051 アフター・パーティー(後)
コツコツと、自分の足音だけが響く石灰洞の中をアリソンは歩いていた。
かつて翡翠の森と呼ばれていた洞窟。初めて訪れた時は、エリザベスと共に歩いていた道だ。それをなぞるように、一人分の重さで踏み締めて行く。
魔人の長のことを、アリソンはよく知らない。それもそのはずで、長と言葉を交わしたのはたった一度きりなのだから知っている方が不自然だった。
それでも、長が自分やラズにとって危険な存在ではないという確信があるのは、もしかしたらイグニスが彼のくれた力を通して教えてくれているのかもしれない。
『久しぶりじゃのう、業火の少女よ』
洞窟の最深部。そこに静かに厳かに佇む老木の木の幹が、メキメキと軋む音を立てて口の形に裂けていく。
様々な姿形をしている魔人の中でも、長は一際人間からかけ離れた姿をしている。巨大な老木──そうとしか言いようがない長を見上げて、アリソンは口を開く。
「お久しぶりです、長」
『うむ。して、用件はなんじゃ?』
荘厳な雰囲気が漂う中、翡翠に照らされた長を前にアリソンは息を吸って、単刀直入に切り出す。
「偉大なる魔人の長よ。どうか人間と和解して、共存してくれませんか」
アリソンの言葉に、長の目に当たるであろう木の窪みが赤く光り、そして。
『それは⋯⋯我々魔人を裏切るということかね?』
「ッう、ぁああ!」
伸ばされた木の枝が、アリソンの首を掴んで持ち上げる。反射的に枝を両手で掴むが、びくともしない。
『その身体に流れる力は、紛れもない我らの同胞のもの。じゃが所詮は人間だったということか⋯⋯すまぬな、お主も巻き込まれた身だと分かってはいるが、我は長として同胞を守らねばならぬのだ』
息が上手くできず、宙に浮いた両足が暴れそうになるのを耐えながら、アリソンは必死に言葉を絞り出す。
「っち、がう⋯⋯! わた、しは⋯⋯魔人を、裏切ってない⋯⋯!」
『ほう? では何故じゃ? お主もかつては我々に与し、人間の敵となることに同意したはずじゃ。大方、水禍の主人の話を聞いて気が変わったのだろう? もちろん、責められる話ではないがね』
それは違う。私は。
アリソンは渾身の力で、本能的に抵抗しようとする身体を抑えつけ、無抵抗を貫きながら答える。
「め、女神、を⋯⋯殺します⋯⋯ッ!」
『⋯⋯っ、なんじゃと?』
瞬時に解放され、地面に落ちたアリソンは激しく咳き込みながら長を見上げる。
「勇者は女神によって選ばれた⋯⋯いいえ、女神によって作られた世界の防衛機構で、そして女神は魔人を排除しようとしているって聞きました。だったら、女神を殺せばもう二度と勇者は生まれないし、魔人はもう脅かされずに済むんじゃないですか?」
瞬きをするように赤い光が点滅し、長の口から訝しげな声が流れ出る。
『⋯⋯己の言っている意味が分かっているのかね?』
「分かっています。勇者も女神もいなくなれば、世界はきっといつの日か滅びる。それでも⋯⋯」
それでも構わない。
地面についた手に力を込め、アリソンはよろめきながらも立ち上がる。
「私、きっと悪い人ですね。世界が滅んでもいい、なんて。でも⋯⋯家族が愛したドルフ村を守りたいし、レインナートのことがやっぱりどうしたって許せないから、だから、あの人を殺します。あの人を守ろうとするのなら、女神も殺して、世界を女神から解放します」
世界が女神の支配から解放されれば、女神によって魔人を排除するように仕向けられている人間たちも、真の意味で魔人と和解することができるようになるはずだ。
アリソンの言葉に長は少し考え込んだ後、再びしわがれた声を紡ぐ。
