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陸軍少年学校物語  作者: 崎ちよ
第7章  神無月「体育祭」
48/81

第48話「許すまじ!」

「車懸り!?」

 次郎は一瞬足を止める。

 三中の十騎。

 大将と参謀であるボブ二騎を中心にして周りを八騎で囲んでいた。

 その迫りくる陣形はまるで四枚羽の回転するプロペラ。

 その羽の部分は二騎。

 それは衛星画像で見る台風のような動きをしている。

 次郎とサーシャは当たった瞬間、敵は止まることなく突進してきた。

 一枚の羽根が当たると、止まることなく次の一枚が回ってくるのだ。

 彼らに一撃を入れた二騎が大将を中心に反時計回りに動き、そのまま通りすぎた。そして、すぐに次の羽である二騎が次郎達に迫ってくる。

 彼はその陣形を看破したがもう遅い。

 サーシャと次郎はそのプロペラに飲み込まれる。

 右翼にはじかれるように間合いをきる。

「あんな難しい動きを」

 そうとう練習したに違いない。

 なにせこの陣形はタイミングが難しい。

 大将とボブはただ前進しているだけだが、周りの八騎は前進しながら回転していた。

 四人一組の人間騎馬だからできる芸当なのかもしれない。

 乗馬している人間は格闘戦だけに集中し、騎馬は一定のスピードを守り、決められた軌跡描くことに専念する。

 自分の役割を認識し、忠実にやるべきことにやる。

 恐るべし、男クラの団結。

 恐るべし、男クラの規律。

 そんな三中騎馬隊が目指す目標は、幸子が指揮をする水鉄砲隊十名だった。

 それを迎え討つ幸子は鉄砲を構える方陣は動きを止めている。

 ――敵の後ろに主力が追いつくまでがまん。

 覚悟を決めた幸子。

 スッと手を挙げる。

 一〇メートル、八メートル、六メートル。

 水鉄砲の間合いに入った。

「撃てぇ!」

 幸子のよく通るアルトの声が響く。それと同時に、三つの水しぶきが飛んだ。

「次っ!」

 間髪を入れずに二列目が射撃した。

 目の前に迫った騎馬が崩れる。

 間合いは三メートル。

「次っ!!」

 幸子が叫ぶと同時だった。

「突き崩せ!」

 三中の大将が叫ぶ。

 倒れた騎馬の後ろから迫るもう一枚の羽、それと幸子たちは騎乗槍の間合いに入っていた。

 水しぶきが外れた。

 突き込んだ三メートルはある長槍が方陣に向かう。

 二列目の女子――楓――の胸に吸い込まれるようにそれが伸びてきた。

 ――やられる。

 楓は瞬間的に観念してしまった。

「もらったあ!」

 頭ではなく胸の風船を狙ってしまうのは、哀しい(ダン)クラの(サガ)かもしれない。

 一列目の鉄砲は込める動作も間に合わないまま、陣形を崩している。

 迫る槍の穂先。

 彼女は目を閉じてしまった。

 ……だが、衝撃はない。

「楓ちゃん!」

 そう叫んだ一列目にいた男子が敵に背を向けていた。

 彼は彼女の肩に手を置いたまま動かない。

 ヘタリと地面にアヒル座りをする楓。

 彼女は何が起こったかわからないまま、自分に覆いかぶさるようにして立っている男を見上げた。

 へしゃげている男子の頭上の風船。

「俊介……」

 楓はかすれた声でつぶやくようにしてその名前を呼んだ。

「よかった……無事で」

 ガサッと俊介は片膝を地面に落とした。

「……なんで」

「僕は弱いけど、いつまでも好きな女の子に守られてばかりじゃ……ね」

 彼はそのままぐらりと、横に倒れていった。

 楓が抱きかかえようとするが、俊介は手で制する。

 そりゃそうだ、抱きしめてしまうと、楓の胸の風船が割れてしまうからだ。

「俊……介」

「……」

 彼は楓の手を離れ、そして地面に倒れてしまった。

 何度も言うが、このFWB――風船割りバトル――はそういうルールである。

 すなわち、風船割れたら倒れ込んで、会話禁止。

 なんとも言えない空気が戦場を包む。

 だが、その空気は一瞬で消し飛んだ。

 叫び声が響いたからだ。

笑止(ショウシ)イイイ!」

 天を見上げて怒気を放ったのはボブだった。

「神聖ナ戦場(イクサバ)ヲ汚ス破廉恥行為!」

 涙目の楓がギッとボブを睨みあげる。

