外伝二 朴念仁の恋
野口先生の葬儀が終わり、ようやく落ち着いたころ、あさ美は野口家を尋ねた。
玄関で案内を待つ間、屋根の向こうに裏山を見る。高校時代にタケノコ掘りをした裏山は、世話をする主人が亡くなってさほど過ぎていないというのに、心なしか荒れたように感じる。
「どうぞ、お上がりなさい。こちらにどうぞ。」とさくらの声がする。
声が聞こえる座敷に上がると、未亡人となったさくらが焼香していた。
「ごめんなさいね,玄関に出もせずに。ちょっと体が怠くて。あなたなら、気心が知れているから。」
あさ美がこの家を訪ねるようになってから、どのくらいの月日が流れたろう。行儀の良かったさくらなのに、野口先生の死後、急激に衰えたなと、あさ美は思う。
「出直しましょうか。」
と、あさ美はさくらを気遣う。
「いいのよ。野口はあなたを気に入っていたわ。一緒にお参りしてください。」
あさ美も続けて線香に火をつける。
「電話で言っていたけど、野口との馴れ初めを教えてほしい、って。なぜなの?」と、さくらが尋ねる。
「お疲れのところ、すいません」
さくらは目線で先を促す。
「野口先生は東山を自分の後継者にしたいとお考えでした。東山も野口先生を慕っていました。いわばお師匠様です。師匠といえば親、弟子といえば子も同じ。
東山のお父様となれば、妻のあたしにとっても親同然です。人となりを知りたいと思うのは当然です」
芝居がかったあさ美の台詞に、さくらは吹き出した。
「あなたは本当に面白い。」
あさ美は戸惑いながら、にこりとする。大まじめに考えた理由付けで、笑われるつもりはなかったのだが、この「母親」が喜んでくれるなら良しとしよう。
「あの堅物にあまり面白い話はないのよ。」と、さくらは遠い目になる。
「そうねえ。あなた、髙村光太郎の「道程」を知ってる?」
「『僕の前に道はない 僕の後ろに道は出來る』って詩でしたっけ? 国語の授業で習いました。」とあさ美。
「それよ。野口は中学生の時、先生に感想を問われたの。しばらく考えて、こう答えたって。
『作者は道路を舗装する土木工事業者でしょうか? だとしたら専門の業者が「迷ひまよつた道」を作るのは理解に苦しみます』って。」
あさ美は吹き出した。
「先生は『ふざけるな』と怒ったって。けど、野口はなぜ怒られるのか分からなくて、キョトンとしたって。
知っていると思うけど、野口は徹底的な現実主義者です。情緒とか芸術的な美とかの抽象的な概念が抜け落ちてる。本人もそれではまずいと思って美術を勉強したの。だから絵を見せたら月並みな感想を言うかもしれないけど、それは、世間一般の人はどういう心情変化があるとかを、本で読んだり人を観察した結果。知識として知っているだけ。感情は動いていない。」
「感情はあったと思いますけど……」
「喜怒哀楽はむしろ大きい方。生徒が真面目に勉強するのが嬉しいとか、校長の理不尽な命令に腹が立つとか、子供みたいに一喜一憂してた。」
「それほど激しくは。どちらかといえば、物静かな先生だと思ってました」
「そりゃ、生徒の前ではね。妻の私には素の感情を出すから。分かるでしょ、あなたの「ご主人」もそうじゃなくて?」
あさ美はうなずく。
「お兄ちゃん--主人は……東山は、野口先生より、だいぶお調子者ですけど。似たところがあります。真面目だけど、その、なんて言うか……」
「世渡りが下手」
「はい」
二人は同時に笑い出す。
「あなたも苦労ねえ、面倒な男を好きになってしまって。乗り換えるなら早いほうがいいわ。あなたほど可愛らしいお嬢さんなら、男は選び放題でしょうに。」
「お兄ちゃんがいいの!」
からかわれて、あさ美はムキになって素が出る。
「でしょうね。分かるわ。私も散々言われたもの。苦労するぞ、あんな男はやめておけって」
あさ美はさくらを見つめる。老いて色あせても美形なのは変わらない。若い頃はさぞ、と思わせる。
さくらはもう一度、遠くを見る目になる。
「馴れ初めねえ。野口と出会ってから、もう四〇年以上になるのね。私も年を取ったわ。昔のことばかりよく覚えている。『まるで昨日のことのように』は本当ね。」
閉じた目から、涙が落ちた。
県立真嶽高等学校、新学期、一年一組。
「えー、このクラスの担任で、生物を担当する野口元です。新任で至らぬ事も多々ありましょうが、皆様のご協力で勉学を進めたいと考えています。よろしくお願いします。」
まだ若い男は教卓に頭をぶつけるほど、深々と頭を下げる。
教室に入ってくるなり背筋を伸ばして口上を述べた教師を前に、教室は静まりかえった。いくら新任で慣れぬとはいえ、教師が生徒にする挨拶ではない。
(冗談のつもりか?)
