第87話 小さな勇者
どくどくっと泡立つ真っ黒な泥沼。
俺はその前に倒れこみ、カトリーナに届かなかった手を見つめる。
カトリーナがブランヴィリの沼に飲み込まれた……。
俺の油断だった。
ブランヴィリが気絶したのを確認しておけば……こんなことにならなかった。
『ネルは私、の————』
あの時、カトリーナが何を言おうとしたのか分からない。
…………でも。
迷うことなんてない。
俺はカトリーナも連れて帰る。
手足は傷だらけ。服もボロボロだ。
こんなのじゃ、きっとリコリスに笑われるだろう。
アイツらが起きる前に、カトリーナを連れて帰って、一緒に七星祭を終えるんだ。
俺は残りの力を振り絞って、立ち上がる。
十中八九ブランヴィリはカトリーナの魔力を吸い取り、回復するつもりだ。
泥沼は目の前にある。まだ消えていない。
おそらく沼に飛び込めば、ブランヴィリに捕まったも同然。それに、沼の中がどんな風になっているのかは分からない。
「待ってろよ、カトリーナ」
でも、それでも、俺は震える足で沼へと飛んだ。
★★★★★★★★
勇者なんていない――――昔はそう思っていた。
だって、自分が勇者だから。
自分を助けてくれる勇者なんていないから。
だから、私が強くならなきゃいけない。
でも、私は勇者という立場に、皆が求める偶像に、プレッシャーに負けることがあった。
本当は、勇者に救われるお姫様でいたかった。
自分なんかが魔王を倒せるのだろうかとも思っていた。
勇者の立場を知らないみんなが羨ましいと思った。
ドレスを着て喜び、女の子たちと遊んで笑って、そんな平和な一日を過ごす女の子でありたかった。
――――普通の女の子でありたかった。
固有魔法の調整が全くできなかった頃の私はよく人の心の声に悩まされ、屋敷に引きこもりがちだった。一人でいる方がずっと楽だった。
そんな私を見かねたのか、父は弟と一緒にゼルコバへと連れて行ってくれた。
父は『知り合いと会うためだ』と話していたけど、たぶん私のためだったと思う。
当時は王都以外の都市に行くことはなかったので、弟は大はしゃぎ。知り合いの屋敷に行っても、ずっとはしゃいでて、母に怒られた。
人に会うことも少なく、声もあまり聞こえなかったので、私も少しはしゃいでいたと思う。
父の知り合いには子息と令嬢がいて、同年代だったらしいが、ちょうど私が行った時にはいなくって、暇になった私たちは近くの森に行って駆け回っていた。
人間の嫌な声が聞こえない静かな森。さらさらと草木の揺れる音、小鳥のさえずり、弟の笑い声だけが聞こえる。
心地が良かった。ずっとここにいたいと思った。
同世代の知り合いの子息と令嬢が羨ましいとさえ思った。
普段から、私は人が少ない森にはよく入っていたから、どこの森に行っても大丈夫だと思っていた。弟ももちろんそう。
だけど――――。
「お姉ちゃん……っ、殺されちゃう、よ……」
「だ、大丈夫……私が守るから」
こけてしまった弟に駆け寄り、そっと抱きしめる。
「ガルルぅ……」
でも、少し離れた場所には飢えに飢えた魔物。よだれをたらし、獰猛な目つきをしている。
道に迷い、森を彷徨っていると魔物と遭遇。
自分たちよりも一回り大きな狼のような魔獣だった。
自分に魔法を上手く扱える技量はない。覚えていた魔法は初級魔法だけ。剣術はほんの少しだけ習ったけど、今は剣はないし、武術なんて習っていないし、魔法しか使えるものはなかった。
杖を取り出し、その先を魔獣に向ける。
「お姉ちゃんが戦う、から、先に逃げてね」
「えっ、それじゃあ、お姉ちゃんは……? お姉ちゃんはどうするの……?」
「大丈夫、お姉ちゃんは魔法を最近勉強してるから、お父様みたいに戦えるから」
勝つ自信なんてない。
でも、うまくいけば、二人で逃げられる。
今は自分が囮となって、弟を逃がせばいい。私は後から逃げればいい。
