第二五話 Can you speak English? (下)
(前継)
二一 悠輔、恒例の欠点
悠輔以外の日本文化同好会員がタケノコの煮付けを食べているころ、悠輔は光里の補習を受けていた。
いつものこととはいえ、中間試験の英語の成績が悪い。タケノコどころではない。
光里は教卓に立つのではなく、対面に机を並べ腰を下ろす。ムスッとした顔で悠輔を見つめる。
「英語の成績が悪いのはいつものことだけど、今回は特に酷いわね」
美人は笑顔だと愛らしいだけに、怒り顔になると迫力が増す。
「先生、怒ってる?」とこわごわ悠輔。
「当たり前です。」光里の語気が荒くなる。
「一五点。最低点数を更新したわね。申し開きがあるのなら聞きましょうか。」
「サイコロ代わりに転がした鉛筆の転がりが悪くて……」
「ふざけたことを言うのはこの口か」
両手で悠輔のほほを摘み、引っ張る。
「先生、痛い(ヒタイ)。体罰はいけない(ヒケナイ)」
「この程度でピーピー言うな。君のおかげで、私はどれほど苦しんでると思ってるの。」
目がいっちゃってる。怒りに我を忘れて、というか教師の立場を忘れている。
「ごめんなさい(ホミェンナサイ)。真面目に(ヒョメンニ)補修受けるから、許して(ヒュルシテ)」
懇願する目で見つめられ、光里の手がゆるむ。
「ごめんなさい」悠輔は繰り返す。基本的には素直で真面目な生徒だ。可愛くて、つい甘やかしてしまう。
「まったく」光里は悠輔のほほをさする。
「聞いたわよ。瓜生先生をやりこめたって? 君のことだから、その準備に一所懸命になったのね。それで試験勉強がおろそかになったんでしょ?」
それだけに集中したのではない。試験勉強だってした。現に成績は落ちていない、英語以外は。しかし、そんないいわけは通用しそうにないので、悠輔は短く肯定した。
「はい」
光里はため息をつく。肯定しても否定しても嘆かたろう。
「無茶をしないで」
少年のほほは柔らかい。ふれていると気持ちいい。引っ張った口元を優しくさすりながら、光里は続ける。
「君は校長に目をつけられてるんだから、過激な言動は控えなさい。謹慎処分はうやむやになったけど、いつもそうだと思わないで。次になにかやったら、今度こそ処分されるわよ。」
「そんなに?」
「自覚がないのね。事なかれ主義なのは校長だけでない。君を苦々しく思っている先生は何人もいるのよ。」
悠輔はちょっと目を見開く。自分は真面目だから教師に受けがよいと思っているのだろう。まあ、大体はそうなのだが。
光里はもう一度ため息をつく。
「野口先生に乗せられるのも、ほどほどにしなさい。野口先生は真面目で授業は上手なんだけど、学校の方針で校長先生と、その、なんて言うか……」
光里は言いよどむ。
「仲違いしている」と悠輔。
「知っているの?」
「生徒の中でも知られています。僕の耳に入るくらいだから、よほどでしょうね。」
「自分が世辞に疎い自覚はあるのか。『師に似たり』とは君たちのようなのを言うのね」
悠輔は微笑む。
「ほめてない!」
光里は再び悠輔のほほを摘む。
「英語の成績が悪いだけでも頭が痛いのに、どこまで心配かけるの。私は君の教師であって、お母さんじゃないんですからね。」
「お母さんは(ホカアサンハ)これ以上いらない(ヒラナイ)。先生は(フェンセイハ)……」
悠輔はほほを伸ばされたまま、光里を真顔で見つめる。光里はドキリとしてほほから手を離す。この視線は、まさか、告白?
「補修、始めてください」
光里は真っ赤になる。いいように操られているような気がして、腹が立つ。思わず悠輔の首に手を伸ばし、ヘッドロックをかける。
息が止まるほど締め付けられているのに、光里の柔らかい胸に後頭部を押しつけられた悠輔は、されるがままになる。
「先生、マジで苦しい。」
「放してほしかったら、少しは私の苦労を分かりなさい。」
「……」
悠輔の反応で、光里は自分の胸がどうなっているのか、ようやく気がつく。悠輔の方から自分にくっついてきているような気もする。
「この、エロガキ」
そう言いながら、自分を女と見ているのかと、嬉しさがこみ上げる。光里は悠輔を引きはがして頭を揺さぶる。
「先生、やめて。プロレスの補修じゃない。」
興奮して我を忘れた光里も、息が切れてようやく正気に戻り、手を放す。
「君が悪いのよ。私を困らせるから。」と悠輔を見る。
「ごめんなさい」
暴力を受けた方が謝るのは変だけど、こう言わないと女は収まりがつかないと、女に育てられた悠輔は、理屈ではなく体感で分かっている。
「先生は、僕にとって――優しくて、親身になってくれる大事な人です。」
真っ直ぐな目で光里をみる。
(ずるいぞ。可愛くて何でも許しそうになる。この子、無自覚にジゴロの才能がある)
光里はニヤけそうになるのをかろうじて押さえる。
「時々、こういう無茶をするけど、それだけ僕のことを考えてくれてる、大好きな――」
光里は胸の鼓動が早くなるのを押さえられない。何を言う気なの? だめよ、君には可愛い「お嫁さん」がいるじゃない。でも、君が望むなら……
「叔母さん!」
五月だというのに、冷たい風が吹き抜けたような気がする。光里は呆然とする。
「せめてお姉さんと言って」
光里は乙原多喜を思い浮かべた。あの幼顔は黙っていると高校三年生には見えない。あれが「お姉さん」なら、二〇歳代の自分は「オバサン」になるだろう。いずれにせよ、恋愛と無関係にしか見られていない。自分のドキドキは空回りだ。
(これ、失恋なのかな)
光里は失意を悟られぬよう、ことさら冷静に振る舞った。
「補修を始めます。中間試験のやり直しからです。ほとんど違ってるから、全部説明していきます。相変わらず、基礎から出来てません。」
この日の補修授業の光里は冷ややかであったと感じるのは、悠輔の思い違いではなかろう。しつこく間違いを指摘され、ようやく解放されたころ、悠輔はクタクタになっていた。
教室の外で、あさ美が待ってきた。土曜日に掘ったタケノコを日曜日に料理して、今日、持ってきたけど皆が全部食べてしまい、悠輔の分がの残っていないと謝る。
悠輔はタケノコのことを忘れていた。
あさ美は明るく振る舞い、悠輔を元気づけようとするが、あまり効果がない。一昨日はツルハシを使えないので落ち込んだ。今日は英語の不成績をきつく叱られた。お調子者だけど真面目だから、出来ないと落ち込む。
「気に病まないで。嫌なことは全部、あたしが忘れさせてあげる。おいで」
あさ美は両手を広げる。
「うん」と言って悠輔はあさ美の胸に顔を埋める。
「大丈夫よ。なーんも問題ない。」
あやすように悠輔の頭を抱く。
「こら、校内で何やってんの」
光里の怒声が響いた。
二二 悠輔、活動休止
「二年二組 東山悠輔、補習授業のため五月最終週の課外活動は禁止」
掲示板に貼りだだれた素っ気ない文章を悠輔は見つめる。これが初めてではないにも関わらず、わざわざ掲示するのに学校というか青山先生の怒りを感じる。
「落ち込まないで。英語が出来ないなんて大した問題じゃない。あたしの数学だって、お兄ちゃんがあれだけ教えてくれてるのに欠点すれすれじゃない。」と隣に立つあさ美。
「ありがとう。でも、そのなぐさめ、なんでか、もっと落ち込む。」
「ごめん。じゃあ、気晴らしにどっか行こうか? ほら、こっちの掲示板に、図書室に新刊が入ったって書いてる。お兄ちゃんが好きそうな歴史物もあるよ。」
周囲の生徒が苦笑する。この「夫婦」は変なデートをする。
そう。わざわざ、さらし者にしなくても、悠輔の英語の不出来は校内に知れ渡っている。他の科目は学校の歴史に残るほどの高得点を取る。その上、何人もの美少女や美人教師にモテモテ。悠輔に山盛りの嫉妬を浴びせる男子生徒たちは、英語の成績が最低なので辛うじて溜飲を下げている。
「ありがとう。面白そうな本もあるけど、青山先生に呼び出させてるんだ。お前は同窓会に行ってくれ。」
「お兄ちゃんがいないんじゃ、行っても仕方ない。」
「そんなこと言うなよ。欠席者が出て活動が停滞してると見なされたら、部長のカンナが迷惑する。」
「そうなんだけど……」
カンナは気持ちのいい友達だ。けど、隙あらばお兄ちゃんを取りかねないから油断ならない――とあさ美は思っている――カンナを助けるのを時々躊躇するあさ美であった。
「行けよ。みんな待ってる。」
悠輔は背中を丸めて歩き出す。多喜が見たら「背筋を伸ばしなさい」と叱りながら励ますだろう。悠輔が角を曲がるまで見送り、自分にはそれもできないとあさ美は落ち込んだ。
あさ美はきびつを返し、うつむいて理科準備室に向かう。
これ見よがしの声がする。
「お、東山が珍しく一人で歩いて行ったぜ。女の子が隣にいなくて寂しそうなこと。」
「違うさ。これから青山先生と浮気するから、奥さんにそういうポーズを取ってたんだ。」
あさ美は顔を上げ、、声の主をにらみつける。
「おお、怖い。奥さんがこっち見てるぜ。」
げひた笑いが起こる。あさ美は泣きそうになる。その顔を見られないように駆けだした。追い抜いた後から、なおも笑い声がする。
思い出した。あいつらはお兄ちゃんと同じクラスだ。
豊さんが微分を分からないと、お兄ちゃんに教えたもらってたときだ。お兄ちゃんの説明が理解できないと豊さんは言って、お兄ちゃんは困った顔になった。
「どう説明したらいいかな」
お兄ちゃんは腕を組んで、豊さんはバツが悪そうになった。そしたらあいつらは後ろの席で笑ったんだ。
「野球部のエースが格好悪いの」「勉強しか取り柄のないくせに、教えてやれないのもダサいな」
豊さん、辛そうだった。お兄ちゃんは言ったんだ。
「格好悪くなんかない。恥をかいてでも、ちゃんと勉強しようとする豊は立派だ。理解できないのは俺の説明が下手だからだ。だけど、俺はそれで逃げるようなヘタレじゃないぞ。
これから部活だろ? おまえが野球やってる間に、もっと分かりやすい説明を考えてみるよ。終わったら図書室に来てくれるか?」
「おまえも忙しいのに」
「気にするな、友達だろ。」
あの時のお兄ちゃん、素敵だった。惚れ直したな。
そうよ、お兄ちゃんはいつだって一所懸命なのが格好いいんだ。だから出来る女の子たちに好かれるんだ。
努力もしないで、人が弱ってるときにいじめてくるようなやつらに、からかわれる謂われはない。あんなやつらに何も言い返せずに逃げ出すなんて、悔しい。
そうだ、都子さんに人の脅し方を教えてもらおう。でも、あたしにあんな格好いい生徒会長の真似は無理だ。あたしに出来ることって何? どうしたらいいの?
あさ美は涙をこらえ、全速力で廊下を走った。
二三 悠輔の追試
いつもの理科準備室。
あさ美は都子の膝で泣いている。悠輔が追試続きなのを心ない生徒にからかわれたと。
ここに来るまで我慢していたけれど、姉のように慕う都子を見た途端、感情が吹き出したようだ。
(あいつらか。明日、締めてやる)と都子は怒りを燃やした。とはいえ、それは対処療法に過ぎず、解決には遠いことも都子は理解している。
原因は試験で生徒を勉強させようとしすぎる横手高校の方針にある。
たいがいの生徒は勉強が嫌いだ。数学の問題が解けると嬉しいから積極的に問題集を開く悠輔のような生徒は例外だが、それだって無味乾燥な試験勉強だけを強要されれば、ウンザリしてやる気が失せるだろう。
成績が下位の生徒から、長時間の試験勉強に耐えられなくなっていく。耐えられる生徒だけは偏差値の高い有名大学に進学するから、それが学校の評価だとする風潮がある。その陰で落ちこぼれていく生徒も少なくないのに、負け組を救済しようとする意識が低い。 まだ表面化していないが、試験成績の良い生徒の指導に偏重する傾向の矛盾は、ちらほらと出てきている。
豊のように部活動に熱中する生徒はそこに逃げ道を作る。そうでない、趣味も熱中できることもない生徒は、いじめとかろくでもないことにストレスのはけ口を見つける。
悠輔の英語の成績はあさ美にはどうしようもあるまい。直しようもない弱点を持ち、反撃してきなそうな生徒は、いじめのターゲットになりやすい。
都子は「よしよし」と幼子をあやすようにあさ美の頭をさする。一途さが愛おしくて仕方がない。
カンナが手を差し伸べようとするのを制した。あさ美はカンナに悠輔を取られるのではないかと思っているから、逆効果になりかねない。それ以外では仲良しなんだけど。
(でも、それなら、私だって悠輔くんに振られたけどな。隙があったら奪ってやろうと、思わなくはないんだけど)と都子は複雑な心境になる。
そうなると、あさ美は恋敵になる。とはいえ、お互いを思いやっている悠輔とあさ美の間には入れそうにないし、どう誘っても悠輔は都子になびきそうにはない。おまけに、こうやって慕ってくるあさ美は可愛い。一人っ子で寂しかったから、妹が出来たようで嬉しくて仕方がない。
(やれやれ)と都は思う。(私も相当なお人よしだ。)
あさ美は私に任せてください、と野口先生にアイコンタクトを送った。野口先生は、うなずいて見守る。
「こんなときこそ、お兄ちゃんを助けなきゃいけないのに、何もできない。せめて言い返したかった。都子さんだったら、にらみ付けて黙らせただろうに、あたしには出来ない。」
「悠輔くんは私のような恐い女には、優しい言葉もかけてくれない。私は大事にされてるあさ美がうらやましいな。あなたは私にはない、いいところが沢山あるじゃない。」
「そうかな?」
とあさ美は顔を上げる。
「そうよ。聞いたわ。悠輔くんの「発作」をなだめられるのはあさ美だけでしょ。あの乙原先輩ですら、いざというときはあさ美に頼らなければならない。悠輔くんはあなたなしでは生きていけない。」
「そんな大したことじゃない」
「大したことよ。それを自慢しないで、「夫」に尽くそうとするのがあさ美のいいところよ。もっと自信を持ちなさい。東山悠輔の妻はあさ美です。」
(悔しいけど認めざるをえない)と都子は思う。
「でも、お兄ちゃんをバカするヤツをやっつけられなかった。都子さんなら、いくらでもお兄ちゃんの助けになるのに。」
「あなたのお兄ちゃんはそんなに弱い男? ナイーブだし落ち込みやすいけど、友達のためなら悪口なんか関係なしに自分の出来ることをしようとする、信義に厚い男でしょ。」
「うん。でも、あたしが言われっぱなしだと、あいつらは図に乗って、もっと酷いことしてくると思う。」
「そんな友情も努力も知らない哀れな男たちは、ゲスないじめぐらいしか出来ない。自分より強い相手には何もできないわ。堂々としていればいいのよ。今度何か言われたら、鼻でせせら笑ってやりなさい。」
「うん。やっぱり都子さんは頼りになる。大好き。」
あさ美は都子に抱きつく。
「この問題は職員会議にもかけましょう。少し時間を下さい。」
と野口先生。
「いまは今日の活動をどうするかを決めましょう。東山くんは出席停止です。困りました。」
と、さして困った風でもなく野口先生は言う。悠輔を除く日本文化同好会の面々は理科準備室に集まったものの、予定された講師の悠輔がいないのでは活動が出来ない。
「この会は東山くんに頼りすぎですからね」
「あのー、聞きにくい雰囲気なんですけど、東山先輩って、どうして英語は駄目なんですか? あれだけ成績優秀で真面目な人が。」と蔵人。
(やっぱりその話になるか。まっいっか、どうせ今日の同好会は開店休業だ。)と都子は思う
「ソレハ私モ聞きタイ」とカンナ。
あさ美はバッと顔を上げてカンナをにらむ。
「あさ美、怒らナイで。バカにしてナイ。ユウが努力家なの、知ッテル。尊敬シテル。私、ユウが大好キ。恩返しシタイ。ソノタメニ、ユウのこと、モット知りタイ。」
マイペースのカンナも、友達の怒りにはあわてた。つたない言葉遣いでも真摯な意志は伝わる。あさ美はカンナにうなずいた。
「けど、それはそれで、お兄ちゃんと親しくなりそうで嫌なのよね」
とあさ美。蔵人はコクコクと首を縦に振る。
(悠輔くんがカンナに乗り換えるなんて、考えにくいけどね)と都子は毎度の展開に苦笑する。
「多喜姉ちゃんが言うには、お兄ちゃんは英語の苦手意識が凝り固まって、ほとんど記憶障害で覚えられないんだって。」とあさ美。
「タキ姉ちゃん?」とカンナ。
「悠輔くんを育てた、まあ、お姉さんみたいな人よ。私の前の生徒会長。いまはカンナと交換留学でアメリカに行ってる。」と都子。
「こういうときに頼りになる人なんだけど」と続ける。
カンナは分かったような分からないような顔になる。
「乙原くんも酷いこと言いますね」と野口先生。
「そう思いますよね。でも、そうとでも考えないと、あの努力家が、英語だけが出来ない辻褄が合わないんです。」と都子。
「ユウを助けタイ。ミンナでユウのために頑張ロウ。」
「カンナ、ありがとう」とあさ美の目がウルウルになる。
「気持ちは嬉しいけど、簡単じゃないのよ」
悠輔に英語を教えたことのある都子は、賽の河原で石を積むような思いをすると知っている。
「この課題は、ちょっと重たいですかな」と野口先生。
「成せば成る」
とカンナ。発音がいいのは、またアニメの台詞を耳コピしたのだろう。すかさずあさ美が切り返す。
「男の子!」
意気投合した二人は「イエイ」とハイタッチしている。
何を言ってるのか分からない他の面子はポカンと二人の少女を見ている。
(けど、気の合う友達はうらやましいな)と都子は思う。ふざけ合ってあさ美はだいぶ元気を取り戻した。
カンナは真面目な顔になって言う。
「私がユウに英語ヲ教エル。私、日本デハ日本語を話ス、英語ヲ使ワナイと誓った。けど、ユウのためなら、誓いを破ル。」
「カンナ……」
あさ美は感極まって泣きそうになる。
(ああ、駆け引きのない友情はいいなあ)と都子ももらい泣きしそうになる。けど、
「カンナ、意気込みはいいけど、あなたは当たり前に英語を話せる人だから、基礎から出来なくて苦しんでる悠輔くんを助けられないわ。」と都子。
「そうジャナイ。逆をスル。」
いぶかしむ一同に、カンナは自分の考えを話す。
カンナは熱心に説明するが、聞いている方はややあきれ顔になっていく。
「いや、手詰まりの状況を打破するためには、わずかでも可能性のある手法は試してみるべきです。」と野口先生。
カンナは肯く。
「明日の補習授業でやってください。青山先生には私から話を通します。では、今日はそのための教材を作りましょう。」
かくして、補習授業でカンナが教壇に立った。戸惑う悠輔を真っ直ぐに見つめ、ハイテンションで言う。
「ユウ、出来ナイと思うカラ、英語が駄目にナル。出来るコトから始メマス。さあ、私に続いて格言ヲ言うのデス。」
とカンナは大きく息を吸い込む。
「英語は恐くない!」
意表を突かれた悠輔は、戸惑って小さな声で復唱する。それ、格言か?
「モット元気よく、大キナ声で」
ほとんどヤケクソになり、悠輔は大声で復唱する。
「ヨーシ、次、行クヨ。「英語は友達!」」
カンナに勢いに押され、悠輔は復唱する。
「ヨク出来マシタ。デハ、英語ノ練習デス。私ノ後ニ続けて読みマショウ」
カンナは手にしたスケッチブックをめくる。
「This is a pen.」
光里は吹き出した。流石に悠輔もポカンとなる。
「チャンと言ウ。モウ一度」と、カンナは大真面目に読み上げる。悠輔は復唱する。流石にこれくらいは読める。あまり発音はよくないが。
「結構。次デス。」とスケッチブックをめくる。
「I am a boy.」
「えー、いくらなんでも……」
小学生レベルじゃないか。こんなのが高校の英語の役に立つのか?