生徒たちはどう反応していいか分からず、沈黙で答えた。その反応に野口の方が戸惑う。
丁寧に挨拶したのだから、それ相応の感謝の意を示すのが礼儀ではないか、とでも言いたげだ。とはいえ、教師が黙っているわけにもいかない。
「じゃあ、授業始めます。その前に号令ですね。委員長はどなたですか?」
「先生、「規律・礼・着席」は日直がやるもんでしょ。私です。」と女生徒が立ち上がる。
真嶽効能は高校再編にあわせ、制服も今年から変更されている。今時の見栄えを重視する生徒向けにおしゃれ感を出したいと考えたデザイン意図は、見事に失敗している。襟が小さなブレザーは、デザイナーズブランドの意図を取り違えたダサいアイビーだと、生徒の評判はすこぶる悪い。
だから生徒たちは、少しでも格好良くしたいと工夫する。ネクタイの結び目を小さくなるように結んだり、女子はスカートを短くしたり。教師たちも無理はないと思うから、少々の逸脱は見て見ぬふりをする。
元気よく立ち上がった女生徒の制服は、お目こぼしの範囲を超えている。入学したてだというのに、思い切りいじっている。格好よくなったと見えなくもないが、襟に入ったラインやフリフリのスカートは、伝統を重んじる人は眉をひそめるアレンジだ。それ以前に、露骨な制服の改造はほめられたことではない。おまけに髪はパーマで顔は化粧が入り、爪もアートが入っている。
風紀に厳しい教師に当校初日から注意されても、平然と入学式に出席した。むしろ目立って勝ちだと喜んでいる節がある。いかにもやんちゃな生徒だ。
「そうなのですか。不慣れですいません。教えてくれてありがとう。親切な方、お名前は?」
それをこの教師は、気にもせず見つめる。服装なんかどうでもいいと思っているのか。それ以前に、この教師は生徒との上下関係の認識が狂っている。
変な教師が担任になったなあ、楽しいけど、と女生徒は思う。
「さくら、魚見さくら。ほめてくれたお礼にもっと親切にしてあげる。さくらって呼んで」
「それはいけません。教師と生徒の関係には分別があります。名前呼びは友達同士ですることです。
魚見くん、号令をお願いします」
わけの分からん先生だ。と、クラス全員が思っただろう。生徒に対してのバカ丁寧と分別とが、この先生の中でどういう基準で両立しているのか。
(せっかく仲良くしてやるって言ってるのに)
とはいえ、裏表のない性格なのはさくらにも伝わった。そういうのは好みだ。
さくらは野口に注目した。自然、真面目に授業を受けることになる。
(面白い)
無味乾燥になりがちな教科書の記述を、興味を引く様に分かりやすい例えを差し挟んで説明する。そのために教材作りに手間をかけているのが伝わってくる。新任でこれまでの蓄積がないだろうから、かなりの時間をかけているはずだ。
反面、真面目すぎるから冗談が下手だ。息抜きの間を取りたいのだろう、時々ギャグを挟むが、それが尽く滑る。生徒たちの失笑を買って困った顔になる。それがまた面白い。
(こんな教師は、いや男はこれまでいなかった)
一週間も過ぎると、さくらは野口になついていた。
休み時間や放課後に、さくらは理科準備室に入り浸りになった。野口は教材作りで、空き時間は理科準備室にいることが多いからだ。それで野口は忙しいから、さくらが話しかけても生返事しか返ってこないことが多い。流石にさくらも話しかけにくくなり、黙って野口を見ている時間が増える。
作業が一区切りついた野口はさくらを見つめる。
「君はよくそこに座ってますが、何をしているのですか?」
「先生を見てる」
野口は怪訝な顔になる。露骨に秋波を送っているのに、分からないのか。
(私、けっこう可愛い子だと思うんだけどな)
実際、中学時代は男子が次々に告白してきた。それでかなり遊んだから手練手管は学んだし、男を見る目はあるつもりだ。
「迷惑?」
「迷惑ではないですが、横で見られていると気にはなります。君だって、することもなく座っていても、つまらないでしょう。」
「先生を見てると楽しいよ」
「僕の顔はそんなに面白いですか?」
「そうじゃなくて」
(どう言えば通じるのかな、この朴念仁は。)
「じゃあ、手伝わせてよ。先生、忙しいようだから、助手してあげる。」
「教材作成は教師の仕事です。生徒にさせるわけにはいきません。」
「堅いなあ。じゃあ、勉強よ。先生の授業は教材をよく使うから、教科書を読むだけでは予習にならないわ。前もって教材を知ってたら授業もよく分かる。私、生物、苦手だから勉強したいの。」
「君だけをえこひいきするわけには……」
「先生が生徒を連れ込んだらまずいけど、生徒が勉強したいと言ってるの。文句がある生徒は、私みたいに勉強しに来ればいいのよ。」
「ふむ」
野口は考え込んだ。「教科書を読むだけでは予習にならない」は、痛いところを突かれたようだ。
「わかりました。では、予習してもらいましょう。ただし、他の教科も勉強しなければなりません。生物の予習は、一日最長で一時間です。」
「ケチ。もうちょっと長くてもいいじゃない、運動部なんて一日に二時間は練習するよ」
「これは部活動ではありません。君は、そんなに生物が好きなのですか?」
(あんたを好きなのよ)
さくらは思わす口にしそうになった。それで自分の気持ちが分かった。私、恋してる。
