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049 ファム・ファタール

 



「そこまで言うのなら、お話ししましょう。わたくしの過ちと、全ての始まりを」


 そう言うと、エリザベスは立ち上がり、アリソンに向けて手のひらを差し出した。


「⋯⋯ベティさん?」

「どうせなら、直接"見て"もらった方が早いと思いますの。さあ、おいでなさい」


 差し出された手のひらに、アリソンは彼女の誘惑に乗った時のことを思い出す。勇者たちを殺せば家族を生き返らせられるだなんて、あまりに己に都合が良すぎる話に首を縦に振ったこと。

 だけど今はもうあの時の自分じゃない──私はもう藁に縋った先には何もないことを知っている。だから大丈夫。そう思い直したアリソンは、迷いを捨て彼女の手を取った。


「それで、どこへ行くんですか?」

「わたくしの地下室へ」

「地下室?」

「少し遠いですけれど、しっかり着いてきてくださいませ」


 首を傾げたアリソンは、しかしものの数分で彼女の言った意味を理解する。

 本棚の裏に隠されたスイッチ。鏡の裏に隠された通路。決められた手順でないと開かない扉。暗号仕掛けの箱に入った鍵。


「時間が掛かって仕方ありませんでしょ? わたくしだけなら水を通って行けば良いのですけれど、今は貴女が一緒ですもの。せっかくなら、貴女にもこの通路を覚えてもらった方が良いでしょう?」

「⋯⋯わざわざ遠回りさせてるってことですか?」


 アリソンの質問には答えず、エリザベスは小さく微笑む。沈黙は肯定、と呆れを含んだ目で見つめ返すと、もっと楽しそうな顔をされてしまうのだから勝ち目がない。

 そうこうしているうちに、ようやく複雑怪奇に隠された先へようやくたどり着いたのだろうか、エリザベスの引導のもとアリソンは小さな部屋の中へと足を踏み入れる。

 そこは天蓋付きのベッドや魔界らしい黒で統一された調度品や家具、そして大きな姿見のある、どこか見覚えのある部屋だった。


「この部屋は⋯⋯」

「客人をもてなすためではない、わたくしの本当の私室ですわ」


 そう言いながらエリザベスは姿見に顔を近づけ、何事かを囁く。すると、何も無かった部屋の隅の床が動き、下り階段が現れた。

 この部屋にたどり着くまでにも色々な仕掛けがあったというのに、ここにも仕掛けがあるとは。なんて厳重に隠されているのだと息をついたアリソンを、エリザベスは「こちらですわ」と階段へ誘う。


「この先がわたくしの、秘密の地下室ですわ」


 心なしか、少し誇らしげに言った彼女に手を繋がれてアリソンは階段を降りる。

 階段の下に広がっていたのは、書架が立ち並ぶ、湿気に満ちた地下室。どうやら部屋の奥には大きな釜が、そして壁際には大きな水槽があり、その中で何かが蠢いているようだったが、明かりがない部屋の中はほの暗く、目が暗闇に慣れてきても大まかな様子しか掴めない。

 慎重に踏み出した足の爪先に何かが当たり、アリソンは身を屈める。ころころと床を転がる小さな瓶を拾い、アリソンは鼻をすんと鳴らす。

 まとわりつくような、それでいて嫌味を感じさせない甘い蜜のような香り。この香りは──


「やっぱり、ベティさんの香水だったんだ⋯⋯」

「あら、拾ってくださったんですのね? ⋯⋯どうしましたの、おかしな顔をして?」

「いえ、なんでもないです」


 香水瓶をエリザベスに返し、アリソンは彼女と共に大釜の前に並んで立つ。

 大釜の中はボコボコと煮立った紫色の液体で満ちており、ひどい悪臭を放っていた。思わず鼻から口を覆ったアリソンの横で、エリザベスは平気な顔をして近くの戸棚から取り出した透明の綺麗な瓶の中身を大釜の中に入れている。


「よく平気ですね⋯⋯」

「ああ、人間にはキツい香りでしたのね。でも、すぐに良くなりますわよ」

「え? ⋯⋯あ、本当だ」


 あっという間に無臭に、そして透明な液体に変わった大釜の中身を凝視していたアリソンの背に、エリザベスの手が添えられる。

 反射的にその手を叩いて退けようとした時、アリソンは既にエリザベスの腕の中に捕らえられ、そして大釜の中に一緒に落ちるところで。


「ベ──」

「大丈夫、どうかわたくしに身を任せてくださいませ。わたくしの全てを貴女にお見せしますわ」


 とぷん、と音がして背中が水に触れ、ひんやりとした感触にぞわりと背筋が寒気立つ。

 それでも耳元で囁くエリザベスの声がとても真剣だったから、アリソンは抵抗するために浮かした手から力を抜き、エリザベスの記憶へと沈む感覚に身を任せた。



◇◆◇



 次にアリソンの意識が浮上した時、そこは眩しい光の降り注ぐ森林の中だった。

 背中の湿った感触に思わず身を起こしたアリソンは、周囲をきょろきょろと見渡すが、どこかの森林の中らしいということ、そして自分は土の上に仰向けになっていたらしいこと以外は分からない。土が湿っていたのは、雨が降った後だろうか。