『お主の言いたいことは分かった。じゃが、ひとつ聞かせてくれぬか? お主はその提案を、人間として言っているのかね? それとも、我らが同胞としての意見かね?』
「どっちでもないです。私は人間の代表でも魔人の代表でもなく、ただのドルフ村のアリソンとしてお話ししています」
長と面と向かって話していると、膝が震えそうになる。それは恐怖からではなく、跪くべきだという魔人の本能が訴えるものだ。
だけど、今は膝を折りたくない。アリソンはただのアリソンとして、ただの村娘として長と話をしなくてはならなかった。
『⋯⋯ふむ』
目の前の老木は頷くように枝を震わせて、言った。
『ではこうしよう、アリソン──お主がもしも本当に勇者を倒すことができたのなら、その時はお主の提案に従い、人間と共存の道を模索しよう。⋯⋯だが、共存とは我らがその気になるだけで出来るものではないぞ、分かっておるのじゃろうな? もしも人間側にその気が無いのなら、我々は女神の守護を失った彼奴らを蹂躙するまでよ』
長が脅しで言っているのではないことぐらい、アリソンにも分かる。
真剣な眼差しを長に向けて、アリソンは頷く。
「はい、分かっています。人間の王は、私が説得します」
長の赤い目がくるくると点滅し、やがて目の色が黄色に転じる。
そして、木の幹の裂け目が緩やかなカーブを描く。
『先ほどは手荒な真似をしてしまったのう。怪我はないかね?』
長は、アリソンを信用してくれたらしい。
頭を横に振りながら、思わず自分の首を触る。もう痛みはないけれど、跡が残るだろう。
──心配かけちゃうだろうな。脳裏にベッドに横たわるラズの姿が浮かび、アリソンは少し目を伏せる。
『ああ、そうじゃ。我が同胞の不義理を詫びねばならぬな』
「え?」
『水禍のことじゃよ。彼女が勇者を下手に刺激したせいで勇者が魔人に敵意を抱くようになったというのなら、元はと言えば今日の災い全ての元凶はアレにある。⋯⋯すまなかった』
ギギギ、と音を立てて頭を垂れるように枝が折れ曲がる。その姿を見てやけに胸中が騒ぐのは、長に頭を下げさせてしまったことに対して、魔人としての本能が慌てているのだろうか。
「えっと、ベティさんだけが悪かったとは思ってないですよ。結局、どんな思惑があれ、私が助けられたのも事実でしたし⋯⋯ベティさんにも言いましたけど、最終的に何の関係もない私の家族を殺したのがレインナートであることに変わりはありませんから、私の仇は勇者です」
『⋯⋯では、せめてもの謝罪として、彼女も知り得ぬ情報を与えよう』
元の位置に戻った枝を見てホッとするアリソンに、長は先ほどよりも幾分か穏やかな声色で続ける。
『まず、今のお主では勇者を殺すことはできない。否、誰にもできないと言うべきじゃな』
「それは⋯⋯レインナートがとても強いから、ですか?」
『そうだとも言えるし、そうでないとも言える。今の勇者は女神の力との同化を深めた状態にある。故に、女神の力の一端を扱える。人間界で各地を襲っているワイバーンなどはその筆頭じゃな。女神とは万物の母であり、この世界の創造主。我ら魔人も女神によって作られた物、創造主の力を操る勇者の息の根を止めるのはおろか、ワイバーンを完全に倒すこともできぬだろう』
「え? でも⋯⋯」
あの時、王都が襲撃された時にアリソンはワイバーンを何体か倒しているはずだ。
疑問が顔に出ていたのか、長は首を振るように枝を振る。
『お主は確かに、何体かのワイバーンを無力化したのだろう。じゃが、完全に消し去ることはできない。この世の誰もが、女神の創造物である以上は』
「そんな⋯⋯! じゃあ、もうレインナートを倒すことはできないって言うんですか!?」
ここまで来てそんなことって──憤るアリソンに、長は『否』ときっぱりと言う。