女心と縁がない野口は、さくらの言葉を額面どおりに受け止めた。「予習」のために、授業内容を説明しながら教材を作っていく。
そうなると、さくらも勉強せざるを得ない。すると、どこが理解できていないかが分かって、それを質問するようになる。真面目は野口はそれを受けて教材を改善する。
「あっ、そういう意味か。いまの説明の方が分かりやすい。先生、これ、いいよ」
さくらは嬉しそうにガッツポーズを取る。自分も一緒になって仕事をしたと思える。そういう達成感を、これまで味わったことがなかった。
そうなると、野口もさくらを当てにする。説明しづらい事項はさくらに相談するようになる。成績の悪い生徒がどこでつまずくのかを考慮した野口の教材は、どんどん精度が上がっていく。
必然的にさくらの成績は向上した。なにせ授業を受ける前に、ほとんど説明できるほどに「予習」しているのだから。
さくらは約束を守った。他の科目も勉強した。入学試験は最低だった成績が、一学期の期末試験では学年順位が総合で一〇番にまで上がった。
さくらはそんなに勉強した意識はない。さくらが勉強すると野口は喜ぶので、もっと喜ばしてやろうとしたら、結果的に試験で点が取れるようになったのだ。もっとも、朴念仁は喜んでいる心情が分かりにくい。「教師と生徒の分別」で、意識的に喜怒哀楽を押さえているのだろう。よく見ているさくらでなければ、気がつかない程度だ。
野口の変人ぶりに呆れていた生徒たちも、分かりやすい授業を喜ぶようになる。だから多くの生徒は野口とさくらの関係を好意的に見ていた。
そうではないさくらの友達もいる。小学校以来の親友、百花は「あんな根暗のどこがいい?」と呆れる。
「野口先生のは暗いんじゃなくて、ストイックって言うの。きまじめに仕事に取り組む姿、最高じゃない」
「分かんないなあ。一緒にいて面白い?」と百花は首を振る。
さくらはヤンチャしてたから、つきあう男は、世間では不良と呼ばれるタイプが多かった。友達の百花はそれを知っている。さくらはそういう男が好きなのだと思っていた。
「中身のない男と遊ぶのはやめたわ。男は使命感と思いやりよ。」
「まあ、授業をよくしようと一生懸命なのは偉いと思う。けど、さくら、それにこき使われて、あんたは大事にされてるの?」
「正直、優しい言葉の一つもかけてくれない。けど、時々、気遣ってくれる。私にしかそんな顔しない、素敵。濡れちゃう。」
「いきなりシモに走るか。まさか、先生とやっちゃたの?」
さくらは首を振る。
「手を出してこないのよ。」
「あっち方向?」と百花は手の甲を頬に当てる。
「違うわ。堅物の変人だから、恋愛の感覚が違うの。それと、我慢してるみたい。ぽろっと言ったことがある。『商品に手を出してはいけない』って。教師の隠語で、生徒と出来ちゃうのを蔑んで、そう言うんだって。私の方から誘ってるんだから、かまやしないのに。一生懸命に衝動を抑えてるのを見ると、好かれてると思って嬉しくなる。」
「ツンデレ……」
「?」
「「デレ」が大きいと駄目なんだって。三六〇度のうち三五〇度が「ツン」で、残り一〇度が「デレ」だと萌え上がるんだって。」
「そうかもしれない……」
思い切り改造したさくらの制服は、いつの間にかノーマルになっている。化粧っけは無くなり、真っ直ぐの黒髪を地味に束ねている。その方が真面目な野口が喜ぶと思ったからだ。
けど、野口のことだから、気がついていない外見の変化もあるだろう。
流石に派手なネイルアートをやめたのは目についた。野口はさくらの指先を見つめた。
「急に地味になって変、かな?」
「そんなことはありません。綺麗な指だし、君は着飾らない方が似合うと思います。」
「嬉しい」さくらは野口に抱きついた。
「やめなさい。僕は君の教師です」
「やめない! お願い、ちょっとだけでいいから、このままでいさせて。真面目になったご褒美ちょうだい。」
「困ります。僕だって男なのです。」
押し問答の末、野口はさくらを引きはがした。離れ際に、さくらは野口の股間の変化を見逃さなかった。
(これは、脈がある)
さくらは野口に気に入られるよう、ますます真面目に、勉強もがんばるようになる。そうなると、流石の野口も気を許すようになっていく。授業以外では無口な男が、時々自分の身の上を話すようになる。さくらはそれも嬉しそうに聞く。
早くに両親を亡くしたこと。天涯孤独となった野口は高校からバイトで学資を稼ぎ、奨学金を活用して大学まで進学したこと。それでもお金がないから、大学時代もバイトばかりして遊ぶ時間がなかったこと。教師になったのは、それが奨学金の条件であったからだ。
努力の甲斐あって一発で教員採用試験に合格したこと。それは良かったけど、就職したら奨学金を返済しなければならないから、相変わらず貧乏なこと。
「先生も苦労したんだね」
さくらも母親が死んでいるから、親がいない寂しさは分かる。ましてや野口は両親とも亡くしている。自分の父親は優しくしてくれる。経済的な苦労もない。
さくらは涙ぐむ。
「僕のために泣いてくれるのですか?」
「私が出来るのは、先生のために泣いてあげることぐらい。先生が辛いときは、いくらでも泣いてあげる。」
さくらは不良で色々と悪いこともしてきたから、逆に云えば人生経験がある。時々、大人びたことを言う。けど、根本は一五歳の多感な少女だ。
