24話 飛躍の時
――地に、影が差した。
「…………っ!」
ゴシゴシ、と乱暴に目を擦り、蓮也はおそるおそる顔を上げていく。
まず目に入ったのは、黒。この不可思議な世界を埋め尽くす、どす黒いそれではない。漆黒で、されど美しく光る一色。
ぼんやりとしていた目の焦点が、次第に鮮明になっていく。
そして、ようやく脳が眼前の光景を認識した時、蓮也はぐっと目を見開いた。
自らよりも遥かに巨大なその姿。それは、あの黒竜に似ていた。蓮也が儀典の間で遭遇し、自身の妄想だと思っていた、あの竜に。
「……ほ、本……物?」
まったく同じだ、と断定できなかったのは、仕方のないことだった。ずっと背に乗っていたため、蓮也は黒竜の全身を見ていないのだから。
だが、その時に顔を見ていれば、きっと判別できたであろう。
なぜならこの黒竜には、とある特徴があったからだ。黒竜に、というよりもその顔に装着されているもの。
モノクル……とでも言えばいいのだろうか。黒竜は、己の右眼を完全にそれで覆っていたのだ。
『立て』
モノクルに覆われた右眼とは違い、黒竜の左眼は露わとなっていた。深淵なる大海を思わせる、一切の不純無き、群青。その深みのある瞳が、蓮也をじっと見下している。
竜の表情など分かろうはずもない。だというのに、蓮也にはその顔がどこか不機嫌そうなものに見えた。脳内に響く声に反発することなく、言われた通りにおずおずと立ち上がる。
――それを認めた瞬間。黒竜は唐突に上体を逸らすと、天に向かって咆哮を上げた。
静寂とした世界に反響する、竜の哮り。その途轍もない声量に、ビリビリと震える大気。
草木がざわめき、吹きすさぶ強風が蓮也を襲う。
立っているのがやっとの状態。蓮也は両腕で己の顔を庇いながらも、しかし目を閉じることはしなかった。
陽の光が降り注ぐ空の下。大地に降り立ち、天へ向かって咆哮を上げる一匹の西洋竜。その姿は猛々しく、そして、美しい。
まさしくそれは、幻想。
一瞬でも目を逸らせば、黒竜の姿はなくなってしまうんじゃないか。そんな思いから、蓮也は気圧されながらも必死で耐えていたのだ。
『覚悟があるのなら……』
刹那、黒竜の体から紫電の光が弾け飛んだ。かと思うと、蓮也の眼前に漆黒の輝きが降臨する。
怪しげな色を放ち、宙に浮遊する球体。一切の迷いはなく、まるで誘われるかのように、蓮也の左手はすっと伸びていく。
『受け取れ』
そしてついに、蓮也の手の先が球体に触れた。より激しく輝く、漆黒の光。
ドクン、と脈打つ身体。指先から、温かいなにかが流れ込み、全身を駆け巡る。
むず痒くも、どこか心地よい感触。
『……それが、お前の契約武装』
球体が、徐々に形を変えていく。
丸々としたフォルムは、長く、細身に。大きさは、蓮也の身の丈に迫り。その先端は鋭く尖り、陽光に煌めく流麗な黒刃が姿を現す。
『それがお前の……心の形だ』
蓮也の手中に収まるは、一本の槍。
華美な装飾はなけれど、凡庸なものとはどこか違うと思わせられる、そんな黒槍。
「……これは」
蓮也は、それに見覚えがあった。かつて手にし、一度は己の武器として振るったそれに酷似しているのだ。
『……さて、これで契約は完了だ。オレの名は<シークファート>。気は進まないが、一応お前を乗り手として認めてやる』
「シーク……ファート」
告げられた名を、静かに繰り返す。
ふと、ここで蓮也は疑問に思った。
この物言いはまるで――。
「この声は……シ、シークファートが?」
『……今更それか? 間抜けめ』
黒竜――シークファートが、呆れたようにフン、と鼻を鳴らす。
『まあいい、さっさと背に乗れ。敵さんも、長々とは待ってくれねえぞ?』
「……で、でも……」
……いきなりそんなこと言われたって。
逡巡する蓮也。そんな様子を見て、シークファートは苛立たしげに眼を細めると、なにも言わずにその姿を消した。
「あ…………」
霧散する、光の粒子。
――まさか、失望された?
