなに俺は泣き虫になってしまったのだろうか。そんな自分がダサくて、キモくて、鬱陶しくて……本当に情けない。日に日に自分が嫌いになっていく。もう自分自身に、生きる意味も、生きてる価値も、何もかもが見出せなかった。

いっそ楽になったら、オカンやエマに会えるんだろうか……そんな考えばかりが最近は頭に浮かんでしまっている。

————ぐうぅううー。

空気を読まない腹の虫が声を上げた。生きることを放棄したくとも、どうやら腹は減るらしい。

俺は帰り道の途中にあるコンビニに立ち寄り、食べ物を買った。


 小さなレジ袋を片手に、家の扉を開ける。

 もう返事が返って来ることなどないと分かっていても、

「ただいま」

 という言葉を俺は無意識のように呟いていた。

 エマのいない我が家。

 もうエマと一緒に住んでいた時間より、ひとりで住んでいる時間の方が長い。

 それでも家に帰るといつも……孤独で震えるくらいに寂しくなった。

「冷蔵庫に入れとかないとな……」

 ひとりでに小さく呟きながら、冷蔵庫を開く。

 気づけばずいぶん独り言を話すようになっていた。

 小さなレジ袋から、さくらんぼ入りのミックスゼリーを取り出す。それを冷蔵庫に仕舞おうとするも、冷蔵庫はもうパンパンで、ミックスゼリーは無理やり押し込んでも入りそうにはなかった。

「はははっ。狂ってんな」

 乾いた自分の笑い声が部屋に響く。

 冷蔵庫のなかは、数えきれないほど多くのさくらんぼ入りのミックスゼリーでいっぱいだった。

 あいつはもう消えたのに、家に帰るとまたエマが『おかえり』って言いながら出迎えてくれるのをどうしても信じてしまう。だから俺は、毎日忘れることなく、さくらんぼ入りのミックスゼリーを買ってきてしまっていた。

俺はもう完全に狂っていた。

「……エマ……エマぁ。会いたい。会いたい。会いたいよぉ————」

 ほこりの溜まった床に膝から激しく崩れ落ちる。そして、クソガキのような弱々しい言葉を吐きながら涙を流した。

 時が止まってしまった俺は、もう大人にもなれそうにはなかった。



 最後にエマに会おう。

 涙が止まり、いろいろと心を決めた俺は、財布と小さなレジ袋を持って高速バスに乗り込んだ。

 

バスは真っすぐと進んでいく。

 外を眺めると、しんしんと小さな雪が降っていた。


『次は、かんざき~。つぎは、かんざきです。走行中やむを得ず急停止する————』

 アナウンスが流れる。長い時間バスに乗り、やっと目的地に辿り着いた。

「さむっ」

 バスから降りて外に出ると、暖房で熱くなっていた体が一気に冷え込む。

それもそのはず、熊本では小ぶりだった雪は、佐賀に入ると大雪に変わり、地上には多くの雪が積もっていた。

さすがにブレザーだけでは心もとなく、手や足先、そして顔は寒さで痛い。

それでもその痛さと寒さは罰として、今の俺にはちょうど良かった。

少し歩くと、視界には田園が広がった。

「……変わったなあ」

水が張られていた田園は、今は大きく姿を変えて、雪景色になっていた。

「まあ、冬になったんだからしょうがねえか……」

 その景色を眺めていると、胸が痛いほど締め付けられ、体は心の芯まで冷え込んでいく。あらためてエマが消えてから多くの時間が経ったんだと実感させられた。


 雪は静かに降り続く。ひらひらと優雅に舞い落ちながら。

 雪の結晶は俺の体にぶつかると、溶け込むように儚げに消えていく。それは幾度も、幾度も続いていくが、全く気にならなかった。だって、俺の体はとっくの昔にもう自分の体じゃないみたいに狂っていたから。