 けれど、土に触れていたはずのアリソンの身体には砂粒一つもついておらず、ここが現実ではないことを示している。エリザベスの説明が正しければ、ここはエリザベスの記憶の中ということになるのだろう。


「ああ、目が覚めましたのね」


 エリザベスの声に振り向くと、彼女はすぐそばまで来ていた。立ち上がったアリソンは服の埃を払おうとして、その必要がないことを思い出し、行き場のない手を誤魔化すように背中に回す。


「ここはベティさんの記憶の中、なんですよね?」

「ええ、あまりに懐かしくて少し見て回っていましたの。およそ百数年前の人間界ですわね」

「ひ、ひゃく!? ベティさんって、あの、何歳なんですか?」

「あら、女性に年齢を尋ねるものではありませんわよ? まあ、わたくし達魔人は人間よりも寿命が長いですから気にしませんけれど」


 くすくす笑った後、エリザベスはある一点を見つめると「来ましたわ」と呟く。

 彼女の指し示す方向を見ると、そこには、今より少しだけ雰囲気が幼いエリザベスと、もう一人、見知らぬ人物がいる。ライラック色の長髪に切れ長の目をした中性的なその人は、木の杖を手に持ち、在りし日のエリザベスを先導して歩いているようだった。


「あの人は誰なんですか?」

「先代の水を司る魔人ですわ。わたくしはあの方からこの異能(アビリティ)を受け継ぎましたの」


 エリザベスは懐かしそうに目を細め、その人物を視界に収めている。


「魔人は生まれつき高い再生能力という異能(アビリティ)を持っていますけれど、それ以外の異能(アビリティ)は基本的に継承していくんですのよ。貴女がイグニスから炎を操る異能(アビリティ)を継承したように」

「じゃあ、あの人はもう⋯⋯?」

「ええ。わたくしに異能(アビリティ)を受け継ぎ、消滅しましたわ。わたくし達はこうして知恵と力を受け継いで、世代を交代していく生き物なんですのよ」


 エリザベスの説明を聞きながら、アリソンは彼女の先代を見やる。一見人間のように見えるが、白い肌には鱗のようなものがあった。イグニスには鱗のようなものはなかったが、そういえば額をいつも隠していたのを思い出す。もしかしたら角のようなものがあったのかもしれない。


「そういえば、魔人って結構見た目の個人差がありますよね。訓練所の警備員さんとか⋯⋯」

「ああ、リザードマンでしたものね。人間で言うところの、肌の色や身体能力の違いのようなものですわ」


 答えながらエリザベスは、何かを話している過去の己と先代の方へと足を進める。当然だが、彼らは記憶の中の存在なのでこちらには気づく様子はない。きっとこちらも触れようとしても触れられないのだろう。セネカによって悪夢の中でラズの記憶を覗いた時のことを思い出しながら、アリソンは彼らの言葉を拾おうと耳を澄ませる。


『あなたはこの景色が好きですか? エリザベス』


 しわがれたような声は、先代のものだろう。見た目には高齢に見えないが、杖をついて歩いていることを考えれば、もしかしたら亡くなった祖父母のような年齢なのかもしれない。

 先代の問いに、ありし日のエリザベスが頷く。


『ええ。ここは魔界と違って、とても刺激に満ちていますのね。日差しがこんなにも暖かいだなんて、知りませんでしたわ』

『では、ここに住みたいと思いますか?』

『⋯⋯わたくし達は魔界でしか生きられないのではありませんの?』


 首を傾げた過去のエリザベスに、先代は緩やかに首を振る。


『魔人の身体が人間界に適していない、という意味であれば、それは正しくありません』

『では何故、わたくし達は魔界で暮らしていますの? こんなにも広く、美しく、豊かな土地がありますのに』

『それは、ここが人間によって支配されているからです。人間は我々魔人を脅威として捉え、敵であると見做している。だからここで暮らしたいのなら、エリザベス、あなたは人間のフリをするか、あるいは──人間界を魔人の手中に収めてしまうしかありません』