言い知れぬ不安が、大挙して押し寄せる。
が、その鬱々とした気持ちは、すぐさま吹き飛ばされた。
蓮也のいる足元が、唐突に光る。地に描かれるは、漆黒の六芒星。
それを認識した瞬間、蓮也の体はグッと引っ張られるような感覚を覚えた。
「うわっ!?」
蓮也の身を叩きつけるように、風が駆け抜けていく。
目に映るのは、目まぐるしい勢いで変わりゆく景色。
そう、蓮也は――シークファートの背に乗り、空を飛んでいた。
『悠長に説明してる暇はねえ。オレが言うことを、すぐに覚えろ!』
「……お、おう」
飛行している、という事実に蓮也はどぎまぎしつつも、慌てて返事をする。
『まず、今のオレとお前は、リンク状態にある。細けぇことは省くが、つまりは互いに繋がりがあるってことだ。この状態にある限り、お前にはオレの力が流れる。体力、防御力、風への抵抗、その他諸々だ」
なるほど、と頷く。道理で、これほどの強風の中でも平気でいられるわけだ。それに、さきほどから力が湧き出てくるような感じがする。
『そしてお前からは、活動するためのエネルギーがオレに供給されるわけだが、それは無尽蔵じゃねぇ。お前からの供給が途絶えた時、オレは姿を保っていられなくなる』
「そんなっ!」
思わず、声を荒げる。
それはつまり、そのエネルギーとやらが尽きたら、シークファートは二度と姿を現さない、ということではないのか?
『ああ、勘違いするなよ。なにも、一度尽きたらそのままってわけじゃねぇ。お前が体を休ませりゃ、回復していくだろうよ。そうなったら、またオレを呼べばいいだけの話だ』
その答えに、ホッ、と安堵の息をつく。
だが、そして、と続けたシークファートの言葉に、蓮也は身を固くすることとなった。
『くそムカつく話だが、今の俺は自由に飛ぶことができねぇ! お前が、オレを動かせ!』
「動かすって……どうやって?」
『すでに経験してるだろうが! お前が思うように飛びゃいいんだ! ……チッ、来るぞ!!』
「うぉっ!?」
シークファートの言葉が聞こえた瞬間、蓮也の頭上をなにかが掠めた。
振り返れば、そこにいたのはやはり、暴走体。
しかし、ギチギチと鋭い歯を鳴らすその黒い影は、先程屋上で蓮也を襲ったのとは違う個体だ。
自然と、槍を握る手に力が入る。
『んな雑魚に時間をかけんじゃねぇ! さっさと攻撃しろ!』
シークファートの鋭い声。と同時に、暴走体が唸りを上げて突っ込んでくる。
しかし、だ。蓮也はろくに戦闘などしたことのない素人である。
攻撃しろ、などと言われても、相手に向かって槍を突き出すことしかできなかった。
結果――。
黒竜と、暴走体が交差する。
一拍の間をおいて、ツー、と蓮也の頬から血の線が垂れた。
対して、暴走体は全くの無傷。
『そうか、その槍は……』
シークファートが苦々しげに呟きを漏らした。
今しがた起きたできごと。それはまたしても、不可解なものだった。
知性を感じさせない動きで、ただただ本能のように突っ込んできた暴走体。
それに対し蓮也は、愚直に槍を突き出した。
そして――槍が消えた。それを見た瞬間、蓮也の脳にあったのは驚きの感情ではなく、やはり、という確信と、なぜ、という疑問だった。
声を上げるまもなく、蓮也は暴走体の突撃をもろに受けた。
普段であったら絶命してたであろう一撃。にも関わらず、頬が少し切れただけで済んだのは、先の説明にあった「力が流れる」というおかげだろう。
むしろこの程度の軽傷だったというのは、僥倖ともいえる。
その頼もしい力に、蓮也の冷静さが戻る。
「……この槍は?」
意味ありげな反応を見せたシークファートへと、蓮也は問いかけた。
『契約武装ってのは、ただの武器じゃねぇんだ。担い手によって、種類も効果も変わる。さっきその槍が消えたのは、それの効果によるもんだが……詳しくはオレも知らねぇ』
改めて、いつの間にか手中にある黒槍を見やる。
……消える槍、ね。
しかし、一時だけこの槍が消えなかった時がある。それは、この槍を手にした二度目の時。最後の吶喊をしかけた時、この槍の感触は確かに手にあった。
――消える条件でもあるのだろうか。
『しょうがねぇ、攻撃だけはオレがやってやる。ちっとエネルギーを多めに使うがな。お前は、飛行にだけ専念してろ』
「分かった」
短く答え、暴走体へと向かう。
そして、相手が行動を仕掛ける前に、シークファートがブン、とその強堅な爪を振るった。
その素早い攻撃に為す術なく消滅していく暴走体。
思わず、凄い、と感嘆の声を漏らした蓮也だったが、それはシークファート自身によって否定された。
『クソッタレ! やはり弱くなってやがる!』
……弱くなった? あれでか?