『一つだけ方法がある。旧神の力を借りるのじゃ』
「キュウ⋯⋯え?」
『ここからは水禍も知り得ぬことだが、この世界を作りし神は一度代替わりをしているのじゃ』
「代替わりって⋯⋯神様は一人じゃないんですか?」
『うむ⋯⋯かつてどのような事があったのかは、すでに失伝してしまっている。だが、何かが起こり、それまでの世界──便宜上"旧世界"と呼ぼうかの──は滅び、旧世界を作り管理していた神は座を退いて、今の女神ベガが新たに世界を作り直したことは確かじゃ』
世界が一度滅び、作り直されたなんて言われても、話が壮大すぎて頭に入ってこない。
呆然とするアリソンに、長は『信じられぬのも無理のないことだろう』と気遣わしげに言う。
『だが、本当のことじゃ。そして、今の女神ベガに対抗するのならば、旧神の力を借りるしかない』
「でも旧神はいなくなったんじゃないんですか?」
『否。神としての座は女神ベガに譲りながらも、かろうじて存在は残っておる。神々の間で何かの取引がなされたのかもしれぬ』
「はあ⋯⋯それで、その旧神っていうのはどこにいるんですか?」
『始まりの地じゃ』
始まりの地?
首を傾げたアリソンに、長のおそらく頬に当たる部分が、微笑もうとしているかのように蠢く。
『旧世界が始まった最初の場所、始原の庭。そこは未だに旧神の加護が薄く漂っているという。──奇しくも、お主にとって縁の深い土地じゃ』
「え⋯⋯まさか」
『そう、お主の故郷──ドルフ村じゃよ』
◇◆◇
長との対話を終えたアリソンは、ベッドで眠るラズの側に座っていた。少しひとりで考えたいこともあったし、それに、何より彼女が目を覚ます時には一番に会いたかったから。
七色のランタンに照らされた寝室の中、どれだけじっとしていたことだろう。ふいにその瞬間はやってきた。
「おはようございます、ラズ」
「⋯⋯アリソン?」
ふるりと睫毛を震わせたラズが起き上がり、吸い込まれるような蒼と目が合う。
「何だか、前にもこんなことがあった気がするわね」
「それはそうですよ。セネカの故郷で罠に嵌められた時のこと、忘れたんですか? あの時は本当に生きた心地がしなかったんですからね。ラズが死んだらどうしようって、ずっと怖かったんですから。⋯⋯忘れてもらっちゃ困ります」
ぎゅっとシーツを握ったアリソンの手が、ラズの手でゆっくりと解かされる。
下から上目遣いで覗き込んできた彼女は少し逡巡した後、囁くような声で「悪かったわね」と言う。
「本当ですよ。あの時、本当は寝る前から体調が悪かったんでしょう。なのにそれも言わないんですから」
「悪かったって言ってるでしょ」
「⋯⋯今回だって。もし私がピアスを見つけなかったら、どうするつもりだったんですか。怒ってるんですからね、私」
ポケットからラズのピアスを取り出して彼女に返しながら、アリソンはシーツに視線を落とす。
「そうね⋯⋯あなたなら見つけられると信じてた、っていうのはどう?」
「素敵ですね。で、本当のところは?」
「やさぐれないで頂戴、これだって本当のことよ。まあ、見つけられなくても目を覚ますことは分かっていたんだから、良いじゃないの」
良くない、全くもって良くない。
頭を抱えたくなるアリソンに、ラズは「それにしても」と前置きしてニヤリと笑う。
「よく分かったじゃない。あたしが睡眠薬を盛られていると分かった上で飲んだなんて」
そう、それこそがアリソンがこんなにもラズに対して腹を立てている理由なのだった。
エリザベスはまるで自分がラズを騙して睡眠薬を入れた物を口に入れさせたような物言いだったが、それはあり得ない。何故なら、ラズはかつてレインナートに耐性をつけるためだとか言われて、毒を飲まされていたのだ。毒に耐性のある彼女が、毒を浴びるほど飲んでいた彼女が、睡眠薬に気付かぬはずがない。