(この先生は苦しくても頑張った。努力を重ね、立派な先生になった。それに比べ、私は甘ったれだ。お父さんが優しいのをいいことに遊びまくっていた。もう遊んでる暇はない。先生に好かれる女になるため、もっと真面目に頑張らなくっちゃ。)
この急変を一番喜んだのは、さくらの父、魚見五三八であった。お礼に一席設けようとして、さくらに止められた。
「野口先生は真面目だから、そういうワイロみたいなの嫌がるわ。それでなくても、なんて言うんだっけ……そう、父兄からの供応接待は禁止されてるはず。先生が処罰されちゃう。」
五三八はそんなものかと思う。ならば贈り物はもっとダメだろう。学がない――と自分を卑下している――五三八は、他にお礼をする方法がないかと考え込んだ挙げ句、嘘をついてでも野口を誘い出すことにした。やっちまえば、こっちのもんだ。
一学期の終業式の日、五三八は真嶽高校に野口を訪ねた。
「娘のことで、先生に折り入ってご相談があります。学校では話しにくいことですので、誠に恐れ入りますが、学校が引けてから、拙宅に起こし願えませんか。」
この夜、野口に予定がないのは、さくらを通じて知っている。夜遊びはしないし、暇があれば授業の準備か勉強してる男だ。真面目で親切だから、生徒のためと言えば断るまい。
周りの教師は胡散臭げに五三八を見る。なにせ風体が悪い。鯉口のダボシャツと腹巻き、そのうえにチェックのジャケットとおそろいのズボン、室内でも被ったままのソフト帽。本人はお洒落のつもりなのだろうが、テキ屋かフーテンにしか見えない。顔がまた、いかにもヤクザで、今にも「おひかえなすって」とやりだしそうだ。地元出身者は、五三八が地域の有力者だと知っているから、服装が学校に相応しくないと注意しようとする教師の袖を引っぱって止める。
野口は平然と対応する。よく言えば「人を見かけで判断しない」、悪く言えば「外見というより他人に関心かない」のだ。
「あなたが魚見君のお父さんですか。娘さんにはお世話になっています。今日は終業式で学校も早めに終わりますから。なるべく早くお邪魔させていただきます。」
「ありがとうございます。では、お待ちしています。娘に案内させますので、よろしくお願いします。」
五三八はニコニコしながら去って行く。
夕刻、野口のオンボロ中古車が、助手席にさくらを乗せて魚見家に到着する。田舎では車がないと生活が厳しいからと、軽自動車を買ったものの、ローンの支払いが、それでなくても苦しい野口の家計を圧迫していた。
「立派なお宅ですね」と野口。
瓦屋根の門を車のままくぐると、大きな白塀の屋敷の前には、高級車でも五~六台は止められそうな駐車場が広がっている。野口の古びた軽自動車がそぐわないこと甚だしい。
「田舎の漁師が見栄を張ってるだけよ。」
謙遜ではなく、さくらは本気でそう思っている。真面目になると誓ったものの、そういう家への反発は抑えきれない。
「お父さん、先生をお連れしたわよ」
玄関を開けると、良い匂いがする。さくらは、これはまずいと思う。
「おお、客間にお通ししてくれ」と五三八の声。
「お邪魔します」と、無頓着な野口は平然と靴を脱ぐ。
「先生、ごめんなさい」と、さくらは頭を下げる。
「どうしたのですか。お父さんのところにお願いします」
(この人は、こういう人だ。ええい、ままよ)
さくらが先導して、客間のふすまを開く。八畳間に置かれた大きなテーブル一杯に、豪華な料理が並べられている。
「先生、ようこそいらっしゃいました。ささやかながら、娘がお世話になっているお礼の席を設けました。ささ、どうぞこちらにお座りください。」
と、五三八は野口を上座に招く。
「どういうことですかな。娘さんのことで相談があるからとお邪魔しました。このような供応を受けるいわれはありません。」
だだでさえ丁寧すぎる野口の語調が厳しくなる。
「まあ、そう堅いことを仰らず。まずは一献」と、お銚子を掲げる五三八の口調は軽い。「いただくわけにはまいりません」
つっけんどんな野口の言い方に五三八はムッとする。
「俺の酒が飲めねえって言うのか」
「はい」
「この野郎、娘が世話になってるからと下でに出てりゃ」
頭に血が上って、続く言葉が出てこない。
(最悪の展開だ)
さくらは天を仰ぎたくなった。これは父が悪い。
この男は酒飲みの田舎者だから、飲み食いさせるのが最高のもてなしだと思ってる。その場合、招かれた方は一度は断るのが礼儀である。田舎の作法では、それは遠慮だから、主人は更に勧めなければならない。客は「そこまで仰るなら」と歓待を受ける。それで親睦が成る。
もし酒を固辞し続けるなら、それは宴会の主催者への拒絶を意味する。最上級の侮蔑になるから、飲めない事情があっても杯を受けるのが礼儀だ。
しかしそれは時代遅れの田舎者の行儀だ。この杓子定規に教師の分別を守る若者に、そんな流儀は通用しない。
それにしても、野口先生も言葉が足りない。今時の教員は父兄から物を受け取ることさえ禁じられていると、きちんと説明すべきだ。
(こりゃ、相当怒ってるな)
日頃から野口をよく見ているさくらには分かる。正直が信条の先生は、嘘をつかれた時点で、口を利く気が失せているのだ。
真っ赤になって怒る五三八のヤクザ顔を、野口は平然と見かえす。帰ると言わないのは、背中を見せると襲われるとでも思っているのか。