 声は出さずに(カタキ)を見据えた。

「サア大将! 蹴散ら……」

 ボブが固まる。

 自分の大将の異変に気付いたからだ。

 手を目にかざし硬直している。

「ま、眩しい……」

「タ、大将!」

 騎馬軍団全員が止まっていた。

 こんな愛の劇場、目の前で見せられたらもう硬直するしかない。

 これも哀しい男クラの性であった。

「オノレ! 卑怯ナ」

 ボブが叫ぶ。

 もちろん返答はない。

 代わりに幸子の「撃て」という声。

 なんだかさっきとは違って棒読みである。

 水鉄砲が騎馬軍団に向けさく裂した。

 ビシャーと放たれた六連射が大将に命中し彼は崩れ落ちる。

「シイイイイイットオオ!」

 ボブの叫び声で我に返る男クラ騎馬軍団。

 すぐに回転運動を再開し、頭上から長い槍を振りかざしすぐさま幸子を討ち取った。

 もちろん胸の風船を割る。

「下がれっ!」

 そう叫んで男クラ騎馬軍団の右翼から斬り込む次郎だが、回転運動は止まらない。

 水鉄砲でもう一騎はやったが、楓をはじめ、緑や風子まで討ち取られてしまった。

 言うまでもなく胸の風船を狙われたわけだが、なぜか風子は頭である。

 これも哀しい男クラの性。

「ちくせう!」

 飲み込まれる幸子鉄砲隊を救うこともできない自分に歯噛みしながらサーシャは間合いを切った。

 次郎もそれに習う。

 主力が回り込むまでの時間稼ぎ。

 それが幸子鉄砲隊とサーシャ、次郎の斬り込み隊の任務だ。

 そう簡単にやられるわけにはいかない。

 ふたりは任務を優先した。

 次は主力が背後を襲いかかるまで、注意を自分達に向けさせなければならない。

「君達ガ囮デ主力ヲ回シテイルコトハ! 百モ承知二百モ合点ナノダ!」

 そう高らかに宣言するボブ。

 躊躇することなく、やられた大将に代わり指揮をとっていた。

「蹴散ラスダケガ脳デハナイノダ! 間合イヲキッタコトヲ後悔スルガヨイ! 騎馬鉄砲!」

 スッと手を挙げるボブ。

 回転を止めた車懸りの陣。

 一斉に彼らは自分を抱えている左の騎馬役に長槍を渡す。そして、右の騎馬役から水鉄砲をもらった。

「武器は一人一個!」

 抗議の声を上げる次郎。

 審判は赤白の旗をパタパタと下に向け交差をくり返した。

 問題なし。

 ということである。

『はい、審判長です、ただいまの行為は武器の受け渡し、武器ふたつを同時に持ったところを確認できていませんので、ルール違反ではないと判断します』

 放送の声は風子の同部屋の先輩で学生会副会長の長崎ユキ。

 武器を同時に二種類もってはいけないルールであるが、落ちていたり人から譲り受けたりすることはオッケーなのだ。

 武器を持っていない左の騎馬役に槍をわたし、鉄砲を抱えていた右の騎馬役からもらったから問題ないということらしい。

 騎馬軍団は七騎。

 三枚羽で回りながら迫る車懸り。

 少し強くなりつつある風で砂埃が舞った。

 有効射程の五メートル間合いには入っていない。

「撃テ!」

 ボブが手を挙げたままそう言うと、騎馬軍団は回転を止める。すると彼らは斜め四五度に銃口を上げ、一斉に水鉄砲を放った。

 強風。

 追い風が騎馬軍団を抜けた。

 水しぶきが風を受け、大きく散り、まるでシャワーのようにしてサーシャと次郎に降りかかる。

 二人は素早く斜め後ろにバックステップしながらなんとか避けたが、水は被服を濡らすぐらいにかかったてしまった。

 致命傷ではない。

 彼らの頭や胸の紙風船はカサカサと音を立てながら健在していた。

 騎馬軍団はシュコシュコ空気を詰めている。

 間合いをきったまま、近づけない二人。

 そのときだ、次郎が片手を上げたのは。

「あの、アームストロベリーさん質問いいですか」

「ボブ・アームストロングダ」

 いきなり名前を間違える質問に対し、紳士的な態度で答えるボブ。

 挑発に乗らない、それくらいの余裕はある。

「アームストロングダさん」

「アームストロング」

 ちょっとムッとした。

「もうアームなんとかさんでいいんですが、もしかしてそちらさん、弱くないですか?」

 ムッとした。

「ワガ騎馬軍団ト車懸カリノ陣ハ無敵デアール」

 そう言い切るボブ。