「復唱はどうした!」
カンナの発音がいい。有無を言わさぬ迫力がある。
「はい。I am a boy.」
「よろしい。」
大真面目なカンナは、なんか凜々しい。
「恥ズカシイと思ッタラ、負けデス。」
なんの勝負だ?
カンナは次々に、初歩の初歩を復唱させる。
「ユウ、ヤレバ出来るのデス。」
カンナは満足げに肯く。
「チョット難しくシマス。スケッチブックなしデス。私の発音ヲ聞き取ッテ復唱シナサイ。」
カンナは一呼吸置く。
「I love Canna.」
勢いに押された悠輔は、思わず復唱してしまう。
「何を言わせるんじゃい!」
「チャンと聞き取レタ。ホラ、英語ナンテ簡単。」
「いや、この程度じゃちょっと……」
「大丈夫。試験ノ英語モ似たようなモノ。」
カンナは堂々と言い切る。
「そうかなあ」と、あり得ない断言に反論できなくなってしまう悠輔であった。
「ユウ、疑リ深イ。問題ナイ。自信ヲ持テバ何でも出来ル。だって、ネ……」
カンナは教壇から降り、スッと悠輔に顔を寄せる。流石に悠輔はドキリとする。
カンナは耳元でささやく。
「「love」は魔法の言葉」
光里が慌てて引き剥がす。色仕掛けが通用する相手なら、とうの昔に満点を取らせてるわい。
翌日の追試に臨む悠輔をカンナが激励する。
「頑張れ、ユウ。君ハ強い子、出来ル男。自信を持テ。私ガ付いテルぞ。ソレ、チャッ、チャッ、チャッ」
どこから持ってきたのか、、チアガールのボンボンを臆面もなく振るカンナに、周囲は呆れるやら嫉妬するやら。
「分かったから、静かに見送ってくれ」
流石の悠輔もこれは恥ずかしい。が、カンナはお構いなしに声援を続けながら悠輔の後に続く。
「魔法の言葉を思イ出セ。英語ナンテ簡単だ。」
何事かと生徒たちも集まってくる。注目を浴びた悠輔は、真っ赤になって追試の教室に逃げ込んだ。
魔法がかかったかは怪しいが、追試は三五点であった。悠輔は欠点相当を脱出した。
カンナは鼻高々になった。
光里は周囲のクラス担任から、カンナの声援がやかましいとの苦情を持ち込まれた。光里の悩みは深い。
二四 悠輔、妖怪を語る
日本文化同好会、第三回会合は静かに始まる。
同好会活動休止に追い込まれた悠輔の追試を、カンナ会長がお祭り騒ぎにしてしまった想定外の事態に、カンナ以外だれも触れたくない。
今回の配席は自然にできあがった。講師の悠輔が中央、その左隣に主役のカンナが座る。対面だと悠輔が書くノートが見えにくいと、隣に椅子を持ってきたのだ。ならばと、あさ美は悠輔の右側に座る。都子はカンナの左隣に座った。
新加入の住吉蔵人は、アドバイスが受けやすいからと、都子の左隣に座るように言われた。美人だけど怒らせると恐いと評判の生徒会長の隣で、一年生は緊張気味だ。
顧問の野口先生はやや離れた対面に椅子を持ち出している。
「では、始めましょう。東山君、よろしくお願いします。」
「はい」と一礼して、悠輔はカンナを見る。
「前に日本の神様は「おおらか」と言ったね。これは、結構重要なポイントだと思うんだ。おおらか、似たような言葉で大雑把、もう少し悪く言うと「あいまい」と言える。
「あいまいな日本の私」って知ってるかな?」
「大江健三郎」、「曖昧」と書きながら尋ねる。
「ノーベル賞ヲ取ッタ日本ノ作家。読んだ。デモ、難シクテ分カラナイ。」
「それ、英語で?」と悠輔。
カンナはうなずく。
「僕は日本語で読んだけど、難しいね。」悠輔は苦笑する。
「カンナは勉強家だ」
「偉イ?」と頭を突き出す。
「うん、偉い偉い」と悠輔はカンナの金髪をなでる。
カンナは「ニャーン」と鳴きそうな表情で手を前にかざして猫のポーズをする。あさ美は「ワンワン」と吠えかかりそうな表情になる。都子は、(毎度毎度、よくも飽きないな)という顔になる。慣れてない蔵人は目を丸くする。
悠輔は続ける。
「大江さんの前にノーベル文学賞を取った川端康成さんの「美しい日本の私」のもじりなんだ。大江さんが言いたいのは「曖昧」、日本は大雑把だからいいんだ、ってこと」
(そういう意味だったかしら)、と都子は思う。が、悠輔に任せたのだからと黙っている。悠輔の話はおもしろいけど、時々、独自の解釈が入る。
「日本の文学作品の概要ならまだしも、哲学が入ってくると、僕も上手く説明できない。」
「『あいまいで、いいんじゃないですか?』」とカンナ。
アニメの台詞を耳コピしてしゃべるときは、日本語の発音が正確になる。元ネタを知ってると楽しいのだろうが、悠輔には伝わらない。
「『何でだよ』」とあさ美が切り返す。二人は手をたたき合って、キャイキャイと喜ぶ。
「神楽女先輩、このお二人はどういう仲なんですか?」と蔵人はささやく。
「悠輔くんの奥さんと愛人。」
蔵人は当惑した表情になる。
「冗談よ。性格に似たとことがあるし、共通の趣味があるから、波長が合うの。悠輔くんのこと以外ではね。」
(仲の良い友達ではあるのよね。だからカンナはあさ美をからかうのが楽しくて、遠慮なしに悠輔くんにちょっかい出してくる。けど、あさ美にその冗談は通じない。あさ美がムキになるから、カンナはそれがまた面白いのだろうけど。
いや、カンナは.その気がないわけじゃないから迫ってるのか。まったく、なんでこんな男がモテるんでしょうね)
「カンナ、その手、手のひらを下に伸ばして、胸のあたりまで下げて。顔はうつむき加減に。」と悠輔。
カンナは言われたとおりのポーズをする。
「恨めしやぁ」と悠輔。都子とあさ美は大笑いする。何のことだか分からないカンナはきょとんとする。
「日本の幽霊のポーズよ」と都子。スマホで有名な絵を検索して、カンナに示す。
「というわけで、あいまい、なんだか分からないものと云えば幽霊。本日のお題はオバケ、妖怪です。」
「強引ですねえ」と蔵人。野口先生も苦笑する。(まあ、いいでしょう。続けなさい)とでも言いたげな表情になる。
「えー、妖怪の類いは古今東西、どこにでもいます。いや、いるかどうか分からないのが妖怪なんですけどね。
アメリカにだって、実物が確認できないけど、話は伝わる不思議な存在ってあるでしょ?」
「ウーン、ユウのソノ言イ方ガ「あいまい」ネ。オバケはアメリカにもアル。Skin-walkerトカ、Florida Manトカ」
「よく知らないけど、多分そういうの。恐いよね。
日本の妖怪は西洋のに比べると、滑稽なんだ。人を殺して食べちゃう奴もいるけど、恐ろしくも何ともない奴もいる。たぶん、わりと穏やかな日本の気候のせいだと思う。
妖怪の代表の一つに河童がいる。地域によって伝承が違うから、一概には言えないけど、結構おかしなやつなんだ。」
悠輔はモバイルを操作して画面を呼び出す。有名漫画家の河童のキャラクターが映る。
「これ、一般的な河童といっていいんですか?」と蔵人。
「だよねえ。楽しい漫画だね。こんな絵もある。」
と画面を切り替えると、口が耳まで裂けて、不気味に笑う河童が映る。
「別物だね。実物がホイホイいるものじゃないから、描く人によってこのくらい違うんだ。
河童は相撲が好きで強い。川で遊んでる子供の前に現れて、相撲を申し込む。俺が勝ったらおまえを食ってやる、とか脅すんだって。カンナ、相撲、知ってる?」
「ハッケヨイ、ノコッタ!」とカンナ。
「何でもよく知ってるなあ。」と悠輔。
「偉いデショ。よしよしシテ」
カンナは頭を突き出す。それに伸ばした悠輔の手を、あさ美が止める。
「いちいち小芝居入れない。話を進めて」
「はいはい」と悠輔。不満げな顔のカンナ。
「河童の弱点は、頭の皿の水がなくなると力が出なくなることだって。相撲は試合の前に一礼するよね。河童に相撲をせがまれたら礼をさせるんだ。頭を下げたら、河童は頭の水がこぼれてしまう。それで河童は弱くなって負けちゃうから、子供は助かるって。」
カンナはへーと言いそうな顔になる。
「ユーモアがあるよね。まあ、この話には地域や伝承によって色々と違いがあって、中には恐ろしいのもある。けど、日本の妖怪は、ただ恐いだけじゃなく笑いが入っている。」
「何だか分からないヤツも多い。たとえば、こんなの」
と、悠輔はモバイルを操作する。モニターにしかめっ面した和装のおっさんが映る。
「ぬらりひょん」と悠輔。
「ヌラ……」
カンナは言葉に詰まる。耳慣れない言葉は発音しにくいのだ。
「ぬらりひょん」と悠輔は繰り返す。
「名前からして訳が分からないやつだ。でもこいつ、妖怪の大将なんだ。化け物を率いる奴なら、もっと恐い姿を想像するよね。
やることも変。忙しい最中に家に上がり込んで、勝手にお茶を煎れて飲むんだって。それだけ。」
「それだけ?」とあさ美。
「それだけなんだ。僕の想像なんだけど、忙しくてお茶を飲む暇もないときに、仕事もしない奴が、自分だけお茶を飲んだんじゃないかな。出しっぱなしの湯飲みを見つけられて、「不思議なこともあるもんだ、妖怪の仕業だろう」ってごまかしちゃうの。昔は今よりお茶が高価だったから、勝手に飲まれると困るんだ。
それが通用したから、同じことする奴が沢山出てきて定着したんじゃなかろうか。」
「日本人、オオラカ?」、悠輔が使った言葉を自分もさっそく使ってみる。賢い子だ。
「そうなんだ。昔の日本人はそのくらいのことなら、犯人を突き止めたりしなかったんだ。」
「悪イコトシタノニ、叱ラナイ?」
「そのくらいなら、突き詰めない方が丸く収まるからね。でも犯人が分からないままだと後味が悪いんで、妖怪のせいにしちゃう。誰かの知恵じゃなく、なんとなくそうなっちゃうのが日本人なんだ。
「妖怪はいない」と否定するのは、科学的には正しいだろうけど、不思議なことがないのは面白みがない。」
カンナは分かったような、分からないような表情になる。
「じゃあ、もう一つ紹介しよう。こんなのもいる。」とモバイルを操作する。長く舌を伸ばした老女が映る。
「あかなめ」
「あかなめ」とカンナは復唱する。今度は発音しやすいようだ。
「垢は古い皮膚が体から剥がれたもの。わかる?」
悠輔は手のひらをこする。カンナはうなずく。
「この場合の垢は、それでお風呂が汚れること。この妖怪は夜中に垢を舐めに来る」
「ヒッ」とカンナが短い悲鳴を上げる。想像しただけで、汚らしくて気持ち悪いらしい。
「ごめん。でも、カンナの反応は正しい。こんなのに来て欲しくないよね。だからお風呂を綺麗にしよう、と言うんだ」
「誰ガ?」とカンナ。日本語は主語がなくても文が成り立つ。
「お婆ちゃんやお母さんが。子供たちに、そう教えるんだ。
「お風呂が汚い。掃除しなさい。」と叱るんじゃない。怒られたら、子供たちも嫌だよね。ケンカしなくてすむように、恐い妖怪のせいにするんだ。」
「「汚イのダメ、綺麗にシナサイ」、ト言ッタ方ガ早イト思ウ」
「そうだね。でも日本人は、そう言われた人が嫌な気持ちになるのを避けたい。けんかはしたくない、仲良くしたい。」
「言イタイコト、キチント言ワナイト、伝ワラナイ。仲良クナレナイ」
「その方が合理的だね。でも、昔の日本人はそうは考えなかった。相手に気持ちよくなってもらえば、仲良くなれると思った。察しと思いやりを大事にしたんだ。」
「察しト思いやり」
「カンナもそうなれ、じゃない。でも、多くの日本人は思いやりを大切にしている、と分かって欲しい」
カンナはうなずく。
「日本人はハッキリ言ワナイ、理由、分カッタ。ユウの説明、分カリヤスイ。」
カンナは悠輔を見つめる。立ちあがる。次の動きを予測したのか、あさ美も慌てて席を蹴る。それより早くカンナは悠輔に抱きつく。
「ユウ、素敵。大好キ。」
まんざらでもないって顔になる悠輔。あさ美が割って入る。
「離れろ。全然分かってない。日本人は気安くハグしない。」
「私はアメリカ人。」こういうときは日本語の発音が正確になる。
「This is japan!」なぜか、あさ美が英語になる。
「発音、悪イ。分かりませーん」更に悠輔にくっつく。
「カンナ、あさ美をからかわない。」
都子に言われ、渋々といった表情で悠輔から離れる。
「おふざけが過ぎると、妖怪より恐いものが来ますよ」と野口先生。
静かな物言いに迫力がある。カンナはうなずく。
「東山君も、もう少し「奥さん」を大事になさい。お調子者の君には過ぎたお嬢さんですよ。」
悠輔も丁重にうなずいた。
蔵人は、何なんだ、この人たちは、言いたげに目を丸くしている。
(まあ、一年生もそのうち慣れるでしょう。)とあきらめ顔の都子。
(この先生に顧問をお願いして正解だった。締めるべきところは締めてくれる)と都子は思った。
二五 六月の実力試験
補修が追試が終わらないうちに次の試験がやってくる。六月は主要科目のみの実力試験だ。
「まったく、この学校は試験が多すぎるな。」と悠輔はぼやく。
「そんなに試験勉強してるの?」と都子。
普通、高校生は試験勉強するが、それにも限度がある。横手高校の場合、毎月の試験の上に始終、小テストや問題のプリントが配られれば、試験前が日常になり、緊張は維持できない。二年生になることには多くの生徒がうんざりして、試験勉強がおざなりになる。教師が重要な項目だと示すために使う常套句の『ここ、試験に出るぞ』すら聞く耳を持たなくなる。
試験に疲れ果てた生徒から勉強量が減っていく。結果的に学校全体の成績が伸び悩むことになるのだが、いっこうに改善されない。
横手高校の場合、「試験勉強してる」とは、「タフだな」、と同義語だ。
「英語はね」と悠輔。
日頃から予習復習を欠かさない悠輔の場合、試験だからと根を詰めて勉強したりしない。もっとも、普通の高校生の試験前の勉強量が悠輔の日常なのだが。
だから英語の補修や復習の試験勉強はかなりの加重になる。それだけ勉強しているのにまったく成績が上がらないのだから、精神的にも負荷が掛かる。
「気晴らしがいるわね」と都子。
「野球やろうぜ。近所のバッティングセンターが新装開店で面白そうだ。付き合えよ。」
と豊が話に割って入る。
「おまえ、本当に野球が好きな。部活の練習じゃ足りないのか?」
「バッティングセンターのボールは軟式だから、練習にはならない。遊びだよ。楽しいって。かっ飛ばすと気分もスカッとするぞ。」
「そりゃ、野球が出来るヤツの話だ」
「初心者向けの緩いボールも選べるんだ。お前だって打てるって。教えるからさ。」
悩むそぶりの悠輔に都子が声をかける。
「いいじゃない、行ってみれば? 毎度のことだけど、悠輔くんは運動不足だもの。私も付き合おうかな。」
後ろから近づいてきたカンナも言う。
「ワタシ、野球ヤッタコトナイ。行キタイ。」
いつものように二年生の教室に入っているあさ美が話に加わる。
「あたしを置いてきぼりにしないよね。」
懇願される目に悠輔は思わずうなずく。
「よし、決まりだ。あさっての日曜日九時、縦断道路沿いのバッティングセンターに集合。」
豊が右手を挙げると、女の子たちも「オー」と続く。悠輔も渋々右手を挙げる。
教室がざわめく。
「カンナちゃんの運動着姿が見られるぞ」
「スポーツなら生徒会長だろうが」
「なに言ってんだ、あさ美ちゃんが一番だろうが」
悠輔は渋い顔になる。
「去年も似たようなことあったな」
教卓からバンバンと激しい音がする。光里が出席簿を打ち付けているのだ。
「試験前に、なにを盛り上がってるの! 君たち、これで点数が落ちたらタダじゃおかないわよ。朝礼を始めます。」
生徒たちは慌てて自席に戻る。
「先生、そりゃそうですけど、悠輔の場合は気分転換させた方が英語の成績が上がると思います。」
しれっと言う豊に光里はひるむ。どう教えても成績が落ち、試験の度に鬱になって更に点数が落ちる。悪循環を断ち切るためには、楽しい気分にさせた方が良いのは確かだ。
「まあ、東山くんは日頃からよく勉強してるものね。でも、他の人はちゃんと勉強しなくちゃ」
「東山だけ特別かよ」「ひいきだ」とブーイングが起こる。
「僕、引率です」と豊。
「妻のあたしは当然付き添います」とあさ美。
「この夫婦が遊びすぎないように監督します」と都子。
「面白そうダカラ、ついて行キマス」とカンナ。
悠輔は頭を抱える。
「いい加減にしなさい!」光里は叫ぶ。
日曜日、悠輔とあさ美がバッティングセンターに入ろうとすると、転がるように出てくる同級生たちとすれ違った。
どうしたのかと問う間もなく、同級生たちは逃げ去っていく。怪訝に思いながらドアを開けると、受付に鬼の形相で仁王立ちになっている光里がいた。
「よく来たわね」冷ややかに二人を見る。
「先生、落ち着きましょう。」とあさ美
「話せば分かる。」と悠輔。
「問答無用!」
「うわぁ、統帥権干犯」
あさ美の手を引いて逃げ出そうとする悠輔は、入ってきた豊と鉢合わせる。
「なんだ?」
「豊、助けてくれ。青年将校の反乱だ。」
「何を訳の分からんこと言ってるんだ。って、青山先生?」
目を丸くした豊は馴染みなじみの店主に手招きされ、カウンターの奥に入る。
「あれ、君の学校の先生かい? あの調子で、開店から横手高校の生徒を追い返しちゃうんだ。商売あがったりだ。何とかしてよ。」
「そう言われても……」
「それは失礼しました」
いつの間にか光里が後ろに立っている。二人はぎくりとなる。
「この子たちには思い切り遊んでもらいますから。あと二人、女子が来ますので、よろしくお願いします。」
店主と豊は顔を見合わせ、ぎこちなく笑う。
そこに都子とカンナがやって来る。光里の後ろ姿を見た都子は即座に事態を理解した。
「バッティング、やって、いいのよね?」
「メダル買エ、ッテ書イテル? ドウスルノ? ゴメン、都子、お金貸シテ。現金、持ってコナカッタ」
カンナはいつものごとくマイペースだ。
「その販売機にお金を入れるの。」
光里が硬貨を投入するとメダルが出てくる。
「これを打席の後ろの投入口に入れるとボールが飛んでくるから、それを打つの。打席ごとにボールの速度と直球か変化球かが書いてるから、好きなボックスに入ってね。バットはそこから、好きなのを選んで。」
「ヒャク……」とつぶやくカンナ。
球速がメートル表示なのが、マイル表示のアメリカから来たカンナには分かりにくいのだ。
「時速一〇〇キロメートル。マイルに換算するのは一.六で割るから、大体六〇マイルくらい」と光里が説明する。
「オオ」
とカンナは感心して頭を下げる。しかし、どうすればいいのか今一つ分からない様子は変わらない。
「やって見せた方が早いか」
光里は無造作にバットを取り、最速の一四〇キロのボックスに入る。
「先生、そんな重たいバットで、いきなりそんな速い球を……」
心配そうに声をかける豊に微笑むと、メダルを投入し、打席に立つ。豊は驚いた顔になる。フォームが様になっているのだ。
光里は怒り顔でつぶやく。
「有名大学の入学者数で高校の価値が決まるんじゃない。」
ピッチングマシンが回転する。それに合わせた画像のピッチャーが投球ホームを取る。光里は左足をわずかに上がりながら、声を張る。
「校長のぉ」
ボールがリリースされ光里はバットを振る。
「馬鹿野郎!」
キン、と金属バットの鋭い音がしてボールはレフト方向に飛び、ネットの二塁打と書かれた箇所を直撃する。
「へえ」と豊は感心する。
プロ野球なみの速球は、初心者だとストライクボールなのに自分にぶつかってくるように感じるほど恐い。それを光里は綺麗に打ち返した。女だけど本格的に野球をやっていたのか?