(うちのお父さんは熊ですか)
なんか、可笑しくなってきた。とはいえ、私が何とかしないと、収まりがつかないなあ。
ドン、大きな音を立てて畳を踏む。にらみ合う男二人は、思わず少女を見る。
「そこまでにしな。父さん、ここはあんたが引くべきだ。先生にお礼と言いながら、先生を困らせてるのが分からねえのか。」
「いや、俺は感謝の気持ちを伝えたくて……」
娘になじられ、五三八の怒気が緩む。
「こういうのは駄目だって、説明しただろ。父兄からワイロを受け取っちゃ、下手すりゃ先生はクビになっちまうんだ。恩を仇で返して、あんた、それでも男かい。」
「そんなつもりはねえ。ただただ、先生にお礼をしたいだけだ」
「なら、先生の言うことを聞くべきだ」
さくらは野口を見る。
「先生、お怒りはごもっともだが、父も悪気があったんじゃない。どうかここは、私の顔を立てて、矛を収めてください。」
野口はうなずく。
「まあ、君がそう言うのなら」
「ありがとうございます。父さん、先生は許してくれるって。心の広いお人だよ。それに比べて、父さんときたら、考えが足りないし短気だし……」
「そこまでにしなさい」と野口の静かな声。
「君の胆力に、僕は感動しました。けど、人前で親を罵ってはいけない。やり方に賛同は出来ないけれど、お父さんは君のことを大事に思っているんだ。それなのに恥をかかせるような物言いはいけません。親不孝は駄目です。」
「はい」さくらはシュンとなる。
「分かったら、お父さんに謝りなさい。」
「はい。お父さん、嫌な言い方をしてごめんなさい」
五三八は畳に額を擦り付けて平伏する。
「参りました!」
顔を上げた五三八は泣いている。
「先生、ありがとうございます。親一人で甘やかしたから、娘は不良になっちまった。それが、高校に入ってから素行は良くなる、成績は上がる。それだけでも感謝しきれねえ。
そのうえ、今の娘の態度、驚きました。親の言うことなんか聞きやしねえあばずれが、素直に頭を下げるようになった。俺はこの年になって、教育の素晴らしさを思い知らされました。
先生、あんたは偉い人だ。俺にらまれて平気なだけでもすげえのに、娘をこんないい子にしてくれた。」
「僕はそんな立派な教師ではありません」
「そういう奥ゆかしいところが、また立派だ。」
五三八はいずまいを正す。
「お願いがあります。ワシは先生に心酔しました。これからは教師と父兄としてでなく、男同士として末永くお付き合い、いや、教えを請いたい。先生、いや、野口さん、お願いします」
「大袈裟です。しかし友達づきあいなら、よろしくおねがいします。」
「ありがとうござます。と、なれば、お近づきの印に、飲みましょうや」
とお銚子を取る。
「話が元に戻りましたな」
「そうじゃねえ。これは友達同士、男と男が仲良く飲む酒だ。娘は関係ねえ」
「お酌くらいはしてあげる」とさくら。
「詭弁のような気もしますが。」と野口。
「しかし今夜は、魚見さんから友達の顔を立てることを学びました。
分かりました。これ以上魚見さんに恥をかかせるのも失礼です。飲みましょう。
ただ、申し訳ないが、僕は下戸です。」
「なら、食ってください。この鯛はワシが釣ったんです。」
「ほう、これは見事な。遠慮なく頂きましょう。」
楽しい夜――にはならなかった。野口はお銚子が一本空かないうちに、杯を持ったまま寝てしまった。
後になって思い起こすと、さくらの高校時代は野口にとって人生で一番良い時期であったろう。真面目で勉強家だが、社会性がなく融通の利かない野口を魚見親子が支えられたのだ。
やんちゃな生徒が野口をバカにしようものなら、さくらが絞めた。昼休みにに体育館の裏に呼び出して、という典型的な不良のやり口なのだが、要求するのが「真面目に授業を受けろ」だから、学校も扱いに困る。
さくらが二年生に進級する頃には、野口先生に反抗すると「愛人」から焼きを入れられる、との噂が広まっているから、さくらの「指導」はめっきり減っていた。
あんな貧乏な変人のどこがいいのだと、生徒たちは陰口をたたくが、野口の悪口がさくらの耳に入るとえらい目に遭うので、表立っては言わない。
さくらの二年生の初め、何も知らない新入生が迂闊にも、生物の授業中に粋がって机を打ち鳴らした。おとなしそうな先生だからと舐めてかかり、ワルを目立たせようとしたのだ。その日のうちに、その男子は清楚なお嬢様善とした二年生に呼び出された。
「大事なお話です。必ず来てください。」
喜々として体育館裏にやってきた不良は、完全に勘違いしていた。
「生物の授業中に、先生をやっつけたんですって?」
恥ずかしげに見つめてくる美少女を前にして、不良は舞い上がった。
「おおよ。偉そうな口ききやがるから、ちょっと脅してやったのよ。あの先コー、びびったんだろうな、怒鳴りもしねえで説教しやがる。だからよ、シカト決めてやったんだ」
自慢げにしゃべる不良は、さくらの豹変に凍り付いた。感心されると期待して見たさくらは鬼の形相になっている。目で人を殺すと、比喩ではない視線でにらまれている。
「随分とでかい口を利いてくれたな。野口先生をバカにするとはいい度胸だ。」
不良は口をパクパクさせる。幼少期から海の荒くれ男の中で育ったさくらは、どういう表情で人が恐怖するのか、人の脅し方を熟知している。