杖を持つ手が震える。何とか照準を合わせたその先に、怪しく光る赤の双眼。だらしなく涎を垂らしている。私たちを食べる気だ。
ああ…………死にたくない。
死にたくないけど、弟を死なせるわけにはいかない。
「お姉ちゃん、っ……」
「逃げて!!」
「嫌だっ」
「お願い逃げて」
今にも大泣きしそうな弟。
ああ、怖いだろう。私ですら怖いのに、彼が怖いと思わないはずがない。
「お願いだからッ!! 一生のお願いよッ!!」
でも、今はなだめる余裕なんてない。
腹の底から声を出し、必死に訴える。目に涙を溜め、下唇を噛む弟は、小さくコクリと頷いた。
「っ、…………お姉ちゃんも逃げてよ!! ぜったいっ!! 僕はお父様を呼んでくるからっ!!」
そう叫び、涙目を浮かべて、弟は走り出す。姉の言うことを聞ける良い弟だ。
弟の背中が遠くなっていく。
幸い、魔狼の意識は私に向いていた。
弟が逃げれて良かった…………。
「炎の宝玉!!」
習いたての初級魔法を使い、魔狼に向かって火の玉を放つ。
しかし、魔狼は軽やかに玉を避け、徐々に私に迫りくる。
火の玉を放って、氷魔法も使って、全力で森の中を駆け抜けた。
なぜこの魔狼の意識は読めないのだろうか。読めれば、多少は逃げるのも楽だっただろうに。
でも、知らない森の中を逃げ回るのも限界がある。
「ガルルゥ」
「お願い、来ないで……食べないでよ……」
ついに魔狼に追い込まれ、大木を背後に尻込む。
魔法は当たることはあったが、魔狼が受けたのはかすり傷程度。
でも、私は何度か引っかかれた。
ああ、悔しい……私ってこんなものだろうか。
ほんとみっともない。
勇者の紋章を持つ人間が、魔狼にやられて死ぬ。
弱い勇者だったなんて言われるのかな。
もういいや、弟が元気なら。
うん、それでいい。
全てを諦め、逃げた弟の幸せを祈りながら、私はぎゅっと目を閉じようとしたその瞬間。
「――――え?」
目の前に影が現れた。
揺れる短い黒髪。手に持つのは子どもサイズの大剣。
小さな小さな少年がそこにいた。
「はあぁぁ!!!」
少年は剣を振り、魔狼を容赦なく一刀両断。その剣裁きは王国の騎士団のように洗練されたものだった。
真っ二つとなった魔狼の身体は噴水状に血しぶきを上げ、ぱたりと地面に倒れる。
少年は剣を振って血払いをし、背中に大剣をしまう。
少年の背中は小さかった。自分より少し大きいぐらい。
少年が振り向き、彼と目が合う。その瞳は私と同じ緑。でも、私と違って真っすぐで、そこには強固な信念が見えた。
少年は輝いていた。
世界の彩を知った。鮮やかな色が世界に染まっていった。
ああ……彼は…………。
私が動かずにいると、彼は駆け寄ってきた。
「君、大丈夫? 怪我はない? …………あ、膝をけがしてるね。ごめん、少し触るよ」
治療魔法を使い、膝にできた傷を癒していく。でも、膝に当てる手は、見てもわかるぐらい震えていた。
「はい、治ったよ」
「あ、ありがとう……」
「どういたしまして。君、怖かったよね。もう大丈夫、魔狼はもう倒れたし、この辺りにはもう魔物は出ないと思うよ。君も魔狼相手によく戦ったね、よく頑張ったよ」
ヒーローだった。
見つけた、小さな小さな私の勇者。
手は震え、でも私たちに笑って見せる彼。
彼も怖かっただろうに……。
でも、彼の声は聞こえない。『怖かった』とかそんな本音が聞こえない。
ただただ彼は私に笑みを見せていた。
初めての、心の声が聞こえない人。
だけど、何よりもそれが安心できて、私と弟は彼に抱き着いていた。涙なんて見せたくなかったけれど、でも、瞳は涙で溢れていた。
彼もまた抱き返してくれた。私を安心させるように、小さな手で背中をさすってくれた。
幼い私は小さな勇者と出会い、誓った。
彼のように心が強い人間でありたい、と。