「⋯⋯どうしてわざと飲んだんですか」
「なんでもいいでしょ、別に」
いつもに増して無愛想でつっけんどんに振る舞う彼女に、ああもう、と苛立ちによく似た感情が頭をもたげる。
「ねえ、ラズ。話をしましょうよ」
「は?」
「私も、今までラズに黙ってたことや嘘をついていたことを話しますから、ラズも話してくれませんか? 隠してたって、良い方に転ぶことばっかりじゃないってもう分かってるでしょう」
真っ直ぐにラズを見つめると、彼女は少し居心地悪そうに視線を逸らす。
そんなラズの手首を軽く握って、アリソンは「それに」と続ける。
「私たち、相棒じゃないですか。同じように大切な人を失って、同じ人を憎んで、世界よりも何よりも自分の怒りを取った。そうでしょう」
「⋯⋯」
「だから、話がしたいんです」
ゆっくりと、本当にゆっくりと視線が合って、星の煌めきの中にアリソンが映る。
「⋯⋯アンタのこと、頼りなくて、守ってあげなきゃって思ってたのに」
「私はラズのこと、頼りになるけど守らなきゃって思ってましたよ」
「恩人の恋人だから?」
「それもありますけど、それだけじゃないですよ。ラズは? 恋人の恩人だっていうだけで、私を守ってくれたんですか?」
「⋯⋯言うようになったじゃない」
「おかげさまで」
軽口を交わしながら、ラズの穏やかな表情にアリソンは少し安心する。
「えっと、どこから話しましょうか。私の隠し事なんて、ラズにはいくつかは気付かれてる気がしますけど⋯⋯」「ふうん? それって例えば⋯⋯そうね、大司教の死体をどうしたのか、とか、ドワイトを倒した後にこっそり何かしに行った事とか?」
「え、ええっ!? ま、待ってください、なんで知ってるんですか!? 完璧に隠せてると思ったのに!?」
ひっくり返りそうになったアリソンに、ラズはくすくす笑って小首を傾げて見せる。
今まで一度も追及してこなかったから隠し通せていると思っていたのに、バレていただなんて一体どうして。ショックを受けるアリソンに、いつもの調子を取り戻したラズが悪戯に笑って口を開く。
「あとは──」
「まだあるんですか!?」
揶揄うようなラズの口調に、アリソンが真剣に顔を青ざめさせた時、ふいに大きなものが割れるような──まで空間にヒビが入るような音が響き渡った。同時に地面が大きく揺れ、体勢を崩したアリソンはラズ共々ベッドに倒れ込む。地震だ。でもそれだけじゃない。
思考を回そうとしている間にも揺れは続いており、しかもだんだんと酷くなっている。天井からぶら下がったランタンが激しく左右に揺れ、棚の上の小物が落ちて転がっていく。そこら中から物が倒れる音や、割れる音が聞こえてくる。
「何これ⋯⋯地震? でも魔界に来てからこんな大きな地震、今までに一度も⋯⋯」
困惑したようなラズの言葉に、けれどアリソンは違うと首を振る。
「⋯⋯違います」
「アリソン?」
「これは、地震じゃない。これは⋯⋯!」
アリソンの言葉を裏付けるように、再び何か空間ごと割れるような破裂音が聞こえたかと思うと、魔界全体に誰かの声が響き渡る。
その声はどこまでも優しく、どこまでも穏やかで、そして隠しきれないほどの憎悪を滲ませて嘲笑う。
『やあ、元気にしていたかい? ──惨めな蛆虫たち』
勇者レインナートの言葉に、アリソンは奥歯を噛み締め、傍らのラズをぎゅっと無意識に抱き寄せるのだった。
最後まで読んで下さり、ありがとうございます。
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