「今度なめたまねしたら、刺すぞ」
短刀を突きつけられたような思いがする。不良はコクコクとうなずく。
そんなことをやれば職員室にも伝わる。ところが、入学当時の、外見からして反抗的だったさくらを知らない二年生の担任教師は、真面目なさくらが恐喝まがいをするとは信じない。
そうはいっても、被害(?)の届けが出ている以上、無視はできない。呼び出されて、事の次第を問われたさくらは、楚々と答える。
「誤解です。授業態度の悪い下級生を注意しただけです。ちょっと口調が強かったかもしれませんが、誠意を持って指導したら、理解してくれました。」
「君ねえ、無関係の生徒を勝手に指導してはいかんよ」と担任。
「ごめんなさい。でも、学校が荒れるのが辛くて。再編されて、ただでさえゴタゴタが多い母校の評判が、これ以上悪くなるのは耐えられないのです。この制服に誇りを持つ、私はここを、そんな学校にしたいのです」
涙を流しそうな顔で訴えられ、担任はひるむ。
「分かった。もういい、行きなさい」
「ありがとうございます!」
担任の後ろを、「よく言いますな」と言いたげな野口が通っていく。
「野口先生、昨日の生物の教材、もうちょっと説明が欲しいって、一年二組の女子たちが言ってる」
さくらは嬉しそうに野口に声をかける。
「どうしたの? 職員室にいるなんて珍しいじゃない」
抱きつかんばかりにして駆け寄る。
「僕はこの学校の教員です。職員室にいるのがそんなに不思議ですか? それより、教材の不備を教えてください」
「ここ、狭いし人が多いから話しにくいわ。理科準備室に行こ。教材もそっちに置いてるんでしょ?」
「先に行ってください。僕は学年主任の豊岡先生に用があるのです。」
「OK、待ってるからね。すぐ来てね。」
野口は手を振る。
「デートだ、デートだ、嬉しいな。キャハ」
さくらは妙な節で歌いながら、スキップで職員室を出て行く。
担任は呆れかえる。
「野口先生、魚見くんって、どういう生徒なのですか? というか、どういう関係です?」
「どうも、懐かれちゃいまして。去年から、僕が作った教材のモニターのような役をしてもらっています。おかげで、授業の精度が随分と向上しました。」
「いや、そういう意味じゃなくて」
一線を越えてます、と言いたげだが、口にしなかった。
さくらは野口のアパートに通っているとの噂も聞く。が、何となく職員室でその話はタブーになっている。
野口はどこ吹く風とばかりに、学年主任の机に歩いていく。
ともあれ、問題のある生徒が更正される。だから、さくらの処分はたいがいうやむやになる。
そうはいかないこともある。自分の間違いをガンとして認めない生徒がいた。野口は放課後にその生徒を呼んで、丁寧に説明した。この親にしてこの子ありで、その生徒の親は、いわゆるモンスターペアレントだった。野口は厳しすぎるとクレームをつけてきた。
こういうとき、野口は一切の妥協をしない。それがまた気に入らないと、その母親は騒ぎ立て、報道機関にまで通報した。さくらに押さえられていた不良たちは、ここぞとばかりに騒ぎ立てる。
地元新聞に野口に批判的な記事が掲載されると、今度は野口を慕う生徒たちが反発した。
「野口先生は分かりやすく教えてくれる、立派な先生だ。事実無根の記事の訂正を要求する」と、地元新聞社に抗議した。
騒ぎをかぎつけた他の新聞社や報道機関があおり立て、事態は校内で処理しきれない規模になってしまった。
校長たちは対応に苦慮した。
「僕の対応に不備があったでしょうか?」
校長に説明を求められた野口は飄々としている。
「いや、そうなんだけどね。もうちょっと世過ぎというか、話の綾をだね……」
校長は困り果てた。生徒の評判がよい野口を評価しているのだ。しかし、こうも問題が大きくなると、無視するわけにもいかない。
さくらは父親に泣きついた。
「任せておけ」
こういう事態になると五三八は強い。まず政治家や実業家のコネを使って、報道各社を黙らせた。次に問題の発端となった生徒の家を訪れ、なだめるやら脅すやらで野口への非難をやめさせた。
あとは校長に直談判して、野口を処分しないと約束させた。これは簡単だった。校長は、野口を評価しているから、事態が沈静化すれば、あえて問題を蒸し返しなどしない。
「お父さん、大好き。」
さくらは五三八に抱きついた。
「いいってことよ。野口先生は友達だ。おまえに頼まれなくてもお助けするぜ。ま、ちっとばかし金を使っちまったがな。先生が喜んでくれるなら、金なんかいくら掛かっても、惜しかねえ」
この調子で、野口が受け持つ生徒は皆、熱心に授業を受ける。教師にとって夢のような状態だ。世間に頓着がない野口は、そうなるように工面してくれる人がいることを、どこまで把握していたのやら。
さくらの高校二年生はそうやって過ぎていく。
ある夜、晩酌をしながら、五三八はさくらに尋ねる。
「そろそろ、高校を卒業した先の進路を考えなきゃなあ。進学が就職か、進学するなら進路によって履修科目が変わるんだろ」
野口と友達づきあいをするようになって、ヤクザまがいの五三八も、少しは教育制度を理解するようになった。
さくらは制服のシャツにアイロンをかけながら、短く答える。
「決まってる、主婦になる」
「そうか」