 先代の言葉に過去のエリザベスが目を丸くし、アリソンは「えっ」と短く声を発する。


「ちょっと極端すぎませんか?」

「貴女はそう思いますの?」


 思わず口をついて出た言葉に、今アリソンの隣にいるエリザベスが問いかける。いつものように捉え所のない微笑を浮かべた彼女に、アリソンは返事に詰まる。

 そうだ、だって人間の世界で魔人がどんな目に遭うのか、アリソンは目にしている。だが、アリソンが己の軽率な発言を詫びるよりも早く先代の更に衝撃的な発言がその場に響く。


『エリザベス、あなたは魔人と人間が元は同じ存在であったことを知っていますか?』


 ──今、なんて。

 固まったアリソンは、恐る恐る隣にいるエリザベスの顔を見上げるが、彼女は何も言わず、ただ先代と過去の自分のやり取りを見つめていた。


『そう、我々は同じ存在だったのです。それが、長い長い⋯⋯人間よりも遥かに寿命の長い我々にとっても永久に思える時間の中で、異なる存在に分かれたのです。いつから我々が魔界に追いやられていたのかは分かりませんが、それでもずっと敵対し続けてきたわけではありません。先代の、そのまた先代の⋯⋯いつかの時代には和解したこともありました。長の元に納められているフランベルジュは知っていますね?』

『ええ。もしかしてあれは⋯⋯』

『あなたも気付いたようですね。その通り、あれは和平交渉の証に人間から贈られた物なのです。当時の人間にとっての最高傑作だった武器だと伝わっています。そしてその見返りに、我々魔人からはフォルティスが人間に贈られました』


 フォルティス、という単語にアリソンは「それって勇者の」と呟く。


「そうですわ。人間はわたくし達によって贈られた剣を聖剣と呼び、わたくし達によって贈られた剣でわたくし達を破滅に導こうとしているんですのよ」


 皮肉な話ですわね、と笑いながら言っているものの、エリザベスの目は笑っていない。


『フォルティスがわたくし達の作ったものだったなんて⋯⋯でも、そうですわね。あの剣は人間が作ったにしては強力すぎますもの』

『そして、フランベルジュは人間にしか、()()()()()()()()()()()()()()()()。そのため、和平の証として選ばれたのでしょう。⋯⋯しかし、真実は歴史の中で風化されました。今やこれを語り継ぐことができるのは、我々魔人だけなのです』

『待ってくださいませ! では、勇者とはなんなんですの? 人間に危機が現れた時、女神がつかわすという使者。あれはフォルティスを扱えることが勇者の証とされていますでしょう。けれどフォルティスは魔人にしか扱えない。なら、あれは⋯⋯』

『そう。あれは魔人──いえ、女神の作り出した魔人と言うべきでしょう』

『女神の⋯⋯?』


 アリソンもエリザベスも、そして目の前にいる過去のエリザベスも、今や全員が一様に先代のことを凝視していた。

 アリソンは情報の多さに頭を真っ白にして、エリザベスは懐かしさから、そして過去のエリザベスは好奇心から、先代の言葉の続きを時代を超えて待っている。


『この世界を作り上げたのは女神です。そして勇者とは女神が作り上げた世界の防衛機構。そういった意味では人間の勇者に対する認識は正しいのです。ただ、恐らく──これは推測ですが、女神は勇者を作るときに魔人の構造を"真似た"のではないかと私は思っています。故に、フォルティスに魔人として認識され、それを扱うことができているのです』


 先代は一度言葉を切ると、「そして」と前置きして続ける。


『我々魔人を消し去ろうという意思が、今の世界には満ちている。かつて和解できたはずの人間達が、ゆっくりと我々を排除する方向に向かっている。これの意味するところを、エリザベス、分かりますね?』

『⋯⋯わたくし達を女神が排除しようとしている、ということですわね』

『その通りです。何が女神の逆鱗に触れたのかは分かりません。ですが、我々が生きるにはもう、魔界に閉じこもって終わりを待つか、魔界を出て抗うか。それしか残されていないのです』

『この事を皆は知っているんですの?』

『いいえ、知っているのは長をはじめとする一部の者だけです。あなたはいずれ水禍の主人となり、長の補佐役に抜擢されることになるでしょう。だから話したのです。⋯⋯それにあなたは人間界に興味を持っている。ですが忘れてはなりません、エリザベス。我々が魔界から出て人間界での安息を求めるのならば、人間に、いえ、女神に打ち勝たなければならないのです』


 そうして、先代は過去のエリザベスを見つめる。

 優しく、けれど少し心配するような眼差しに、アリソンの隣にいるエリザベスが目を逸らした。


『近いうちに、長は選択を迫られるでしょう。その時、どうか、今日のことを忘れないでください。長が正しい選択ができるようにあなたが支えるのです』



「ここまで聞ければ充分ですわ」


 先代が過去のエリザベスの両肩に手を置いているのを横目に、エリザベスは彼らに背を向けて歩き出す。その隣に追いついたアリソンは彼女の顔を見上げるが、顔を伏せた彼女の前髪が垂れて、表情がよく見えない。


