やがて世界は怒りに満ちる(2)
右のポケットの中の骨が異様に重たく感じる。もはや原型を留めず、包んだ布の中で粉塵となっているのはわかっている。だが、確実にそれはかつて自分に向けて何度も向けられた親友の親指なのだ。
空気が淀んでいる気がする。50年という時間の大きいこと。人間の一生まるごとそのままではないか。ヘロダスティア平原を抜けたところに村があったというかすかな記憶で歩いているリヒターだったが、月明かりの元で歩を進めてはたと気が付いた。
「おかしい」
今日は昼食を食べていない。朝食は起きてすぐ食べたが、もう半日以上前の話だ。塩漬け肉と堅パンという献立だった。昼食までの時間が近いため、毎朝軽いものを食べる。病院はただでさえ食卓にそぐわない風景が展開されることが多い場所であるから、胃の中はあまり満たしていない方が都合がいいということもある。エルソンはとても痩せていたが、夕食以外はほとんど摂らなかったからだ。
「お腹が空かない」
それだけではない。喉も乾かない。疲労らしい疲労も感じない。精神は摩耗している気がするが、肉体面でのダメージがほとんど感じられない。左腕や左足がなぜ生えてきたのかもはっきりしないが、これに原因があるとしか思えない。左目で見る景色も月明かりしかないというのにいやに遠くまで見える。どうなっているのか。とりあえず疲れていない。この後ツケが回ってきて死ぬのかもしれない。
「まぁ、歩けるだけ歩くか」
生来、楽天家なのがリヒター・アスベルクだった。倒れたらそれまで。空腹を感じなくても体力が減れば体の動きも鈍るだろう。その時何か食べられるものを探せばいいだろう。幸いにも森が数百m先に見える。あそこまで行けば何かしらみつかるはずだ。
そう考え、リヒターは歩いた。
夜が明けた。
疲労を感じることなく、リヒターは夜通し歩き続けることが出来てしまった。
「僕はやっぱりおかしくなってしまったんだろうか」
虚空に向かって話しかける。誰も聞いていないのだから、という、一種の油断のようなものがリヒターにはあった。こんな早朝、まだ夜と呼べる時間帯。自分の事がわからない、というのは恐怖がある。怒りに身を任せていた間、周りを警戒して歩いていた間。意識を他の事に傾けている間は、自分の事を一番に考えているくせに自分の事がもっともわからなくなる。朝霧の立ち込めるなか、物音ひとつ聞こえてこない。
左手を前に出す。
「なにか出したよな、僕」
呟きながら手のひらを前に突きだし、力を込める。はたから見た自分を想像すると滑稽に思えたが、それでも続けた。
「…」
しかし何も生まれない。虚空には何も浮かばない。
若干肩を落としながら、リヒターは今度はズボンをまくり上げ、左足を見た。実体があるようにしか見えない。だが、緑がかっているようにも見える。脈動は感じない。まだ薄暗いなかでみると、緑がかっているのが際立っている。ともすれば光っているようにさえ感じられる。だが、それだけだった。
「いまとあのとき、違っているのは…」
まずは感情。手からなにかを出したとき、リヒターは怒りに燃えていた。あまりの怒りに奥歯が砕ける音が聞こえたほどだった。いつの間にか治っていたが、それもまたリヒターが恐怖を覚える要素だ。
「わからない…ずっと怒ってるなんて無理だぞ…?」
しばらく考えながら歩いていたが、答えは出なかった。
やがて朝の空気は薄れていき、気温の上昇と湿度の低下を感じ始めたころ、リヒターはぽつりとつぶやいた。
「イメージ…なのか…?いやでも…僕は人を吹っ飛ばす…」
呟いた瞬間、リヒターは心臓が止まるかと思った。
「私を吹っ飛ばすのですか」
完全に独り言だと思っていたものに、返事があったからだ。道路脇に足がはみ出ている。破れた靴は皮を鞣したもので、本来は高級な品のはずだった。その足に伸びた脚も革製のズボンに覆われている。こちらは汚れてはいるが破れてはいない。リヒターが目をやると、少女が木にもたれて座っている。
「…君は?どうしてこんなところに…?」
リヒターの問いに対して、声のする方に少女は顔を向けた。その顔を見て、リヒターは思わず息をのんだ。こちらを見ているはずの眼球は何の光も吸収してはいない。黒曜石のほうがまだ光を反射する。
それはまるで、新月の夜の闇のような瞳。
「そう言われても、私はいまどこにいるかさえわかりません」
細い声。掠れた声は、彼女がここでどれだけの時間を過ごしていたのかをリヒターに想像させた。
「行く宛はあるの?」
年齢は十代の半ば程度の少女。髪も砂埃でひどい有様だ。元の色がわからない。それでも衣服の乱れがないことにリヒターは少しだけ安堵を覚えたが、とても笑えない話だった。目の見えない少女を村の外に放置するなんて、正気の沙汰ではない。
思わず体が動いた。華奢な身体を持ち上げ、背中におぶる。
「ちょっと移動しよう。ここは危ないし」
少女の反応はなかった。すべてを諦めているのか、まったくの脱力状態だ。綿のシャツと革のベストから伸びた細い腕は、地面に向けて垂れている。
十数分歩き、川辺にたどり着くと、リヒターはまず少女に水を飲ませた。咳き込みながら水を飲むと、幾ばくか少女にも元気が戻ったように見えた。それでも、表情はない。
「自己紹介がまだだったね。僕はリヒター。君は?」
「……ナハト、です」
「わかった、よろしくね」
膝を抱えて川の流れを見つめるナハト。いや、その目はなんの情報も拾っていない。シャンテ村に目の見えない老人が暮らしていたが、彼よりも深刻な状態に思えた。
「その目、明るいとか暗いのはわかる?」
