放課後、屋上の宇宙人
もし明日、世界が終わるとしたら。
それでもきっと、私たちはいつも通りに誰かと話して、コンビニで飲み物を買って、夕焼けを綺麗だと思うのかもしれません。
この物語は、地球の終わりを観測しに来た宇宙人の少女と、屋上で彼女に出会った一人の少年の、最後の半年間を描いた短編です。
派手な戦いも、世界を救う奇跡もありません。
ただ、終わりが近づく日々の中で、二人が少しずつ同じ時間を過ごしていく話です。
終わると分かっていても、大切にしたくなるもの。
消えると知っていても、綺麗だと思えるもの。
そんな感情が、少しでも残る物語になっていたら嬉しいです。
高校二年になって最初の春、俺は屋上で宇宙人に出会った。
「この星、あと半年で終わるよ」
そいつは、開口一番そう言った。
昼下がりの屋上。
フェンスの向こうでは、春の風に揺れる街並みが見えている。
グラウンドからはサッカー部の掛け声が聞こえ、校舎のどこかから吹奏楽部の音階練習が漏れていた。
銀色の髪。
制服姿。
やけに白い肌。
そして感情の薄い目。
そいつはフェンスにもたれたまま、まるで今日の天気でも告げるような声で、地球の終わりを口にした。
俺はしばらく黙ってから、
「……宗教?」
と聞いた。
「違う」
「陰謀論系?」
「違う」
「中二病?」
「近い」
少女は真顔で言った。
「近いんだ」
「地球人の分類で言うなら、たぶん近い」
「そこは否定してくれよ」
俺がそう言うと、少女は少しだけ首を傾げた。
「否定すると、説明が長くなる」
「じゃあしなくていい」
「助かる」
変なやつだった。
ものすごく変なやつだった。
けれど、その日の俺はなぜか、屋上の扉を閉めて引き返すことができなかった。
*
俺、朝倉湊が屋上へ来たのは偶然だった。
昼休み、クラスの連中がカラオケの話で盛り上がっていた。
誰が歌が上手いとか、誰と誰が隣に座ったとか、次はどこの店に行くとか。
別に嫌いな話題じゃない。
むしろ普通に楽しそうだとは思う。
でも、そこに自然に混ざれるほど、俺は器用じゃなかった。
誰かに嫌われているわけじゃない。
いじめられているわけでもない。
友達が一人もいないわけでもない。
ただ、教室にいると少し疲れる。
みんな、楽しそうすぎるから。
楽しそうにしていない自分が、そこにいるだけで少し浮いている気がしてくる。
屋上の扉は本来、鍵がかかっている。
けれど一年の秋、俺は偶然その鍵が壊れていることを知った。
それ以来、たまにここへ来る。
誰もいない静かな場所。
空が近い場所。
教室の声が少し遠くなる場所。
俺にとって、屋上はそういう場所だった。
だったはずなのに。
「ここ、俺の場所なんだけど」
俺が言うと、少女はフェンスにもたれたまま空を見上げていた。
「地球人って、すぐ縄張り主張するよね」
「いや、普通だろ」
「宇宙では珍しい」
「宇宙人設定、まだ続けるんだ」
「設定じゃないから」
少女はそう言って、手に持っていた缶を開けた。
プシュッ、と軽い音がした。
次の瞬間。
「……っ!」
少女が顔をしかめた。
「なにこれ」
「炭酸」
「痛い」
「飲み物に対する感想じゃない」
少女は涙目になりながら、缶の中身を睨んでいる。
「宇宙人なのに炭酸知らないの?」
「地球の文化全部知ってるわけじゃない」
「へえ」
「でも観測データでは人気って書いてあった」
「観測データ」
「地球人、炭酸好きすぎ」
「まあ好きだけど」
「理解できない」
そう言いながら、少女はまた一口飲んだ。
普通に気に入っているっぽかった。
「名前は?」
俺が聞くと、少女は少し考えた。
「レナ」
「苗字は?」