すぐに次が投球される。光里はまたつぶやく。
「校長との喧嘩に生徒を巻き込んで、野口のジジイの……」
滑らかなフォームでバットが振られる。
「唐変木!」
今度はセンター方向の三塁打の文字に当たる。
「すげえ、もうちょっとでホームランだ」と豊。
わらわらと観客が集まってきて、光里が打つたびに感嘆の声を上げる。光里はよほど集中しているのだろう、気にする様子もなく、次々に、罵声とともに長打を放つ。
悠輔はインパクトの瞬間に光里が放つ悪口雑言に冷や冷やした。自分の成績の愚痴はまだしも、外部に漏れたら問題になるような学校の悪口をポンポン口にしている。
観客たちはそんなことにお構いなしで、美人スラッガーの活躍を喜んでいる。
「授業は下手なくせに偉そうな、瓜生の阿呆の、うんちくたれ!」
裂帛の気合いとともに放たれた打球は真っ直ぐに飛び、ネットの上段に書かれたホームランの表示に打ち当たった。
店内にファンファーレが響き、観客たちは拍手する。
やがて規定の投球数が終わる。光里は「ふー」っと息を吐く。観客たちのやんやの拍手
に光里は右手を挙げて応える。
「これ、ストレス解消にいいわ。君たちもやってみなさい。」
「ハーイ」
とカンナは嬉しそうに打席に走る。
「そりゃ、あれだけ好き放題を言えば……」と呆れ顔の都子。
「担任のくせにお兄ちゃんの悪口でストレス解消って、酷いわ」とあさ美はふくれっ面になる。
「そりゃ、悪かったわ」
さして反省している風には見えない光里。
「いやまあ、僕はいいんですけど……」
校内の醜聞を公言するのは不味いんじゃないか、と言いたげだ。光里はどこ吹く風。
「先生、野球をやってたんですか?」と豊。
「学生時代に、ソフトボールをちょっとね」
「ああ、それでか」
ソフトボールは野球より投球距離が短いこともあり、球速は速く感じる。それで光里は速球になれているのだ。
そんなことを言っている間にカンナの打席が始まっている。
「キャー」と悲鳴を上げてボールから逃げる。
「大丈夫、当たりっこないから。ボールをよく見て、タイミングを合わせてバットを振ればいい。」
豊のアドバイスなんか聞こえちゃいない。次の珠も尻餅をつかんばかりにして避ける。その姿が可愛らしい。観客はそれを見入る。
「ずるいわよねえ。カンナは何をやっても関心を集めちゃう。」とあさ美。
「いいじゃないか。俺はいつでもあさ美を見てるよ」
(好きあらば惚気る)
もはやからかう気も失せたのは都子だけではない。
そこに店長がやってくる。大きな熊のぬいぐるみを三つ抱えている。
「ホームランおめでとうございます。賞品です。四本打たれたのんですが、用意が三つしかなくて。滅多に出ないのに、一打席で全部持って行かれたら商売あがったりですよ。」
笑顔を浮かべているが目は笑っていない。何人も客を追い返したあげくの追い銭だから無理もない。光里はそれを察する。
「ごめんなさい。明日から試験なのに、うちの生徒は遊びたがるもので、つい。お詫びにいただくのは一つだけにしておきます。」
と、熊を一つ受け取る。そのまま、あさ美に差し出す。
「「お兄ちゃん」を悪く言ったお詫びよ。これ、東山くんに似てない?」
あさ美はハッとしてぬいぐるみを見つめる。都子は、そうかなあと思うが、あばたもえくぼのあさ美は、愛らしい熊さんが悠輔のように見えるのだろう。光里から受け取るとキュッと抱きしめる。
「ありがとう、先生。大切にします。」
悠輔は照れて頬をかく。豊は聞いちゃいられないとばかりに、カンナのアドバイスを続けている。
都子は「私の方がストレスたまるわ」とバットを取る。
その後は、豊がカンナと都子を教え、光里が悠輔とあさ美を教えることとなった。都子とあさ美は短いアドバイスでそこそこヒットが打てるようになった。
カンナも一打席の終わり頃には、それなりに様になってきた。
体を使うことは駄目な悠輔も、光里の細かい指導を受けて、二打席目の終わり頃には何本かヒットを打てるようになった。打球が前に飛ぶたびに、「おお」と自分で感動している。
豊は(そのボテボテの当たりじゃアウトだ)と言いたげな顔になるが、何も言わずにいた。
「先生、ありがとう。体を動かして気分も良くなりました。明日の試験も頑張れそうです」と嬉しそうな悠輔。
「どういたしまして」と光里。
(「君に英語を教えるより楽よ」と言いたいんだろうな)と都子は思ったが、やはり黙っていた。
(何のかの言いつつ、みんな、悠輔くんを助けちゃうのよねえ)
二六 実力試験の結果発表
試験は無事終わった。結果は順当だった。
都子は学年一位を保持した。カンナは国語の成績を上げ、他の科目もまずまずだった。あさ美は良くないなりに偏差値を上げ、努力が認められる成績になった。
悠輔は国語と社会はほぼ満点、理科と数学は学年一位の好成績だった。問題の英語は二八点。実力試験に欠点はないものの、定期考査だと二五点以下は欠点になる低成績からは脱出した。喜ぶような点数ではないが。
これには光里が落ち込んだ。
「私が手間をかけて教えるより、遊んで気分良くした方が成績が上がるなんてね。」
もはや欠点とは関係なしに行われる補修授業で、悠輔にぼやく。
「先生、そんなに落ち込まないで。青山先生が熱心に教えてくれるのが励みになって、僕は英語の勉強を続けていけるんです」
と悠輔は真っ直ぐに光里を見つめる。
「ありがとう」
お世辞や気休めだと分かっていても、この真面目な生徒になぐさめられると嬉しい。
その様子に気をよくした様子の悠輔が続ける。
「点数が上がったといっても八点ですから。一~二門、正解が増えただけです。正直、理解して解答した問題なんかないんで、誤差や運の範囲ですよ。」
明るく言う悠輔に光里は切れる。
「人の苦労をなんだと思ってるの。」
両手で悠輔の頭を持って揺さぶる。バッティングセンターでストレス解消しても、この子がまた負荷をかけてくれる。
「暴力反対、ヒステリーは美人が台無しだ」
「誰がそうさせた」
『美人』と言われ力が緩みかかるが、この子は相手が美人だから態度が変わるわけではないと思い直して、再び力が加わる。
二七 悠輔、忠臣蔵を語る
日本文化同好会、第5回。今回も悠輔が講師だ。
「今日のお題は「忠臣蔵」、別名「赤穂浪士」です。」と悠輔。
今回は講師の悠輔が対面で教卓についている。カンナはその正面、一同はその周りに座っている。あさ美は悠輔の隣に座り、大画面モニターにつないだモバイルパソコンを開いている。
「校長にキンシン言われたとき、ユウが言ってた。」
「よく覚えてたね。校長が事情を調べもせずに一方的に裁断した――その話は、もういいんだ。」
悠輔の歯切れが悪くなる。やはり御幸母さんに相当叱られたんだな、と都子は思う。
「忠臣蔵は、たぶん日本で一番多く、映画やお芝居になった題材だと思う。いまは少なくなったけど、討ち入りがあった一二月には、映画が上映されたりテレビで放送されたりしてたんだ。」
「ウチイリ、って何?」とカンナ。
「武器を持って敵の家に押し入って、乱暴すること。ザックリいまの言葉にすると「テロ」かな。」
「暴力、イケナイ。ユウは「日本は和の国」ト言った。平和ヲ愛スル日本人ガ暴力ヲ好き?」
「いい質問だ。カンナは偉いなあ」
カンナは頭を突き出す。悠輔の手が届かない位置なので、カンナの頭をなぜるゼスチャーをする。カンナはニッとあさ美を見る。あさ美はべーっと舌を出す。
「ラブコメ男、話を進めなさい」と都子。
野口先生はあきれ顔になるが何も言わない。蔵人も以前ほどの反応はない。流石に慣れてきたか。
悠輔は咳払いを一つする。
「その辺も含めて、今日は「忠臣蔵」を語ってみます。最初にお断りしておきます。忠臣蔵は史実の「赤穂事件」を題材にしているけれど、物語です。最初に劇にしたときから、面白くするために事実と違う話が沢山入ってます。それから三〇〇年間、色々な演出が加わって、事実とだいぶ違う話になってます。だけど、あまりに良く出来た物語なので、事実だと思ってる人が多いです。
歌舞伎で全部上演すると一二時間ぐらいかかる長い話なんだって。今日は短く紹介するから、思い切り話を端折ってます。分かりやすくするために、史実を無視して、僕が勝手に作った話も入ってます。『講談師、見てきたような嘘をつき』といいます。面白ければいいんです。事実無根と文句を言わんで下さい。
あと、なにせ三〇〇年も昔の話なんで、今の日本人でも分からない言葉が出てくるけど、そこは前のモニターで解説を入れます。あさ美、モバイルの操作よろしく。」
「はい、妻の私に任せて下さい。「一心同体」を見せてあげましょう。」
とカンナに微笑む。
今日はあさ美の機嫌が良くて余裕があると思ったら、この仕込みのためか。さては手間をかけて、仲睦まじく練習でもしたな、と都子は思う。
「さて」と悠輔は背筋を伸ばす。顔つきまで講談師っぽく引き締める。
「時は元禄一四年、西暦だと一七〇一年。日本は天下太平、産業や文化が栄えていた。」
画面に江戸時代の年表が映る。江戸時代は二六〇年間ほど。一六〇〇年の関ヶ原の合戦で事実上、徳川が天下を取ったとすると、元禄一四年はそれから一〇〇年。戦乱は遠い過去となっているのが分かる。
「この時代の将軍は五代、徳川綱吉。平和な時代に産業を興し、学問を奨励した名君――だったんです、最初は。
綱吉の美質として語り継がれる一つに親孝行があります。親孝行な人は尊敬されますからね。はい、みんなも僕をもっと誉めて下さい」
「あなたは親孝行じゃなくてマザコン」と都子。一同は笑う。
悠輔は、『お約束の突っ込み、ありがとうございます。』という顔になる。
「ちなみに綱吉の母の桂昌院といいます。本名は「たま」。身分の低い家の出身なんですが、将軍の母にまで上り詰めた。「玉の輿」の語源になった人です。」
モニターに桂昌院の肖像画が映る。
「この母子の悩みは、綱吉に子供がいないこと。この時代の殿様の一番の使命は家を絶やさないこと。つまり跡継ぎの男の子を残すことです。それが出来ないと、将軍の務めを果たせてない。」
「あたしはいつでも子供を産んであげるよ」とあさ美。
アドリブの不意打ちだったのだろう、悠輔が目を丸くして赤くなる。母親が悪阻で機嫌の悪いことを思い起こしたのか、ちょっと辛そうな顔になる。
「あたしは大丈夫だって」、以心伝心のあさ美。
「話を戻すよ。」と悠輔は咳払い。
「悩んでる人に、怪しげな宗教が取り入るのは古今、よくあること。桂昌院が帰依していた僧隆光が、上様に御子が出来ぬのは、前世で殺生をした報いでございます。生き物を大事になさればよろしい、特に上様は戌年なので犬を大事になさい。と桂昌院に進言した。
信心深い桂昌院がこれを信じて、将軍綱吉に願い出た。親孝行の綱吉は母親の言う通りにしちゃった。」
モニターに「近年は、この説には反証があります」と表示される。一同はポカンとなる。悠輔はくだけた表情になる。
「えーとですね。生類憐れみの令って百以上のお触れの集合なんですけど、最初のが発布されたときには、隆光はまだ江戸にはいないから、将軍綱吉の製作に影響を与えたとは考えにくい、んだそうです。
忠臣蔵ってこんなのばっかりなんです。一々説明してると話がつまらなくなっちゃうんで、これからの話はこの種の反証は省略します。繰り返しになりますが、忠臣蔵はあくまで面白さを追求してるフィクションだとご理解ください。
じゃ、話を元禄時代に戻します。」
悠輔は表情も元に戻す。
犬を可愛がるのも、一人でやる分にはなんてことないけど、将軍様は日本の代表だから、日本全土でやる羽目になる。これがまた、動物愛護なんて生やさしいもんじゃない。犬を殺しちゃうと人間の方が死刑になるって、無茶苦茶な法令でして。綱吉の小姓なんて、額にとまった蚊を叩きつぶしたのを責められて切腹になった。狂ってますな。今に至るも悪名高い、「生類哀れみの令」です。」
モニターに「生類哀れみの令」、漢字の上に読み仮名をつけている。
カンナはぽかんとした顔になる。
「信じられないかもしれないけど、「生類哀れみの令」は一八世紀の日本で本当にあったことなんだ。
当然、綱吉の評判は地に落ちる。こういう無茶をすると、他の不満もどんどん出る。賄賂が横行してるだの、側用人政治が腐敗してるだの。世間は幕府への不満でいっぱいになる。」
モニターは柳沢吉保の肖像画を背景に、「側用人=秘書」の文字が映る。
「「忠臣蔵」が市民の喝采を受けたのは、こういう政治への不満が背景にあるんだ。」
「さて。この年、勅使供応役を命じられたのは播州赤穂、今の広島県赤穂市のお殿様、浅野内匠頭。勅使供応役ってのは、江戸城に来る天皇の使いをもてなす役目です。」
モニターは「勅使供応役=天皇のお使いを接待する人」。以降、時代劇か日本史の教科書でしか見聞きしないような言葉には、いちいち注釈を映すようになる。
「この時代の、天皇が組織する朝廷と将軍が組織する幕府との関係も、ちょっと説明がいります。簡単に言うと天皇家は最初に日本を統一した家で、それが現在も続いています。
征夷大将軍はざっくり言うと武士を取りまとめる役目で、天皇が任命します。だから制度上は征夷大将軍、略して将軍は天皇の部下になります。幕府とは本来、将軍が組織する軍事組織です。
けど、元禄時代からさかのぼって五〇〇年ぐらい前から、武士が勢力を持って、日本の実際の政治の実権は幕府が持ってます。そういうわけで、国家元首であるはずの天皇の使いが、軍事を預かっている部下であるはずの将軍に挨拶しにくる、ちょっとややこしい儀式が行われます。幕府にとっては将軍の権威を見せつける機会ですから、大変な精力をつぎ込むわけです。
ちなみに、この時代の日本の首都は、制度上は天皇がいる京都です。実質は政権を握っている将軍が幕府を構えている江戸――今の東京が政治の中心です。
日本の首都が江戸、今の東京になったのは、江戸幕府が終わって明治時代になり、天皇が東京に来てからです。ですから、江戸時代は首都の京都から江戸に行くのは「下る」、逆に江戸から京都に行くのは「上る」と言います。今と逆ですね。
ともあれ、勅使供応役は大変な役目です。手間もお金も沢山かかる。朝廷は日本の格式の元締めみたいなものですから、行儀作法も半端じゃなくややこしい。命じられた内匠頭がまじめな人で、最初は役目を断った。」
悠輔、芝居の顔になる。
「田舎者にて、どのような失礼をしでかすか分かりませぬ。どうか、ご容赦のほどを」
「その議ならば心配無用。指南役の吉良上野介殿に万事、相談なされよ。供応役は身の誉れ、赤穂の誇りとなるであろう。励まれよ。」
目付にそう言われた内匠頭は引き受けざるを得ない。吉良家は名門で、行儀作法に精通しているので、なるほど、言うとおりにすれば間違いはない、とも思う。
早速ご挨拶にと、内匠頭は上野介を訪ねる。挨拶にと持参したのが絹一反。これが上野介の勘に障った。この時代は賄賂が横行しており、上野介は金品を沢山持ってきた人を優遇するのが当たり前って人。しかし、さすがに賄賂を持ってこいとは言えないから、挨拶に何を持っていけばいいのかと問われれば、規定の絹一反と返事をする。まじめな内匠頭は、杓子定規の土産しか持っていかない。
勅使供応役ってのは二人いるんですが、悪いことにもう一人の伊達のお殿様が世慣れした人でして。上野介に大枚な貢ぎ物を持って行ってた。上野介にしてみれば、
「伊達家は流石、ものが分かっている。それに比べて赤穂の田舎侍め、憎いやつだ」
と、ことあるごとに内匠頭に意地悪をするようになる。
浅野家の家臣も世の中が分かってるから、賄賂を持っていくように進言したんだが、内匠頭には通じない。
「賄賂を用いて優遇を願うなど、武士の体面に関わる。吉良殿をないがしろにする行為じゃ。」
こういう清廉なお殿様は家臣には慕われ、庶民の評判はいいんですが、悪い奴には煙たがられる。かくして、浅野内匠頭の艱難辛苦が始まる。
代表的なのを言っときましょうかね。
勅使は京都から江戸に来て、いきなり江戸城に入る訳じゃない。休憩所を用意しなきゃならない。なにせ格式が高いから、御休所も有名な増上寺を借り切る。
ここで失礼があっちゃならないから、作法に沿っているか、いちいち確認が必要になる。
万事整ったかと、内匠頭が確認するさなか、家臣の堀部が飛び込んでくる。
「殿、一大事でございます。御休所は畳替えをせねばなりませぬ。」
「その議ならば吉良殿の御指図を仰ぎ、必要なしと承けたまっておる」
「そのように承りました。しかし念のため、伊達家の様子を見て参りましたところ、畳替えをしておりまして、吉良殿の御指図があったと。」
内匠頭、思わずふらつく。
「またしても、吉良に謀られたか。明日までに二〇〇枚もの畳換えなど、とても間に合わぬ。」
「殿、ご安堵めされい。江戸中の畳職人を集め、徹夜で作業いたせば、明日までには間に合いましょう。」
「出来るか」
「出来ます。しからば一刻の猶予もなりませぬ。我らはこれより、手配に走ります。ごめん」
と家臣たちは走り出る。
「内匠頭は、良い家臣を持った」
そっと涙する。
こうなると、意気に感じるのが江戸っ子ってもんで。
「あの評判のいい浅野様が、吉良のもうろくジジイにいじめられてんだ。お助けしなきゃ、江戸っ子の名折れだぜ」
増上寺は上や下やの大騒ぎ。江戸中の畳職人が集まり、浅野家江戸屋敷総出の突貫作業。翌朝には見事、二〇〇枚の畳替えが仕上がった。
検分に来た吉良上野介は渋い顔。汚い畳をなじってやるつもりが、もくろみが狂った。
帰ろうとする吉良を内匠頭が呼び止める。
「畳替えの議、無用と承りましたが、実はさにあらず。吉良殿はどのような御所存で?」
「そのようなこと、申したかな。御休所の畳替えするはいちいち指図するまでもない常識。それを知らぬとは、田舎侍には困ったもの。それにしても、一晩でよう替えられた。さすが裕福と名高い播州赤穂よな。何事も金の力でどうとでも取り繕える。」
高笑いで去っていく吉良、内匠頭は唇を噛みしめる。
「殿」控えている家臣が声をかける。
「分かっておる。予が辛抱すればすむことじゃ。お家のため、忠義を尽くすそなたら家臣のため、予はどのような恥辱にも耐えてみせる。」
と、悠輔の顔がふつうに戻る。
「ちょっと解説です。播州赤穂は三万五千石です。大きな藩は一〇〇万石とか、何十万石とかありますから、それに比べれば浅野家は小さな家です。
「石」はお米の収穫量の単位です。この時代の経済単位はお米です。
一石は一五〇キログラムです。三万五千石だと五二五万キロです。現在の価値ですが、お米の値段をざっくり一〇キログラムで三〇〇〇円だとすると、一五億七五〇万円になります。