たとえ、弱くって固有魔法が上手く扱えず、自身に力なくとも、立ち向かうべき時に前に立てる人間でありたい、と。
のちに、彼もまた自分と同じ勇者であると知る。
そして、私は――――。
★★★★★★★★
恨み、憎しみ、悲しみ、狂気。
闇の世界で黒に染まった醜い声が押し寄せてくる。
きっとブランヴィリが私を弱らせるために、こんな嫌がらせをしているのだろう。
とめどなく流れ聞こえる叫びに、耳を塞ぎたくなるが、たとえ手で塞いでも脳に響く。
でも、大丈夫と何度も自分に言い聞かせる。
これが永遠に続くわけじゃない。
だって、私は彼を信じているから。
私だってこんなことで死ぬ人間じゃない。
意識を集中させて。
耳を澄ませて。
どんなに遠くても彼の声が聞こえるように。
「…………」
――――ああ、もう何時間が経っただろう。
「…………」
魔力が徐々に吸われ続けて、身体がだるい。
でも、逃げだそうにも体は泥に囚われている。
大丈夫、きっと彼は来る。
ネルが来る前に、ブランヴィリになんかに負けるものか。
悪意に満ちた声たちに蝕まれていく意識を、彼の声を聞き取ることだけに集中させる。
そして――――。
「――――トリーナッ!!!」
…………ああ、ようやくだ。
ようやく、彼の声が聞こえた。
「カトリーナッ!!」
自分の名前を呼ぶ遠い声。
次第にその声が大きくなって、必死叫んでいるのが分かる。
「カトリーナッ!! どこにいるんだッ!! 返事をしてくれッ!!」
ああ…………。
あなたの心の声は聞こえなくとも、あなたの声はよく聞こえる。
信じてた。来てくれると信じてた。
だって、ネルは私の小さな勇者様。
暗闇に包まれていた世界が割れ、光が差し込んでくる。
光の中から、差し伸べる手が見え、カトリーナは迷うことなく取る。
ふふっ……なんてボロボロな勇者なんだろう。
でも、誰よりも輝いている。
「ネルッ!!」
彼女は彼の胸へと飛び込んだ。
★★★★★★★★
「き、貴様っ!! 敵陣に自ら踏み込むなどッ!!」
カトリーナとともに沼を出ると、直後に姿を現したブランヴィリ。回復する魔力の元を取られた彼は眉間に山脈を作り、激昂していた。
だが、起き上がる体力もないのか、地面を這っている。髪はぼさぼさに荒れ、服は雑巾のごとくボロボロ。みっともない姿だった。
ぐったりとしたカトリーナを離れた場所で寝かすと、俺はブランヴィリの前に立つ。
「カトリーナを見捨てるわけないだろ」
これまでの戦いで、何度も支えられた彼女をここで見捨てるはずがない。
「ほんと……散々やってくれたな」
せっかくだから、魔王幹部を捕らえたから、フィー先生に引き渡そうと思ったのに。
脳内に浮かんだイメージを基に造形した大剣。
剣を見たブランヴィリは、目を見開き、息を飲む。
「それは……」
「俺のお手製大剣だ。伝説の剣でなくって悪かったな」
淡い水色の光に照らされ、剣先を輝かせる銀の大剣。氷の破片を使い、三日月の装飾をつけてみた。
我ながら悪くないデザインだと思っていたが、ブランヴィリの反応を見る限りには不評らしい。デザイナーじゃないんだ、許してくれ。
「じゃあな。次は魔人じゃなくって、人間になって生まれ変われよ」
俺はブランヴィリの胸に大剣を突き刺す。残り少ない魔力で作ったせいか、大剣はすぐ消え去ったが、もう回復する気力もないブランヴィリには十分な一刺しだった。ブランヴィリの身体が徐々に灰色に染まり、足元から塵となって崩れていく。
人の時間を奪わない奴なら、俺は味方になれる。
だから、良人になれる可能性がある人間として、もしくは良き魔人として生まれてきてくれたなら、その時は————。
「また相手をしてやるよ、死なない程度でな」
散りゆくブランヴィリからふっと笑い声が聞こえた気がした。
ブランヴィリの身体は黒の塵となり消えていく。
そして、魔王軍の紋章が入った指輪だけが残っていた。




