第44話 社長さん
工場へ警察が入った翌日の昼過ぎ、玲司と葵は上野へ向かう電車に乗っていた。
葵は右腕を体の前で庇い、左手でつり革を握っている。玲司がスマートフォンで店の場所を確かめていると、隣から画面を覗き込んできた。
「これ、前に言ってた店?」
「ああ。父親捜しで入ったところ」
「お金取らない店?」
「取るよ。俺は払った」
葵が不満そうな顔をしたので、玲司は店の写真を見せた。入口には定食の看板が出ていて、値段も書かれている。
父親捜しのとき、金を取らずに食べさせていることは確かめていた。その理由が気になって店の運営会社を調べ、久我省吾という名前を知った。葵が閉じ込められていた舟渡の建物も同じ系列だと分かり、昨日はその系列会社の工場でギアが作られていた。
「何で金も取らずに食わせてるのか、聞いてみたいんだよ」
「いいことしてるだけかもって、前にも言ったじゃん」
「そうかもしれねえけど、昨日の工場まで久我のところだったろ。店の方も気になる」
葵は写真の店名を見直してから、玲司へ顔を向けた。
「分かった。で、私らも食べるんでしょ?」
「食うよ。食わないで金のことだけ聞きに行けるか」
葵が看板の写真を見ている間、玲司は口の中の傷に舌で触れ、顔をしかめた。朝食のパンでさえ、噛むのに苦労したばかりだった。
上野へ着くという車内放送が流れた。玲司は店の場所を添えたメッセージを一通送り、スマートフォンをしまった。
*
駅を出てしばらく歩くと、見覚えのある店の暖簾が見えた。
昼の混雑が引いた店内には、客が四人残っていた。揚げ物の匂いがして、厨房では大きなざるにキャベツが盛られている。壁際のテーブルへ座ると、葵がメニューを広げた。
「うわ、これ高っ」
指していたのは、和牛のステーキ御膳だった。隣には刺身と天ぷらを盛り合わせた定食の写真があり、こちらも普段の昼飯には出せない値段がついている。その下に、生姜焼きや野菜炒めの定食が並んでいた。
「それ食うのか」
「食べない。生姜焼き」
葵は店員を呼び、玲司が決める前に注文した。奥のテーブルには、もやしと薄切りの豚肉を炒めた皿が運ばれてきた。飯と味噌汁が添えられ、年配の客が手を合わせて箸を取る。
玲司も生姜焼きを頼んだところで、入口近くの席にいた男が立ち上がった。毛玉の浮いた上着を着て、椅子の下から膨らんだ手提げ袋を拾い上げる。
「ごちそうさん」
「はい、またどうぞ」
男はレジへ寄らずに出ていった。葵がその背中を目で追い、玲司の方を見る。玲司は小さく頷いた。
水を足しに来た店員へ声をかけると、胸の名札には店長とあった。
「すみません。前にもここで、会計しないで帰る人を見たんですけど」
店長は水差しを持ったまま入口を見た。
「ああ、常連の方ですね。月末にまとめていただいてるんです」
「つけってこと?」
葵がメニューを閉じて聞くと、店長は頷いた。
「ええ。昔から来てくださっている方なので」
玲司は店長の顔を見た。父親捜しのときに確かめた話とは違う。無料で食わせているのに、後から払ってもらっていることにした。問い返しかけたが、ここで知っていることを全部出すのはやめた。
「そうだったんですか。ここ、久我さんの店ですよね。久我省吾さん」
店長は水差しを持ち直し、玲司へ顔を向けた。
「ええ。お知り合いですか」
「いえ。店の会社を調べたら、お名前が出てきたので」
「……失礼ですが、どういったご用件でしょう」
さっきまでより、かしこまった声になった。玲司は店長を見上げたまま答えた。
「探偵の仕事をしてます。この前、人捜しでここに来たんですよ。その人も会計せずに帰ったんで、気になって」
「お店のことも、お調べなんですか」
「その仕事は、もう終わってます。今日は食べに来たついでに、あのときのことを聞こうと思って」
店長は少し黙ってから、料理をお持ちしますと厨房へ戻った。
生姜焼きが運ばれてきて、葵はすぐに箸を取った。玲司も食べ始めたが、店長が厨房の奥で電話をかけているのが見えた。こちらからでは、何を話しているかまでは聞こえない。
電話を終えた店長が席へ来て、声を落とした。