「ない」
「ない?」
「個体識別に不便だから、地球用につけた」
「地球用」
「本当の識別名は、発音するとたぶん耳が壊れる」
「じゃあレナでいい」
「うん」
会話のほとんどが意味不明だった。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
*
その日から、屋上へ行くとレナがいた。
毎日。
本当に毎日。
昼休みにも、放課後にも。
フェンスにもたれて空を見ている。
たまに小さな端末みたいなものを触って、何かを記録している。
「何してるの」
「観測記録」
「何の?」
「地球」
「暇なの?」
「忙しい」
「絶対嘘だろ」
レナは表情を変えずにこちらを見る。
「湊は、なんで毎日ここに来るの?」
「俺の場所だから」
「また縄張り」
「そういうんじゃないけど」
「じゃあ何?」
聞かれて、少し困った。
何でもない、と言えばそれまでだった。
教室が苦手だから。
一人になりたいから。
空を見たいから。
誰にも話しかけられたくないから。
どれも正しいけど、どれも少し違う気がした。
「ここにいると、楽だから」
結局、そう答えた。
レナはそれを聞いて、しばらく黙った。
「楽、か」
「何」
「地球人の感情は、まだよく分からない」
「宇宙人だから?」
「うん」
「便利だな、その設定」
「設定じゃない」
そのやり取りを、何度も繰り返した。
レナは変だった。
かなり変だった。
でも、一緒にいると妙に落ち着いた。
無理に笑わなくていい。
話を合わせなくていい。
沈黙していても気まずくない。
誰かといるのに、一人でいるみたいに楽だった。
それが、俺には珍しかった。
*
ある日の放課後、レナが突然言った。
「地球人って、なんで放課後に寄り道するの?」
「え?」
「真っ直ぐ帰れば効率いいのに」
「効率だけで生きてないから」
「非合理的」
「青春ってやつ」
「青春」
レナは初めて聞く言葉みたいに繰り返した。
「それは重要?」
「たぶん」
「何をするもの?」
「知らん」
「知らないのに重要なの?」
「そういうもんだろ」
レナは納得していない顔だった。
「じゃあ今日、教えて」
「何を」
「青春」
そんなことを言われても困る。
俺だって、青春をちゃんとやれている自信なんてない。
けれどレナは本気らしく、じっと俺を見ている。
俺は少し考えてから言った。
「コンビニ行く?」
「それが青春?」
「たぶん、かなり初級編」
*
レナはコンビニに入った瞬間、目を輝かせた。
「広い」
「普通だろ」
「同じ商品がいっぱいある」
「当たり前」
「この棚、全部飲み物?」
「うん」
「異常じゃない?」
宇宙人に異常認定された。
レナは店内をゆっくり回り始めた。
雑誌コーナーで止まる。
「なんで犬の本こんなにあるの」
「人気だから」
「地球、犬強いな」
次はアイスコーナー。
「種類が多すぎる」
「選ぶのが楽しいんだよ」
「合理性がない」
「だから楽しいんだって」
レナは十五分くらい悩んだ末、ソーダ味のアイスを選んだ。
店の外で並んで食べる。
夕方の風は少し冷たかった。
「……冷たい」
「アイスだからな」
「でも美味しい」
レナはそう言って、ほんの少し笑った。
たぶん、初めてちゃんと笑った。
その瞬間、胸の奥が小さく跳ねた。
何だ今の。
そう思って、すぐに考えるのをやめた。
「青春、どう?」
俺が聞くと、レナはアイスを見つめたまま言った。
「甘い」
「雑な感想だな」
「あと、少し寒い」
「それはアイスだからだろ」
「でも嫌じゃない」
レナはまた一口食べた。
「地球、思ったより面白い」
*