播州赤穂、現在の兵庫県赤穂市の市内総生産額は二七一九億円以上だそうです。社会がまるで違うから、比較するのも無理ですが、それにしても金額が違いすぎますね。
武士の時代は主食の米が沢山とれれば豊か、という考え方です。他の産業があまりない時代はそれで良かったのですが、江戸時代には商工業が発達して、米以外の産品の方が利益を生むようになってきてます。赤穂の場合は塩が名産です。赤穂の塩は高品質で高く取引されてます。ですから、浅野家は公称の三万五千石よりずーっとお金持ちなんです。
そういうわけで、吉良が言うことにも根拠はあるんです。浅野家はお金持ちだから、畳替えに気前よく礼金を振る舞えたんで間に合った。結果として、浅野家は気っぷがいいのが好きな江戸っ子の受けがいい。内匠頭や家臣の人気は高まる一方。
格式が高くから出費が多い吉良上野介、財政に苦しむ幕府は、これが面白くない。意地悪をしたくて仕方がない。そもそも勅使供応役なんて、出費がかさむ大役を押しつけ
たこと自体、幕府の悪意ですな。
もう少し米の話をします。この時代は税金の主体もお米です。お米で税金を徴収しますから、役人の給料も基本、お米の単位です。よく知られたところだと、江戸の同心――今の役職だと警視庁の刑事さんにあたるかな。その給料が「三〇俵二人ぶち」と言います。
俵は今でもお米を量るのに使う単位です。一俵は六〇キログラムです。大人一人が担げる重さが一俵とされてます。昔の日本人は力持ちですね。
三〇俵なら一八〇〇キロになります。お米の値段をさっきと同じく一〇キログラムで三〇〇〇円で計算すると、三〇俵は五四万円になります。物価や社会が違うから単純な比較は出来ないけど、都市生活で現金支出が多い江戸で年俸五四万円って、安月給ですねえ。同心というか下級の武士の生活は苦しいはずです。
元禄時代は、名目は米を経済単位にしてるのに、現実は貨幣経済が主流になった矛盾が吹き出してきた時代です。
考えようによっては、浅野家はその矛盾のとばっちりで酷いいじめにあった、とも捉えられます。商才に長けた商人ならともかく、きまじめな田舎侍の浅野内匠頭が立ち回れるもんじゃない。我慢に我慢を重ねたものの、堪忍袋の緒が切れる時が来た。世に言う、刃傷松の廊下です。」
悠輔、芝居の顔になる。
「この日、勅使は江戸城入り。江戸にいる大名は総登城、勅使供応役の浅野内匠頭も当然、江戸城に入る。が、なにやら様子がおかしい。
「浅野様」と茶坊主が内匠頭を呼び止める。
「ご装束が……」
内匠頭、周りを見れば、登城を急ぐ大名は、みな烏帽子大紋。長袴はおのれ一人。あっ、と扇子で御尾を隠し、空き部屋に逃げ込む。
あわてて家臣が後を追う。
「殿、いかがなされました」
「またしても吉良に謀られた。登城のおり、長袴を着用とのご指示であったが、まことは烏帽子大紋であった。」
「殿、ご安堵なされませ。このようなこともあろうかと、烏帽子大紋、こちらに用意しております。」
「おお、ありがたや。」
「ささ、お早くお着替えを」
大急ぎで衣装を整え、急ぎ足で進むも、遅れはいかんともしがたい。松の廊下を足早に進む内匠頭の前を行くは憎っくき吉良上野介。
「吉良殿、しばしお待ちを。先日、御登城のおりの装束をおたずねしたところ、長袴とのご指示でござった。しかるに当日は烏帽子大紋を着用。いかなる次第にて左様なご指示をなされたか。」
「戯れ言を。勅使御登城は烏帽子大紋は天下の定法。それすら知らずに、ようも供応役を名乗れたもの。かかる御仁に大役は務まらぬ。かくなる上は、御老中に浅野内匠頭は供応役に相応しからずと進言いたす。」
「そればかりはご容赦を。お役ご免となれば、浅野家末代までの恥。どうかご勘弁を。」
と、内匠頭は吉良の袖をつかみ、泣かんばかりにして懇願する。
「いいや、勘弁あいならぬ。」
吉良は内匠頭をふりほどく。
「伏して、お願い申し上げます。どうかご勘弁を」
「ええい、くどい」
吉良は扇子を抜き、内匠頭を打ち据える。たまらず崩れ落ちる内匠頭。
「ふん」内匠頭を見下し、きびつを返す吉良。
「もはやこれまで。」
内匠頭は腰の短刀を抜き放ち、吉良に打ちかかる。
「おのれ憎っき吉良上野介、恨みの刃を受けてみよ」
振り向いた吉良の眉間に斬りつける。が刃は烏帽子にあたり、傷は浅い。逃げる背中にも斬りつける。が、これまた浅い。
たちまち城内は大騒動。逃げる吉良、追う内匠頭。内匠頭は背中からがっしと押さえられる。
「浅野殿、乱心いたしたか。殿中でござる。」
「承知の上。武士の情けじゃ、恨み重なる吉良を討たせてくだされ」
「なりませぬ。殿中で刀を抜けばお家は断絶、身は切腹でござる。」
押し問答を繰り返すうちに、吉良は彼方に逃げ去る。姿が見えなくなると、内匠頭の気が静まってくる。
「もはや手向かいいたさぬ。尋常に御沙汰を待つゆえ、お放しくだされ」
報告を受けた将軍綱吉の対応は早かった。殿中での刃傷は大罪、佐野内匠頭は即日切腹、浅野家は取りつぶしが申し渡される。一方の吉良上野介は手向かいしなかったのでおとがめなし。
無惨、内匠頭はその日のうちに切腹して果てた。
この処置に江戸の町民は納得がいかない。
「喧嘩両成敗が天下の定法。よく調べもせずに、浅野様だけに厳しい処罰ってのは、おかしいじゃねえか。」
「犬公方のやることだ。まともじゃねえ。」
「吉良ってのは金に汚いって評判だ。御公儀でロクでもねえ駆け引きがあったんだろうぜ」
日本人は判官贔屓で弱い者の味方をしたがる。ましてや浅野内匠頭は清廉潔白で評判がいい。金払いがいいのも江戸っ子の受けがいい。
こうなりゃ浅野の家臣は仇討ちするに違いないってんで、江戸中が大騒ぎ。「火事と喧嘩は江戸の花」と言いますが、三万五千石の大名が蜂起すりゃ、喧嘩どころの騒動じゃない。
内匠頭切腹の報は直ちに播州赤穂に届けられる。主君が切腹となれば、お家は取りつぶし、城は明け渡しとなる。どうする? 赤穂の城内は大論争。
考えられ得る対応は三つある。
一 おとなしく幕府の沙汰を受け入れ、城を明け渡す
二 かなわぬまでも幕府と一戦交え、城を枕に討ち死にする
三 亡き内匠頭の後を追い、家臣一同切腹する
城の大広間に集まった家臣は三日三晩、激論を続けるが結論が出ない。この事態に城代家老、大石内蔵助はじっと、論争を聞いている。
議論に疲れた者は人にすがる。
「御城代、どう考えられる?」
「そうだ、御城代の意見を聞こう」
「御城代の考えに従おう」
大石内蔵助、これまでたいした実績もなく、昼行灯と言われるが、そんなはずはない。先も申したとおり、播州赤穂は塩の産地で一大産業地。三〇〇人ほどの家臣を切り盛りする城代家老が、凡常な人物につとまるはずがない。ましてや浅野内匠頭は高潔な人格者ではあるが実務はできない。こういう主君の元で藩を盛り立てたのだから、冷静な計算が出来る大人物であったに違いない。
はたして大石の結論は
「死のう」
短い一言に、一同はぎょっとする。
「亡き御主君、浅野内匠頭様の後を追い、我ら家臣は腹を切る。ここはいったん散開し、各々身辺を整理して、三日後に改めて登城されよ。」
さて、主君の切腹という一大事が起これば興奮して血気にはやった家臣たちも、死ぬと決まって三日も間があくと我が身が大事になる。三〇〇人もいた家臣も一人抜け、二人逃げ、三日後に城に集まったのは六〇人に減っていた。
整列した一同は、抜き身の脇差しを前に置き、じっと大石を見る。
大石は一同を見渡し、静かに語る。
「よくぞ残られた。が、死ぬのが嫌になった者は今からでも去られよ。内蔵助、この期に及んで、とがめはせぬ。」
去る者ななし。
「では御一同、未練はあるまいな。これより腹を切る」
大石が刀を取る。一同も続く。刃を腹に突き立てようとした刹那、大石が言う。
「待たれよ。死ぬのはやめる。」
動揺する家臣たちに大石は語る。
「ここに残った方々だけに、内蔵助の本心を打ち明けよう。
主君の後を追って死ぬは、忠義に見えて忠義にあらず。誠の忠義とは、お家を再興することと存ずる。亡き御主君、内匠頭様の御舎弟、浅野大学様を仰ぎ、御公儀に浅野家の再興を願い出ることこそ、我ら家臣が取るべき道でござる。
容易いことではござらぬ。死よりも辛い道のりであろう。その覚悟がある者のみに、この議、明かす覚悟でござった。そのため、死ぬと申した。
その上で、御家再興がかなわぬ時は」
キッと鋭い目をして、右手に待った刀を掲げる。
「おのおのがた、お頼み申します。」
大石は深々と頭を下げる。一同は、はらはらと泣きながら返礼する。」
ここで悠輔は脇に置いたペットボトルのお茶を飲む。
「ここまでが忠臣蔵の前半です。芝居がかっている、というかお芝居や映画はここで盛り上がります。時代劇の真骨頂ですな。
ところが、昭和二〇年、西暦でいうと一九四五年の太平洋戦争終結の時に、これ、そっくりの、大芝居を打った司令官がいるんです。源田実っていうんですけど。
まあ、どこまで本気だったのか分からないんですけどね。時代錯誤もいいとこなんですが、日本人は昭和になってもこういうのが好きなんで、源田大佐が指揮する第三四三海軍航空隊、紫電改部隊と言った方が通りが良いそうですが、盛り上がったそうです。」
モバイルには源田実大佐の写真が写る。なかなかの美男子である。
悠輔はもう一口お茶を飲み、本題に戻る。
「さて、固い決意で御家再興に紛争する赤穂の浪士たち。しかし、大石が言ったように、いったん断絶と決まった浅野家の再興を幕府に認めさせるのは困難を極めた。
禄を失い生活に困窮して野に下る者、早く仇討ちをせよと大石に迫り、受け入れられぬので去って行く者が続出する。
内蔵助は御家再興と同時並行で、討ち入りの準備を進める。
吉良の内情を探るため、ある者は菓子屋に化けて吉良邸に入り込む、ある者は吉良邸の図面を手に入れるため大工の娘を誘惑する、等々、涙ぐましい努力を続ける。
この間、大石内蔵助は何をしていたか? なんと、京都山科の色町で遊び回っていた。この噂が世間に広まり、大石の評判は地に落ちる。
「大石って城代家老は腰抜けだ。あっさり城を明け渡した後は、飲めや歌えで放蕩三昧、あんなのが家老じゃ、内匠頭様も浮かばれねえぜ。」
こういう悪評はすぐに広まる。大石は亡き主君の奥方に呼び出される。
「内蔵助、そちはいつ、亡き御主君の仇をはらすのか。」
「いやいや、御家が亡くなり、お役目の重さから解き放たれ、遊ぶ楽しさを知りました。仇討ちなど、忘れ去りました。」
「内蔵助、それは誠か。色町で遊んでいるのは、吉良を油断させるための芝居であろう。わらわにだけには、本心を明かすのじゃ。」ときつい眼差しでにらみつける。
「本心にございます。命あっての酒の美味さ。討ち入りなど、考えてもおりませぬ。」
ヘラヘラと軽く言ってのける姿に、奥方は激怒する。
「見下げ果てた奴。亡き御主君に可愛がられた御恩を忘れたか。ええい、下がれ、顔も見たくない」
「ははぁ」内蔵助は平伏して退出する。
こういう醜聞は、漏れるはずがないのに、どこからか広まる。世間は大石の悪評で満ちあふれる。
だが、それを信じない男がいた。千坂高房。米沢藩、上杉家の江戸家老である。」
悠輔はちょっと間を置く。
「ええっと、これも説明がいります。
このときの上杉家の当主は二〇代目の上杉綱憲。有名な戦国武将、上杉謙信の四代後です。
とは言っても、この方は御養子さんです。実父はなんと吉良上野介。赤穂浪士の動きが気にならないはずがない。仇討ちなどさせてはならぬと、江戸家老の千坂に赤穂浪士の動きを探るように命じる。
千坂は困った。主君の親孝行は重んじたいが、幕府に目をつけられるような事はしたくない。
なんとなれば、上杉家は名門とはいえ、、このころには謙信の時代の勢いは全くない。謙信の次の代の上杉景勝が、徳川家康に喧嘩売って、関ヶ原の合戦の口火を切ったもんで、徳川幕府に、にらまれないはずがない。九〇万石もあった領地を取り上げられ、出羽米沢三〇万石に減らされちゃった。まあ、取りつぶされなかっただけでもめっけもんですが。
上杉景勝は情のある人で、領地が三分の一になっても家臣を捨てなかった。景気が悪くなったら、やたらリストラしたバブル景気後の日本の社長とは大違いですな。景勝のそういうところは偉いんだけど、家臣を食わせる金を作る才覚はない。倹約しようにも、上杉家は名家だから体面もあって出費が抑えられない。ずるずると借金が増えていく。
更に上杉家の災難は続く。当代の綱憲は末期養子、先代が死んだ後に迎えられた養子です。このころの決まりで、大名の養子は先代の存命中に決めておかないといけない。違反すると家は取りつぶしになる。上杉家はどうにか取りつぶしは免れたものの、領地は半分の一五万石にされてしまった。江戸家老の千坂の苦悩には、こういう背景があるんです。
千坂は胃に穴があくような思いであった。金がないだけでも藩がつぶれそうだ。このうえ、赤穂浪士の討ち入りに関わるなんて、上杉家を潰す名目を探っている幕府に、カモネギを差し出すようなまね、突っぱねるのが当たり前。
しかし、そこが家老、今でいうところの管理職の辛いところ。
綱憲に「子として、いくら評判が悪いとは言え父を見捨てることは出来ぬ。頼む」と言われると、断れない。
上杉綱憲は英明な君主であった。これからは学問の時代だと見抜き、藩校を設立するなど、教育に力を入れたから、上杉家は後に人物を輩出する家となった。逆に教育にお金を掛けすぎたから、苦しい財政が更に苦しくなるのだが。
なまじ立派な君主に懇願されると、千坂も無下にはできない。
綱憲も綱憲で、千坂高房が切れ者であるのを知っているから、無理な頼みをするのである。はたして千坂は、密かに配下を集め、下知する。
「浅野家には気の毒だが、いったん断絶した御家の再興など、認められはせぬ。財政に苦しむ御公儀が、せっかく取り上げた赤穂の塩田を返すはずがない。あの良塩はいくらでも金を生むからな。
大石内蔵助ほどの傑物に、それが分からぬはずはない。それでも、御家のため、わずかな望みに賭け、恥辱に耐え、冷静に動いておるのだ。あれこそが男よ。
だが、無理なものは無理だ。御公儀はのらりくらりと話をそらすが、大石の悲願は叶わぬ。」
千坂は大きく息を吐く。
「明日は我が身やもしれぬ」
「御家断絶となれば、赤穂の浪士に残された道は仇討ちしかない。大石は、必ず吉良邸に討ち入る。
よいか、吉良邸の様子を密かに探れ。大石ら赤穂浪士の動きをつかめ。」
「して御家老、どうなさるおつもりで? 赤穂浪士と一戦交えるか。」
「馬鹿者、御家が取りつぶされるわ。我らが目指すはただ一つ、赤穂浪士に討ち入りさせぬ事じゃ」
そして、浅野内匠頭切腹から、一年が過ぎた。
吉良邸では、浅野内匠頭が切腹した直後こそ、赤穂浪士が討ち入ってくるかと警戒したものの、緊張は長く持続できない。ましてや首魁の大石は惚けて遊び回っているとの噂が聞こえてくれば、段々とだらけてくる。
千坂の綿密な探索にも関わらず、赤穂浪士の有益な情報は集まらない。
「これほど探索しても、浪士の動きは分かりませぬ。奴ら、仇討ちは諦め、江戸を離れたのでは?」
「ありえぬ。仇討ちを諦めたなら、逆に奴らの進退は明らかになる。巧妙に動きを隠しておるのじゃ。こうしている間にも、奴らは吉良邸討ち入りの準備を進めているに違いない。京の大石からも目を離すな。」
一通りの指示を終えた千坂はつぶやく。
「遠く離れた京から、江戸の浪士をこれほど見事に統率するとは。大石内蔵助、恐るべき男だ。」
この日、京の大石の元に知らせが届く。大石は知らせを持ってきた浪士を前にして、文を読み終え、しばし瞑目する。やがて目を開き、静かに語る。
「亡き御主君の御舎弟、浅野大学様の御処分が決まった。蟄居、他家にお預かりとなった。」
大石は間をおく。
「浅野家は、滅びた」
「御城代、それでは」
「かくなる上は、吉良上野介を討つ。かねてからの手配どおり、準備を整えよ。」
その夜、内蔵助は妻に語る。
「りく、その方を離縁する。長男の主税は連れて行く。その方は他の子らとともに、実家に帰れ。」
「はい」
妻、りくは涙を隠し、短く返事をすると大石の旅装束を整える。何も言わずとも、りくには内蔵助の真意が分かる。いよいよ、来るべき時が来た。内蔵助は残された妻子に累が及ばぬよう、縁を切ったのだ。
大石内蔵助が消えた。急報が江戸の千坂高房に届く。
「大石は江戸だ。吉良邸討ち入りの直接指揮を執るため、江戸に下ったのだ。探せ。他の浪士の足取りも探れ。」
だが、内蔵助らの行方はようとしてつかめない。
はたして内蔵助は江戸にいた。居場所を捕まれぬよう、転々と拠点を変えながら、討ち入りの準備を整え終わった。その迅速さは千坂の予想を遙かに超えていた。
討ち入りのため、最後に必要な情報は、吉良上野介の所在である。上野介が屋敷にいる日に急襲する。やり直しはきかないから、確実な情報でなければならぬ。
その日、ついに報告が入った。
「吉良上野介は一二月一四日、屋敷に泊まります。」
「間違いないか」と内蔵助は静かに問う。
「翌日は茶会で客人を招くため、屋敷に泊まります。招かれる相手や、茶器を用意する出入りの行商人からも裏を取りました。間違いありません。」
「うむ」大石はうなずく。
「さすれば、討ち入りは一二月一四日未明といたす。各々方、準備万端、抜かりなきように。」大石はしばし動かぬ。
「御城代?」
「月こそ違えど、一四日は御主君の命日」
「ああ」一同は涙する。
一二月一四日夜。雪の中、蕎麦屋の二階に男たちが集まってくる。そろいの装束をまとい、槍や弓を整える。
「御城代、全員、支度が整いました」
一同は内蔵助を見る。
「御一同、これより吉良邸に討ち入る。目指すは吉良上野介の首のみ。」
内蔵助は浪士たちを見渡す。
「我らの目的は、亡き御主君、浅野内匠頭様の恨みを果たすのみにあらず。片手落ちの裁断、ひいては私欲にまみれた御政道に異議を唱えることである。されば、ゆめゆめ卑怯な振る舞いのなきよう、心されよ。」
浪士たちはうなずく。
「まいる」
大石内蔵助を先頭に、赤穂浪士は蕎麦屋の階段を駆け下りる。世に言う赤穂浪士、四十七士の出立である。
蕎麦屋の主は腰を抜かして驚いた。これが噂される赤穂の浪士か。二階で武器一式を用意していたのに、全く気がつかぬほどの見事な隠蔽であった。
雪化粧の江戸の町を黒装束の赤穂浪士が駆ける。整然と吉良邸の前に整列する。内蔵助はサッと軍配を振る。手配通り、数人が表門に梯子をかけ、一隊は裏門に回る。音もなく進入した浪士が大手門のかんぬきを外し、表門を開く。
うなずく内蔵助に陣太鼓が差し出される。無言で太鼓とバチを受け取った内蔵助は、大音声で打ち鳴らす。