そこからまたしばらく歩いて、住宅街にある小さな公園に辿り着いた。

雪が積もった2連のブランコと、雪が積もった小さな滑り台。

腕時計を見ると、時間は4時過ぎ。公園には人っ子一人いなかった。

 俺は、ははっと自嘲するように笑ってから、両手でメガホンをつくる。

 そして、誰もいない公園で、

「エマー、いるかー?」

 と大声で叫んだ。

 もちろん返事なんてあるわけもない。ただ虚しく俺の頭に雪が積もるだけだった。

「さむっ。ああくそ、雪うざ」

 首を傾け、空を見上げながら悪態をつく。

 雪は俺の言葉を無視しながら、顔に向かって降ってくる。

「ああ、くそ……雪、うざ……」

 その雪は俺の涙に溶け込んで、頬を伝って零れ落ちた。

 目許を拭って、自嘲するようにふっと再度笑う。

「……エマ、ここにはいなかったなあ」

 そして俺はそう呟いて、再び歩き始めた。


 ふらふらと彷徨うように歩いていく。

とても静かだ。まるでどこかに迷い込んでしまったみたいに。ここには、鬱陶しい生活音も、煩わしい人間もなにもなかった。

 どれだけ歩いたのかももう分からない。さっきまで何を考えていたのかももう分からない。もうなにも、わからない。

 それでも俺は気づけば、導かれるように小さな墓地に辿り着いていた。 

すべての墓石に雪が積もっている。月明かりのせいか、周囲は薄明るかった。

ゆっくりと歩き、キョロキョロと視線をさ迷わせながら、エマの墓を探す。

————『千代田家之墓』

 小さな墓地なので、墓はすぐに見つかった。

「あった。エマ……」

 跪き、墓石に積もっている雪を手で払う。

もう雪を触っても、冷たいや、痛いという感覚が感じられなくなっていた。

俺の罰は終わったんだ。たぶん俺はもう許されたのだろう。

 小さなレジ袋からさくらんぼ入りのミックスゼリーを取り出し、フタを開けて、それを供える。

 エマが喜んでいるといいなとただ思った。

 しんしんと雪は降り続ける。

 また墓石に雪が積もってきた。再度手で雪を払う。

「え?」

 雪を払っていると、あることに気づいた。

亡くなった人の名前が彫られるはずの墓誌には、『千代田龍一』『千代田虎子』というエマの祖父母らしき2人の名前しかなかった。


————そう、エマの名前がこの墓には、どこにも彫られていなかったのだ。


どうゆうことだ? この墓にはエマはいないのか? ここにエマは眠っていないのか?

じゃあ、エマはどこにいるんだ。エマは……。

……分からない。分からない。もうなにも分からない。

「もういいや」

考えるのが面倒になってきた。もう頭を使いたくない。エマに会えればそれでいい。

俺は考えることをもうここでやめて、鮮明に彼女の姿を思い出すようにと、だたぎゅっと目を瞑った。


エマの姿が見える。

ああ、エマが喜んでいる。ああ、エマが拗ねてる。ああ、エマが泣いてる。ああ、エマが笑っている。……エマ。


「待っててな、エマ」



————風が吹く。春のようなあたたかな風が。その風は俺の肌をそっと撫でた。



「ねえ、そのミックスゼリー、ちゃんとさくらんぼ入ってる?」

「ああ、ちゃんと入ってるよ。誰かさんが、さくらんぼが入ってないとミックスゼリーって認めないからな」

「ふふふっ。さすが、わかってるぅ。やるね、じん」

 俺の背中に誰かが深く寄りかかる。俺の首元に誰かの細い腕が回される。

「ねえ、じん」

「ん?」

 俺の目からは、涙が流れる。

「怒ってる?」

「怒ってないよ」

「そっか。よかったぁ」

 誰かはホッとしたようにそう言って、もっと俺に体重をかけてきた。

「ねえ、仁」

「ん、なんだよ?」

 彼女の声に、俺は涙交じりのかすれた声でそう返す。

「私ね、仁が大好きだよ」

「そうか。俺もエマが大好きだ」

 彼女は腕の力をどんどんと強め、俺をぎゅっと抱きしめてくる。

 俺も負けじと、彼女の両手をぎゅっと掴んだ。


「もう離さないからな」

「うん、もう離れない————」



「————死ぬまでずっと一緒だよ」

 彼女は俺にそう言った。

そんな彼女の体は、いたずらな春の陽気のように温かかった。

 

 

こうして俺の冬はやっと終わって、また春が戻ってきた。

あ、これ、ストーリがありきたりと酷評受けたものです

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