平常 2
一方、同じように上級生に対峙している人物がもう1人いた。
「この書類なんだが・・・」
「だから!俺は1年です!!」
どう言えばわかってもらえるのかと拓斗は天を仰ぐ。残念ながら、そこには何の面白味も無い教室の白い天井と照明器具しか見えず、拓斗は、なお落ち込んで目を瞑る。
「そんなことは、わかっている。それで、この書類の内容だが・・・」
目を瞑っている拓斗にかまわずに書類を差し出してくる上級生は真っ赤なタイをしていた。
彼は3年5組10番 城沢 大稀。
前世は郭嘉 字は奉孝である。
郭嘉は、曹操に寵愛された名参謀だった。
曹操よりも15歳も年下であったのに38歳で早死にした郭嘉を悼んで「哀哉奉孝、痛哉奉孝、惜哉奉孝(哀しいかな奉孝、痛ましいかな奉孝、惜しいかな奉孝)」と曹操が嘆いた話は有名だ。
非常に優秀な人物で、かの赤壁の戦いで負けた曹操が、郭嘉さえいれば自分はこんな目に遭わなかったのにと言ったとも伝えられている。
そんな優秀な人物が、なんで1年の自分なんかに書類を見せてくるのだと、拓斗は頭を抱えていた。
「それは?」
「生徒総会の資料だ。」
「何故、俺に持ってくるのですか!?」
「吉田に持って行ったら、面倒だから華尚書令に見てもらえと言ったんだ。」
頭を掻き毟りたい拓斗である。
「おかしいでしょう!?それって!!」
「別に確認なんて、誰でもいいんだ。見たっていうサインさえしてあればいい。」
本当にどうでもいいように城沢は言う。
実は、郭嘉は・・・優秀ではあったが、少々?素行に問題のある人物でもあった。
そもそも郭嘉に生徒総会の資料を任せる時点で、人選ミスである。
だからと言って1年の自分に、その資料を持ってくる意味がわからない!
吉田も何を考えているのだと心の内で文句を言う。
当の吉田が、前世での華歆の謹厳実直な働きぶりを思い出した上での、ナイス判断だと自画自賛しているなどとは、わからぬ拓斗であった。
「いつもは、内山がしていたんだがな・・・」
そう言うと城沢は、チラリと視線を1年1組の教室の廊下側一番前に流す。
拓斗もギン!とそちらを睨み付けた。
・・・そこには、自分の席に着いている桃と、その桃の前に、どこから持ってきたのか丸椅子を置いて座っている3年生、内山史弥の姿があった。
この書類騒動の全ての元凶である男は、そんな騒動など素知らぬ顔でしれっとしている。
郭嘉は、荀彧が推挙して曹操に仕えることになった人物である。内山が城沢に仕事を押し付けて申し訳ないなどと思うはずがなかった。
内山は、城沢が見た事もないような上機嫌な顔で桃を見ている。
当然桃の脇には理子と翼がくっついており、内山が何かしようものなら即刻叩き出してやると睨み付けているのだが、気にした風もなかった。
「こっちを見ていますよ?」
拓斗と城沢の視線を受けて、桃は内山にその事を指摘する。
「あぁ、良いのですよ、あんな書類。私はもう吉田には一切協力しないと言い渡してあるのですから。」
それと、生徒総会の書類の確認は、事情が違うのではないかと思う。
呆れて見上げる桃の視線を受けて、内山は、尚深く笑った。
「私を気にしてくださって、嬉しいです。」
本当にこれが、あの憂い顔が標準装備の男なのかと疑うような綺麗な笑顔に虚を突かれた。
「誰が、お前を気にかけた!」
不機嫌そうに翼が怒鳴る。
「そうよ!そうよ!桃ちゃんが気にしているのは、書類の方に決まっているでしょう!」
勢い込んで理子も言う。
「何にしても私に話しかけてくれたことは間違いありません。それだけで私は十分に嬉しいです。」
「?!・・・くっ!」
悔しそうに翼は唇を噛んだ。
桃は、そっとため息をこぼす。
オリエンテーション合宿終了後からずっと、毎朝こんな風なのである。
残念なことに、いい加減に慣れてしまった桃は、既にこの事態を日常茶飯事として受け入れてしまっていた。
たった今までも、目の前の内山にかまうことなく、1限の数学の予習をしていた桃である。
1年1組の他の生徒たちも、自分たちの教室に当たり前のように上級生が出入りする事に慣れてしまっていた。
それでも、毎朝新しい事は起こる。
「君が“昭烈”か?」
突然声を掛けられて、驚いて桃は顔を上げた。
そこには、書類を拓斗に押し付けて、興味津々といった風に桃を見てくる城沢の整った顔があった。
城沢が1年1組の教室に来たのは、実は今日が初めてなのである。
郭嘉は、女遊びが好きな前世の性格をそのままに受け継いだ、見惚れるようなイケメンというたいへん傍迷惑な生徒になっていた。
(女性にしたら、最悪な男よね。)
女と見れば誰でも声をかける城沢である。
“昭烈”と大切な主君の名を呼捨てにされた事もあいまって、翼は物凄い勢いで立ち上がると城沢の胸ぐらを掴んだ!