「ベティさん、今の話って」

「貴女が言ったんですわよ? 真実を知って、その上で自分の意思で見極めたいのだと。⋯⋯それを叶えるために聞かせたまでに過ぎませんわ。さあ、次に行きますわよ」


 誠意があるようにも、突き放しているようにも受け取れるエリザベスの口調に、アリソンは彼女の表情が見えないことを残念に思った。



◇◆◇



 水に沈むような感覚と共に、周囲の景色が変化する。別の記憶の中へと移動したのだ。ただし先ほどとは違い、今度は最初から目が覚めており、エリザベスも隣に立ったままだった。


「⋯⋯あれ? でもここって」

「ええ、先ほどと同じ森の中ですわ。ただし、時代は今から20年ほど前ですけれど」


 疑問を口にしたアリソンに、エリザベスは肯定を返す。

 今から20年前、ということは先ほどの記憶から80年くらいが経っているということだ。


「それで、ここで何が──」


 エリザベスを見上げたアリソンの声は、そこで途切れる。つんざくような子供の悲鳴が、その場に鳴り響いたからだ。

 咄嗟に声のした方向を見ると、青い髪の小さな子供とその後ろに迫る風貌のよろしくない男の姿があった。


『このクソガキがッ! 殺されたくなきゃ戻ってこい!』

『やだぁっ! パパっ、たすけて、パパ!』

『ハッ、お前の親父は仕事でいねえだろうが! それくらい調べて知ってんだよ!』


 逃げ惑う子供は恐らく5歳くらいか──弟のルノーと同じくらいの年頃に見える。子供は懸命に小さな手足を動かし、木々をうまく利用して逃げていたが、大人の走る速度には勝てない。男が子供に追いつくのも時間の問題だろう。


「人攫い⋯⋯ですか?」

「ええ、そうですわ」


 ここはエリザベスの記憶の中で、自分はあの子供に何もできない。それが分かっていても、泣き叫ぶ子供を前に見ているしかないというのは胸にくるものがある。

 逃げる子供と、それを追う男の後をついていくと、子供はとうとう行き止まりに追い詰められてしまっていた。背中には池だけがあり、ジリジリと距離を詰めてくる男を前に、子供は大粒の涙を溢している。


『おら、諦めてこっちに来い!』

『やだ⋯⋯っ、だれかたすけてぇ!』

『呼んでも誰も来ねえよ、こんな辺鄙な森のな、か⋯⋯?』


 ふいに、男の悪態が途切れ、その目が驚愕に見開かれる。その理由は池を背にしている子供には分からないだろうが、男達の後ろに立っているアリソンにはよく分かった。

 池の中から、音もなくエリザベスが現れたからだ。


『貴方ですの? この美しい景色を壊している、無粋な輩は』


 過去のエリザベスは、先ほど見た記憶の中の彼女よりも大人びていて、今のエリザベスと変わらない姿に成長している。

 手をまっすぐ前に伸ばした彼女は、池の水を渦巻かせる。


『なっ、お前まさか、ま──』


 魔人なのか、と言い終わる前に水が豪雨のように男の上に降り注ぐ。そして池の中から現れた触手が、豪雨を隠れ蓑にして男を池の中に引き摺り込む。

 けれど、怯えていた子供には豪雨と共に男が目の前から消えていなくなったように見えたのだろう。数度瞬きをした子供は恐る恐る振り返り、エリザベスを見上げると、小さな声で呟いた。


『せいれいさんが、たすけてくれたの⋯⋯?』


 舌足らずな子供の言葉に、過去のエリザベスは、『は?』と短く声を洩らした。



◇◆◇



「わたくしは、愚かな幼子の勘違いを利用してやろうと思ったのですわ」


 ガシャン、と硝子の割れるような音がしたような気がした。

 暖かな日差しも、鳥のさえずりも、木々の揺れる影も、全てが消えて真っ暗になった時、エリザベスの静かな声が聞こえた。


「ここはどこですか?」

「魔界ですわ。永遠の夜、何もない暗闇。実のところ、魔界とは貴女達が暮らしている世界から切り離された、廃棄された世界ですのよ」

「⋯⋯廃棄、って」

「先代も言っていましたでしょう、わたくし達は女神に見放されたのです」


 暗闇に見えるのは、目が闇に慣れていないからだった。

 ここは記憶の中に入る前にいた地下室で、隣には現在のエリザベスが、そして少し離れたところには大釜の中に向かってぶつぶつと何かを喋っている過去のエリザベスの背中がある。


 ここは未だ、彼女の記憶の中だ。


「先代との対話から80年の時を経て、わたくし達は真相にたどり着いたのですわ。魔界とは、わたくし達のような女神に"不要"と判断された物が集められる場所。膨らみ続ける魔界に、女神はとうとう"処分"を決めたのだと」