春が終わる頃、ニュースでは異常気象の話題が増えていた。
原因不明の流星群。
観測不能の重力異常。
海外で起きた巨大地震。
突然、渡り鳥が進路を変えたというニュース。
ネットでは世界滅亡説が流行っていた。
もちろん、ほとんどの人間は本気にしていない。
俺も最初はそうだった。
けれど、レナはいつも少し先にそれを言い当てた。
「来週、北の方で大きい地震が起きるよ」
本当に起きた。
「再来月くらいから、夕方の空が赤くなる」
本当に赤くなった。
「通信障害も増える」
本当に増えた。
偶然にしては当たりすぎていた。
ある放課後、俺は屋上で聞いた。
「……本当に終わるのか」
レナは静かに頷いた。
「うん」
「あと半年って、本当?」
「正確には、もう五ヶ月と少し」
「止められないの?」
「無理」
「お前ら宇宙人なんだろ」
「だからって万能じゃない」
風が吹いた。
レナの銀色の髪が揺れる。
「私は観測員だから」
「観測員?」
「滅びゆく文明を記録する仕事」
さらっと言われた。
まるで文化祭の係でも説明するみたいに。
「仕事なんだ」
「うん」
「最悪だな」
「よく言われる」
レナは空を見た。
「宇宙にはね、終わる星がいっぱいあるの」
「……」
「戦争。病気。環境崩壊。恒星爆発。資源枯渇。色んな理由で文明は終わる」
「地球は?」
「自然現象」
あまりにもあっさりしていた。
台風の話でもするみたいに。
「だから最初は、地球もその一つだった」
「最初は?」
レナは少しだけ黙った。
「でも今は、少しだけ嫌」
「え?」
「終わってほしくないって思ってる」
その言葉に、胸が少し苦しくなった。
「それって、観測員として大丈夫なの?」
「大丈夫じゃないかも」
「いいのかよ」
「よくない」
レナは小さく息を吐いた。
「でも、地球人は変だから」
「変?」
「終わるかもしれないのに、明日の宿題を気にする。空が赤いのに、アイスの新商品で迷う。ニュースで怖いことを見たあとでも、好きな人の返信に一喜一憂する」
「まあ、そうだな」
「変。でも、たぶん綺麗」
綺麗。
その言葉が、やけに耳に残った。
*
夏が来た。
空は、夕方になると本当に赤く染まるようになっていた。
最初は不気味だと騒がれたけど、人間は慣れるのが早い。
一週間もすれば、クラスの女子たちは「写真盛れる」と言って赤い空を撮るようになった。
レナは浴衣を知らなかった。
「動きにくい」
「そういう服だから」
「非合理的」
「でも可愛いだろ」
「……そう?」
少しだけ照れたみたいに聞く。
その反応がずるかった。
夏祭りは人で溢れていた。
屋台の匂い。
浴衣の人混み。
金魚すくいの水音。
遠くから聞こえる太鼓。
誰もまだ、本気で世界が終わるとは思っていない。
いや、もしかしたら思っているのかもしれない。
思っているけど、分からないふりをしているだけなのかもしれない。
レナは綿あめを見て固まっていた。
「雲?」
「砂糖」
「砂糖を雲の形にする意味は?」
「楽しいから」
「またそれ」
レナは綿あめを少しちぎって食べた。
「……消えた」
「口の中でな」
「不思議」
次に金魚すくいをした。
レナはポイを水に沈めた瞬間、全部破った。
「弱すぎる」
「そういう遊びだから」
「欠陥品では?」
「違う」
射的では、レナが妙に上手かった。
五発中五発命中。
店のおじさんが本気で引いていた。
「宇宙人って射撃得意なの?」
「これは計算」
「可愛げないな」
「景品取れた」
レナは小さな星形のキーホルダーを手に入れた。
安っぽいプラスチック製の星。
でもレナは、それを大事そうに見つめていた。
「そんなに気に入った?」
「うん」
