第四話 第七駐屯地防衛戦
バルドの言った通り、補給帳簿はひどかった。
いや、帳簿と呼べるような代物ですらなかった。
数字の羅列に訂正が重なり、日付が前後し、同じ品目が別名で二重記載されている。
矢の在庫が実数の倍になっている箇所まであった。
帳簿の上では十分な備蓄が存在している。
だが実際の倉庫は、棚の半分が空だった。
レインは三日かけて帳簿を読み直し、実数と照合した。
出てきた数字は単純だった。
矢が記録の半分しかない。
保存食は二割不足。
防壁補修用の石材は、ほぼ底をついていた。
「これ、本部は知っているんですか」
レインが聞くと、バルドは少し間を置いた。
「知ってる奴もいる」
「なのに動かないんですか」
「本部への申請は上が出す。上が動かなければ、下は待つだけだ」
レインは黙った。
待っている間に何が起きるか、もう十分見てきた。
「申請書を書きます」
レインは言った。
「実数との差異を数字で並べれば、さすがに無視できないはずです」
「書いても通らんかもしれん」
「通らなくても、記録は残ります」
バルドはしばらくレインを見ていた。
それから、
「好きにしろ」
とだけ言って立ち去った。
申請書は書いた。
だが返答が来る前に、冬の終わりが来た。
その夜は、妙に静かだった。
吹雪の音しか聞こえない。
夜警兵たちの顔も硬い。
誰も口には出さない。
だが全員、何かを感じていた。
夜明け前。
大地が揺れた。
最初は地鳴りのような低い音だった。
次の瞬間、警鐘が連打される。
「オークだ!」
「数が多い! 吹雪の中から来てる!」
兵士たちが防壁へ駆け上がる。
レインも槍を掴み、外へ飛び出した。
吹雪で視界は悪い。
だが、防壁の上はすでに混乱していた。
「南門支援だ!」
「違う、北壁だ! 第三区画が危ねぇ!」
「弓兵が足りない!」
怒号だけが飛び交う。
誰も全体を見ていなかった。
レインは一度立ち止まり、耳を澄ませた。
南門側から聞こえるのは、単発の衝突音。
一点への攻撃。
一方、北壁からは低い打撃音が連続して響いている。
一定間隔。
壁を叩き続けている音だ。
(北壁だ)
(しかも補修途中の第三区画を狙っている)
走った。
到着した時には、石壁へ大きな亀裂が走っていた。
鈍い衝撃のたびに、亀裂が広がっていく。
壁の向こうで、オークが体当たりを繰り返しているのが分かった。
「まずい! 壁が持たねぇ!」
兵士たちが後退を始める。
恐怖が伝染していた。
レインは周囲を見渡した。
狭い通路。
崩れかけた石壁。
そして——補給荷車。
油樽が積まれている。
帳簿には存在していないはずの油樽だった。
だが今、この場にはある。
(止められる)
「荷車を倒せ!」
「はぁ!?」
「通路を塞ぐんだ! 壁が崩れても、ここで数を絞れる!」
一瞬、誰も動かなかった。
レインは自分で荷車を押した。
数人が続く。
横転した荷車が通路を塞ぐ。
さらに油樽を割り、火を放った。
炎が吹き上がる。
熱と煙が割れ目から流れ込み、オークたちが怯んだ。
狭路へ押し込まれたことで、数が死ぬ。
「今だ! 槍を合わせろ!」
「隊列を崩すな!」
混乱していた兵士たちが動き始める。
槍衾。
狭所戦。
乱戦ではない。
数の差を殺せる。
夜明け頃。
魔物群は退却した。
防壁は辛うじて持ちこたえた。
第三区画には大きな亀裂が残ったが、崩落はしなかった。
死者四名。
負傷者十数名。
戦闘としては、最悪ではない結果だった。
だが戦いののち。
士官に呼び出されたレインを待っていたのは、称賛ではなかった。
「誰の許可で動いた」
それが第一声だった。
「補給物資を無断使用し、荷車を破損。油樽も焼失した」
士官は書類を見ながら淡々と言う。
「損耗記録の修正が必要になる」
レインは黙っていた。
「返答しろ」
「壁が崩れれば、死者はもっと出ていました」
士官は感情を動かさなかった。
「それを判断するのは、お前ではない」
静かな声だった。
怒鳴らない。
だから重い。
「兵士は命令に従う」
「独断を許せば、別の者も独断で動く」
「それが積み重なれば、軍は軍でなくなる」
レインには分かった。
論理としては正しい。
組織には秩序が必要だ。
だが。
壁の向こうでオークが押し寄せている時も、命令を待てと言うのか。
「以後、独断行動は禁止だ」
「……はい」
退室した廊下で、バルドが壁にもたれていた。
「聞いてたんですか」
「通りがかっただけだ」
少し間を置いて、バルドは言った。
「お前のやったことは正しかった」
「でも怒られました」
「正しいことと、許されることは別だ」
それだけ言って、バルドは歩き去った。
レインは廊下に一人残された。
正しいことと、許されることは別。
その言葉だけが、しばらく頭から離れなかった。




