きみの一番星
真夜中、ふと目が覚めた。
昔から、たまにあることだ。
暗闇をじっと見つめていると、生きているのか死んでいるのかわからない心地になる。
目を閉じたら本当にそのまま死んでしまうのではないかという気がして怖くなった。
何か恐ろしいものから隠れるように、息を潜める。
世界からはじき出されないように、気配を気取られぬように、じっと動かず縮こまる。
そうしているうちに、いつの間にかまた眠りに落ちている。
「シズイさん。おはようございます」
いつもの甲高い目覚ましの音ではなく、やわらかい声に起こされて、心底びっくりした。
あたたかい手が肩に触れて、そっと揺すられる心地よさに、ただただ驚いた。
驚きのままに目を開けると、まだ早朝の薄淡い光の中、黒い瞳が俺を見た。
彼女の黒は、飲み込まれそうな暗闇と違って、煌めいている。
暗い夜から、急に引っ張りあげられたようだった。
「お茶、淹れました」
それだけ言うと、彼女は部屋から出ていく。
淹れたてのお茶の、良い香りが漂った。
なんだか信じられないような気持ちで身体を起こした。
***
「シズイさーん、おはよう、起きてー」
アカリは知らないだろう。
俺にとってその声がどれだけ特別なことか。
それだけで、景色が違って見えるほどに。
アカリの一日の予定は、夕方まで家で俺の仕事の雑用を手伝ったり掃除や家事をして、夕方からは食堂の手伝いをしに行く。
自然に朝食はアカリ、昼は一緒に作って、晩ご飯は俺の担当になった。
食堂の休みの日は、午後から料理や裁縫なんかをおかみさんに教わりに通っている。
時間を合わせて夕食を作り終え、アカリを迎えに行く。
手伝いの仕事を終えて出てきたアカリは、迎えに来なくていいのに、と言う。
「夜道は危ないよ」
「でも近所だし」
手を繋いで歩く。
「俺がアカリに早く会いたいんだよ」
アカリは赤くなってちょっと黙った。
だけど少しの間のあと、はにかみながらこちらを見上げた。
「やっぱり、迎えに来てほしい」
つい、往来で抱き締めてしまった。
あとで目撃したり話を聞いた知り合いたちから散々からかわれたけど、それすら嬉しいように思えてしまうのだから、「頭に花が咲いてる」とカムルに言われるのもその通りなんだろう。
だけど俺は本当に浮かれきっていた。
なんとなく、体がだるい、と感じはした。
ここ数日は仕事の頼まれた量が多くて忙しかったから、疲れが溜まったのだろうと認識していた。
アカリに心配そうに体調が悪くないか訊かれても、カムルに顔をしかめてさっさと寝ろよと言われてもそう答えて大丈夫だと高をくくっていた。
二人とも無理するなと言ってくれたのに。
今日は量は多くないものの、急ぎのものが多くて、自分で複数件の配達をしなければならなかった。
季節は少し肌寒くなってきた。
そろそろ厚手の上着にした方がいいかもしれない、アカリにも買ってやらないと。そう思いながら、アカリに名前を書かれたいつもの上着を着た。
アカリの下手な字で書かれた自分の名前を見ると、勝手に顔がほころぶ。
距離の離れた届け先を二つ回ったところで、ぞくぞくした悪寒がしはじめた。
ぞわぞわとひどい悪寒なのに頭は熱くてぼうっとしながら、早く終わらせようと足を動かした。寒いのか暑いのかわからない。
最後の四つめの届け先に品を渡したところで、ぐらりと視界が揺れた。
気がつくとベッドの上だった。
医者のじいさんが呆れ顔で傍に座っていた。
「起きたか」
どういう状況かと首を回すと、
「お前んちだ。配達先で倒れて、わしが呼ばれて、カムルが運んだ」
カムルが今嫁を呼びに行ってるよ、とじいさんが教えてくれる。
「ただの風邪だ。薬飲んで寝ときなさい」
薬はそこだと机の上を示す。
「ありがとう」
礼を言ったら、しかめ面をされた。
「シズイ、嫁を貰ったんなら風邪なんかで倒れたりするんじゃない。お前に何かあったら困るのは嫁だぞ」
もっともな説教に、首をすくめる。
「…ごめん」
「謝るのは嫁にだ」
素直に頷く。
玄関の方でバタンと音がして慌ただしい足音が続き、アカリが部屋に駆け込んできた。あとに続いてカムルも入ってくる。
「シズイさん!」
その顔が泣き出しそうな顔だったことに驚いてしまう。
脇目も振らずまっすぐ俺の傍へ寄ると、確かめるように手に触れる。
「大丈夫ですか?痛いところとかない?」
「だいじょうぶ…ただの風邪だって」
よかったと脱力して、ぽろりと雫が目からこぼれた。
「アカリ」
止まらなくなったのか、ぼろぼろと溢れだした涙を隠すように顔を両手で覆う。
「ごめ、なさ、ほっとしちゃっ、て」
つっかえながら涙声で弁解するアカリを抱き寄せる。
泣きながら、首に腕を回してすがりつかれる。
あたたかなものが、後から後から溢れだして、満たされる。
―――俺はきみの特別なんだろうか
馬鹿みたいに嬉しくて嬉しくて、抱き締めた。
じゃあ帰る、と苦笑するじいさんと白け顔のカムルの二人に礼を言って手を振る。
自分も挨拶しようと身動ぎしたアカリの、俺の肩口にある後ろ頭を撫でて抑える。
二人きりになったところでアカリを膝の上に乗せて、キスしようとしたところで手で塞がれた。
「か、風邪伝染っちゃったら看病できない!」
熱のある俺よりもたぶん赤い顔をしているアカリにくすくす笑ってしまいながら答える。
「伝染した方が早く治るっていわない?」
「からかってるでしょ、シズイさん!ちゃんと寝て」
「うん、ごめん」
からかってはいないけど、嬉しくて。だけど本当に心配な顔で言われた最後の言葉に素直に従った。
***
真夜中、ふと目が覚める。
腕の中にいる温もりが、あたたかくて、安心する。
自分以外の呼吸と鼓動に耳を傾ける。
すうすうと、とくとくと。
知らぬ間に穏やかな眠りにそっと包み込まれている。
明日の朝も傍にいてくれる。
かけがえのない、俺の一番星。