五三八はグイと酒をあおる。
そう言い出すのではないかと思っていた。さくらは野口にべた惚れだ。野口の方も、朴念仁なりにさくらを大事にしている。
野口は真面目で信用できる若者だ。教員という堅い職にも就いている。女の子はいつかは嫁に行く。野口は面白みの欠片もない男だが、変なチャラ男に取られるくらいより遙かにましだ。
とはいえ、はっきり嫁に行くと言われると、やはり寂しい。
「まあ、いまだって主婦のようなものだがな。」
「お嫁さん」ではなく「主婦」。さくらは週に二、三回は野口の安アパートを尋ねている。遊びに行くのではない。家事をしているのだ。
野口は早くに親を亡くして、勉強ばかりしてきたから生活力が全くない。料理はおろか湯すら沸かせない。洗濯機の使い方は覚えたが、洗濯物はシワのまま干すし、服のたたみ方を知らない。掃除機を買っても、部屋中が本だらけで足の踏み場もないから、掃除機のかけようがない。今までどうやって生きてきたのかと思うほど、壊滅的に家事が出来ない。
散らかし放題の部屋に呆れたさくらが片づけても、次の週にはまた本や教材が部屋を占領している。それならば、頻繁に通って家事をした方が効率がいい。いっそ住んでしまった方が楽なのだが、さすがにそこまでは出来ないから、通い妻をしている。
さくらのやることは念が入っている。アパートの住人に難癖つけられないように、大家と管理人に挨拶した。さくらが地元の有力者、魚見五三八の娘だと知った大家は、未成年が男の部屋に入り浸っているのを何も言わなかった。触らぬ神に祟りなしだ。
「卒業したら結婚か……」五三八はつぶやく。
「結婚式が問題なのよ」とさくら。
「なぜ? 盛大にお祝いするぞ」
田舎の冠婚葬祭は豪勢だ。五三八は、地元では名の知れた大家である魚見家として恥ずかしくない嫁入りをさせるつもりだ。
「それよ。野口先生はお金ないもの」
「金の心配なんかするな。お父さんが全部出してやる」
「そういうわけにはいかないでしょ、野口先生にも立場があるわ。嫁の実家が結婚式の一切を仕切ったとなれば、どれだけ陰口をたたかれるか。」
さくらは溜息をつく。この父親は、こういうところは無神経だ。
新任教師の給料など、たかがしれている。野口はそこから奨学金を返済しているから、家計は苦しい。にもかかわらず、欲しい本はすぐに買ってしまう。苦学生の時に教科書を買う金にも苦労した反動で、本を自分の所有物に出来るのが嬉しくて仕方ないらしい。
そのうえ料理ができない。覚える気もない。調理に使う時間があれば、本でも読みたいと思っているから、放っておくと三食とも外食で済ませてしまう。食べながら本を開く。
必然的に食費がかさみ、金がない。
見かねたさくらがご飯を作るようになった。金に無頓着な野口は、料理の材料を買うのに財布ごとさくらに渡した。いつの間にか野口の給料はさくらが管理するようになっていた。
食べながら本を読む癖は、さくらが止めさせた。「ご飯を作ってくれた人を無視して、失礼でしょ」と、一六歳の少女に説教された野口は、渋々、食事中はさくらと話をするようになった。が、一人で食べるときは、相変わらず本を読んでいるようだ。
更には、授業で使う教材の材料も、学校に在庫がないと自分で買ってしまう。金銭感覚がないというより、よりよい授業をするのは仕事ではなく、ほとんど生きがいになっているから、平気で自腹を切る。
結婚式の資金など貯まりようがないのは、野口よりもさくらの方が把握している。
魚見さくら、一六歳にして普通の主婦以上に、家計のやりくりに気を配っている。
「これだけ生活苦を味わうと、結婚式なんかお金がもったいなくて、したくなくなるわ。どうしてもなら、会費制で済ませたい。」
「そんな恥ずかしいまねが出来るか」と五三八。
「でしょうね」とさくらは再び溜息をつく。
「どうしてあんな変人を好きになっちゃったんだろ。私、この年ですっかり所帯じみちゃって。」
流石にぼやきが入る。
「ちょっと待て。野口先生はどう考えてるんだ。おまえと結婚する気はあるんだろ?」
「あっ」とさくらは目を見開く。
「そう言われると、確認したことなかった。」
「おいおい」
「なし崩しに「奥さん」してるから、もう結婚してるようなものだと、私は思い込んでた。野口先生、プロポーズもしてくれない。いまだに手を出さない。」
「その、なんだ。これだけ一緒にいるのに、あっちの方は……」
「そういう雰囲気になると、『僕は君の教師です』とか言って、逃げるのよ。私の胸を見て、下半身がうずいているのは見え見えで……」
「やめろ。男親に話すことじゃない」
「もうとっくに、教師と生徒なんて関係じゃなくなってるの、いくらあの朴念仁でも分からないはずがない。」
さくらはアイロンを片付ける。
「どうした?」
「心配になってきた。確かめに行ってくる。」
「夜も遅いぞ」とは五三八は言わなかった。もうとっくに、そういう関係ではなくなっているのだ。
野口のアパートの合鍵は持っている。寝泊まりこそしないものの、家事全般を担っているのだから、ほとんど住人だ。
アパートに野口はいなかった。夜に出かけるなんて珍しいこともあるものだと、さくらは勝手知ったる部屋の片付けを始めた。昨日整頓したばかりなのに、机の周りに科学雑誌が何冊も広げられている。付箋や書き込みがあるのは、授業に使えそうな記述を見つけたのだろう。
