番外 絶対無音感
東山悠輔の小学校三年生、一学期の通知表は音楽が一だった。古式ゆかしい五段階評価の最低である。
成績表を上から見ると、国語五、算数四、理科五、社会四の好成績である。
苦手な体育でも三。徒競走は毎回ビリの身体能力の低さからすれば、好成績と云ってもいい。下手でも真面目に運動する姿勢が評価されたのだ。
それ故に、その下の音楽が一なのは目立つ。教師の評価欄には、授業態度が良い、理解できるまでキチンと勉強する、といったほめ言葉が並んでいる。なのに音楽の成績が悪いことには触れられていない。匙を投げられているように感じる。
東山悠輔、九歳にして人生最初の失墜--とはならなかった。出来ないんだからこんなものだろうと思っている。そもそも音楽なんて、訳の分からないチンチャラの意味が理解できない。
母親の美幸に至っては「これはまた、極端な」と呆れはしたものの、「音楽は中学までしかないから、いいんじゃない」。
危機感を抱いたのは、姉代わりというか、母親っぽく世話を焼きたがる乙原多喜だった。終業式の日に東山家を訪ね、悠輔を音楽教室に通わせるよう説得した。
「悠輔は本ばかり読んで友達と遊びたがらない子です。子供のうちに音楽で情操を育てないと、大人になって人付き合いが出来なくなると思う。音楽教室に通わせてでも、きちんと出来るようにしてあげましょう。」と、美幸に訴えた。
この子は本当に小学四年生か? 大人びた理屈を穏やかに言う多喜に感心しつつ、空恐ろしさを感じる美幸であった。
「そこまで大袈裟なことかしら。」
「真面目でよく勉強するから成績の良い子が、この年でまったく出来ない科目があるのは、普通ではありません。専門家の指導で矯正しましょう。」
「誰にでも苦手はあるし…………」
日頃から多喜に悠輔の世話を焼かせている引け目がある美幸は歯切れが悪い。多喜は更に言葉を重ねる。
「苦手だと手をこまねいているより、努力をすべきです。美幸母さまはお忙しくて、悠輔に習い事もさせていないでしょ。お習字とかそろばんとかはわたくしが教えてますもの。
楽器の一つも出来れば、将来のためになります。教室にはわたくしが付き添いますから。」
「多喜ちゃんにはお世話になっているし、これ以上は……。
肝心なことが抜けているわ。悠輔、おまえ、音楽教室に行きたい?」
「いや、僕は家で本を読んでいる方がいい…………」
「悠輔、好きなことばかりをしていては立派な大人になれませんよ。嫌なことにも挑戦してみなさい。」
(これじゃどっちが母親なんだか)。美幸の心中を知ってか知らずか、多喜は話を進めた。近所の音楽教室の夏休み体験教室の申し込み用紙を取り寄せ、渋る美幸を説き伏せ、嫌がる悠輔を強引に連れ出した。
「人様の子供さんにそこまで干渉するものじゃない」と、多喜の母の千代が諭した。が、祖母の良久の「多喜の好きにやらせておきなさい」の一言で沙汰止みとなった。
夏休みの音楽教室は賑わっていた。楽しげに楽器の練習をする子供達の中で、悠輔は憮然としていた。強引に多喜に連れ出されたので、音楽を学ぶ意義を納得していない。
乙原家とつながりが出来ると喜んだ音楽教室は、生徒が多い中で個人面談のブースを用意した。もっとも、小さく仕切った部屋にピアノを入れてるから、講師と悠輔、付き添いの多喜が入ると狭苦しいが。
「初めて楽器を扱う段階から教えて欲しいとのことで、初級のテキストを用意しました。」講師が広げた冊子の、最初のページには、五線譜にソの全音符が三つ並んでいる。
「これを吹いてください」
悠輔は左手に学校の教材のソプラノリコーダーを持つ。右手に持った鉛筆で五線譜の一番左を下から押さえていく。
「ド、レ、ミ、ファ、ソ……。ソ」
鉛筆を机に置き、両手でリコーダーを持つと、指を一本ずつ指穴に載せていく。全部の穴が塞がっているのを確認して「ド」 。右手の小指を外して「レ」。薬指を外して「ミ」。
「ファが難しいんだ」と言いながら、中指を外して「ファ」。
「ええと、次がソだ」と言いながら、右手を開いて「ソ」。
リコーダーをくわえて息を吹き込む。ブースに短いが大きな音が響く。
悠輔は右手に鉛筆を持つと、五線譜の真ん中の全音符を挿す。また下から「ド、レ、ミ、ファ、ソ」と押さえていく。同じ作業を繰り返して、ソを吹く。
三番目の全音符も同じことを繰り返す。
講師は顔が引きつるのを懸命に押さえた。リコーダーの指押さえが分からない初心者はいくらもいるる。五線譜の音符が読み取れないのもあるだろう。だが、同じ音が三つ並んでいるのに、なぜ一つずつ音を確かめなければならないのだ?
