11月11日短編:世界の犬も立ち上がる
世界中で猫が立ち上がり人語を喋った、衝撃の2月22日から一年。
翌年の2月22日、一人の生物学者がとある説を公表し、再び世界を騒然とさせた。
『2024年11月11日、犬もまた新たな進化を遂げる。
世界の犬達は二足で立ち上がり人語を話すだろう』
かつて猫の時は最初こそ誰もが鼻で笑い飛ばしていたのだが、実際に猫が学者達の言う通りに二足歩行になり人語を喋ったのだ、もう疑う者はいない。
空前の猫ブームに押されかけていた犬好きは歓喜し、本来ならば自分達の日と主張する棒状の菓子メーカーもこぞって犬のパッケージを準備しだす。
【立ち上がる犬をわが社の菓子を食べながら見守ろう! 11月11日は犬と『(自社の棒状菓子)』を食べる日!】と、どの菓子メーカーも謡い文句を掲げた。
そのうえ学者が言うには、犬達は猫に遅れを取ったわけではなく、猫の進化とそれに対する人間達の反応を観察していたというのだ。
動物が二足歩行になることを人間達は受け入れるのか、人語を喋り意思疎通を可能とすることを彼等は喜ぶのか、それが飼い主達の望むものなのか、彼等はどんな喋り方を希望するのか……。
それらを観察し終え、犬達は人間が自分達の進化も望んでいると判断したのだという。
この説に犬好き達は更に大喜びである。
なんと忠義に厚いのか。この忠誠心、群れで生活することを重視する精神、長と認めた者に従おうという思考。これぞ犬だ。まさに犬だ。と。
11月11日、井波良助宅。
インターフォンの音を聞き、良助は待ってましたと言わんばかりに立ち上がり玄関扉へと向かった。
開ければそこには一人の女性が立っている。「おはようございます」と元気の良い挨拶に良助もまた挨拶を返した。
良助の部屋の並びに住んでいる秋坂茜だ。猫を介して親しくなり、今日は初めて彼女を家に招くことになった。
「すみません、撮影なんて頼んじゃって」
「いえ、良いんです。せっかくベスちゃんが立つんですもん、記念に残しておきたいですよね。撮影は任せてください!」
気合いたっぷりに茜が笑う。眩いほどの明るい笑顔だ。
前職では仕事に追われて日々疲弊していたと聞くが、今は職場を変え、愛猫の琥珀と楽しく生活出来ていると聞く。
『あの時は色々と疲れちゃって』と当時を語ってくれたのは初めて二人で出掛けた時のこと。思い出させてしまったかと心配したが、帰ってきてすぐに『琥珀に猫カフェの浮気がばれちゃいました』と不満げな愛猫の写真と可愛らしいスタンプを送ってくれたのを今でも思い出す。
そんな茜に、良助の愛犬ベスティアーヌ、通称ベスが二足で立ち上がる瞬間の撮影を頼んだのだ。
「ベスちゃん、ルゥちゃん、こんにちは」
茜が挨拶と共にリビングのドアを開ける。
その瞬間、ドアの前で待っていたベスが大喜びで茜の足に纏わりつきだした。フローリングに爪が当たりチャッチャと音が鳴り、さながら音楽を奏でて踊っているかのよう。
そんなベスの隣では、愛猫のルル、通称ルゥちゃんが「あかねー」と茜に纏わりつこうとし、はしゃぐベスにぶつかってコロンと転がった。
「ベスもルゥちゃんも落ち着いて、茜さんが座れないだろ。茜さん、そこのクッション使ってください」
『ルゥちゃんがさっきまで寝てたクッションだからあったかいよ』
「え、ルゥちゃんそのクッションで寝てたのか!? あ、茜さん、ちょっと待ってください、コロコロしてルゥちゃんの毛を!」
「大丈夫ですよ。もうすでに琥珀の毛があっちこっちに着いてますから」
動物の毛が衣類に着くのは動物飼いの宿命。そう冗談めかして茜が告げてクッションに腰を下ろす。
すかさずルゥちゃんが茜の膝の上に陣取り、ベスは遊んで貰おうとおもちゃを加えて駆け寄ってきた。
「ルゥちゃんもベスもあんまり茜さんに我が儘言うなよ? 今日はベスが立ち上がるのを撮影してもらうんだから」
『ベス撮るの? 立つから?』
「そうだよ。立って喋るんだ。なぁベス」
良助が名前を呼べば、ベスがワフッと嬉しそうに鳴いて良助の元へと走り寄ってきた。
世界中の猫が立ち上がった時こそまだ子犬だったベスだが、今はもう立派な成犬だ。といってもまだまだ遊び盛りの甘えん坊で、良助が撫でてやると嬉しそうに床に転がった。ハフハフと荒くなる呼吸はまるで笑っているかのよう。
そんなベスが二足歩行になり、どんな風に喋るのか……。
「いつでも立ち上がって喋って良いからな。あ、でも撮影するからルゥちゃん経由で教えて欲しいかも」
「大丈夫ですよ。いつでも録画ボタンを押せるようにしていますから! 良助さんはしっかりとベスちゃんを見守っていてください」