「そんな⋯⋯」


 不要だとか、処分だとか、廃棄だとか。到底生きている命に対する発言ではない。

 憤りを覚えたアリソンに、エリザベスが目を伏せる。


「長は、終わりを受け入れるべきだと考えているようでしたわ。けれどわたくしは、それを正しい決断だとは思えなかった。わたくしはまだ生きたかった。生きて、あの景色の中を自由に歩きたいと。たとえ、人間を滅ぼしてでも」


 だから、とエリザベスは言葉を続ける。


「あの子供はわたくしが魔人だとは気付いていなかった。わたくしを"水の精霊"だと思い込んだ。それを利用してやろうと思った」


 ぽつぽつと、まるで雨みたいに、涙みたいに、エリザベスは喋り続ける。


「あの子の父親は優秀な騎士でしたわ。きっと勇者の旅に同行することになる。あの子も父親の背を追いかけて騎士になろうとしていて、だからわたくしは、魔人の戦争を少しでも有利にしてやろうと、あの子を、ラフィを。けれど、気づけばわたくしは彼女を利用する道具としては見れなくなっていたんですの。大切にする方法も、分からないのに」


 ──それは懺悔だったのだと気付いた瞬間、目の前の景色がぐにゃりと歪んだ。



◇◆◇



『ねえ、精霊さん精霊さん。真実の愛って、存在すると思う?』

『⋯⋯は?』


 目を開くよりも先に聞こえてきたのは、知らない少女の声だった。

 気づけばそこは見知らぬどこかの湖のほとりで、アリソンは最初のように地面に仰向けになっている。顔だけを横に向ければ、そこには青い髪の少女がいた。あの時、エリザベスが人攫いから救った子供だろう。少女は長い癖っ毛の髪を頭の高い位置で無理矢理ポニーテールにし、動きやすいカジュアルな格好に部分的な鎧をつけている。着こなし方が幼馴染のジョアンと似ていて、アリソンは僅かに目眩を覚えた。うっすら赤く染まった頬は林檎のようで、とても愛らしい印象を与える。

 地面に座った少女は、湖から上半身だけを出したエリザベスに、人懐っこい態度で絡む。


『それは貴女の定義次第ではなくて? 何を真実とし、何を愛としますの?』

『えー、そんな難しいことわかんないよ。だって、雷に打たれるようなものなんでしょ? 恋とか愛って』

『⋯⋯』


 面倒くさそうに──事実面倒なのだろう、半目になって横を向いたエリザベスに、少女は『そんな顔しないでよー』ときゃらきゃら笑う。


『ねえ、精霊さん。実はさ、わたし告白されちゃったんだよねー』

『そうですの』

『うん。レイが、あっ、レイってレインナートのことね。レイがね、わたしのこと好きなんだって。顔真っ赤にしてて、可愛かった』

『それは良かったですわね』

『えへへー』


 おざなりなエリザベスの返事にも、少女はこそばゆそうに頬を緩める。ころころとよく変わる表情は豊かで、見ていて飽きない。きっとエリザベスもそう思っていたことだろう。アリソンの角度からは、エリザベスの口角が上がるのが見えたから。


『でも、いいのかな、って。だってわたし、雷に打たれた感じしないのに』

『⋯⋯貴女はレインナートをどう思っていますの?』

『うーん、いい人だと思うよ? 優しいし、カッコいいし、ちょっとドキドキしたし。でも、そういう好きかはよく分かんないなって。だって告白されたのが初めてで、びっくりしてドキドキしただけかもしれないじゃない』

『嫌だと思っているわけではありませんのね。なら、付き合ってみてもいいんじゃありませんの? 合わなかったら別れれば良いだけでしょう』


 エリザベスの助言に、少女は瞳を丸くする。

 

『ええー、そんな軽い気持ちでいいのかな?』

『人間の思春期の恋愛なんて、そんなものですわ。たった一人のパートナーと生涯付き合う人間は殆どいませんでしょう』

『そうなの? ⋯⋯じゃあ、そうしてみようかな』


 何を想像したのか楽しそうに顔を綻ばせる少女の姿を、エリザベスは呆れたように見つめている。けれどその眼差しがひどく優しげなことに、アリソンは気付いていた。


『それじゃあ、わたしはそろそろ行くね』

『ええ。今夜はこの辺りで野営するんですの? 魔物や野盗に気をつけるんですのよ』

『はーい。あっ、そうだ。この前もらったポーション、もう無くなりそうなんだ。今度新しいのをくれない?』

『⋯⋯準備しておきますわね』

『うん、お願いね。じゃないと精霊さんとお話できなくなっちゃうもんね』


 ポーション、という単語にアリソンはそういうことかと納得する。

 魔界から人間界へ戻る時、エリザベスは「自分の一部」が入っているという小瓶を渡し、訪れた場所の水のある場所に垂らすように指示していた。そうすることで、自分もその場所へ水を通じて覗き見をしたり、移動できるようになるからと。