「本物の星を見てるやつが?」
「本物の星は、持って帰れない」
何気ない言葉のはずなのに、少しだけ寂しかった。
花火が上がる。
赤、青、黄色。
夜空に咲いて、すぐに消える。
レナは空を見上げたまま、呟いた。
「綺麗」
「宇宙でも花火あるの?」
「ない」
「意外」
「こんなにすぐ消える光を、わざわざ作らない」
「地球人は作るよ」
「うん」
レナは花火を見たまま言った。
「だから、地球は変」
そして少し間を置いて、
「でも、好き」
と言った。
俺はその横顔から目を逸らせなかった。
*
八月の終わり、俺たちは海へ行った。
学校は臨時休校が増えていたし、親ももう細かいことを言わなくなっていた。
世の中全体が、少しずつ終わりの支度を始めていた。
電車は空いていた。
レナは窓の外をずっと見ていた。
「海、初めて?」
「近くで見るのは初めて」
「宇宙からは?」
「何度も見た。青かった」
「雑だな」
「でも近くで見ると、音がある」
駅から歩いて砂浜へ出ると、海風が強く吹いた。
人はほとんどいなかった。
夏休みの海なのに、どこか季節外れみたいだった。
レナは靴を脱ぎ、波打ち際に立った。
波が足に触れる。
「冷たい」
「海だからな」
「しょっぱい?」
「舐めるなよ」
「もう舐めた」
「早いな」
レナは真面目な顔で言った。
「美味しくない」
「当たり前だろ」
俺たちは砂浜に座った。
遠くの水平線は少し赤く滲んでいる。
「湊は、地球が終わらなかったら何したい?」
レナが聞いた。
「急だな」
「いいから」
俺は少し考えた。
「普通に大学行って、普通に働いて、普通に生きる」
「普通好きだね」
「普通が一番難しいんだよ」
「そっか」
「レナは?」
「私は次の星へ行く」
「……そっか」
胸が少し痛んだ。
当たり前だ。
レナは宇宙人で、俺は地球人。
一緒にはいられない。
そんなこと、最初から分かっていたはずなのに。
「ねえ、湊」
「何」
「地球人は、別れがあるって分かってても、誰かと一緒にいるの?」
「いるんじゃない」
「どうして?」
「一緒にいたいから」
「終わるのに?」
「終わるから、かも」
レナは何も言わなかった。
ただ、波の音を聞いていた。
しばらくして、レナは小さく言った。
「私、それ苦手」
「何が」
「終わるって分かってるものを、大事にすること」
「宇宙人はしないの?」
「観測員はしない」
「そっか」
「でも最近、少し分かる」
レナは俺を見た。
「湊といると、終わるのが怖くなる」
その言葉に、何も返せなかった。
*
九月。
空は赤いまま戻らなくなった。
世界中で避難計画が始まった。
けれど、全員が助かるわけではなかった。
ニュースは少しずつ言葉を選ばなくなった。
衝突。
壊滅的被害。
人類存続確率。
選別避難。
そんな言葉が、当たり前みたいに流れるようになった。
学校もほとんど休みになった。
それでも俺は、毎日屋上へ行った。
レナがいるから。
ある日、屋上に着くと、レナはいなかった。
初めてだった。
フェンスの前にも、給水塔の影にもいない。
空だけが赤く広がっている。
胸がざわついた。
まさか、もう次の星へ行ったのか。
何も言わずに。
そう思った瞬間、怖くなった。
「レナ!」
屋上で叫ぶ。
返事はない。
階段を駆け下り、校舎を探す。
空き教室。
廊下。
昇降口。
体育館裏。
どこにもいない。
最後に、校門の近くにある自販機の前で見つけた。
レナは缶の炭酸飲料を持って立っていた。
「いた」
俺は息を切らしながら言った。
「何してんだよ」
「炭酸を買ってた」
「それだけ?」
「うん」
「心配しただろ!」
思ったより大きな声が出た。