「ドン、ドン、ドン」
それを合図に表門の浪士たちは一斉に吉良邸に飛び込んでいく。裏門の浪士は大木槌を打ち付け、門を打ち破ると屋敷になだれ込む。
赤穂浪士、吉良邸に討ち入り。急報が上杉家上屋敷に届く。たちまち上杉家は蜂の巣をつついたような大騒ぎになる。
「やられた。千早高房、一生の不覚。」
江戸家老、千坂は血が滲むほどに唇をかみしめる。読みを外された。大石の出奔から討ち入りまでを、これほどの短期間で成し遂げるとは。
「馬ひけい」上杉綱憲の大音声が響く。
「出陣じゃ。者ども、続け」
いきり立つに綱憲の前に千坂高房が両手を広げて立ち塞がる。
「殿、なりませぬ。ここで騒ぎに加われば、御公儀の怒りを買うは必定。」
「父を見捨てよと言うか」
「御家のためでございます。この一大事に御公儀の兵が動かぬ理由を考えられよ。騒ぎに荷担して勝手に兵を動かした家を処分する名目を得るためにございます。御公儀は、上杉家が動くのを手ぐすね引いて待っているに相違ありませぬ。」
「しかし、子として親の危機を助けぬのは不忠、武士の名折れ」
「その殿の御孝行さえも、側用人殿は計算しておられましょう。どうしても行かれのならば、この千坂を切り捨て、その屍を踏み越え、いや、米沢一五万石を踏み越えて行かれよ」
逆上してて刀に手をかけた綱憲は、血を吐くような千坂の諫言に肩を震わせた。
上杉家、動かず。」
モニターが切り替わる。『千坂高房はこの二年前に死去』と表示される。
会員たちはポカンとなる。野口先生は吹き出す。
悠輔は砕けた物言いになる。
「いいとこなんですがね。この上杉家の下りも後の創作です。茶々を入れたくないいですが、これを言っておかないと、突っ込み入れられるでしょうから」と悠輔。
「誰に言ってるの?」と都子。
「じゃ、話は吉良邸に戻ります。」と悠輔は背筋を伸ばす。
「時ならぬ陣太鼓の響きに、だらしなく寝入っていた吉良の門弟たちも目を覚ます。
「一打ち二打ち三流れ。あれこそは山鹿流陣太鼓。播州赤穂、大石内蔵助か。
討ち入りだ。赤穂浪士の討ち入りだ。」
押っ取り刀で向かい討つ吉良の家来衆。人数は多いが、用意万端整えた一騎当千の赤穂浪士には敵わない。激闘の果て、次々に討ち取られていく。
が、なにぶん吉良邸は広い。大石の元に、部屋を占拠、探索した旨の報告が次々に届くが、目指す吉良上野介が見つからない。浪士たちも焦る。
「御城代、まもなく夜が明けます」
「まさか、吉良は不在だったのでは?」
これだけの騒ぎを起こしたのだ。夜明けとともに幕府の兵も駆けつけよう。その前に吉良を討ち取らねばならぬ。
「焦るな。落ち着いて、屋敷の隅々まで探すのだ」内蔵助は悠然と座っている。
そこに、吉良発見の合図の呼び子が響く。一同は呼び子が響く炭小屋に集まる。
炭小屋の前には、寝間着姿の老人が転がされている。
「吉良上野介殿か」と内蔵助。
返答はない。
「確かめよ」と内蔵助。
老人にガンドウの明かりを近づける。額と背中に刀傷がある。
「まさしく、亡き主君、浅野内匠頭がつけし傷。吉良上野介殿に間違いない。」
上野介はなおも無言。
「御しるし、頂戴つかまつる」
白い雪を血に染め、吉良上野介の首が斬り落とされる。
見事本懐を遂げた赤穂浪士はすすり泣く。
内蔵助の凛とした声が響く。
「一同、勝ちどき!」
「えい、えい、おう。えい、えい、おう。」
「これより、殿の墓前に吉良の首を捧げる。泉岳寺に凱旋だ。」
赤穂浪士は整然と江戸の町を進む。
このころには忠義を貫いた義士の話は広がり、江戸っ子たちは拍手喝采。これぞ圧政に苦しむ庶民の喚起。
忠臣蔵、赤穂浪士の段、本日はこれまで。」
一同、拍手。蔵人は涙を浮かべている。
「忠臣蔵って面白いんですね。僕、全然話を知りませんでした。東山先輩の話、感動しました。素晴らしかったです。」
悠輔は照れて頭をかく。
「コノ後、ドウナッタノ?」とカンナ。
「赤穂浪士は全員切腹です。今で言えばテロリストだから、死刑になるのは当然と言えば当然だけど、これがまた日本人の涙を誘うわけ。
大石内蔵助は辞世の句――この時代の教養人が死ぬときに作る和歌をを残さなかったと言われています。僕の想像だけど、やるべき事を行動で示した男は、残すべき言葉など不要だったんだろうね。
ちなみに、武士にとって切腹は名誉を残した死なんだ。もっと重い刑罰だと、自分で死ぬ自由さえ与えないという意味で、斬首――処刑人に首を切られるのがある。まあ、おなかを切るぐらいじゃなかなか死ねないから、腹切りは形だけで、実際は首切り役が首をはねるのが多かったそうです。
いずれにせよ、武士の処刑の大体は。名誉ある死を与えるという意味で切腹です。時代劇だと偉い人が『潔く、腹を切れ』と言うんだ」
「自分デ腹を切る方ガ、痛くて嫌ダト思ウ」
と、カンナは納得いかない顔になる。
「だよねえ。命よりも名誉を重んじる武士の時代の話だもの。いまとは違う。今時『サムライ』なんて日本代表の野球チームとかだけど、アメリカに負けて腹切りする「サムライ」はいないよね。
でも、潔いのを美徳とする日本人の価値観は、心の奥底に、ちょっとだけだろうけど残ってる。あと、忠義ね。だから、昔ほどではないけれど、忠臣蔵は日本で受けるんだ。」
「日本人、難シイ」
悠輔は破顔した。
二八 長屋の花見
六月半ば。日本文化同好会は前回の忠臣蔵に続き、講師は悠輔が務める。
今日は落語と告知されている。理科準備室には即席の高座が作られた。机を四個、前に移動し、その上に座布団を置く。座布団の前には湯飲みが置かれる。高座の横に置かれた椅子には、モバイルパソコンを抱えたあさ美が座っている。パソコンを操作して正面のスクリーンに画像をつなぐと、めくり台のアニメーションが現れ、一枚めくって「東山悠輔」と表示される。
パソコンから出囃子が流れる。柳家小さん師匠のだが、さすがに知る人はいないようだ。それに併せて扇子を持った悠輔が理科準備室に入ってくる。一同は拍手する。
悠輔は据わりが悪い即席の高座に座ると一礼する。
「えー、身度馬鹿馬鹿しいお笑いを。と言うのが、落語の定番の挨拶です。けど、根は真面目な話です。
本日のお題は落語です。日本の古典芸能ですな。噺家を連れてくるか寄席にでも行きたいところですが、学校の活動ではそうもいかないので、素人の拙い話でご勘弁を」
「さて、本日の演目は長屋の花見です。何で季節外れの花見になったか? あたし、これしか持ちネタがないからです。昭和の大名人の耳コピです。」
都子がクスリと笑う。こういう芸があるだけでも大したものよ。
「真面目な理由ってのを説明しましょう。花見、花でございますな。アメリカで綺麗な花と言えば「カンナ」でしょうな。大きくて白い花びらが人目を引きます。すらっとして背が高いのにボリュームのある草の姿も美しいですな。いや、あたしの目の前に座ってるお嬢ちゃんにおべっか使ってるんじゃないですよ。」
カンナが笑う。(どうだ)と言いたげにあさ美を見る。あさ美は柔やかに受け流す。
「日本で花といえば、まずは桜でございますな。昔は花といえば梅だったんです。花見と言えば桜だというほど桜が人気になったのは、ソメイヨシノが出来たからです。それまでの山桜とかと違い、ソメイヨシノは春になりますと、葉が開く前に一斉に花が咲く、これはもう、実に美しいものでございます。」
あさ美はモバイルの画面を示す。満開の桜が写っている。カンナは思わず「ワオ」と言う。
「ソメイヨシノが作られましたのは江戸時代でございます。天下太平の時代ですな。平和ってのはいいもんです。春に誘われ、浮かれる庶民の娯楽場として、あちこちに花見の名所が出来ました。
このあたりにも桜は沢山あるんです。」
あさ美は画面を切り替え、市内の桜の名所をマッピングした地図を示す。小規模な田舎の市だが、けっこう桜が見られるのが分かる。
続いて悠輔は、当時の江戸の桜にまつわる風俗を、面白おかしく紹介する。箸が転げてもおかしい年頃の女の子たちはコロコロ笑う。つられて堅物の野口先生も笑い出す。
その次ぎに長屋の説明をする。
「その頃の、江戸の庶民の住みかは、ほとんど長屋ですな。細長い家を短く仕切って間借りさせる。ひところ、日本の家は狭いんで、ウサギ小屋なんて悪口を言われましたが、長屋なんてのは、それどころじゃない。鶏を一羽ずつケージに押し込めるようなもんです。」
あさ美は長屋の画像を出す。次々に切り替え、長屋とはどういう家屋なのかを見せる。
「落語に出てくる、はっさん、くまさんなんてのは、そんなところに住んでる、金はないけど気楽な連中です。」
マクラ話が終わり、本題に入る。
「おう、邪魔するぜ。大家が店子をみんな呼び出してんだってな」
「何の用だ?」
「俺が思うに、店賃の催促じゃねえかな」
「大家が? 店賃を? 図々しいなあ」
「何言ってんでえ。その様子じゃ、みんな、相当ためてるな」
「おう、おまえなんか抜けてるようで金銭はしっかりしてら。店賃はどうだ?」
「店賃? 店賃と言われると、面目ねえ。」
「もってってねえな」
「一つもってってるだけに、面目ねえ」
「いいじゃねえか、店賃てのは月に一つずつ、もってくもんだ」
「月に一つなら、面目ねえ、なんて言わねえ」
「二月前か?」
「そんなもんじゃねえ」
「半年前か?」
「まだまだ」
「二年前か」
「二年前なら、大家の方から礼に来らあ」
「嘘つけ。一体いつ持って行ったんだ」
「これがこの長屋に越してたときに、一つ持っていったきりよ」
「この長屋に? おまえ、この長屋に越してきて長いな」
「昨日今日と思っていたが、今年でちょうど一八年だ」
「敵討ちかよ。おう、おまえはどうだ?」
「一つもって行ってる」
「一八年前じゃねえだろうな。」
「親父の代だ」
「なんだそりゃ。おう、おめえはどうだ、店賃」
「店賃? 店賃ってなに?」
「おいおい、店賃知らねえ奴が出てきたよ。大家さんとこに毎月持って行くお金」
「はあ?」
「大家さんのおあし」
「まだ、もらってない」
「くれやしねえや。こりゃいけねえ。皆で行こうぜ。大家が文句言ったら下向いとけ。頭を下げときゃ通り過ぎるんだ。お、いたな、難しい顔して新聞読んでるぜ。」
「大家さん、おはようございます。えーと、申し訳ねえんですがねえ、店賃ならもうちょっと待ってください」
「なに、店賃? 俺が呼びに行くと店賃の催促だと思ってくれるだけ、まだありがてえな。俺もなんな小汚え長屋貸してるんだ。満足に店賃を取ろうとは思ってねえよ」
「ありがとうございます。おう、店賃の催促じゃねえって。みんな、安心して入ろうぜ。なに、あっしらだってね、あんな小汚え長屋借りてるんだ。満足に種賃を払おうなんて了見の奴は、一人もいやしやせん。」
「なんてこと言いやがる。雨露をしのぐ家だ、精出して収めてもらわなきゃ困る。」
「大家さん、お言葉を返すようですがね。露ぐらいならまだしも、雨のしのぎにくい家ですぜ。この間の大雨なんて家にいられやしねえ。おーい雨だ、ってんで、みんな家から走り出た」
「何を言ってやがる。いや、今日呼んだのはそんなことじゃねえんだ。世間ではうちの長屋、変なこと言ってるな。貧乏長屋だとか。」
「へえへえ、貧乏長屋の戸無し長屋」
「なんだその、戸無し長屋ってのは」
「長屋中そろって戸がねえんでさ」
「そんな馬鹿な話があるか。我が国は四分板一枚で締まりとしてある。その締まりがないはずはあるまい。」
あさ美がモバイルを操作して、スクリーンに雨戸が映る。今ではあまり見られない木製だ。
「ええまあ、そりゃ、最初はありましたがね。朝起きてお飯を炊こうたって、燃やす物がねえ。どうしようかって長屋の者で話しまして、じゃあ雨戸からって。」
「おいおい。」
「今みんな、天井裏にかかってます。」
「困るな。家を崩しちまう。第一、不用心だ。泥棒でもへえったら、どうするんだ?」
「泥棒? おおい、うちの長屋、泥棒なんかへえらねえよな。」
「へえるもんか、こっちから出るもの。」
「おい! まあそりゃ、冗談だろうがな。貧乏長屋だなんて、景気が悪いや。ここいらで貧乏を吹き飛ばしてやろうじゃねえか。上野の桜が、たいそうな人出だそうだな。」
「へえ、それじゃあ、みんなで一列になって、上野まで歩いて行きやすか」
「それじゃ、おめえ、小学校の遠足じゃねえか。花見ってのは飲み食いするもんだ。」
「てえと、皆から銭を集めて酒やつまみを買うんですかい?」
「いやいや、おまえさん方に金を出させようってんじゃない。ここにな、一升瓶が三本ある。そこのお重にはカマボコと卵焼きが入っている。」
「へえ、さすがは大家さんだ。これだけの用意をしてくださる。行きましょう、上野の山だろうと寒原山の一気登山だろうが、どこにだって参りやす。」
寒原山の一気登山は海岸をスタートして市境の山頂までの登山を競う、市の内外で名の知れた過酷なレースだ。唐突に地元ネタが出て、一同は爆笑する。
「そんなに喜んでくれると言い出しにくいんだがな、この一升瓶の中身は酒じゃない。」
「焼酎か何かで?」
「いや、番茶を薄めた物でな、色は酒そっくりだろう」
「するってえと、このお重の中身も」
「開けてみな」
「白いのは大根のお新香、黄色いのは沢庵ですかい」
「それらしい大きさに切ってるから、チラ見せならカマボコと卵焼きに見えるだろう」
「大家さん、お新香や沢庵は噛むとポリポリ音がするから、それでバレますよ」
「おう、そんときゃ噛まずに飲みこじめえ」
「命がけですな」
カンナが理解できるように、あさ美のモバイルは大根のお新香、カマボコ、沢庵、卵焼きの画像と説明が写る。悠輔のしゃべりと、あさ美の画面切り替えがタイミング良く進む。
「うまいもんだな」と野口先生はつぶやく。
「そりゃもう、夫婦ですからね」
あさ美は、犬がしっぽを振って主人にじゃれつくような表情になる。カンナはぶーと膨れてみせる。
「えーっとですね。」と悠輔の口調が平口になる。
「今でこそカマボコや卵焼きはありふれた食材ですけど、江戸の昔は、庶民は滅多に食べられない高級食材だったんです。」
悠輔は大家の顔つきに戻る。
「敷物にな、そこの毛氈を持っていきな。」
「大家さん、こりゃむしろだ」
あさ美のモバイルはむしろと毛氈が映る。「むしろとは荒いタタミのような敷物」「毛氈は高級なカーペット」の文字。
カンナは理解できたようでうなずく。
「むしろに見えるか。私が毛氈って言ったら毛氈なんだよ。月番、文句言わずにかつげ」
「大家さん、目つきが行っちゃってますよ」
「逆らわないほうがいいぞ。ほら、来月の月番、むこうの毛氈かつげ」
「やれやれ、とんでもないことになったな。前にもこんなことがあったな。建具屋の婆さんが死んだのは二年前の秋だったな。あん時もお前と俺でおかんを担いだんだ。」
「嫌なことを思い出すな。そういや、三年前に魚屋の爺さんのおかんを担いだのもお前と俺だった。俺たちゃ、そういう星巡りだ。」
「そうれ、威勢良く繰り出していくぞ。花見だワッショイ」
「夜逃げだワッショイ」
「なんてこと言いやがる。」
悠輔の説明が入る
「てな調子で上野の山へ。江戸の昔のことですから、今どきのように徹夜の場所取りが殺し合いになるなんて、物騒なことじゃありません。」
大家の顔に戻る。
「なんでえ、こんな真っ直ぐに毛氈を並べて」
「へえ、一列に座ってみんなで頭を下げて」
「物もらいじゃねえ」
カンナは物もらいが分からない表情になる。悠輔はちょっと考える顔つきになるが、そのまま続けた。
「まあるく敷くんだよ。さあさあ。車座に座って。みんな、お平らに」
「冗談じゃねえ、こんなとこ、お平らにじゃなきゃ足が痛え」
「さあ、飲んでくれ、灘の生一本だ」
「灘ですかえ、宇治かと思っちゃった」
「店も吟味した。駅前商店街の三宮酒保だ。」
「三宮ですかい。酒がどこがいいって、校門前のキク屋」
キク屋は横手高校の前にある菓子屋だ。喫茶スペースが放課後は生徒たちのたまり場になっている。一同は爆笑する。
「そんなとこで酒売るかい」
「ついでくれ。少しでいいぞ。少しでいいって言ってるだろ。押さえつけて注ぎやがったな。お前の時、覚えてろよ。」
「おい、妙な文句を言うな。たんと飲め。」
「しょうがねえな。注いでくれ。おっとっと、こぼしやがって。こぼしたって、もったいねえモンじゃねえもんな。なるほどなあ、色だけは酒そっくりだ。いくら世の中が進んだって、お茶がアルコール発酵するわけがねえ。」
「ううん」と湯飲みを口に当てる。
「ブー」と吹き出す真似をする。
「ちゃんと飲め。おい、おまえは飲まねのか。」
「へへ、あっしは下戸でして」
「下戸なら下戸で、食べるもんがあるだろうが。」
「へえ、じゃあ、白い方で」
「色で言う奴があるか。カマボコか」
「へえ、しんぼこ」
「何だ、それは」
漬物を口にする仕草をする。
「ん、漬けすぎだ」
「黙って食え。おい。おまえも下戸か」
「へえ。それじゃ大家さん、卵焼きを一つ。」
大家の顔の悠輔がニッと笑う。
「今の上手かったな。あっちの方でこっちを見たぞ。おい、卵焼きだとさ、取ってやんな」
「あー、しっぽじゃねえとこを」
「何にもならねえじゃねえか」
「おい、さっきから、みんな、飲み食いしてるが、誰も酔わねえな」
「酔いませんなあ」
「酔っ払って、べらんめえの一つも出なきゃ、花見じゃねえや。ご苦労だがな、おまえ、ひとつ酔ってくれ。」
「大家さん、酔わねえフリをしろってなら出来るが、酔えったって、そりゃ無理だ」
「ああ無理だよ。無理は承知だ。だが、そこを一つ頼まれてくれ。言いたかねえが、これでも随分とおまえの世話をしてるつもりだ。」
「へえ、そう言われちゃ。大家さんにはお世話になってます。じゃあ、ご恩返しのつもりで、ひとつ、酔うことにいたしましょう。」
「ああ、やっとくれ」
「さて、大家さん」
「なんだい」
「つきましては酔いました。ええ、べらんめえ。」
「何言ってやがんでえ。おい、おまえはいい。月番、替わっとくれ。」
「しょうがねえなあ。やっぱ月番のところに回ってきやがる。手ぶらじゃ酔えねえや、その湯飲み、貸しとくれ。」
グッとあおる仕草をする。
「さあ酔った。俺は酔ったぞ。酒飲んで酔ってんだぞ。」
「おい、しつこく言わなくていい」
「言っとかなきゃ、気違えと間違えられちまあ。貧乏人だ、貧乏人だと、馬鹿にするんじゃねえぞ。借りた物なんざ、熨斗つけてけえしてやらあ。」
「いいぞ。花見らしくなってきた。」
「あたりめえよう。ただ、悔しいから店賃だけは払わねえ」
「悪い酒だな」
「さあ、ついでくれえ」
悠輔は湯飲みの中を見つめる。
「大家さん、近々長屋にいいことありますぜ」