 あれと同じことを、この少女にもさせていたのか。


『それから、くれぐれも⋯⋯』

『他の人に話したらいけない、でしょ? 話したら精霊さんは泡になって消えちゃうんだもんね、分かってるって!』


 泡になる、という言葉にアリソンの身体に一瞬緊張が走る。

 それはかつてアリソンがエリザベスに言われたのと同じ嘘だ──このことを第三者に話したら泡になって消えてしまう、だから話さないで欲しい、と。

 つまりあの嘘は、年季の入った使い古された手口だったのである。


 だがそれが分かったところで、アリソンはエリザベスを責める気にもならない。

 どうせ何を思ったところで、これらは記憶の中。すでに過ぎ去った時の中での出来事である。アリソンが何かを言ったところで何も変わりはしないのだから。

 再び歪んでいく景色の中、現在のエリザベスの背中を見た気がした。

 


 そして、アリソンはエリザベスの記憶を通して少女の姿を見続けた。


『レイとね、デートしたんだ。初めて男の人と手を繋いだんだけど、なんていうか⋯⋯やだ、なんか恥ずかしくなってきちゃったよー!』


 そう言って顔を真っ赤にして、誤魔化すように笑う少女。


『今日行った村でね、お祭りをしてたんだ。だからはい、精霊さんにもお裾分け!』


 串刺しにした肉を差し出す少女。


『またパパと喧嘩したの、槍使いが前に出過ぎるなって。でも仕方ないじゃん、マルガリータちゃんが危ないところだったんだもん!』


 憤慨した様子で膝を叩き、頬を膨らませる少女。


『レイはね、魔人と和解したいんだって。そんな凄いことを考えてるなんて知らなかった。⋯⋯わたしも何か、できないかな。レイの夢を叶えたいの』


 愛する人の夢を自分の夢のように語る少女。


『あのね、今日、レイが⋯⋯って、無理無理! 恥ずかしすぎるっ! こんなの精霊さんにも言えないよー!』


 真っ赤になった顔を両手で隠し、ジタバタと暴れる少女。

 

『わたし、ずっとこのままがいいなって最近思うんだ。ずっとこの旅が終わらなければいいのに、って』


 内緒ね、と唇に指を当てて、泣きそうな顔をして笑う少女。


『レイってカッコいいから、女の子にも人気なんだ。だから不安になっちゃう。いつか心変わりしちゃうんじゃないか、って』


 まだ見ぬ未来を思い、不安に瞳を濡らす少女。


『わたし、彼の永遠になりたいなぁ』


 切なげに呟き、夜空を見上げた少女。



 そして、その日は訪れた。

 まだ薄暗い夜明け前。いつかのように湖のほとりで、少女の頬を雫が伝っていた。


『レイが、王女様と結婚するかもしれないって⋯⋯』


 涙の理由を聞いたエリザベスの顔が一瞬歪むが、すぐにいつもの顔に戻る。


『それはレインナートがそう言ったんですの?』

『違うけど⋯⋯でも、お城の人が話してるのを聞いたの。魔人を倒したら、勇者様にはいろんな褒美が与えられるって。それで、王女様と結婚するかもしれないって⋯⋯』

『彼がそう言ったわけでも、望んだわけでもないのでしょう? なら、ただの噂ですわよ。彼は貴女にゾッコンだと言っていたじゃありませんの。あの時の自信はどこへ言ったんですの?』

『でも、そうなっちゃうかもしれないよ、きっとそうだよ! だって、レイは勇者様なんだもん。わたしとは住む世界が違うんだよ⋯⋯』


 さめざめと泣く少女には、エリザベスの理知的な言葉はまるで届かないようだった。


『やだ、やだよ! わたしのレイが取られちゃう!』

『まだそうと決まったわけじゃありませんでしょう? しっかりしなさいな、貴女がするべきは彼と話し合うことですわ』

『だって⋯⋯だってもし、レイに話してその通りだって言われたら、わたしどうすればいいの? 重いって思われるかも、嫌われちゃうかも。ねえ精霊さん、レイの永遠になるにはどうすればいいの?』