レナは少し驚いた顔をした。
「心配?」
「急にいなくなるから」
「少し離れただけ」
「そういう問題じゃなくて」
そこまで言って、俺は言葉に詰まった。
自分でも分かってしまった。
怖かったのだ。
レナがいなくなることが。
世界が終わることよりも、その瞬間は怖かった。
レナは缶を見つめながら言った。
「ごめん」
「……いや」
「心配されるの、初めてかも」
「観測員なのに?」
「観測員だから」
レナは缶を開けた。
プシュッ、と音が鳴る。
もう顔をしかめなかった。
「炭酸、慣れたな」
「うん」
「地球人に近づいた?」
「たぶん」
レナは少し笑った。
俺も笑った。
でも、その笑顔が少しだけ泣きそうに見えた。
*
十月。
世界は、終わりを認め始めた。
学校は正式に休校になった。
街の店は閉まり、電車の本数は減り、夜になると停電が起きた。
それでもコンビニだけは、なぜかしぶとく営業していた。
俺とレナは、最後の営業日だというコンビニでアイスを買った。
ソーダ味はもう売り切れていた。
レナは少し迷って、バニラを選んだ。
「ソーダじゃなくていいの?」
「今日は違うのにする」
「成長したな」
「地球人っぽい?」
「かなり」
店の外で食べる。
街灯は半分くらい消えていた。
遠くでサイレンが鳴っている。
「ねえ、湊」
「何」
「私、観測記録に嘘を書いた」
「嘘?」
「地球文明は、滅亡直前まで文化的活動を継続。情緒的価値を重視する傾向が強い」
「それ嘘なの?」
「本当。でも少し足した」
「何を」
レナはバニラアイスを見つめたまま言った。
「美しい文明だった、って」
胸が詰まった。
「それは嘘じゃないだろ」
「観測記録には、主観を入れない決まり」
「じゃあ怒られるな」
「うん」
「怖い?」
「少し」
「そっか」
俺は赤い空を見上げた。
「でも、俺は嬉しいよ」
「どうして?」
「誰かが地球のことを綺麗だったって残してくれるなら、ちょっと救われる」
レナは何も言わなかった。
ただ、アイスを最後まで食べた。
*
世界が終わる前日。
俺は家族と最後の朝食を食べた。
母さんはいつもより豪華な味噌汁を作っていた。
父さんは普段飲まないコーヒーを淹れていた。
妹は泣きそうな顔で、スマホを握っていた。
誰も、世界の終わりについて話さなかった。
テレビはもう映らない。
ネットもほとんど繋がらない。
ただ、外の空だけが異様に明るい。
「今日も出かけるの?」
母さんが聞いた。
俺は頷いた。
「うん」
「屋上?」
驚いて母さんを見る。
「知ってたの?」
「最近、毎日同じ方向に出ていくから」
「そっか」
母さんは少しだけ笑った。
「大事な人?」
俺は答えに迷った。
友達。
宇宙人。
観測員。
世界の終わりを告げた少女。
どれも正しいけど、どれも違う。
「うん」
結局、それだけ言った。
「大事な人」
母さんは何も言わずに頷いた。
「行ってきなさい」
「いいの?」
「最後くらい、自分で決めなさい」
父さんがコーヒーを飲みながら言った。
「帰ってこられるなら帰ってこい」
「うん」
「帰れなくても、ちゃんと生きてろ」
変な言い方だった。
でも、分かった。
「うん」
俺は家を出た。
玄関を閉める直前、妹が小さく言った。
「お兄ちゃん」
「何」
「ちゃんと告りなよ」
「は?」
「最後なんだから」
「いや、そういうんじゃ」
「そういうんでしょ」
妹は泣きそうな顔で笑った。
「ばればれ」
俺は何も言えず、玄関を出た。
*
学校は静かだった。
校門は開いていた。
誰もいない。
廊下には、文化祭のポスターが貼られたままになっている。
開催されるはずだった行事。