「ほう、そんなことが分かるのかい」
仕込んでおいた茶柱をカンナに見せる。
「ごらんなさい、酒柱が立ってます」
一層爆笑
「「長屋の花見」でございます。」
一礼する。女の子たちは大喜びで手を叩く。野口先生も微笑んで拍手する。
二九 美味しいお茶を飲もう
時系列は五月下旬にさかのぼる。
都子は乙原家を尋ねていた。
「ようこそいらっしゃいました。ご無沙汰しております。」
多喜の母、千代が丁寧に頭を下げる。都子は多喜に生徒会の運営を相談するため、何度か乙原家を尋ねている。その際に挨拶ぐらいはしていた。が、千代は旧知の仲であるかのように都子に微笑む。
乙原多喜先輩――乙姫様の母親だなあと、所作の美しさに見ほれた都子は、慌てて頭を下げる。
多喜も美しく、(外見は)大人しいお嬢様然としているが、良家の子女らしさでは母親の方が上だろう。立ち居振る舞いの端々に品の良さを感じる。
「お茶の立て方を教えてほしいとのことで。恥ずかしいお手前しかできませんが、わたくしに出来ることでしたら、微力を尽くさせていただきます。」
留学生に抹茶を飲ませるから、お手前を教えて欲しいとの依頼を、一度は断られたのだ。茶道の先生を紹介すると言う千代に、尊敬する乙原先輩を育てた方にこそ教えを請いたい、と都子は食い下がった。電子メールでアメリカにいる多喜にも説得をお願いし、ようやく受け入れてもらった。
引き受けたからには嫌なそぶりは見せない。千代は物言いが上品だ。カンナに日本人の憐憫を学ばせるには、ここに連れてきたらいい、と都子は思う。悠輔が時々見せる行儀の良さはこの親子の影響だろう。
都子は茶室に案内される。
話には聞いていたが、旧家を感じさせる落ち着いたたたずまいだ。中にいるだけで気が休まる――はずなのだが、銀色に輝くラテマシンが異彩を放つ。
都子の怪訝な視線に、千代は苦笑する。
「変ですよね。多喜がここに置くと言い張りまして。悠輔さんに振られた腹いせです。」
意味が分からない都子は小首をかしげる。
「悠輔さんは抹茶より甘いラテの方が好みなんだそうです。多喜もあれで乙女です。身につけた茶道を捨てても、あなた好みの女になりますと、ラテマシンを買ったのです。ところが悠輔さんはあさ美さんを選びました。
表には出しませんが、よほど悔しかったのでしょう。わざとらしく、ここで悠輔さんにラテを入れました。」
「悠輔くんのことだから、そういう女心は分からないでしょう。」と都子。
千代は微笑む。よく分かりますね、という意味のようだ。
「私も悠輔くんに振られた女ですから」
千代はうなずく。事の顛末を知っているのだ。
「東山さん――美幸さんがおっしゃるとおり、あなたは気持ちの良い方ですね。」
「恐れ入ります」と都子ははにかむ。
無理にお願いしてよかった。良き隣人が増えた、と都子は思う。
とりあえず一連の流れを確認しようと、千代は抹茶を点てる。都子は目を見張った。その所作のすべてが美しい。
千代が都子の前に茶碗を置く。都子はひれ伏した。
「申し訳ありません」
千代は驚いて言葉をなくす。
「私が間違っていました。子供の頃に少し茶道を習ったので、ちょっと教われば真似事は出来るだろうと思っていました。とんでもない思い上がりでした。
乙原さんの美しいお点前は、とても私には真似できません。」
「神楽女さん――皆さんと同じに都子さんと呼ばせてね。どうぞ顔を上げてください。」
千代の声は静かで優しい。
「私のお手前など、まだまだ未熟です。三〇年も続けてこの程度ですから、私には才能がありません。」
「とんでもない。乙原さんの……」
「名字では多喜と混同しますので、どうか、千代、とお呼びください」
「――千代、さんの所作は美しいです。心が洗われるようです。」
「誉めすぎです。でも、そう思っていただけるとしたら、それは都子さん、あなたの心が美しいものを求めているからでしょう。だから私の拙い動作にも美しさを感じるのだと思います。」
「禅問答のようです」
「そのように難しい議論ではありません。お茶の神髄はお客様をもてなす心だと、私は思います。あなたは今、それに触れたから感動したのです。」
「おもてなし……。遠いアメリカから来たカンナを心安らかにするためのお茶」
「そうです。日本を知りたいと欲しているお友達に日本の心を伝える。その目的のためなら、この際、作法からはずれてもかまいません。」
良家の子女そのものに見えるのに、思いの外に大胆な発言をする。この母にしてあの娘ありだな、と都子は思う。
「そうは言っても、茶筅の使い方や抹茶が苦くなりすぎないようにする手法は覚えた方が良いでしょう。あとは、都子さんの思うようにおやりなさい。」
「ありがとうございます」
感激屋の都子は心から頭を下げた。
この日から特訓が始まった。千代は厳しい先生であった。言葉遣いは丁寧で穏やかなのだが、内容が厳しい。作法通りの動作ならば、そうまで辛くはないのろうが、「心遣い」という曖昧なしぐさを求めるため、指先にまで神経を使わなければならない。
(『思うようにおやりなさい』と言ったじゃないか)と都子は思うが、ねを上げなかった。千代の言うことは一々理にかなっていると思えたからだ。
半月はあっという間に過ぎていく。その間に千代はお茶会の準備を進めた。
場所は横手高校の来賓駐車場になった。アスファルトの上に畳と毛氈を敷く。当初は茶室を借りるつもりだったのだが、茶道部からのクレームで使えなくなったのだ。
茶室は柔道場を除けば横手高校で唯一の畳敷きの部屋だ。本来は教職員の当直や休憩に使う名目で作られた。しかし、よほどのことがなければ学校に宿泊などしないので、事実上、茶道部の部室として「茶室」と呼ばれている。だから厳密に規則を適用すれば、茶道部に「休憩室」の使用目的に異議を唱える権利はない。のだが、あえて文句を言い出した。
茶道部員にしてみれば、同好会の活動に部室を明け渡すのが不満だ。曰く、留学生に茶を立てて見せるのなら、日頃から練習している茶道部員にさせるべきだ。素人がいい格好するのは生徒会長の横暴だ、と。
茶道部顧問と野口先生とが話し合うが、折り合いがつかない。日本文化同好会を苦々しく思っている校長は、のらりくらりと会合から逃げた。
話を聞いた都子の母、神楽女高子は、またしても娘をいじめるかと激怒した。それを千代が止めた。
「短い期間とはいえ、都子さんにお茶を教えたのは私です。お弟子さんの困窮を助けるのは、師匠の務めです。」
静かだが強いもの言いに、高子は折れた。
千代は横手高に複数人が訪問する名目で来賓駐車場を押さえた。横手高校の来賓駐車場は乙原家の所有地だから、話はしやすい。五〇年以上も昔のことだが、車社会になって駐車場を拡充するときに契約したのだ。四の五の言うと次の契約更新が面倒になるぞと、乙原家が学校に圧力をかけた。
「野外ですか」と問う都子に、千代は平然と答える。
「野点です。作法にこだわりがないから、今回の趣旨からして、かえって好都合です。器材は全て準備します。雨が降ればテントを張れば済むことです。」
六月はそろそろ梅雨に入る。
「そこまでしていただいては……」
恐縮する都子を千代は制した。
「都子さんのためではありません。横手高校はわたくしの弟子の茶会に異議を唱えました。ここで引き下がっては乙原家の恥になります。
よいですか、都子さん。素人のお遊びと侮った茶道部員たちに、目にもの見せてあげなさい。」
都子は肯きながら生唾を飲み込んだ。旧家を巻き込むとはこういうことか。この人は良家の子女であってもお姫様ではない。厳しい実業の世界で名家を守り抜いてきた実務者なのだ。
「当日はこれを着なさい」
と、千代は脇に置いてあった保護袋を開く。
「縮緬ですか」
「よくご存じですね。この付下げはむかし、私が着ていたものです。多喜に譲るつもりだったのですが、あの子には丈が短いので仕舞いっぱなしになっていました。」
「そんな大切な物を……」
「大した物ではありません。」
謙遜だ。良い着物は年数を経ても色あせが少ない。地味な藍色だが乙原家の所有となれば高級品に違いない。
「学校行事なので、当日、わたくしはご一緒できませんが、これを着ていれば心は共にあります。」
「はい」
都子はそれだけ言うのが精一杯だった。
やがて茶会の日が来た。一念が天に通じたのか、晴天となった。
外来駐車場に二台のワゴン車が止まり、作業服を着た男たちが降りてくると、手際よく畳や毛氈を降ろし、機材を設置していく。何事かと注目する生徒たちや近所の住人たちが見守る中、野点の準備が整っていく。
驚いたことに炉壇は電気やガスではなく、値が張りそうな備長炭が置かれた。作業員はガスバーナーで手早く炭に火をつける。
後に都子は、いくらぐらい掛かったのかと、恐る恐る千代に尋ねた。乙原家は御大尽だけあって金払いがいいと、市内で評判が良いから、今回も奮発しただろう。一文の得にもならないのに。
「大したことはありません。出入りの業者にお任せしただけです。」
千代は口を割らなかった。神楽女観光のコネを使って調べようとしたのだが、乙原家出入り業者のガードは堅かった。衰えたとはいえ、旧家の勢力を見せつけられた都子であった。
乙原家が野点をするとの噂はどこからか広まる。聞きつけた物好きも集まってきて、駐車場は賑わっていく。
並べられていく茶装具は名品なのだろう。作業員が取り出す度に、観客から「おお」とか「さすが乙原家」と言った声があがる。
千代は見物人が増える事態も予想していたのだろう。畳の後ろに並べられたパイプ椅子には「関係者席」と札が貼られ、その周りに支柱とロープを張って野次馬を閉め出した。
準備が整う頃、ガラスに色濃いシールが張られたワゴン車が駐車場に入ってきた。野点の施設に横付けすると、千代が静かに下車してくる。作業員たちは直立して頭を下げる。千代は穏やかに返礼する。
「お世話になります。お仕事を続けてください。今日は高校生の気安い集まりですから、そんなに堅くならないでください。」
優しい言葉に、作業員たちはかえって緊張する。持ち込んだ茶道具は地味に見えるが、価値の分かる人には垂涎の品々だ。
「これ、もしかして織部焼ですか?」
と、作業員の一人は奇妙に曲がった茶碗を見ながら尋ねる。
千代は微笑む。
「よくご存じですね。でも、来歴のはっきりしない安物ですよ。たぶん偽物です。」
それはないだろう。乙原家ともあろう家が、偽者を表に出すまい。本物なら博物館に収蔵されてもよい一品ではあるが。
ほどなく、同好会の一同がやってくる。代表して野口先生が千代にあいさつする。
「このたびはお世話になります」
「いえいえ、わたくしは何もしておりません。」
手間も費用もかかっているのに、千代はこともなげに言葉を返す。
「都子は?」とカンナ。
「車内で着替えています」
と千代は答える。珍しく悪い笑顔になる。着替えは校舎ですればいいと言う都子に、千代は車内で着替えるよう言い渡した。一切学校の世話にはならないという意思表示の他に、何か企んでいるようだ。
「あなたがカンナさんですね。そちらにお座りください。」と畳の客席を示す。
「他の皆様はこちらのパイプ椅子にどうぞ。皆様の分までお茶を用意できなくて、申し訳ありません。」
実はそうではない。人数分の場所や道具を確保するのが大事だったせいもあるが、大人数の茶を点てるのは都子の負担が大きくなってアラが出そうなので、今回は客をカンナ一人に絞ったのだ。が、都子が悪く取られかねない言い方を千代はしない。
「では、わたくしは都子さんの準備を手伝いますので、これにて失礼します。」
静かに頭を下げてワゴン車に乗り組む。
「キレイな人……」
カンナはつぶやく。容姿以上にしぐさが美しい。
周囲もざわついている。「誰だ?」「乙姫様のお母さんだよ、乙原家の奥様。」「何でここに? 前生徒会長は留学中だろ」「バカ、東山の関係者だ。」「またか!」
校内に美人が現れると東山悠輔が絡んでいる。野次馬に集まってきた生徒たちは嫉妬の目を悠輔に向ける。
「座ろうか」と悠輔。
あさ美はうなずき、(気にすることないよ)と言いたげに悠輔の手を取る。生徒たちの視線が厳しさを増す。
「ユウ、じゃあネ」
カンナは手を振って畳に向かう。わざわざ悠輔だけに呼びかけることはあるまいに。生徒たちの嫉妬は更に高まる。
カンナは何をしても絵になる。豊かな金髪が揺れるだけで、近所の人たちからは感嘆の声が挙がる。
当人は気にもしない様子で畳に上がる。が、立ちつくす。どう座ればいいか分からず、戸惑っているのだ。蔵人が駆け寄り「こうです」と正座してみせる。
「ソレは知ッテル。ケド、デキナイ」
盲点だった。慣れないアメリカ人には足首を伸ばして座る正座は厳しいのだ。蔵人があれこれ指図するが、上手く足がたためない。
「無理に正座しなくても大丈夫よ」
ワゴン車から降りながら、都子が声をかける。
その声にカンナから視線を移した周囲は息をのんだ。
地味な柄の藍色の着物は若々しい美形の都子に似合いそうにないのに、日頃と違う優雅な動きもあって自然にまとまっている。見る人が見れば高級品だと分かる縮緬を見事に着こなしている。野外は正解だった。六月に茂る木々の緑に藍色は栄える。
髪は短いので和風に結えないけれど、前髪を上げて形の良い額を見せるのが和服に合っている。
静かに歩いていく。一歩ごとに聴衆からため息が漏れる。日本人形が動いているようだ。これがあの男勝りの生徒会長か。
狭い車内で無理に着替えさせたのは、直前まで姿を見せないで、この効果をねらった千代の演出だ。
「化けるもんだなあ」
思わず悠輔はつぶやく。日頃ならにらみつけそうな台詞を、今日の都子は涼やかに受け流す。
畳に上がり、きれいに膝を落とす。真っ直ぐな正座は凛として美しい。
カンナは斜め座りでモジモジとしている。茶道部員がこれ見よがしに失笑する。カンナはますます縮こまる。
「カンナ、そのままでよいのです。作法に囚われるあまり、おもてなしの心を見失い、茶の湯を知らぬ者など、気にすることはありません。」
言葉遣いは穏やかだが、『茶の湯を知らない』と、あからさまに喧嘩を売られた茶道部員たちは、ムッとしてロープを乗り越えようとする。それより早く動いた蔵人が、両手を広げて立ちふさがる。
無言なのは事を荒立てたくないという意思表示だ。だが、その目は「カンナさんのじゃまはさせない」と燃えている。
「雅なお茶会に無粋だなあ。」
妙に間の抜けた声が響く。
「豊、おまえまた。野球部の練習はどうした。」と悠輔はずれたことを言う。
「ちょっと抜け出してんだ。野球部の連中もここにいるぞ。茶道部の皆さん、この茶会がそんなに気に入らないなら、俺とお茶しようぜ。野球部名物のバケツの水は、美味いぞ」
豊の周りの野球部の面々が、わざとらしく肩を回したり腕を振ったりする。
横手高校の野球部は弱小校なのに練習が厳しく、失神すると頭からバケツの水を浴びせて起こされるとの伝説がある。そんな時代錯誤はとうの昔に廃れているのだが、野球部以外では、本当だとまことしやかに噂されている。それが転じて、大人しい生徒が多い横手高校の中で、野球部だけは荒っぽいと言われる。
それを匂わされた茶道部員たちは下を向くやら顔を見合わせるやら。
「こっちに来なよ。大人しく見物しようや。」
蔵人は(感謝します、先輩)とアイサインを送る。豊は(いいってことよ)と言いたげに右手を挙げる。
悠輔は食い入るように都子を見ている。都子は騒ぎの当事者のくせに、知らん顔で準備を進めていたようだ。そのしぐさはお茶に興味のない悠輔の心すら捉えたようだ。それをあさ美が不安げに見ている。また「お兄ちゃん」を取られると思っているのか。
(まったく、こいつらは)と言いたげに豊は苦笑する。
都子は茶碗にお湯を注ぎ、茶筅を暖めている。その動きは滑らかで美しい。
お湯を戻し、茶杓でお茶をすくい、茶碗に入れる。茶筅は素朴なものだが、明らかに年代物だ。名器と呼ばれる道具に違いない。それを都子は普通に使いこなしている。
釜に水を足してお湯を冷ます。熱湯だと抹茶は甘みがなくなるのでお湯は冷ますものだ。ここは雑な動きになりがちだが、自然な動きに見える。失敗したら囃し立てようと待ちかまえていた茶道部員たちも言葉をなくす。
茶筅でお茶を混ぜる。早い、なのに細かく優雅に見える。長く練習した動きだ。後で、これを一月ほどで習得したと知った茶道部顧問は驚愕し、このときの非礼をわびて都子を茶道部に勧誘した。
都子は静かに答えた。
「我流ですので、皆様の和を乱してしまいます」
言外の皮肉を感じ取った顧問はそれ以上誘わなかった。
それはともかく。
静かなのにリズミカルで強い回転によってお茶に細かい泡が立っていく。これは柔らかな甘みが出ている。知っているものほど飲みたくなるお茶だ。
頃合いやよし。茶筅を浮かし、茶碗の真ん中に持っていき、しなやかに引き抜く。
茶碗を静かに差し出す。
カンナは戸惑っている。どうやって飲めばいいのか分からないのだ。
「飲みやすいように飲めばよいのです」と静かに促す。
カンナはうなずき、両手で包み込むように茶碗を持ち上げ、口に運ぶ。
「美味シイ!」
そのままゴクゴクと飲み干す。作法も何もあったものではないが、もはや笑う者はいない。
「結構なお点前でした」
妙に芝居がかって発音がいい。ドラマか何かで覚えた台詞だろう。さすがに都子は苦笑する。
「お茶菓子も用意したのですが」
「イタダキマス」
カンナは地元有名店の茶菓子を口に放り込んだ。
「コレも美味シイ」
都子は微笑む。お茶はもう少し味わって欲しいが、カンナが喜ぶなら良しとしよう。
「都子、美シイ。着物ステキ。デモ、お茶を入レル体の使い方--エエト」
「所作?」
「ソウ! 所作はモット美シイ。遠くノ日本マデ一人デ来たワタシをなぐさめたい心が伝ワッタ。感動シタ。日本のオモテナシの神髄を見タ。」
「誉めすぎです。でも、カンナが喜んでくれて嬉しい。」
都子は頬を染めた。
三〇 あさ美は告白したい
日本文化同好会、第七回の講師はあさ美が務める。
「本日のテーマは日本のアニメです。」と、カンナと対面のあさ美。
カンナが手を叩く。
「楽しみにシテマシタ。モット沢山、日本のアニメを教エテ欲シイ」
「色々と事情があって、アニメや漫画は取り上げにくいのです」と野口先生。
「大人の事情?」とカンナは小首をかしげる。
「どこでそんな日本語、覚えてくるんだ」
と悠輔は渋い顔。野口先生は苦笑する。
「えーと、面倒な都合はおいといて、話を進めます。アニメと言っても、星の数ほどあります。」と、あさ美。
「ユウの言い方に似テル」と、面白そうに言うカンナ。
「そりゃもう、夫婦だから一心同体」