「久我にお伝えしたところ、お話を伺いたいそうです」
玲司は箸を止めた。葵も顔を上げる。
「電話でですか」
「これからこちらへ来るそうです。少しお待ちいただけますか」
玲司は口に入れかけた肉を皿へ戻した。
「……わざわざ来るんですか」
「はい」
店長が離れると、葵が声を落とした。
「来るんだ」
「……そうらしいな」
昨日、工場へ警察が入ったばかりだった。そんなときに、自分の店で金のことを聞いている客がいると連絡を受けた。こちらが何者か、確かめたいのかもしれない。
「じゃあ、本人にも聞けるね。お金のこと」
葵はそう言って箸を持ち直した。玲司も頷いたが、残った飯にはすぐ手をつけられなかった。店長に聞いて帰るつもりが、向こうから久我が来る。何を話すか、少し考えておく必要があった。
玲司は入口が見えるよう、椅子を少しずらした。
*
久我省吾が現れたのは、葵が残ったキャベツを食べ終える頃だった。
写真で見た顔より、少し疲れて見えた。上着の下は襟を開けたシャツで、店長が挨拶すると、厨房の方へも片手を上げる。
奥の席にいた年配の客が、顔をほころばせた。
「社長さん。今日も世話になってます」
「食えてる?」
「ええ。悪いね、いつも」
「食ったならいいよ。また来て」
久我は客の肩を軽く叩き、店長に案内されてこちらへ来た。近くで見ると、目の下に薄く隈がある。それでも、玲司と目が合うと穏やかに笑った。
「お待たせしました。久我です」
玲司が名乗ると、久我は向かいの椅子へ座った。
「こちらで人を捜していたと伺いました。見つかりましたか」
「はい。依頼人にも、無事だと伝えてます」
「それはよかった。うちは長く通ってくださる方も多いので、何かあれば店長に聞いてください」
久我はそう言って、玲司の隣へ目を向けた。
「そちらも、同じ事務所の方ですか」
「私は違う。ついてきただけ」
葵は膝の上で右手を包んでいた。久我の目が一度そこへ下がり、また玲司へ戻る。
「食事代のことが気になったそうですね」
「ええ。何人も払わずに帰ってたんで」
「常連の方には、月末にまとめてお支払いいただいています。店長からも、そう聞いていませんか」
久我は近くに立っていた店長を見上げ、もう仕事へ戻っていいと手で示した。
「聞きました。食事の支援でもしてるのかと思ったんです」
「無料で、ということですか」
「ええ」
「そういう話を、どなたかから?」
久我は笑みを残したまま尋ねた。玲司は、水のコップへ伸ばしかけた手を戻した。
「会計しないで帰るところを見たので」
「なるほど。でも、お代はきちんといただいています。払う日が違うだけですよ」
玲司は頷くだけにした。店長に聞いた説明を、久我も迷わず口にしていた。確かめていた話とは違うが、今ここで食い下がれば、誰に何を聞いたかまで答えることになる。
久我が水を飲んだところで、葵が身を乗り出した。
「建物も持ってるよね。舟渡に」
久我はコップを置き、葵を見た。
「あの辺りにも物件があるとは聞いていますが、どの建物でしょう」
玲司はスマートフォンに残していた住所を見せた。久我は画面を読んだが、すぐには答えず、玲司へ顔を向けた。
「住所だけでは分かりません。個々の物件は会社に任せているので、私が全部把握しているわけではないんです」
「持ち主は調べました。そちらの系列の不動産会社です」
玲司が答えると、葵も画面を指した。
「私、そこに閉じ込められてたんだけど」
久我は葵へ目を移した。今度は、髪や服装まで確かめるように見たあと、椅子へ座り直した。
「……あなたが?」
「車で連れていかれて、出られなくされた。誰が使ってた建物なの」
久我の顔から笑みが消えた。玲司はスマートフォンを手元へ引き寄せ、二人を見ていた。
「それは、警察には話していますか」
「もう話した」
「分かりました。会社の方でも確認させます」
葵は久我を見つめていたが、やがて膝の上へ目を落とした。右手を握りかけ、痛んだのかすぐに緩める。
「分かったら、警察に言って。私を連れていった奴らが、誰に言われてやったのか知りたいから」