『ですから、話し合いって彼の気持ちを聞くしかありませんわ。それ以外に解決策はありませんわよ』

『⋯⋯』


 黙りこくった少女の頭を、エリザベスが撫でる。慈しむような手つきにアリソンは目を見張るが、己の悲しみに沈んでいる少女に、その優しさは届かない。


『レイはね、魔人と和解したいんだって。そんな凄いことを、誰も考えなかったようなことを考えてるの』

『⋯⋯ええ、そうですわね』

『だから、だからね、レイはこんな⋯⋯恋愛なんて小さなことを気にしてる場合じゃないんだよ』


 ぎゅっと膝の上で震える手のひらを握った少女が、流れ落ちるままの涙にも構わずに顔を上げて無理矢理に笑顔を作る。


『大丈夫、わたしには精霊さんがいるもん。いつもお話聞いてくれて、ありがとね』

『⋯⋯ラフィ、わたくしは、』

『そういえば今更だけど、精霊さんって名前はあるの? わたし、ずっと自分のことばっかりでごめんね』


 あからさまに話を変えた少女に、エリザベスは逡巡するような様子を見せた後、静かな声で名前を告げた。


『⋯⋯エリザベス。エリザベスといいますわ』

『えー、じゃあベティだね!』

『なんでそうなりますの?』

『だって、あだ名で呼んだ方が"仲良し"って感じがするじゃない。わたしと精霊さんの仲だもん。ねー?』


 気丈に笑った少女に、エリザベスは何かを言おうとするように口を開き、そして、結局何も音にすることなくその唇を固く結んだのだった。



◇◆◇



『人間と和解を? そんなことが可能なのか?』


 次の記憶は、久しぶりに少女との記憶ではなく、魔界での記憶だった。エリザベスとテーブルについて茶を飲んでいる人物の姿に、アリソンはハッとする。


「イグニス、さん⋯⋯」


 忘れもしない、アリソンが初めて出会った魔人。魔人とは知らずに助け、怪我の看病をした彼が、ドルフ村にいた時よりもずっと元気そうにしている姿を見ると、たとえそれが過去のものと知っていても嬉しくなる。

 彼の額にはアリソンにとっては見慣れぬ2本の角が天に向かって伸びている。きっと村に辿り着く前、勇者による襲撃を受けた際に折られてしまったのだろう。耳元にはまだラズと揃いのピアスはなく、これはイグニスが彼女と出会う前の出来事なのだということが分かる。


『確かな筋からの情報によると、勇者はそう考えているみたいですわ』

『⋯⋯不可解だな。勇者とは女神によって生み出された世界を守る防衛機構。であるからには、女神の意思に従って我々を滅ぼそうとする筈ではないのか?』


 精悍な顔つきを怪訝そうに崩した彼に、過去のエリザベスが頷く。


『ええ、わたくしもそれを不思議に思っていますの。けれど、もしかしたら⋯⋯いくら女神といえど、誰かの思考を直接操作できるわけではないと考えれば納得はできますわ。女神にできるのは、世界を緩やかに魔人排除の方向へと導くことだけ。その後に人々が続くかどうかは、今を生きる人々にかかっているということなのかもしれませんわ』

『なるほどな。だとすれば、女神によって俺たちを滅ぼすために生まれた今代の勇者が、我々と和解し、共存の道を探ろうとするのも有り得ない話ではない、か⋯⋯』


 考え込むイグニスに、エリザベスが伺うような視線を向ける。


『やっぱり、信じるのは難しいですわよね』

『いや、同期である君の言葉だ。信じるよ。それに⋯⋯互いにもう血を流さずに済む手段があるのなら、それに越したことはないだろう。もしも勇者が我々の言葉に耳を貸してくれ、共存が実現すれば、戦うことなく女神の意思に抗える。何なら、人間も共に女神へと立ち向かう良き友となってくれるかもしれないな!』

『フフッ、それはいくらなんでも飛躍しすぎではなくて?』

『何を言う。それが君の望む未来だろう?』


 イグニスの言葉に、エリザベスは虚をつかれたようだった。

 反芻するように少しの間を置き、やがて彼女は受け入れるように目を閉じて首を縦に振る。


『ええ、そうですわね。人間と手を取り合い、未来へ向かって歩む。それがわたくしの⋯⋯いえ、』


 希望を語るエリザベスが、ぐにゃりと折り曲がる。

 記憶が切り替わろうとしているのだろう。でも、こんなにも酷い歪み方は初めてだ。ぐにゃぐにゃと時間をかけて歪む目の前の光景を直視できず思わず目を瞑るが、エリザベスが続けていたはずの言葉達も雑音(ノイズ)混じりに耳を刺して、頭がガンガンする。

 早く、早く切り替わってと願うアリソンの耳に、ところどころ破り捨てられたような言葉の断片が最後に叩き込まれる。


『わたくしとあの子の、』


 ──世界が歪む。


◇◆◇



 今までの歪みとは比べ物にならない、酷い視界の揺れ方にアリソンは込み上げる吐き気を抑えながら、景色の切り替わる瞬間に身体を慣らさなければならなかった。

 口を押さえていなければ今にも何かをその場にぶちまけてしまいそうで、アリソンは呼吸さえ整わないまま、ふらふらとその場に立ち竦む。

 