「いや、でもこっちは圧倒的に少数だったのに、損害はそっちが十二でこっちは十ですよ」

「ダカラ?」

「いや、だから」

「ゴチャゴチャウルサイ! シャラープッ!」

 わざとらしい日本語発音の英語である。

 ボブの心の乱れの現れかもしれない。

 ちょっと気付いてしまった。

「そっちが四倍だったのに」

「数ハ関係ナイ」

「正面からあたり負けてるし」

「負ケテナイモン」

「かわいくいってもだめ」

 なんて二人で言い合っている間に騎馬に踊りかかるひとつの影。

 サーシャ。

 彼女が跳んでいた。

「うらあああ!」

 スパコン。

 脳天一撃、一騎が崩れる。

 ふわりと着地するサーシャ。

 Tシャツと短パンから伸びる白い腕と足が眩しい。

 臨戦態勢を維持したままのサーシャは低い姿勢で次の得物を狙おうとする。

 騎馬軍団もぼーっとしているほどやわではない、すぐにボブ以外の三騎がサーシャを囲もうとした。

 だが、動かない。

 じりじりと緊張した面持ちの騎馬軍団。

 サーシャはその視線の強さに一瞬怯む。

 三騎といっても一二人である。

 二十四の瞳がガン見しているのだ。

 ガン見。

「な、何?」

 どうも視線が痛い。

 次郎も何か気付いたらしく、あっちに走ってこっちに戻ってきたと思うとサーシャの前に立った。

 手には次郎がサーシャと同時に脱ぎ捨てたはずだったジャージの上着。

「いいから着てくれ、文句言うのはその後、あと、理不尽に『スケベ』とか言ってぶん殴るのなし、そういうの期待していないから」

 目をそらしながらジャージをサーシャに被せる次郎。

「チャックもちゃんと閉めて」

「……?」

「いいから」

 騎馬軍団ブーイング。

 ぶーぶー。

 観客席からもブーイングがちらほらでている。

「……どうした? ジロウ」

「どうもしていないから、君は『スケベ』とか言って俺を殴ったり蹴ったりしなければいいの」

 念を押す。

 押すなよ、押すなよ、絶対に押すなよ……と言っているわけではない。

「……あ」

 サーシャは視線を落として自分のTシャツを確認してしまった。

「落ち着け」

「あああ」

 水に濡れた彼女のTシャツ。

「拳は握るな」 

「あああああああ」

「悪いのは俺じゃない! あっち! 俺じゃないから、俺じゃ!」

 そう言いながら彼女の蹴りと拳に注意を払う次郎。

 散々理不尽な目を経験している彼はじゅうぶん学習していた。

 顔を真っ赤にして透けた部分をギュッと両腕で隠す。

「はやくチャックしめろって」

 透けたブラを隠すにはそれが一番いいのだが、顔を真っ赤にして羞恥に打ち震えているサーシャはまともな行動ができずに固まっていた。

 次郎のいつもの感覚からすれば、彼女はここから飛び跳ねて騎馬軍団と自分を蹴散らすはずだと思っている。

 だが彼女は顔を真っ赤にしてペタンとその場に膝を折って座ってしまった。

 そしてキッと次郎を睨みあげる。

「……」

 顔が真っ赤だ。

「……だから、悪いのは俺じゃないし、いいから蹴るな」

「……」

 よくよく見ると彼女の瞳は潤んでいる。

 公衆の面前で気付かないまあ透けたブラを晒していたのだ。

 そりゃ恥ずかしい。

 だが、彼からするとサーシャがそういう反応するところを見たことないものだから、ちぐはぐした感情を持ってしまった。

「許すまじ!」

 サーシャではなく騎馬軍団のひとりが叫んだ。

「許すまじ!」

「許すまじ!」

 連呼する他の騎兵たち。

「男女混合のクラスはこんなラッキースケベな生活を送っているなんて」

「許すまじ!」

 男の嫉妬ほどみすぼらしいものはないが、彼らはそんな羞恥よりも怒りが勝っていた。

「許すまじ!」

 水鉄砲をぶっかけて恥ずかしい格好をさせたのはこいつらなのだが。

「許すまじ!」

「許すまじ!」

「うらやまし!」

「許すまじ!」

 ほの暗い炎が瞳にうつる男クラ騎馬軍団。

 なんか混ざっていたが気にはしない。

 次郎はそんな彼らに向き直る。

「男子女子がいるクラスだっていろいろ苦労があるんだ」

 次郎の頭に、楓の抗議する顔や風子の淡々と話した顔が浮かぶ。

「気遣いだってなあ」