提出されるはずだった課題。
使われるはずだった教室。
全部が途中で止まっていた。
屋上の扉を開ける。
レナはいつもの場所にいた。
フェンスにもたれて、赤い空を見ていた。
「来た」
「来た」
それだけ言って、隣に座る。
空には、いくつもの光が見えていた。
流星群というには大きすぎる。
星というには近すぎる。
終わりが、目に見える距離まで来ていた。
「怖い?」
俺が聞くと、レナは少しだけ頷いた。
「少し」
「観測は慣れてるんじゃないの」
「慣れてる」
「じゃあなんで」
「今回は、湊がいる」
ずるい答えだった。
俺は何も言えなくなる。
風が強くなった。
街のどこかで、サイレンが途切れた。
「ねえ、レナ」
「何」
「地球が終わらなかったら、どうする?」
「終わるよ」
「もしもの話」
レナは少し考えた。
「もう少し、コンビニに行きたい」
「そればっかだな」
「あと、花火をもう一回見る」
「うん」
「海にも行く」
「うん」
「湊の教室も見てみたい」
「つまんないよ」
「それでも」
レナは俺を見た。
「湊がいた場所だから」
胸が苦しくなった。
言わなきゃいけないと思った。
妹の言葉なんて関係ない。
世界が終わるからでもない。
ただ、今言わなかったら、俺はたぶん最後の瞬間まで後悔する。
「レナ」
「うん」
「俺、お前のこと好きだ」
言った。
言ってしまった。
終わる世界の屋上で。
赤い空の下で。
宇宙人に告白した。
レナは瞬きをした。
それから、少し困ったように笑った。
「知ってた」
「知ってたのかよ」
「観測員だから」
「便利すぎるだろ」
「でも、言われると違う」
レナは自分の胸に手を当てた。
「ここが、痛い」
「それ、たぶん嬉しいんだよ」
「嬉しいと痛いの?」
「たまに」
「地球人、面倒だね」
「今さらだろ」
レナは笑った。
そして、小さな声で言った。
「私も、湊が好き」
その瞬間、世界の終わりが少しだけ遠くなった気がした。
*
夕方。
空が白く光り始めた。
遠くで何かが崩れる音がする。
地面が小さく震える。
街の灯りはほとんど消えていた。
けれど屋上だけは、夕焼けみたいな赤い光と、終末の白い光が混ざって、不思議なくらい綺麗だった。
レナは俺の隣に座っている。
手を繋いでいた。
冷たい手だった。
「ねえ、湊」
「何」
「観測記録、最後の一文を決めた」
「何て書くの」
レナは空を見上げた。
「地球は、最後まで誰かを好きになれる星だった」
俺は笑った。
「主観入りすぎ」
「怒られるかな」
「めちゃくちゃ怒られる」
「そっか」
レナも笑った。
「でも、いいや」
空の光が強くなる。
風が止まった。
音が消える。
世界が息を止めたみたいだった。
「怖い?」
レナが聞く。
「怖い」
「私も」
「そっか」
「でも」
レナは俺の手を少し強く握った。
「悪くない半年だった」
「俺も」
視界が白く染まっていく。
何も見えなくなる直前、レナが言った。
「地球、綺麗だった」
その声は、泣いているみたいで、笑っているみたいだった。
俺は最後に、彼女の手を握り返した。
そして世界は、光に包まれた。
*
観測記録、地球文明最終報告。
対象惑星、現地名・地球。
文明レベル、低〜中程度。
文化活動、多様。
感情表現、極めて複雑。
終末直前まで、娯楽、対話、恋愛、食事、祭事を継続。
特記事項。
この星の生命体は、終わると分かっているものを大切にする。
消えると知っている光を見上げ、溶けると知っている氷菓を味わい、別れると知っている相手の手を握る。
非合理的。
けれど、美しい。
最終記録。
地球は、最後まで誰かを好きになれる星だった。