 そこはどこかの見知らぬ丘の上で、真夜中なのか遠くの方に街の明かりが星のように見えた。ぽつぽつと降り始めた雨が徐々に大きくなり、視界を埋め尽くしていく中、アリソンは青い髪の少女の姿を探す。


『もう嫌! レイのうそつき!』


 雨の中、微かに聞こえた声を頼りに歩いていくと、壊れかけた噴水に身を乗り出した少女の姿がそこにあった。手を伸ばせば届きそうな街明かりを背にした少女は、雨粒に打たれてずぶ濡れなのも構わず、水面を覗き込んでいる。きっと水面には涙に濡れる少女の瞳が映っていることだろう。

 呼び出しに応えたエリザベスが水の中から姿を現すなり、少女は堰を切ったように一気に喋り出す。


『精霊さん、ねえ、聞いて。レイがひどいの、レイが、レイがっ!』

『ラフィ、』

『ま、街の女の子が、すごく綺麗な女の子が、レイのことが好きだって言ってたのを聞いて。だからレイに言ったの、わたし以外の女の子にあんまり優しくしないでって。レイが優しいからみんな勘違いするんだって。そしたら、そ、そんなことできないって。それに、わ、わたしの気にしすぎだって! わたしが一番だから安心してくれって!』

『ラフィ、落ち着いて、』

『一番って何!? 誰と比べてるの? わたしだけじゃないの? レイがわたしのこと好きだって言ってくれたのに! やっぱりわたしなんかより他の女の子がいいんだ、王女様と結婚したいって思ってるんだ!』


 はあ、はあ、と少女は肩で息を吐きながら、嗚咽を零す。

 エリザベスが少女の背中に手を伸ばすのと同時に、少女の唇が震えながら開く。


『わたし、彼の永遠になりたいの』


 お願い、と。

 熱に浮かされた少女の手がエリザベスに縋り付く。


『もうどうしたらいいか分からないの。お願い、彼の永遠になりたい。そうしたら、例えレイがいつか王女様や他の綺麗な女の子と結婚したって、わたしきっともうこんな思いしなくていい!』


 この願いさえ叶うのならば何を犠牲にしても良いと言うように、少女の手はエリザベスの手をきつく捉えて離さない。

 そして、エリザベスが『本当に?』と囁くように問いかける。


『貴女が彼の永遠になれたら──そうしたらもう、貴女は泣かずに済むんですの? 苦しまずに済むんですの?』

『うん⋯⋯うん、そうだよ! だって永遠になれたら、そしたらレイの心はずっとわたしのものだもん。誰とも比べられずにすむんだもん!』


 少女は弾かれたように顔を上げる。

 それを見たエリザベスが、この上なく優しく微笑んだのをアリソンは見た。その瞬間、全ての疑問が、謎が、腑に落ちた。


 エリザベスはただ、愛しい少女の願いを叶えてやりたかっただけなのだ。

 そのために魔人と人間の和解の可能性を周囲に話し、説得し。

 そしてそのために、少女に手をかけた。


『ラフィー! ラフィ、ここにいるのかい!?』


 バシャバシャと水溜りを踏みつける足音と共に、少女の名を呼ぶ少年の声が雨に紛れて響く。


『ごめん、さっきは俺が悪かった! 雨も大きくなってきたし、帰⋯⋯』


 帰ろう、と最後まで言い切る前に少年は、在りし日のレインナートは、壊れかけた噴水に倒れ込む恋人の姿を目にしてしまう。台から溢れ出し、地面へと流れ出ていく水が赤く染まっていくのを、レインナートは呆然と見つめていた。それからぎこちない動きで首を動かし、真紅に濡れたエリザベスを見上げる。


『レ、イ⋯⋯?』


 その時、少女の唇が動くのをアリソンは見た。レインナートには届かないほど小さな声は、けれど傍にいたアリソンの耳には、そして当時のエリザベスの耳にも届いていた。

 少女はその目にレインナートの姿を映すと、何かを悟ったように口角をあげ、蚊の鳴くような声で最期の言葉を紡ぐ。


『こ⋯⋯れで、やっ⋯⋯と⋯⋯あな⋯⋯たの⋯⋯、えい⋯⋯え⋯⋯に⋯⋯』


 そうして少女は──ラファエラは、これ以上ないほど幸福そうに笑ったのだった。




最後まで読んで下さり、ありがとうございます。

作者としてはラファエラをようやく書けて楽しかったですが、如何でしょうか。もし面白かったら、感想や評価など頂けると励みになります。


次回更新日:9/2予定 → 9/16予定 に延期します。すみません。

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