「同体? 体がツナガッタ?」
「お手々つないで、ね。そりゃもう、野道を歩いてますよ。」
この程度のからかいは、あさ美も受け流すようになってきた。カンナはちょっと不満げ。
「さて、今日はあたしの好きなアニメを解説するわ。カンナも知ってるかしら? 都子さん、入ってきて」
都子が理科準備室に入ってくる。髪型がいつものストレートではなく、後に束ねて折った髪を大きな赤いリボンで止めている。真っ直ぐに立ち、やや見下す目線で静かに言う。
「お可愛いこと」
「オー」カンナは手を叩いて喜ぶ。あさ美は満足げにうなずく。人気作品だから、やはりカンナも知っていたか。都子の髪はちょっと短いので、綺麗に結えないのだが、同じようなガラのリボンをつけると、それっぽく見える。
カンナはキラキラした目で都子を見つめてくる。悠輔と野口先生はアニメを知らないので、何のことか分からず、ポカンとしている。蔵人は恐い印象のある生徒会長とコスプレのギャップに、口をあんぐり開けている。
都子は皆の視線が恥ずかしい。真っ赤になってうつむく。
「だから、やりたくないと言ったのに」
「その仕草もソックリ。都子、生徒会長ダケド、今日ハ副会長。決め台詞、モットお願い。」
野口先生は唖然とする。やっぱりこのパターンですか、と言いたげな目をしている。
「僕はいま突然、急用ができました。あとは会長だか副会長におまかせします。」
止める間もなく逃げ去っていく。
「じゃあ、俺も……」と言いかけた悠輔をあさ美は捕まえる。
「ひどいわ、私たちだけを置いていくなんて。」
と泣き真似をする。いつの間にか手には目薬が握られている。
カンナは大喜びで「乙女の涙」 と言う。漫画やアニメを知らない悠輔は、何のことだか分からないが、泣き落としは利いた。
「分かったから、泣き真似はやめろ」
「では、例の物を」
あさ美に言われ、悠輔は鞄からヘットフォンを取り出す。それを首から下げて、うつむき加減に「帰ります」
カンナは更に大喜び。
「ユウだ。パソコン打ってミテ」
訳が分からず、嫌な表情になりながらも、女子の言いなりになってしまう悠輔だった。渋い表情のまま、モバイルを打つ。
「その顔、ソックリ」とカンナは手を叩く。
「いやあ、予想以上に喜んでもらえて、あたしも嬉しいわ」とあさ美。
「カンナは金髪のロングだから、これね」
言いながら、カンナの髪をサイドテールに結ぶ。鞄から手鏡を取り出し、カンナを映す。
「もうちょっと、目を細めると。はい、近侍」
「まどろっこしいですね」と冷ややかにカンナ。例によって耳コピしたらしいアニメの台詞は発音が正確になる。自分で言って、自分に大受けしている。
「いいなあ、金髪のロング。黒いコートでロシア帽を被るのも、両手が義手の代筆者だって、何でも様になる。」とあさ美。
「あさ美、可愛ラシイ。短い黒髪、美シイ」、お世辞ではなさそうにカンナは言う。
「そうかなあ」
と言いながら、あさ美はポケットから黒い蝶リボンを取り出し、前髪に付ける。
「オー、書記ダ。ゆるふわ巨乳」
「どこでそんな日本語、覚えてくるの。やめなさい、はしたない」ようやくショックから立ち直ってきた都子が言う。
あさ美は胸を突き出して「ドーン」とか言っている。男子二人は思わず見入る。
「やめなさい。男子もいるのよ」
「じゃあ、こういうのはお兄ちゃんと二人きりの時に」
言われた悠輔より、蔵人の方が真っ赤になる。カンナのような美少女のキラキラした笑顔だけでも舞い上がる所に、更に刺激の強いあさ美の言動が加わったのだから、たまらない。
会はあさ美の思惑どおりに進んだ。次々に仕込んでおいたネタを披露していき、その度にカンナは大受けした。
お腹が痛くなるほど笑ったカンナは、息が荒い。カンナが喜んでいるから、止めもできない都子はやや憮然としている。元ネタを知らない悠輔はポカンとしたまま。蔵人はぽーっとしたまま、目つきが定まらない。
「さて、盛り上がってますね。この流れだと、下ネタをやらないわけにはいきません。」
『下ネタ』の意味が分からないらしいカンナはけげんな顔になる。
あさ美はニターッと笑う。
(誰か止めて。野口先生、帰ってきて)
あさ美が何をやろうとしているのか、予想できてしまった都子の心の叫びは虚しく、あさ美の悪乗りは続く。
「クイズ、日本語の問題です。犬の芸で、体を垂直に立てるポーズをなんと言うでしょう? はい、お兄ちゃん。」
唐突に指名された悠輔は、思わず答えてしまう。
「ちんちん」
元ネタを思い出したカンナはクスクス笑っている。
それより反応が大きいのは都子の方だった。御嬢様とまではいかないが、幼児体験で男性不信になり、母親に色恋沙汰から遠ざけられ、この種の言葉を幼児期に使わなかった。だから、恋愛を知り始めた今ごろになって、子供のような反応をしてしまう。
アニメではヒロインが知恵を絞って、その言葉を言わせないようにしたが、都子にはその余裕すらない。
懸命に笑いを堪えているのが見て取れる。予想以上の反応に、あさ美のテンションが上がる。
「次です。路面電車を別名、なんと言うでしょう?」
答えるまでもない。都子は下を向いて震えている。それを見てカンナは大笑い。
「アニメより面白イ」とカンナは大喜び。
あさ美の攻撃が続く。
「フランス語で乾杯をなんと言うでしょう? グラスを合わせる音ですね。」
「鉄瓶のお湯が煮えたって、ふたが立てる音は?」
「物音がせず、静かなことを示す形容動詞は?」
(アニメにない言葉まで調べてきたな)
都子はなまじ知識があるから、意味が分かってしまう。笑いを抑えすぎて息も絶え絶えになる。
「都子さん、そんなにアルメニアの町が好きなんですか?」
「あさ美、覚えて、おきな、さいよ」ハアハアと荒い息で言葉を絞り出す。
「ちょっと、やりすぎたかな。」
言葉と裏腹に、まったく反省している風もない。
「次、いきましょう。住吉くーん、おーい、帰ってきて。例の物を出してちょうだい。」
予想外の展開に呆然としていた蔵人は、言われてはっとなる。手提げ袋からタッパーを取り出し、カンナの机の上で蓋を開ける。中には綺麗に並べられた、たこさんウインナーが入っている。足が八本になっているだけでなく、黒ごまで目を、細切りのニンジンで鼻を付けた、手の込んだ物だ。
「洋食は専門外だから、あまり上手くできなかったけど」と照れ笑い。
「いやいや、上手なもんだ」と悠輔。
八本足は均一の太さだし、目鼻立ちは愛らしい。充分以上に見事な出来映えである。
カンナは目を見張っている。
「カワイイ。アニメで会長ノお弁当に入ってイタ」
「はい、たこさんウインナーです。これは日本人が考えたんだよ。」
「へー」と悠輔。
「ええとね」と、あさ美はポケットから書き置きを取り出す。
「料理研究家の尚道子さんが、子供さんにご飯を沢山食べてもらいたくて考案した、んだって。日本の文化だね。」
「せっかくですから、食べて下さい」
と、蔵人は爪楊枝を取り出す。
「食べるのがもったいないくらい、よく出来てるね」と悠輔。
「オー、「もったいない」、日本ノ美しい習慣」とカンナ。
「そんな大層なもんじゃないです。料理は食べてこそです。どうぞ」
蔵人は爪楊枝をたこさんウインナーに突き刺し、カンナに差し出す。
「アリガトウ」
カンナが爪楊枝を受け取るとき、白い指先が蔵人の指に触れた。蔵人は、はにかんだ。
「美味シイ」塩こしょうの量が絶妙なのだ。
カンナの笑顔に、蔵人はまたポーッとなる。
「じゃあ、あたしたちも頂きましょう」あさ美も爪楊枝を取る。
「ほんと、美味しい」
大きなタッパー一杯のたこさんウインナーがなくなるまで、さして時間はかからなかった。
片付け終わり、あさ美が言う。
「では、本日の最後のイベントです。お兄ちゃんは用意の物を」
悠輔は鞄から硯と筆を取り出す。墨汁を硯に流し、筆を下ろしていく。
「はい、これ」とあさ美は扇子を取り出し、悠輔に渡す。悠輔は扇子を広げて床に置く。床に正座して姿勢を正し、筆を持ったまま息を整える。
しばし瞑目し、目を開くと、扇子にむかう。
磨穿鉄硯
書き終わると大きく息をして、筆を置く。
「お見事!」あさ美が感嘆の声を上げる。
「芝居がかった声を出すな。扇子に書くなんて出来ないと断ったのに、無理に書かせやがって。しかも、こんな画数の多い字を。思った通り、下手だ。破り捨てたいよ。」
「そんなことない。ステキ。」カンナは感激して、あとの言葉が続かない。
「あさ美、これって」と都子。
「アニメではヒロインが会長への誕生日プレゼントに送ったの。ええっと……なんて読むんだっけ?」
「磨穿鉄硯、鉄の硯がすり減って穴があくほどに勉強する、と言う意味の中国の故事だ。勉強家のカンナに相応しい言葉だね。」と悠輔。
「もらって、イイノ?」
「こんな不出来な字でよければ」
カンナは嬉しそうに扇子を手に取る。
「また、謙遜ネ。日本人ノ美徳、理解シタ。コレ、私ニハもったいない、素晴らしい贈リ物。ユウ、大好き。」
カンナは悠輔に抱きつこうとする。が、それを予測していたあさ美の方が早かった。二人の間に割って入る。
「はい、そこまで。カンナ、墨が乾いてないから、くっつくと汚れるし、字が滲むわよ」
カンナは慌てて扇子を机の上に置いた
三一 蔵人、そば打ちを教える
六月最終週の金曜日。
カンナの帰国は次週の月曜日だから、日本文化同好会の活動はこれで最後になる。そう思うとと寂しくなる。
一同は家庭科室に集まった。
「今日はそば打ちです。指導は住吉くんにお願いします。今日のために住吉蕎麦に助けていただきました。皆さん、感謝の拍手を。」
と都子が、締めっぽくなりがちなのを振り払うように明るく言う。
一同の拍手に照れた蔵人は頭をかこうとして、髪が落ちないように手ぬぐいを巻いているのに気がつき、苦笑する。今日は料理人っぽい作務衣を着ている。
「いえ、店で使うそば粉を持ってきただけですから。でも、県内産の新そばですから、美
味しく出来そうです。間に合って良かったです。」
新そばは例年6月末頃から収穫する。それを急いで脱穀、製粉してもらったので、取れたてのそば粉だ。
例年より早く持ち込まれると困る、と製粉所は嫌がった。まだ小麦粉を製粉している時期だから、そばを製粉するためには一度その作業を止めて、粉が混じらないように機械一式を完全に掃除しなければならない。そばを製粉した後は、再び小麦を製粉するために、また機械を掃除することになる。そんな手間はかけられないと一度断られたのを、住吉蕎麦が損金を払い、無理を通してそば粉にしてもらったのだ。
しかし、蔵人はそんなことを言わない。。
「そば打ちの道具を手配してくれたのは神楽女先輩のとこです。そっちの方が大変だった でしょ。」と蔵人。
「そば打ちの体験教室から借りてきただけよ。平日はあまりお客さんがいないから、大 したことないわ。」
今度は都子が謙遜する。神楽女観光が提携しているそば打ち体験教室から、母の高子 が手配したのには、実は費用がかかっている。数を貸し出しすと教室で道具が不足するかも と、持ち出しを渋ったから、高子は保証料込みでそれなりのレンタル料を支払ったのだ。
「私のために……アリガトウゴザイマス」
蔵人も都子も、カンナが気に病むからそんなことを言わないのを感じ取ったのだろう。
「私のために……アリガトウゴザイマス。日本人の心は、察しと思いやり。素晴らしい。」
カンナは涙を浮かべ、頭を下げる。
(それが分かるようになった。随分と日本人っぽくなったわね)と都子は思う。
「カンナ、泣かないの。切り替えて、楽しもう」とあさ美。
カンナはうなずく。
「はじめますね。手順はこれです。」
蔵人は黒板に貼り付けた模造紙を示す。そば打ちの行程を写真入りのフローチャートで 示している。
「それぞれ一人前打ちます。道具と材料は一人一式ずつ、皆さんの前に用意してます。こね鉢にそば粉が入ってます。まずは、そば粉に水を加えて生地を作ります。水も計ってますから、カップ一杯を使ってください。
十割そばは混ぜものを使わないのですが、それだと素人が長い麺を作るのは難しいです。なので、今日はつなぎにトロロ、すり下ろした山芋を用意しました。これも分量は量ってます。水と一緒に混ぜてください。
水とそば粉が均一になるように混ぜるのがミソです。こんな感じです。」
言いながら、蔵人はそば粉に水を混ぜていく。流石に蕎麦屋の息子は手慣れている。
女子たちもキャイキャイ言いながらそば粉を混ぜる。
「均一って、こんな感じかなあ」と言いながら、あさ美が蔵人を招く。
「手早いですね。いい感じです。指でつまめるくらいの大きさにまとまってきたら、こ ねていきます。」
「蔵人、助けてくれ」悠輔が悲鳴を上げる。
悠輔のこね鉢からは粉が飛び出している。その分だけ水が多くなり、まとまってくるはずのそば粉がベチョベチョになっている。
「ちょっと、そば粉を足しますね」
蔵人は予備のそば粉を出して、悠輔のこね鉢に注いでいく。
「このくらいかな。最初は力を入れなくてもいいですから、混ぜ合わせてください」
蔵人の顔が引きつり気味なのを察する余裕は悠輔にない。
(ほんと、体を使うことは、とことん不器用ねえ)
と都子は思う。一所懸命なのがたまらなく可愛い。
いつの間にか悠輔に寄り添っているあさ美が手を添える。
「お兄ちゃん、大丈夫よ。私がついてる」
「うん」と悠輔はあさ美の手を握る。
「惚気るんじゃありません。次の行程に来ますよ」
と蔵人。後輩もこの「夫婦」のテンポにだいぶ慣れてきた。
「信州信濃の新蕎麦よりも、わたしゃ、あんたの側がいい」と節をつけてカンナ。
「名調子ですねえ」と野口先生は感心する。
「どこでそんな日本語、覚えてくるの」と都子。
「はやし立てるより、先生もそば打ちしましょうよ」と悠輔。
「顧問は監督するものので、作業はしません。それに僕は料理が全く出来ません。東山くんより酷い有様になります。」
「コウイウノガ、「開き直り」?」
一同、笑い出した。
「先生、そんなこと言ってると奥さんに愛想を尽かされますよ。熟年離婚。」とあさ美。
「その程度で嫌われるなら、四〇年前に逃げられてます。妻はとうの昔に諦めてます。これでも努力しようとしたんです。けど、僕が料理をすると台所が可哀想だと、妻は僕が厨房にはいるのを阻止するのです。」
(この朴念仁も、たいがい変わった夫婦だろうなあ)と都子は思う。
笑っているうちにそば粉はまとまってくる。
「はい、次はこねます。」と蔵人。
生地の表面につやが出るまで、粉鉢の角でこねる。案外に力仕事だ。女子より体力のない悠輔は息が上がってくる。
「頑張って、もうちょっとよ」とあさ美が手を添える。
蔵人は(好きなだけ惚気てください)って顔をしてる。
一〇分ほどこねると、出来上がる。
「みなさん、ご苦労様。もう一がんばりです。次は伸ばします。」
のし台にそば粉を巻く。その上に生地を乗せて、掌で伸ばして正円形にする。
「この段階では、そんなに薄くしなくていいです。」
蔵人はのし棒を取る。
「これを使って薄くします。中心から外側へ力をかけます。なるべく正円形のまま、均一に薄く伸ばしていきます。二ミリぐらいです。」
この作業も、あさ美は早くて正確だ。女子たちは「上手くのびない」「切れちゃった」とワイワイ言いながら伸ばしていく。
悠輔はここでも不器用ぶりを示した。力のかけ方が変なのだろう、正方形に伸ばすべきなのが三角形に近い不等辺四角形になる。厚みも明らかに偏っている。
「大丈夫よ」と言いながら、あさ美が助ける。
「ごめんね」と悠輔。
「ううん。お兄ちゃんの役に立てて嬉しい。わたしはお兄ちゃんの側がいい。」
「はいはい」、都子とカンナ、蔵人の声がそろう。
「はい、伸ばしたら折りたたんで斬ります」
つきあっていたら、早く作業を終わらせななければならないそばが不味くなる。蔵人は打ち粉をしながら、そば切り包丁の刃が届く長さにそばをたたんでいく。
女子たちは「割れちゃう」「そろわない」とか言いながら、そばをたたむ。伸ばしたそばを上手くつまめない悠輔はあさ美にやってもらう。
「じゃ、切ります、均一の太さに。蕎麦切り包丁は大きくて重いですから、手を切らないように気をつけてください。」
同じ道具を使っても、切り方に違いが出る。ちゃっちゃと綺麗に包丁が入るのはあさ美。均一になるようにと丁寧で時間が掛かるのが都子。細かいことは気にしないとばかりに、太くて不均一なのがカンナ。丁寧にしようとしているのだろうが、真っ直ぐに包丁が入らないのが悠輔。
「性格が出ますねえ」と野口先生はつぶやく。
悠輔はシュンとなる。
「これは失敬。東山くんが一所懸命なのは伝わります。」
(先生、それは慰めるどころか逆効果です)
都子はハラハラする。
「真面目にやってるんですけどね」と悠輔。
「落ち込まないで。いきなり出来るわけがない。お兄ちゃんが出来ないことは私がすればいいんだから」
「うん」
手を取り合わんばかりにして見つめ合う二人。
(一々仲良しを見せつける。いい加減、腹立ってくるな)と都子は思う。
「そこの御夫婦、次に行きますよ」
と蔵人。悠輔が何か失敗する度に、あさ美が優しい声で慰める。やってられるか、となるのも無理はない。
「蕎麦を茹でます。今回は一人ずつ大鍋を用意しました。お湯は煮えてますね? 量もありますね?」
各自から「はい」と返事がある。
「じゃあ、麺を入れてください。すぐにゆであがります。一分ぐらい、太めのは二分ぐらいです。茹であがったら鍋を空けて、蕎麦をざるに受けてください。そしたらすぐに水道水で冷やしてください。」
それぞれが鍋に麺を入れる。その間に蔵人は手早く自分の麺をざるに移す。
「こんな感じです」
「おお」と一同から感嘆の声が挙がる。均一で美しい。食べるのがもったいないほどだ。
蔵人は見て回り、長箸で大鍋をかき回す。
「神楽女先輩のは細いから、もうよさそうです。火を止めてください。お湯を捨てるとき、熱湯に気をつけてくださいね。」
都子は大鍋をひょいと持ち上げ、ざるが設置されているシンクにをお湯をあける。
「先輩、けっこう力持ちですね」と蔵人。
大鍋は女子には重いだろうから手伝おうとしたのだが、都子には無用だった。
(それなりに鍛えているのよ)
都子は微笑む。蔵人のほどではないが、綺麗な麺がざるに入っていく。
続いてあさ美も大鍋のお湯を捨てる。こちらは悠輔が手を添えている。
「あれ? 切れてる。」
あさ美のは所々でちぎれて短くなった麺が混じっている。
「いや、最初でこれなら上出来です。僕なんて酷いもんでした。」
そう言われても、あさ美は不満げだ。料理で都子に負けたようで嫌なのだろう。
「東山先輩もの、そろそろいいかな」