その老人に話を聞くと、完全に視力が見えなくなっても、光があるかないかはわかるということだった。だがナハトはそれもわからないのではないのか。先ほどから視線はまったく動かない。リヒターがウロウロしている間、それを目で追うことは一度もなかった。
ナハトは黙って首を横に振った。短い髪が振り子のように揺れ、すぐに止まった。
リヒターはその隣に座った。しばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「僕はいま、帰るところがなくなってしまったんだ。色々あってね。正直まだ気持ちの整理が出来ていないことが多すぎて、混乱もしている。だけど、行くところはあるんだ。しばらくは旅を続けていける」
自分でもまとまらないまま口を開いてしまったリヒターは若干後悔しながら、話を続けた。
「君は帰るところはある?」
ナハトは再び首を横に振った。
「じゃあ、僕と一緒に来てくれないかな」
リヒターは思案した結果、彼女を同行させるのが一番安全だという結論に至った。
放置することは絶対に出来ない。そんな真似が出来るのは外道の証明に他ならない。目の見えぬまま人通りのほとんどない森の中に投げ出されて5日と生きられる者はそういないだろう。
では連れて行った上でどうするか。この先通るであろう村や街に身寄りのない人間を引き取る養育施設があるのでは、という希望的観測しかない。リヒターは既に覚悟を決めている。
かつて労働力としてまったく使えないと予想できるであろう、五体不満足のリヒターを救い、そして面倒を見てくれた恩人の顔が思い浮かぶ。気の抜けた微笑み。エルソンという男には、とにかく善意を押し通すだけの力があった。彼に及ばなくても。せめて、目の前の少女を連れ歩くくらいのことは。
(僕がやらなくてはいけない)
ただ怒りにまかせて動いた結果、振り向いた景色が焼け野原。そんな人生はまっぴらごめんだ。
(たったひとり)
エルソンが救った人間は何百人もいる。
(僕が救おうとしているのはたったひとり。たったひとり)
しかし、ナハトの首は縦には動かない。横にも動かない。微動だにしない。呼吸音さえ聞こえない。リヒターは黙って座っている。朝の川辺で聞こえてくるのは、水のせせらぎや鳥の囁き。風に揺られた木々の葉が擦れて、大きなうねるような音圧をぶつけてくる。
リヒターは黙って前を見ていた。横で膝を抱える少女を独りにしてはいけないと、目を離したらどこかに行ってしまいそうなこの子を独りきりにしてはいけないと、そう感じていた。
日が高くなってきた。すでに正午が近いのかもしれない。村にいたころは鐘台の鐘が正確な時刻を知らせてくれていた。今は何も聞こえない。
鐘の音も聞こえないこんな森の中に置き去りにされていた少女のことを考える。最寄りの村はかなり離れていることは明白だった。
(棄てられた、のか)
移動手段はわからないが、何者かに連れてこられ、そして道端に投げられた。もっとも楽観的に考えてこの結論が導き出せる。
『人売り』『人買い』という商売がある。大陸を巡り、厄介者の排除や口減らしその他の理由で生まれた余剰人口を買い取り、不足している地域へ売る。需要と供給のバランスから生まれた業種だ。表だって行われるものは帝国による庇護がある。忌避感を感じるものも多いが、必要に迫られた結果、苦虫をかみつぶした顔でこの人売りを受け入れる。食糧不足を引き起こす高額の課税義務に追われた村が、食糧を分配しきれない村人を人売りに売り、わずかばかりの金銭を受け取る。売られた人は工業地帯に運ばれ、労働力として売られる。このサイクルは国家の認めたシステムだった。
そして当然だが、非公式の犯罪組織による人売りも存在している。そしてそれは、表立った場所に売られるわけがないのだ。犯罪の片棒を背負わされる。非合法の商売の手伝いをさせられる。自分の体を売ることを強要される。娯楽として殺される。おぞましい世界はすぐ隣に息をひそめている。
「私、は」
数時間ぶりにナハトが口を開いた。掠れた声は震えていた。
「目が見えなくなった、から…。村の人たちから…ううぅ…。私は、ううう…」
涙を流しているナハト。記憶に残る映像は暗闇でも、身体がその感触を覚えている。痛み。苦しみ。恐怖。肌を指が這うおぞましい感覚。粘膜を暴力的に嬲られる、その不愉快な感覚。
悲痛な声に、リヒターは思わずナハトを正面から抱きしめた。
なにも声をかけることができない。
いたぶるだけいたぶり、身なりだけ整え、人売りに引き渡されたのだ。この少女は。移動する馬車や荷車のようなものの中で、彼女の目が見えないことがわかった。そして、そこから突然外に投げ出された。あちこちに残る傷はそういうことだろう。
いや、服装が整っているのはせめてもの手向けだったのかもしれない。急に拵えることが難しい革靴以外は、まだ新しいものを着用している。だが、そんなことはどうでもいい。
しばらくすると、ナハトの様子も落ち着いてきた。
「すみません。もう大丈夫です。ありがとう」
涙を流すと人間はすっきりするようにできている。ナハトは今まで、どれくらいの期間かわからないが泣くこともできなかったのだと思うと今度はリヒターが泣きそうになった。
それをごまかすように質問した。
「お腹空いてない?なにか食べられるものを探してくるよ」
ナハトの返事を待たず、リヒターは駆けだしていた。
お読みいただいてありがとうございました!
間隔があいてしまいましたがプロットは半分(!?)出来上がっているので書ける時に書いていきたいと思います!
いやぁリヒターくんはいきなり女の子を抱きしめられる甲斐性があったんですねえ…びっくりです。
ではまた。