「悠輔くん。君、もしかして目が悪いの?」
悠輔は首を振る。
「右、左とも二・〇です」と多喜が答える。
遠視で見えにくいのかな?
「よく見えます」と悠輔。
「三つ、同じ音が並んでいるのは分かるよね。同じソを三回吹けばいいんだ。」
「なぜ?」
何を言っているのか意味不明という顔をする悠輔に、講師は絶句した。
講師の説明に、悠輔は「なぜ?」を繰り返す。話がかみ合わない。表現力と語彙の少ない子供の説明をまとめると、「隣の音符と同じかどうか、一つずつ五線譜の下から確認しないと判別できない。目的の音符を集中して見ないと確認出来ないから、隣と同じ高さか見る余裕はない。」と言いたいらしい。
「今日は最初だからね。段々慣れていくよ」言いながら、講師は自分の顔がこわばっているのを自覚した。面倒な子を引き受けてしまった。
「もう一度、最初から吹いてみよう」
悠輔は同じ作業を繰り返す。が、取り違えてファを吹いた。
「ちょっと待って。「ファ」じゃなくて「ソ」だよ。さっき吹いたじゃない」
悠輔は怪訝な顔になる。講師は悠輔の鉛筆を取って、自分で音符を押さえる。「ミ、ファ、ソ」だよ。
「「ド」からじゃないと分からない……」
「じゃあ、自分でやってごらん」
悠輔は五線譜を押さえていく。今度は五線譜の一番下を「ファ」と取り違え、「ラ」を吹こうとする。明らかに集中力を失っている。というか、さっき「ソ」を吹いたことをどうして忘れるのだ?
「いや、「ラ」じゃなくて「ソ」だよ」
「どっちだって、いいじゃないか」悠輔の小さな呟きを音楽家の聴覚は聞き逃さなかった。
「違うでしょ。」講師はピアノを叩く。ファ、ソ、ラ。
「それが分からない」
「?」
「先生、悠輔は音の高い低いが分からないのです。ドレミファソラシド、全部同じにしか聞こえてません。心地よい音楽と耳障りな不協和音の区別がつきません。」
多喜の説明に、講師は今度こそ引きつった。「絶対無音感……」
音感がないと言う子はいくらもいる。ないのではなく弱いと言うべきだ。そういった音痴はこれまで何人も教えてきた。だが、音階そのものが理解できないとはどういうことだ。どう音楽を教えていけばいいのだろう。
「と、とりあえず、音譜を読む練習をしよう。繰り返して練習すれば、きっと慣れるよ。」
慣れなかった。月、水の週二回、音楽教室に通っても、悠輔はテキストの最初から進まなかった。ようやく「ソ」が吹けるようになったものの、音階が違う音符が並ぶと、途端に最初の段階に戻る。簡単な一小節を吹けるようになるためには、体が覚えて勝手に指が動くようになるまで練習しないといけない。
三週間目には悠輔は疲れ果てた。それ以上に講師の方が疲労困憊していた。悠輔の間違いに講師はつい語気が荒くなる。悠輔は泣きながら調子外れの音を出し続けた。
多喜は理解した。悠輔は苦手と感じると適応力がなくなる。音楽の場合、音階が感じられないと思い込むと、そこから抜け出せなくなる。これ以上、音楽を続けても不幸になるばかりだ。
音楽教室をやめると美幸が告げたとき、講師はホッとした顔になった。
多喜は美幸と千代に謝った。
「ごめんなさい。私が間違っていました。悠輔を苦しめて、みんなに迷惑をかけました。」
「謝っても済まないことがあるのですよ」と千代。
泣きそうな顔になる多喜に美幸は声をかける。
「なにごとも経験よ。悠輔の面倒を見てくれる多喜ちゃんには感謝してる。これからも、悠輔をお願いね」
多喜は美幸に抱きついた。
「ごめんなさい。これからはもっとよく考えてから行動に移します。」
美幸が多喜の嗚咽を聞いたのはこれが最初で最後だった。美幸は多喜の頭をなぜる。大人びていても、可愛いところもあるな。
千代は事の次第を良久に報告した。
「『なにごとも経験』か。さすが東山の奥さんだね。忙しくて家庭を顧みる暇もなかろうに、押さえどころを知っている。」
良久は鷹揚に肯いた。
「母さん、こうなることを予想していたのですか?」
「ある程度はね。悠輔が音楽を苦手なのは知ってるよ。音楽教室で楽器が出来るようになれたら良いことだね。失敗すれば多喜の経験値になるから、それはそれで良し。多喜は何でも出来る優等生だけど、人を育てるのは難しいと、これで良く分かったろう。」
「人様の子を使って、非道くないですか」
「お忘れかい。悠輔は私のお気に入りだよ。あんな可愛い子はいない。だから、みんな悠輔を大事にしすぎさね。人生は苦しいことばかりだって、たまには学ばなきゃ。もっとも、これで多喜が更に悠輔を甘やかすんじゃないかとも思うけどね。」
(了)