「ええ。そこは、きちんと対応します」
久我は葵の目を見て答えた。玲司がスマートフォンの画面を消しかけると、葵が続けた。
「昨日の工場も、そっちの建物だったんだよね」
久我の目が、葵から玲司へ動いた。
「大田区の件ですか。警察が入ったとは聞いていますが、ご存じなんですか」
「俺たちも中にいたんです。そこで見たことは、警察に話しました」
玲司が答えると、久我はこちらへ体を向けた。
「どうして、あの工場へ?」
「持ち主の会社を調べて、行ってみたんです」
「舟渡の建物とのつながりを調べていた、ということですか」
「ええ。同じ系列だったので」
久我はテーブルに置いていた手を下ろした。玲司の顔を見てから、隣の葵へ視線を移す。頬や腕の怪我を見ているのかもしれなかった。
「警察から何か頼まれて、動いているんですか」
「いえ。今日も、俺が店のことを聞きたくて来ただけです」
「そうですか。警察には、うちのことをどこまでお話しに?」
玲司は口を開きかけ、やめた。食事代を尋ねていたはずが、こちらが何を調べ、誰に話したかを答えている。
「建物のことは伝えてます。あとは、そちらに問い合わせがあれば答えてもらえますか」
久我は少し間を置いたあと、頷いた。
「もちろん。うちの建物で何があったのか、こちらも知りたいですから」
空いた皿を下げに来た店長へ、久我はコップを寄せて場所を空けた。店長が頭を下げると、今度は奥の客にも目を向ける。玲司は、久我の顔から何かを読み取ろうとするのをやめ、スマートフォンをしまった。
「お時間取らせました」
玲司が立つと、葵も椅子を引いた。久我は店長へ顔を向けた。
「お二人の分は、こちらで」
「払う」
葵が遮り、レジへ歩いていった。久我は少し驚いた顔をしたが、引き止めなかった。
玲司も席を離れかけたところで、奥の客が久我に呼びかけた。
「社長さん、帰るわ。ごちそうさま」
「ああ。またね」
振り返った久我の声は、入ってきたときと同じだった。
*
会計を済ませて店を出ると、葵は少し先まで歩いてから、壁際で玲司を待った。玲司が追いつくと、葵は店へ目を向けたまま言った。
「私の方は、何も分かんなかったね」
「建物を誰が使ってたかは、久世たちも調べてる」
「うん。聞けると思ったんだけどな」
葵はなかなか店から目を離さなかった。あれだけ親しげに客と話す男に会えば、何か教えてもらえる気がしたのかもしれない。玲司にも、もう少し聞けたのではないかという思いは残っていた。
「店の話は、久世に伝える」
葵が振り返った。
「ただで食べてる人がいるのに、お金もらってるって?」
「ああ。店長だけじゃなくて、久我も同じことを言った」
「何のために、そんなこと言うんだろ」
「分かんねえ。久我は店長からそう聞いてるだけかもしれないしな」
玲司はスマートフォンを出し、店名の下に二人から聞いた説明を残した。葵も隣から覗き込み、書き終えるのを待っていた。
「でも、どっかで嘘ついてる人はいるんでしょ」
「ああ。前に確かめた話も、今日聞いた話も、両方伝える」
葵が頷き、歩き出しかけたとき、駅の方から大きな声がした。
「こらー!」
玲司が振り向くと、朝倉がこちらへ走ってきていた。目が合い、何か言おうと口を開くより早く、隣の葵が逃げ出した。
「おい、待てよ!」
追って二、三歩走ってから、玲司は自分まで逃げていることに気づいた。朝倉の声が、さっきより近くで響く。
「二人とも! そこで止まってください!」
「場所は送っただろ!」
「だからって、私を置いていっていいわけじゃありません!」
前を走る葵が、痛む右腕を押さえながら振り返った。
「ひなちゃん、待って! 今、久我と話してきたの!」
「何ですって!?」
玲司は葵に追いつき、顔をしかめた。
「何で今それ言うんだよ!」
「だって、飯だけじゃないって――」
「余計まずいだろ!」
背後で朝倉がもう一度二人を呼んだ。葵が慌てて前を向き、玲司もその横へ並ぶ。脚は昨日から重いままで、もう息が切れそうだった。
「ごめん、ひなちゃん!」
「謝るなら止まりなさい!」