蓮也がその真偽を確かめるよりも先に、怒声が響く。
『さっさと動かせ! まだ終わってねぇぞ!』
それもそうだ、と蓮也は地面ギリギリの低空を飛行し、移動をはじめた。
その間も、決して下を見ようとはしない。否、見れない。いかに竜の背といえど、いや、だからこそ普段以上に高所が怖いのだ。
移動する蓮也達を見咎め、複数の暴走体が襲いくる。
だが、それらは皆、またたくまに黒竜の爪の餌食となった。
向かうは、舞のいた場所。
いかにこの空間が広くとも、舞を見つけるのは容易いことだった。
なによりも、彼女と、そのラールが放つ、白銀という色は目立つことこの上ない。
『もっと高く飛べ!』
脳内に響く声に、渋々と従い、高度を上げる。
シークファートの狙いは、蓮也も分かっていた。舞の上空に位置するように浮遊している一匹の暴走体。なぜあの場に留まっているのかは知らないが、あちらが動かないのなら、近づくしかない。
その直前、チラリと舞に視線を向ける。
驚いているのか、彼女は目を見開きながらじっと蓮也の方を見ていた。
……よかった、無事だった。
それを確認すると、蓮也は一気に飛翔した。未だ動きを見せない暴走体。すぐさま距離を詰め、シークファートがその爪をもってして決着をつける。
――舞の元に行こう。
行って、まずは謝る。彼女は一体、なんと反応してくるだろうか。蓮也はそれが少し不安で、けれど少しだけ期待もしていた。
『上になんかいやがるな……』
シークファートの声が聞こえたのは、そんなことを考えていた時だった。
「……上?」
言葉に釣られ、空を見上げる。
すると、確かにそこには、黒い紐状の物体がいくつも連なっているのが見て取れた。
直後――上空から落下してくる、黒い影。
『あれは……ちっとまずいな』
「まずいって……なにが?」
『あの攻撃だ。喰らったら今までのようにはいかねぇぞ』
よくは分からないが、そう言うのなら従っておこう。
そう考え、蓮也が黒い影の落下コースから避けようとした時だった。
『間抜け、よく確認しろ! 下の奴も射線上に入ってやがる!!』
下の奴――つまり、舞か!
それを聞いた蓮也は、思わず真下を見下した。……そう、見てしまった。
視線の先には、確かに舞の姿があった。が、蓮也の目には、もはや地面しか映っていなかった。
――落下していく自分。迫りくる地面。
それが、現実のものではないと、分かってはいる。だが、幻視せずにはいられない。なにもできずに落ちていく自分の姿を。大地に叩きつけられ、ぐったりと倒れ伏す己の姿を。
全身はまるで石にでもなったかのように、硬く、動かすことができない。
汗がじんわりと滲み、ハッ、ハッ、と呼吸が速くなっていく。
やはり、払拭できるものではなかった。完全に、地面を見てしまった自分の失態だ。
『なにやってやがる、迎撃だ! さもないと……』
シークファートの怒声で、蓮也は無理矢理に上空を仰ぎ見た。
すでに、黒い影は目前にあった。それは、毒々しい色を明滅させており、後数秒をもって蓮也に着弾するだろう。
迎撃は出遅れ、不可能。回避する時間もないし、できない。
来たるべき衝撃に備え、蓮也はギュッと目を瞑った。
――その時だった。
ピィィイイ! という笛の音のような高音が、戦場に響き渡ったのは。