蔵人の顔がちょっと堅い。太さも混ぜ方も不均一だから、判断がしづらいようだ。
悠輔はあさ美に手伝ってもらい、大鍋をひっくり返す。男の割に力がない。
ざるに受けた麺は短くちぎれている。こね足りないのか、つなぎの山芋を混ぜ損なっているのか。蔵人は、下手だと指摘も出来ず、どうフォローしたらいいか困っている。
「いいよ、慰めてくれなくても」と悠輔。
「口に入ればみな同じ」とカンナ。
「お残しは許しません」
即座にあさ美が突っ込みを入れる。カンナとハイタッチして喜ぶ。しかし、二人の他は誰も元ネタを知らないのできょとんとしている。
「出来上がりですか?」
と野口先生が声をかける。
「はい。蕎麦自体の美味さが分かるのはざる蕎麦だと言われてますが、今日はあえて、かけ蕎麦で食べましょう。」と蔵人。
ぼろぼろの蕎麦も出来るのを予想して正解だった。短い蕎麦はざるでは食べにくい。
「つゆは用意してます。うちの店のですから、味は確かです。」
蔵人は丼にそばつゆを注ぎ分け、各自に渡す。蔵人だけ、丼を二つ用意する。麺を半分に分け、一つは野口先生の分だ。
野木地先生は辞退しようとするが、蔵人は制する。ここで顧問だけ食べない方が気まずくなる。
「それぞれの蕎麦を入れてください。今日は蕎麦が主役ですから、具材はなしです。」
各自、自分が打った蕎麦を入れる。
「これで完成です。さあ、食べましょう。」
蔵人は手を合わせる。
「いただきます」
皆、後に続いて唱和する。
「美味シイ」
とカンナが感嘆の声を上げる。あさ美、都子も同じように喜ぶ。
「美味しい蕎麦の秘訣は三たてと言います。挽きたて、打ちたて、ゆでたて、の三つです。今回はそれに収穫したばかりの蕎麦の「取れたて」が加わった四たてです。他じゃちょっと食べられません。」
皆が喜んでいる。手間をかけた甲斐があったというものだ。
「味は悪くない。自分が苦労して作ったひいきが入ってるからだと思うけど。とはいえ …」
悠輔の蕎麦は短くちぎれているから食べにくい。
「取り替えようか?」とあさ美。
「いいよ。でも、食べ比べはしようか?」と悠輔。
「はいはい、間接キスでもなんでも、好きなだけしてください」
仲良しをこれでもかと見せつけられた蔵人の口調は、先輩に対する経緯が薄まっている。当の二人はからかわれようがお構いなしで二人の世界に浸っている。
(悔しいけどお似合いね)と都子は思う。
振られても悠輔は好きだし、子犬のように従順なあさ美は可愛い。
掛け蕎麦一杯はすぐに食べ終わる。食器を片づければ今日はお仕舞い。日本文化同好会の活動も、実質終わりだ。一同は静かになっていく。
「ユウ、そばノ落語、話せる?」
とカンナはお笑いに話を振る。しんみり終わるのが嫌なのだろう。
「とき蕎麦?」と悠輔。
カンナはうなずく。
「なんですか?」と蔵人。
「お兄ちゃん、教えて」と、あさ美も興味深げに悠輔を見る。
噺を知っている都子は黙って微笑む。
「じゃあ、時間もないから要所だけね。蕎麦屋に代金を払う噺なんだ。江戸の昔の掛け蕎麦は一杯が一一文。その代金に一文銭を出していくんだ。」
と噺家っぽい顔つきになる。
「『いいか、一文ずつ渡すからな。数えていくぞ。一、二、三、四……おい、いま何時
だ?』
『へえ、もうじき八つ時ですかな』
『九、一〇、一一。』
これを聞いた男が『上手いことやりやがったな』と、真似しようとする。
『よし、払うぞ。一緒に数えてくれ。一、二、三、四、五、六、七、八……おい、いま何時だ?』
『へえ、五つ時ですな』
『六、七、八、九、一〇、一一』」
蔵人は吹き出した。
「うちの店でも気をつけます」
「私、やってみたい。蔵人、ダマされてくれる?」
カンナに見つめられて蔵人は赤くなる。
「カンナさんなら、特別に……」
「えー、ずるい。私も一緒に行きたい。沢山注文するよ」とあさ美。
「いや、それはちょっと」
真顔で困る蔵人に一同は笑い出した。
(カンナは明るくていい子だ)と都子は思う。おかげで明るく終われた。
三二 野口先生、悠輔を心配する
そば打ちが終わった後、、野口先生は悠輔を理科準備室に誘った。
真面目な野口先生がいつも以上に真摯な口調で語りかける。
「東山くん、そろそろ進路を考える時期だね。どうするつもりだい?」
悠輔は痛いところを突かれた顔になる。
「いえ、まだ決めかねています。大学で日本史を勉強したいけど、僕は英語がダメなので文系には進めないかな、とも思います。入学試験が……」
入試科目に英語のあり、科目が少ない私立大学はまず無理だろう。試験科目が多い国立大学の方が総点での高得点を狙える。理科の成績も良いから、二次試験で英語がない大学が多い理系学部の方が入試は楽だろう。
「英語が苦手だと、理系は入学してから苦労するよ。」と野口先生は苦笑する。
「自然科学は、どの分野でも英語の論文を読まなければならない。まあ、学術論文は難しい構文じゃないから、辞書を片手に時間をかければ、何とか訳せるだろうが。
僕の聞きたいのは大学の先、どんな仕事をしたいかだよ。」
「分かりません。とりあえず、大学に入ってから考えようかと思ってます。」
「まあ、そういう方法もあるな。けど、何学部に進むかで、それを生かせる職業は決まってくるよ。」
野口先生は一呼吸置いた。
「君さえ良ければだけど、理科の教員にならないか?」
「先生ですか、理科の……」
「君は向いていると思う。失礼だが、君はそれほど頭が良くない。体を使うことにも向いてない。タケノコ掘りや蕎麦打ちは出来なくてもたいしたことはないけど、一事が万事だ。ようりょうも良くない。」
酷い言われようだが事実だ。悪意が全くない真摯な野口先生が言うと、受け入れざるを得ない。
「なのに学業は成績優秀だ。沢山勉強しているからだ。どこが間違えやすいか、どうすれば正解にたどり着くのか、人より時間をかけて、自分の力で把握している。欠点を補ってあまりある、君の美点だ。それは人にものを教えるとき、絶対的な武器になる。
更に言うと、君の真理を探究する姿勢は、社会科より、理科の教員の方が適任だ。
君が日本史を好きなのは知っている。けど、これからの日本史は、たぶん、君の嫌いな瓜生先生のような考え方が広がっていくと思う。悲しいことだがね。」
野口先生はいったん言葉を切る。
「瓜生先生の、「大東亜戦争で日本はアジア解放のために戦った」の支持者は、校内に広がっているのだよ。」
「あれだけやっつけたのに?」
と悠輔は驚いた声を出す。同好会で瓜生先生をやりこめたと噂されているのは、巡り巡って悠輔本人の耳にも届いている。論争はあれで終わったと思っていた。
「あれは少人数の会合だからね。そもそも瓜生先生を排除するための策略で、「日本は正義だった」を論破した訳じゃない。
自分の国を誇りに思うのはいい。しかし、そのために自分に都合の良い歴史だけを取り上げ、都合の悪い事件は隠したりねじ曲げるのは間違っている。けど、人間は弱いからね、国粋主義を心のより所にする誘惑に、容易く負けてしまう。
どこの国にも恥ずかしい失敗はある。自国のそれだけを知ろうとしない生き方は、楽だよ。
戦争の悲惨な記憶は段々に薄得ていく。反対に、「正義の戦争」を叫ぶ勇ましい勢力が多くなっていく。だから、この学校でも瓜生先生を慕う生徒が増えている。」
野口先生はため息をつく。
「分かるかい。君が生きていくこれからの日本は、君の嫌いな歴史観が強くなっていくんだ。日本史を職業にすると、真面目で節を曲げない君は苦しむよ、僕以上にね。」
自身が真理を追究してきた野口先生の飾らない言葉は、説得力がある
「これから先は、年寄りの繰り言だ。気に入らなければ聞き流してくれ。
君は僕に似ている。数学や物理で、納得できるまで証明式を細かく分解して、正解まで数式を組み立てていく勉強方法とか、僕の学生時代にそっくりだ。
僕には子供がいなくてね。けど、君を見てると、息子を愛おしむとは、こういう気持ちなのだろと思う。頑張っているの姿がけなげで、助けてあげたくなるんだ。」
「僕が、先生の息子ですか?」
「こんな冴えない年寄りを、嫌だったら無視してくれ。僕が勝手にそう思っているだけだから」
悠輔は首を振った。
「自分で言うのも恥ずかしいが、僕は教育者として、精一杯の努力をしてきた。報われないことも多かったが、後悔はない。」
野口先生は真っ直ぐに悠輔を見る。苦労も多かったろうに、強い人だ。
「しかし、僕の努力が僕の死とともに消えるのは、寂しくて仕方がない。」
悠輔を見る目に力が加わる。
「東山くん、僕の後継者になってくれないか。真理を探究する尊さを、より多くの若者に伝える使命を引き継いで欲しい。」
悠輔は考え込んだ。
「先生の言葉は胸にしみます。けど、考えさせてください。あさ美やカンナに対面で教えるのはともかく、親しくない人と接するのが好きではない僕に、教員が勤まるかどうか。
正直に言います。好きなことばかりをしてきたから、興味のないことはまるで出来ない。タケノコ掘りで思い知らされました。蔵人だって初めてだったのに、色々なことに興味を持って、何でもやってみる積極性があるから、応用が利いて適応できる。僕なんて体を動かすことはまるで出来ない。家で座ってればご飯が出てくる有り難さを考えたこともないから、そばの打ち方なんて見当もつかない。
そういう自分のダメさが見えてきたから、自分に出来る仕事なんかないんじゃないかと、将来を考えるのから逃げ出したくなりました。先生の提案は魅力的ですが、本当に僕に勤まるものかどうか、悩みます。」
野口先生は微笑む。
「悩みたまえ。それが青春、若さの特権だ。僕で良ければ、いくらでも相談に乗るよ。
三三 カンナの帰国、多喜の帰還
カンナがアメリカに帰る日が来た。地元の空港から関西空港に飛び、そこから国際線に乗り換えてアメリカに渡るのだ。
都子の母、神楽女高子は関西空港まで案内すると申し出たが、カンナは断った。空港や電車の表示は読めるようになったし、道を尋ねるくらいの日本語は話せると。
それでも、女の子の一人旅は危険だと言われたカンナは微笑んだ。日本の治安は最高に良い。アメリカに帰ってからの方が、よほど危ない、と言う。
では、せめて地元空港まで見送りたい、との申し出は受けた。都子、悠輔、あさ美、蔵人も同行するとなれば、断る理由がない。カンナも別れが寂しいしいのだ。
偶然の一致で、その日は多喜が帰国する日であった。カンナと入れ違いに地元空港に到着する。それならと、帰りは多喜を神楽女観光のミニバンに乗せることになった。入れ替わりで会えないのをカンナは残念がったが、仕方がない。
豊も送り迎えに行きたがったが、部活をさぼれないので断念した。野口先生も学校行事が重なってしまった。
「おまえって、つくづく女に囲まれる星巡りなのな。」と豊。
「替わってもいい」と悠輔。
「遠慮しとく。女がらみだと知れたら野球部の連中が黙ってない。それにカンナと乙原先輩に恨まれたくない。国際ラブコメ男め。」
「俺は一生、日本人で結構だ」
ともあれ、神楽女観光の社用車は空港へ。
最後まで世話を焼きたかる都子や母親を制し、カンナは自分で搭乗手続きを進めた。荷物の預け入れは日本人でも間違えることがあるのに、カンナはきちんとした日本語で受け答えをした。その流暢さに、航空会社の担当者の方が驚いた顔になる。
この少女は金髪碧眼だけど、ネイティブな日本人なのか?
カンナは日本文化同好会の一人ずつと握手して言葉を交わしていく。最後は悠輔。
「ありがとう。ユウには助けてもらった。」
「俺は何もしてない。カンナが努力したんだ。日本語だって、随分と上達した。俺なんて、英語がまるで上達しない。」
「日本人がよくする謙遜ね。ユウは素晴らしい人。もっと自慢していい」
「名残惜しいが、これでお別れだ。元気で。」
悠輔が差し出す右手をすり抜け、カンナは悠輔に抱きついた。
あっけにとられ、ぽかんと開きかけた悠輔の口に、カンナは自分の口を押しつけた。そのまま舌を入れる。悠輔の息が止まる。
周囲は呆然として見つめる。
やがて息が出来なくなった悠輔は顔をそらし、咳き込む。
「格好悪い」カンナは楽しげにつぶやく。抱きついたまま続ける。
「『名残惜しい』、綺麗な言葉ね。ユウ、アメリカに来て。格好良く、この続きを決めてちょうだい。」
「離れろぉ」、ようやく我に返ったあさ美が、公共施設にあるまじき大声を上げて二人を引きはがしにかかる。カンナはスルリとあさ美の手をすり抜け、搭乗口を超える。
「待て、この泥棒猫」
追いかけようとするあさ美は空港職員に阻まれる。
「ご搭乗の方以外は、ここから先には入れません。」
「にゃーん」カンナは楽しげに左手で猫耳ポーズを取る。可愛い。
「あさ美、今日のとことは、ユウは君に返してあげるにゃ。でも、油断大敵にゃん。じゃあね。」
にこやかに手を振る。悔しいけど美しい。
カンナは、まだぼーっとしている悠輔を見る。
「ユウ、Catch you later!」
振り返り、搭乗口を駆けていく。
「あの淫乱め。この怒り、どうしてくれよう」とあさ美。
「照れ隠しよ。」と都子
「気がつかなかった? 振り返ったとき、カンナ泣いてた。しんみりするのが嫌だったのね。あさ美、そんなに怒らないの。アメリカンジョークよ。」
「冗談ですまない。お兄ちゃん、しっかりして」
悠輔はまだ目の焦点が定まらない。ボーとした声で答える。
「あさ美、大丈夫だ。猫は可愛いけど、俺は犬派。」
「ワンワン」あさ美は悠輔にしがみつく。
神楽女高子はあきれ顔でつぶやく。
「アメリカ人は過激ねえ。このお嬢さんもひとまえで大胆な。都子、あなたは、はしたない真似をしないでちょうだい。」
「したくても出来ないわよ。あさ美は、ちょっと特異なの」
「今度、ゆっくり説明しなさい。これでも母親ですからね、あなたのことを一番に考えてる。だから、お友達も気になるのよ。」
「分かっています」
カンナへの対応で、母親を見直した都であった。
蔵人は真っ暗に落ち込んでいる。
「カンナさんは、やっぱり東山先輩が好きなんだ。」
「住吉くん、しっかりしなさい。あれは冗談だから」
「そうよ。お兄ちゃんはあたしのもの。誰にも渡さない。」
都子とあさ美の言葉など、聞いちゃいない。
「東山先輩ばっかり。そりゃ、先輩は頭が良くて格好いいよ。でも、女の人をみんな持ってっちゃうのは非道い。僕だってカンナさんに好かれたいんだ。微笑まれて、舞い上がって、バカみたいじないか。」
ブツブツと独り言をつぶやく。
「悠輔くん、ちょっと、取りなしてよ」と都子
悠輔はまだボーっとなったままだ。
(だめだ、こりゃ)
見かねて高子が皆に声をかける。
「乙原さんの飛行機が到着するまで1時間ほどあるわ。お茶にしましょうか。」
コーヒーを3杯も飲み、ようやく正気に戻ってきた悠輔は尋ねる。
「ところで、都子、さん。カンナは最後になんて言ったんだ?」
呼び捨てにすると母親が怒りそうなので、さん付けにする。それに気づけぬふりで都子は答える。
「やっぱり通じてなかったか。『Catch you later』、「またね」、って、スラングよ。カンナ、最後に地の言葉が出たのね」
「アメリカに行く予定はないな」と悠輔。
「『俺は一生日本人だ』ね」と都子。
「日本にいましょう」
と、あさ美は悠輔の腕をつかむ。蔵人は何度も首を縦に振る。
ほどなく、多喜が到着する。
蔵人は目を見張る。これが噂の「乙姫様」か。高校三年生のはずだが、幼顔なので中学生と言われても信じるだろう。なのに凜々しく見える、不思議な印象を受ける美少女に見惚れてしまう。
その視線を受けた多喜は蔵人に軽く微笑み、皆に会釈する。
「ただいま帰りました」おしとやかな声も美しい。
「お帰りなさい、多喜姉さん」
顔を合わせるなり、多喜は悠輔にスッと近寄り、首筋に顔を寄せる。
「何?」
「悠輔、久々に会ったら、女の香りがします。あさ美の匂いではありません。私の知らない子ですね。肉感的な、アメリカ人にありがちな……。
短期留学生のアメリカ人ですね。随分と仲良くなったようで。何があったのですか?」
悠輔は慌てる。カンナの残り香? そんなに匂うはずがない。どういう嗅覚をしているのだ。
「何もない。カンナとは何もない。」
多喜はじっと悠輔を見つめる。この目は恐ろしい。やってないことまで白状させられる。
「都子、助けてくれ。たいしたことしてないよな。」
「さあ? お別れのとき、抱きつかれて、熱~いキスまでしたわね。」
多喜の瞳に冷ややかさが加わる。
「一方的にされたんだ。その後、すぐにカンナは出発ゲートをくぐったの、都子も見てたじゃないか」
蔵人が口を挟む。
「そうでしたっけ? 東山先輩も積極的だったじゃないですか」
(ありゃりゃ)
と都子は思うが、もう遅い。余人には分からぬほどの変化だが、多喜の視線に怒りが加わった。
(とはいえ、キスされたとき、カンナを抱きしめ返しておきながら、「何もない」なんて嘘をついた罰ね。少しは恐い思いをしてもいいか)と思い直す。
「何か様子が変なのでカマをかけたら、ボロを出しましたね。あさ美というお嫁さんがいながら、美幸母さまが悪阻で苦しんでいるときに、あなたという人は。さあ、どんなお仕置きをしましょうか。」
「お姉ちゃん、お兄ちゃんはみんなのために、カンナに親切にしてあげただけ。あれはその感謝。優しくて素敵なお兄ちゃんを、女の子が好きになってしまうのは、仕方がないことよ。」
さっきまでカンナに怒っていながら、悠輔がお仕置きされるとなれば、途端に悠輔を庇うあさ美であった。
「あさ美、そうやってあなたが甘やかすから、悠輔が成長しないのです。」
(よく言うわ。いちばん悠輔くんを甘やかす「お姉さん」が)
「悠輔の躾け方を教えてあげます。一緒に来なさい。」
「お兄ちゃんは、多喜ねえちゃんには従順……」
「はい。あなたもそうなりなさい。夫婦円満の秘訣はかかあ天下です。」
「あさ美、勘弁してくれ。おまえまで強くなったら、俺は気の休まるところがない。
多喜姉さん、女が強い国に行ってたからって、やり口が過激だ。折檻も激しくなったんじゃないよね?」
「確かめてみますか?」
悠輔は引きつった。蔵人はあっけに取られている。
高子はどう反応していいか分からない顔になる。
「都子、乙原さんと祐輔くんも特異な関係なの?」
「ちょっとね。今度説明するわ」
と都子。説明は難しいけど。
「神楽女さん」多喜はまっすぐに高子を見る。
「はい」おしとやかだが凛とした声に、高子は思わず背筋が伸びる。
「お手数をかけます。悠輔とあさ美も、宅までお願いします。」
幼顔で静かな口調なのに、言葉に力がある。都子は、母が引き込まれていくのを感じた。
(了)




