13.かすかな手応えーー青白い炎
アデン国 パール城・ゆうの部屋
夜の帳が下りるパール城の廊下を、ゆうは重い足取りで歩いていた。壁にかかる燭台が、ゆらゆらとした影を床に落とす。ニヒルの部屋での出来事が、頭の中で何度も反芻される。のぞみさんが、あんな言葉を告げられ、絶望の中で気を失った姿が脳裏から離れない。
「ただいま……」
部屋の扉を開けると、そこにはカオリが待っていた。彼女の表情には、明らかな緊張が走っていた。
「ゆう様……ジローム様の部屋まで行けましたか?」
ゆうは、扉を閉めながら静かに頷いた。
「ああ、それだけじゃない。マムとも会えた」
「マム様と……!?」カオリの瞳が大きく見開かれる。「それでは……のぞみ様の様子は?」
「ああ……マムの透視の能力で、ニヒルの部屋の様子を見せてもらったんだ」
カオリの顔色が変わる。彼女の表情には明らかな不安が滲んでいた。
「のぞみ様は、ご無事でしたか?」
「たぶん、まだ……大丈夫だ。ニヒルはまだアデン国の法を破っていないと思う」
そう言いながらも、ゆうの声には迷いがあった。のぞみは天蓋付きのベッドにいた。すぐそばにはニヒルの姿があった。あの状況が、いつどう変わってしまうのか……考えるだけで寒気がする。
「……そして、なぜ僕とのぞみさんがアデン国に呼び寄せられたのか……ニヒルがのぞみさんに説明していた」
カオリは固唾を飲んでゆうを見つめる。
「それは……?」
ゆうは静かに息を吐き、肩を落とした。
「……君が僕に教えてくれたことと、全く同じだったよ」
カオリの表情が一層曇る。彼女の唇が、かすかに震えていた。
「……これから、どうなさるおつもりですか?」
「……わからない」
ゆうの拳が、ぎゅっと握りしめられる。
「のぞみさんを助けるためには、彼女を奪い返して逃げるか……ニヒルの命を奪うしかない」
その言葉に、カオリの顔色が一瞬で青ざめる。
「……そんな……! もしそれが失敗すれば……ゆう様の命も……!」
「……のぞみさんをニヒルに奪われるくらいなら……生きていたって、意味がない……」
ゆうの言葉は冷たく、けれど揺るぎなかった。カオリは息を詰まらせる。
「……ですが、ニヒル様は、お二人が恋仲であることを弱みとして握っているのでは?それを公開されれば……ゆう様はすぐに捕えられてしまいます」
「……それはしないはずだ。ニヒルはのぞみさんを手に入れたいんだろう? 僕を捕えれば、のぞみさんも一緒に裁かれる。……のぞみさんがガイメンの屈辱の三日間に晒されることになれば、ニヒルにとっても本末転倒だからな」
カオリはしばらく黙り込んだ後、小さく頷いた。
「……確かに」
「……何か、いい方法はないか?」
カオリは少し考えた後、意を決したように口を開いた。
「明日から……一騎打ち戦が行われます」
「一騎打ち戦?」
「一対一で、腕に自信のある男たち同士が戦い、互いの命を賭ける戦です。それに……ニヒル様も出場されると聞いております」
ゆうの目が一瞬、鋭く光る。
「それで……僕がニヒルを倒せれば……!」
そう考えるだけで、胸の奥に小さな希望の炎が灯る。しかし……カオリは冷静だった。
「……ですが、ゆう様は剣の心得はございますか?」
その言葉に、ゆうはすぐに答えられなかった。
「……ない……」
ゆうは、顔を伏せた。
(……僕は、ただの大学生だ)
これまで剣を握ったことも、馬に乗ったこともない。ニヒルを倒すどころか、一瞬で命を奪われる可能性すらある。
「……どうやって、ニヒル様を倒すのですか? ニヒル様は剣の名手です。普通に戦えば……勝つことは不可能です」
その時だった。
ゆうは、マムと別れる直前の出来事を思い出した。
――「マム、僕の力になってくれないか?」
マムは、静かに頷いた。
――「わかりました」
マムの両手から、青白い光が溢れ出す。ゆうの両胸に、そっと手を押し込むように触れた。
その瞬間、ゆうの体に、不思議な力が流れ込んだ感覚があった。
(……もしかして、あの時……マムは俺に力を与えてくれたのか……?)