片付けるのもようりょうがある。単に本棚――さくらが中古品店で安く買ってきた--に入れるだけでは、「どこに何があるか分からなくなる」と、野口の機嫌が悪くなる。
ならばと、さくらは場所を決めた。化学雑誌でもネイチャーは一番下の棚の左、現代化学はその隣、と。それを野口に躾けるのだが、いつまで経っても本を本棚に入れる習慣が身につかない。
犬に芸を仕込むより大変だとさくらは思う。野口は叱られるとシュンとなる。その姿が可愛くて仕方ないから、どうしても言い方が甘くなる。で、三日も経たずにまた本を床に出しっぱなしにするようになる。
「やれやれ」と呟きながら掃除をする。
こんな時間に、夕食はもう食べたのかしら。作り置きの煮物がまだあるところを見ると、外食するつもりなのか。
そうこうしていると、野口のオンボロ軽自動車の音が聞こえてくる。帰ってきた。
「おかえりなさい」
野口がただいまを言う前に、さくらが声をかける。
「来ていたのですか」と野口。
そわそわしている。喜怒哀楽をあまり現さないから、普通の人には分からないほど微妙だが、ほとんど一緒に生活しているさくらは察した。
妙だな、と野口に近寄る。安物の芳香剤と化粧品の匂いがする。ついさっきまで女といたんだ。
「遊んでいたの?」
怒り、悲しみ、悔しさ、色々な感情が入り交じって、さくらは声を絞り出す。移り香がするほど体を寄せる女がいた。そんな素振りはなかったのに。そうだ、付き合っていたんじゃない、一夜限りの遊びだ。そう思いたい。
でも、なんでそんな店に行く。私に飽きた? いや、何もしてないじゃない。そういう関係になる前なのに、私は嫌われた。これだけ尽くしているのに。世話焼き女房は鬱陶しいとでも言うの。
さくらの思いを察することがないだろう野口は、短く答える。
「はい」
さくらの感情が怒りに振れる。
「どうして? 私という女がいながら。男は下半身の欲望に逆らえない生き物だと知ってる。だったら、私を使ってよ。触れるのもイヤなど嫌いなの? しょうべん臭いガキは抱けないの?」
「そんなことはありません。君の誘惑に僕は必死に耐えているのです。君が言うとおり、男の欲望は理性で抑えきれません。君を襲わないように……」
「『教師と生徒の関係』? 聞き飽きたわ! どこの世界に、生徒に身の回りの世話をさせる教師がいるの。あなたにとって、私は何? 使用人? 奴隷?」
「そんなものじゃありません。君は誰よりも大切な人です。」
「都合良く家事全般させるため?」
「違います」野口はさくらに寄っていく。
「近寄らないで! 他の女の匂いをさせて」
「ごめんなさい」うなだれる。
いい大人が情けない。でも、それがいとおしい。
さくらの怒りがしぼむ。
「謝って済むことじゃない。私は不安なの。こんな関係はいつまでも続けられない。あなたは私をどうするつもりなの?」
「結婚してください」
この状況で言うか! 一生に一度のプロポーズよ。もっとロマンチックに、身も心もとろけるようなシチュエーションを用意してよ。
「卒業したら、僕の妻になってください。」
「今だって、ほとんど奥さん、というか主婦してます」
「正式にです。感情としては、今すぐ役場に婚姻届けを提出したい。でも、一八歳になるまで結婚は出来ないようです。」
そういうつもりはあるのか。
「はっきり言ってくれないから」
「いやもう、言うまでもなく、結婚は決定事項でしょう。」
「分かるわけない! というか、ちゃんと申し込んでくれなければ、女は生きていけない」「そういうものなのですか?」
(だめだこりゃ)
さくらは天を仰いだ。といっても、頭上にあるのは薄汚れた安物の天板だ。新婚生活は、これを見ながらぬ眠るんだろうな、と思った。
「そういうわけで、卒業式の次の日に結婚したの。」と、位牌を見ながらさくら。
「結局、結婚式はどうしたんです?」とあさ美。
「しなかった。だって、お金ないもの。父に挨拶はしたわ。仏壇の前で正装した父に,野口は指をついて「お嬢さんを妻にいたします」って。「ください」じゃないのが、野口らしいわね。
父は感極まって、「末永く、お願いします」とやっと言えて、あとはボロ泣き。それなりに感動的ではあったわ。
そのあと、披露宴というかお披露目会はしたわ。もちろん、父の仕切りでね。そういう形なら、野口の顔も立つんだって。詳しくは教えてくれなかったけど、父と野口が話し合って、折り合いを付けたらしい。
田舎のことだから、飲めや歌えの大騒ぎよ。その喧噪のなか野口は酔っ払って、座ったまま眠っちゃったの。父の慌てぶりが楽しかった。「花婿に酒を飲ませるなって、あれほど言っただろうが。俺の言いつけを聞かなかったのは誰だ』って。」
あさ美は笑い出した。
「それからも、色々なことがあったわ。でも、今日はこれくらいにさせてちょうだい。長い話で疲れたわ。何だか眠くて仕方ない。」
あさ美はうなずいた。さくらは早くもうとうとしている。さくらは押し入れから毛布を出し、さくらにかけた。
「ありがとう。あさ美さんは好きにしててね。帰るときは玄関を閉めて下さい」
あさ美は静かに茶の間から出ようとする。背中にさくらの呟きが聞こえた。
「ああ、このまま、あの人のところに行けたらいいのに」
(了)