 三中のように体育会系のノリでいけたらどんだけ楽だっただろうか。

「俺はあんたたちのようなバカでやってける男の団結が羨ましい」

 次郎がそう言う。

 もちろん男クラ騎馬軍団は食いついてくる。

「贅沢は敵だ!」

「女子の生足だけでも珍しいのに」

「女子のTシャツ姿だけでも美味しいのに」

「ブラなんて雑誌以外で見たことないのに」

「女子の匂いいいい!」

 男クラ、心の叫びであった。

 全員の視線が次郎に注がれる。

「待テ、挑発二乗ルナ!」

 ボブが叫ぶ。

 次郎がニヤリと笑った。

「でも、いい人生経験はしている」

 そう言った彼は、あの楓の作った蜂蜜レモンの味を思い出していた。

 風子の笑顔が浮かんだ。

 そして野中の声が聞こえた気がした。

「イイカラ戦エ!」

 叱咤するボブ。

混乱する騎馬軍団は残り六騎二十四名。

「もう遅い!」

 次郎ではない。

 後ろから京が叫んでいた。

斉射(セイシャ)撃て!」

 回り込んだ主力二十八名。

 うち十名の水鉄砲隊が一斉に放った。

 狙いは全員同じ。そして狙い通り目標の風船に命中した。

 騎手ではなく、その下の騎馬役。

「馬ヲ狙ウトハ卑怯ナ!」

「卑怯も何も、騎馬兵は馬を潰すってのが一番手っ取り早いってのが源平合戦以前からの常識だ」

 京がそう答える。

 解説ご苦労様ですというところだろうか。

 騎馬軍団の馬は三人一組だが、うち一人でも欠けるとバランスが悪くなる。

 槍を振り回しながら突撃するような大立ち回りはできるはずもなく、動けずにただオロオロするばかりだ。

「なあ京、こいつら正面から普通にあたったら勝てたんじゃ」

 ジト目を騎馬軍団に向けながら大吉が言う。

「……かもな」

 京がうなずく。

 とはいうものの、幸子鉄砲隊やサーシャと次郎が戦っているうちに騎馬兵の弱点を見つけたのも事実なので、一概に無駄とは言えない。

 が、結果だけみると誰でも気付きそうな弱点だった。

 弱点と言うか欠陥というか。

「ま、とりあえずやってしまおう」

 空気の充填が終わった水鉄砲隊がもう一撃を加えようと一斉に構える。

「撃て!」

 京が号令をかけると、さっきと同様に一斉に水が放たれた。

 命中。

 命中。

 ことごとく騎馬にあたり、半数の騎馬がひとりだけになってしまった。

 ルールにのっとり風船が割れた者は崩れ落ちる。

 騎馬と騎手、ふたりきりになった組はひとりが肩車する状態だ。

「……なあ京、あいつらいつまであれを続ける気なんだ」

「……しー」

 口に人差し指を当て京が制する。

「せっかく気付いてないんだから、そっとしといてやれ」

 騎馬を解体して普通に戦えばまだ勝機――男クラは体力優秀なものが多い――があるにもかかわらず、騎兵に固執している男クラ軍団。

 京はまた手を挙げる。

 戦機は今。

「突撃!」

 京が叫ぶと、手に得物を持った二中精鋭一八名がフラフラ騎兵に躍りかかった。

 一方この好機に次郎は動けない状態だった。

「全員目ん玉くり抜いてやるっ!」

 そう叫び確実に相手の目に向かってスポンジ剣を突き出そうとしていたのはサーシャ。

 恥ずかしさから今は回復、困ったことに怒りモードに移行したようだ。

 もちろん風船以外を狙って危害を加えることは重大な反則、スーパーレッドカード、一発退場どころか試合終了、はい負け、お疲れさんといったペナルティである。

 だから、後ろから次郎に羽交い絞めされ足をバタバタしている。

「落ち着け!」

「はあ? このエロ坊主たちに怒りの鉄拳を」

「物騒だから、やめて」

 苦笑いの次郎。

「乙女の(ミサオ)を……」

 がぶり。

 サーシャが次郎を踏み切ろうとして手にかみつく。

 声にならない声を上げるが、次郎は離さない。

 反則負けになった日には、目も当てられない状況になるからだ。こうして彼は意地でもサーシャを確保する。

 そんなサーシャがいきなり大人しくなった。

 ふと、会場のあるモノを見つけてしまったからだ。

 会場の中にひときわ目立つ、外国の軍服を着た長身の男。

 その髪はサーシャと同じ金色だ。

「どうした?」

 急にシュンとなった彼女の変化にさすがに次郎も心配になった。