じわりと、希望が芽生えてくる。
(……マムなら、この展開を予知していたとしても……おかしくない)
ゆうの目に、決意の光が宿る。
「……もしかしたら、僕には、まだ勝つ可能性があるのかもしれない」
カオリは驚いた表情で、ゆうを見つめた。
「……ゆう様?」
ゆうは小さく微笑むと、拳を強く握りしめた。
「……とにかく、明日、一騎打ち戦を見てみる。ニヒルの戦い方を知る必要がある」
「……承知いたしました」
カオリもまた、ゆうの決意を感じ取ったように、深く頷いた。
夜の静寂が、二人の間を満たす。
深夜
静寂に包まれた部屋に、柔らかな月明かりが差し込んでいた。冷たい大理石の床に敷かれた豪奢な絨毯、重厚な柱、天蓋付きのベッド——どこか異世界じみたこの空間も、今では少し慣れつつある。
ベッドの脇、少し離れた場所でカオリが静かに寝息を立てていた。深紅の絹の掛け布の上に投げ出された彼女の手が、月光を受けて白く輝く。長い黒髪が滑らかに枕に広がり、微かな寝息が規則正しく響いていた。
その寝顔を見た瞬間、ゆうは思わず息を呑んだ。
——綺麗だ。
すっと通った鼻筋、形の良い唇、透き通るような肌——まるで一幅の絵画のようだった。そして、その美しさの中にどこか儚さが滲んでいる。戦場に立つ騎士としての凛々しさとは違う、ただ一人の女性としての柔らかさ。
不意に、ゆうの脳裏に別の顔が重なる。
のぞみさん…
ゆうは思わずつぶやいた。
——あの夜を思い出す。
スノボ旅行の夜——
ストーブの火が揺れ、窓の外には静かに雪が降り積もっていた。部屋の中は暖かく、それとは対照的に、のぞみは赤く染まった頬を隠すようにゆうの肩に顔をうずめていた。
「…ゆう君……愛してる…」
細い声が胸元に響く。腕の中にあるのぞみの身体は、驚くほど華奢で、けれど確かな温もりを持っていた。
——触れるだけで、愛しさに胸がいっぱいになった。
彼女の細い指がそっとゆうの手を探り当て、絡めてくる。柔らかくて、温かくて、愛しくて——
——だけど、今。
のぞみはどこか遠い場所にいる。
——あのニヒルと、二人きりで。
ゆうの胸に、強烈な不快感が込み上げた。
あの男は、正室と数十人の側室を持ちながら、一夜たりとも誰かを欠かしたことがないと豪語していた。欲望にまみれた、醜悪な笑みを浮かべて——
ゆうの脳裏に、ニヒルがのぞみに手をかける光景が、鮮烈にフラッシュされる。
「ッ…!」
ゆうはガバッと身を起こした。額に汗が滲んでいる。息が荒い。
握り締めた右手をゆっくり開く。
——マムは、どんな力を僕に貸してくれたのか?
ほんの数時間前、マムが両手を伸ばし、そっとゆうの胸に触れた瞬間——あの時、確かに何かが体の奥へ流れ込んできた。だが、それが何なのか、まだ分からない。
「……?」
ゆうはじっと、自分の掌を見つめる。
すると——
ボゥッ——
かすかな光が灯った。
青白い、静かな光——まるで、あの時マムが放っていたものと同じような。
「これは…!?」
光は一瞬だけゆらめいたあと、消えた。しかし、確かな手応えがあった。
——僕の中に、何かが宿っている。
それが何なのか、まだ分からない。だけど——
ニヒルに対抗する手段が、もしかしたら、あるのかもしれない。
ゆうは、拳をぎゅっと握り締めた。