茜は膝に乗ったルゥちゃんを撫でつつも、片手ではしっかりと携帯電話を持っている。
なんて頼もしいのだろうか。
ベスが立ち上がるとなり、良助はこの記念すべき日を動画に納めておこうと決めた。
だがベスが立ち上がり喋る様子をしっかりと己の目で見ておきたいとも思う。画面越しではなく直に見守り、呼ぶ声に応え、撫でてあげたい。そう悩んだ末、茜に録画を頼む事にしたのだ。
茜は同じマンションの同じ階に住んでおり、ベスもルゥちゃんも慣れている。それに多少時間が遅くなっても問題ない。……もちろん夜遅くまで引き留める気はないが。
「三脚を買おうかとも思ったんですが、普段撮影なんてしないから勝手がわからなくて。茜さんが来てくれて助かりました」
「そんな、お礼を言われるほどのことじゃありません。私も技術は無いので写すことしかできませんし」
茜が苦笑する。そのタイミングで、彼女の膝の上で寝ていたルゥちゃんがひょいと顔を上げた。
近付いてきたベスがふんふんとルゥちゃんに鼻を寄せ、しばし二匹が鼻を合わせる。
「ルゥちゃん、もしかして……!」
『ベスが立つって。ルゥちゃんも立つ!』
茜の膝の上からルゥちゃんがぴょんと飛び降り、ラグの上に座るベスの元へとちょこちょこと近付いていった。二本足の歩みだ。
すぐさま茜が携帯電話を構える。ピロン、と彼女の携帯電話から軽やかな音が鳴った。どうやら立ち上がる前から撮っておいてくれるようだ。
良助に至っては携帯電話どころではない。ラグの上に座るベスをまさに固唾を呑みながら見守っていた。自然と拳を握ってしまう。
「ベス、いつでもいいぞ……。見てるからな……!」
無意識に良助の口から応援の言葉が漏れた。握った拳の中にじんわりと汗が滲む。
そんな良助に見守られ、更にルゥちゃんの『こうだよ!こうやって立つんだよ!ルゥちゃんみたいに立つの!』という応援を受け、ベスが一度ワフッと鳴き声をあげた。
そうして誰もが見守る中、ベスが後ろ足で立ち上がった。
支えも何も使わず、誰の手も借りず。ふらつく事もない。
柔らかな毛で覆われた体でありながら、力強ささえ感じさせる立ち方。
「ベス……!」
『良助、ベス立ったよ。良助嬉しい? 良助!』
後ろ足で立ち上がるや、ベスが良助の元へと駆け寄ってくる。
トテテと音がしそうな歩み。前足を広げる様はまるで幼い子供のようで、堪らず良助がベスを抱き上げた。
「あぁ、嬉しいよ、ベス! ちゃんと立てて偉いなぁ!」
抱き上げ、撫でまわし、抱きしめる。『良助』と呼んでくれるたびに良助もまたベスの名前を呼んで返す。嬉しい、ありがとう、と数え切れないほどに伝えた。
良助のこれでもかと言わんばかりの愛情表現にベスも大喜びで、千切れんばかりに尻尾を振っている。
次いでベスがまだラグの上に残っているルゥちゃんを見た。そちらに行きたいのだと察して良助がベスを床に降ろしてやる。
途端にベスがルゥちゃんへと駆け寄っていった。といっても、二足歩行になりたてなので全力というよりは歩くより幾分足を出すのが早い程度だが。
『ルゥちゃん!』
ベスがルゥちゃんへと駆け寄り、その勢いのまま飛びつく。
ルゥちゃんもまた『ベス!』とベスの名を呼び、ふわふわの毛で包まれた前足を広げた。
その瞬間の、二匹の組み合いは見事としか言いようがなかった。
たとえるならば相撲のがっぷり四つ。
互いにふわふわの毛ながら激しい衝突音がしそうなほど。迫力も一入。
そのまま両者しばし硬直し……、白星を得たのはベスだ。
勢いのままルゥちゃんを押し倒し、そのままコロンコロンと転がっていった。鼻先をルゥちゃんのお腹に押し付ければ、ルゥちゃんもまた猫キックで応戦する。
もちろん喧嘩ではなくじゃれ合いだ。一度ぴょんと両者離れたかと思えば、どちらともなくまた飛び掛かって転がる。
「ベスが喋っても相変わらずだな」
「ベスちゃんもルゥちゃんも仲良しですね。見てください、良助さん、バッチリ撮れましたよ!」
「本当だ。ありがとうございます。両親が見たいって言ってたんで喜びます」
コロコロと転がり時には後ろ足で立ち上がって遊ぶ二匹を眺めつつ、良助と茜が撮れたばかりの映像を確認する。
ルゥちゃんの励まし、スクと立ち上がり良助へと駆け寄るベスの愛らしさ、そこからの力士顔負けの二匹のがっぷり四つ。それらがしっかりと茜の携帯電話に録画されている。
この映像もまた少しだけSNSで人気になった。
猫に続いて犬達も進化を迎えた。
だが何も変わらず、猫も人も犬も、今日も平和である。
…end…