「……」

 何も答えないサーシャ。

 戦場は砂埃を上げながら、乱戦になっている。

 騎馬を捨てればいいと気付いた男クラも時すでに遅く、劣勢を挽回するほどの数は残っていない。

 最後のひとり。

 すさまじい動きで一中の三人を立て続けに倒して最後まで抵抗しているボブ。

「あんた、こんな状況でも背中を向けねえな」

「……」

漢気(オトコギ)見せてもらった」

 大吉は三人で正面からボブを追い詰めていた。

 多勢に無勢でも決して下がろうとしないボブの勇気。それに対して大吉は少し心が動いていた。

 大吉は容赦ない最大限の一撃をうちこみ、彼の風船が割れた。

「勝ったぞー!」

「っしゃああ!」

「やったあ!」

 誰となく叫び声が上がり手を挙げて、抱き合って一中の学生達は勝利を喜んでいた。

 サーシャの変化に呆然とする次郎はスッと絡めていた腕をほどいた。

 視線を落としたままのサーシャ。

 勝利に沸く学生達。

 楓も俊介に抱き着いて喜んでいた。

 風子と緑、それから幸子も飛び跳ねて喜んでいる。

 はじけるような歓喜。

 トボトボと戦場を後にする三中。

 そんな喧噪が収まったころ、サーシャはひとり集団から消えていた。



ロシア(あっち)とは違うんだな」

「……」

「大人しい妹殿と思っていたが、この間は日本のいわゆるオタク文化に浸っていると思えば、今日は凶暴なふるまいをしている」

「……何が言いたいんですか?」

「いやいや、兄としては妹殿の違った側面が見えて」

「……」

「楽しそうで何よりだ……だが帝国貴族の子女というには振る舞いがな」

「……」

 サーシャは黙る。

 この国の文化が……とかそういう言い訳をしようと思ったが、日本文化を自分と同等ぐらいは知っている兄である。

 そんな言い訳が通じるわけがない。

「申し訳ありません、ミハイルお兄様」

「責めているわけではない」

 帝国子女云々言ってたくせに、とサーシャは思う。

「元気な妹殿の姿を見れて、素直にうれしいと思っただけだ」

 年の離れた兄の皮肉たっぷりの言葉。

 躾全般が厳しいゲイデン家。

 物心ついたころから兄の命令は絶対だった。

 あの国では家族に対し「かしこまりました(ラーグナ)」しか返事したことがないんじゃないかとサーシャは思う。

「父上が現役復帰、バルト艦隊司令を拝命した」

「……現役復帰」

「ソ連と長年海で渡り合っていた提督だからな、名前だけで抑止になる」

「……」

 サーシャは息を飲む。

 もう六〇を過ぎた退役海軍中将の父が駆り出されるのだ。

「父上は名前が売れすぎてる」

 ミハイルが目を細める。

「敵にも」

 サーシャは顔を下げた。そして、思いつめた表情で顔を上げる。

 スッとミハイルが伸ばした手の平がサーシャの顔を遮った。

 何かをしゃべろうとした彼女はとっさに口ごもる。

「お前ごときが戻ってもなんの足しにもならない」

 冷たい声。

「大人しく、この平和な日本でのんびり遊んでいろ」

 蔑むような目のままミハイルが言い放った。

 サーシャは耳を真っ赤にして目を伏せることしかできない。

 ……。

 しばらく沈黙が続く。

 彼女の力いっぱい握った拳が震えていた。

 スッと伸ばされようとした彼の手。

 だが、我に返ったようにすぐに引っ込められた。

「私も出港する」

 ロシア帝国北方艦隊に所属するミハイルである。

 顔を伏せたままのサーシャが「どこに……ですか?」と震える声で聞いた。

「言えるはずがない」

 身内同士なら言うこともある、だが彼は冷たく切り離すようにそう答えた。

 サーシャは顔を伏せたまま上げることができず、そのまま踵を返して去っていくミハイルを見送ることしかできなかった。

 誰もいない空間。

 遠くで聞こえる歓声。

「……ちく、しょう」

 彼女の口から洩れたそれはロシア語ではなく、日本語だった。 

 ――お父様、お兄様は戦おうとしているのに……わたしは……。

 誰に対してでもない。

 幼い自分に対して絞り出した言葉だった。




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