「貴様!!」
「止めて、翼!」
「!?・・・でも、桃!!」
「イイから、止めて。」
冷静に桃は止める。
郭嘉という人物は、脅されたくらいで態度を改めるような人間ではないのだ。事を荒立てれば、かえって翼の方がバカを見る。
翼は、悔しそうに、それでも桃の言う事を聞いて、渋々と城沢を放した。
桃は、黙って内山に目をやる。
内山は、面白そうに目を見開くと、そのまま肩を竦めて立ち上がった。
「止めろ“奉孝”。戻るぞ。」
「?!・・・ふん。すっかり“文若”を手懐けているようだな?」
郭嘉と荀彧は、友人同士であった。
言いがかりだ!と桃は思う。
ただ単に使えるモノは使うだけの話だ。
桃の冷たい視線を受けて、城沢はニヤリと笑った。
「そう、挑発的な目で見るな。誘われているのかと思うだろう?」
どこをどう解釈すれば、そんな明後日の方向性で考えられるのだろう?
翼がもう一度掴みかかろうとして、また桃に止められた。
「そう警戒するな。俺はただ、“陳羣”に嫌われた者同士、仲良くできるかと思っただけなんだからな。」
そう言うと、城沢は桃に対して意味ありげに片目を瞑ってくる。
一瞬何かと考えた桃は、自分がウィンクされたのだとようやく理解した。
陳羣とは、当初劉備に仕えながら劉備とそりが合わず、退去して曹操に仕えた名士である。
曹操の陣営の中でも生真面目なインテリであった陳羣は、素行の悪い郭嘉が気に入らず、いつも厳しく非難していた。
城沢は、だから、自分と桃とが気が合うとでも思ったのだろうか?
考えの飛躍に着いていけない桃である。
「私は、あなたが思っているような人物ではありません。」
素っ気なく桃は断った。
「まだ、そんな事を言っているのか?!」
城沢は呆れる。
非常に腹立たしい桃だったが、城沢がそう思うのも無理もなかった。
・・・オリエンテーション合宿後、吉田は宣言どおり全校に対して自分の敗戦を堂々と報告した。(なんと全校朝会を利用した事後報告だった。代休日で1年生は誰もいなかったのだが・・・その場にいなくて良かったと、後日苦りきった意島に聞かされた桃は思った。)
おまけにその中で、自分を討ち取り1年を制覇した“相川 桃”を蜀の“昭烈帝”の生まれ変わりだ(と思う)と、はっきりと言い切ってくれた。
全校朝会が蜂の巣をつついたような大騒ぎとなったのは当然だろう。
選りによって、あの“劉備”が、事も有ろうに”女“に転生したなどと!!
とても信じられぬ話であった。
しかし、そう言ったのは、あの“吉田”で、しかも2年の“仲西”までもが、吉田の話を否定しない。
桃は、あっという間に渦中の人になってしまったのであった。
そして、それを知らなかった桃は、オリエンテーション合宿終了後の代休明け、学校に行く際に迎えに来てくれた仲間たちとごく当たり前に登校してしまった。
その、メンバーは・・・
明哉や天吾をはじめとした軍師陣。
翼や利長をはじめとした将軍たち。
牧田や串田、戸塚といった蜀将以外の群雄。
おまけに、理子や文菜といった女性陣。
・・・という超豪華フルキャストだった。
登校とは言っても、寮から校舎までの短い距離である。思いの外、大人数に迎えに来てもらってしまったけれど、まぁいいか、と思って彼らを引き連れて学校に向かった桃を待っていたのは、更に大勢のギャラリーだった。
蜀の家臣団を従えて登校した桃に注がれた興味津々の視線に、心中で大いに顔を引き攣らせた桃なのだが、時既に遅かった。
“相川 桃”=“劉備”説は、あっという間に全校に浸透してしまったのだ。
その後、桃は全員一斉での登校を禁じた!
「そもそも、迎えなんかいらないわ!!」
「そんな!!」
「桃ちゃん!!!」
どんなに多くても4〜5人でなければ一緒に行かない!と頑として言い張る桃に、結局明哉たちが折れた。
すったもんだの末に、厳正なくじ引きが行われ、毎日数人が代わる代わる桃を迎えに来てくれるやり方に落ち着く。(それはそれで、困ったものではあったが・・・)
もっとも、一度広がった噂は取り消しようがなかった。
人のうわさも75日と、今はじっと我慢の桃なのだ。
その我慢を、城沢は一笑に付す。
「・・・まあ、それはどうでもいい。俺は、可愛い女の子が大好きだ。お前は、充分に可愛い。・・・と言う訳で、今度デートしないか?そっちの子も一緒に。いいな?」
そっちの子とは、理子の事である。
当然理子は、憤然と怒り出した!
「誰が!あんたなんかと!!桃ちゃんだってあんたなんか、相手にするわけがないでしょう!?」
桃ちゃんは、私のモノよ!といつものように怒鳴った理子に、今日は疲れていた拓斗は流石に突っ込めなかった。
教室中の空気も一触即発の不穏な気配を孕む。
そんな空気を全く読まず、(呆れて)動けない桃に向かって、誘うように馴れ馴れしく伸ばした城沢の手をA4サイズの数学の教科書が打ち払う!!
何時の間に来たのだろうか、そこには厳しい顔の明哉が立っていた。
「これ以上すると、上級生の1年校舎への出入り禁止を訴え出ますよ。」
冷たく明哉は、城沢と何故か内山を見据える。
城沢は、目を見開いて・・・口笛を吹いた。
「すっげぇ、カッコいい!・・・ひょっとして“忠武候”か!?」
郭嘉は・・・やっぱり郭嘉だった。
ちなみに”忠武候”というのは、諸葛亮の封号である。
ため息をついた内山が、城沢を無理矢理引っ張って出て行く。
出入り禁止になってしまっては困る内山だった。
ありがとうと明哉に礼を言いながら、桃はしみじみと呟く。
「内山さんよりやっかいな人がいるとは思いませんでした。」
はからずも、それは1組全員の思いと一致した。
予鈴のチャイムが鳴りだす。
平常授業の1日がようやく始まるのであった。




