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村娘Aが勇者を殺すまで  作者: 藤森ルウ
第3章 悪夢編
29/76

023 水底



 それは例えるなら、深い水底だった。


 黒い闇が続くところは魔界に似ているが、地面を踏みつけているはずの足に安定感はなく、地面を蹴ればいつでも宙に浮かぶことができそうだし、口を開けば水泡が上へ昇っていきそうだ。

 奇妙な浮遊感の中、闇に一歩踏み出すと、ざわりと空間が歪むのを感じる。この先に進むことを、阻まれているのだろうか。

 上を見上げれば、微かな光が差し込んでいる。水中から水面を見上げるというのは、きっとこんな景色に違いない。見惚れて足を止めると、先へと誘うように拒絶が引いていく。

 拒絶も許容も、そのどちらも併せ持つこの空間は、やはり紛うことなくラズの内面──精神世界なのだろう。なぜなら彼女は、いつも近いようで遠く、遠いようで近い、水のような存在だったから。


 一歩、また一歩と先の見えない闇の中を進んでいくと、ふいに上から光が降りはじめる。雪というよりは、夏の夜に飛び交う光る虫のような薄ぼんやりした光に、アリソンは思わず手を伸ばした。



◇◆◇



「つまりね、魔術の式は『展開』で、あたしがやってる無効化は『分解』なのよ」


 最初に聞こえてきたのはラズの声だった。

 3日間、うめき声ばかり聞いてきたせいか、澄んだ声を聞いているだけで胸が締め付けられる。ラズさん、と呼びかけて今すぐにでも駆け寄りたかった。

 けれど、できなかった。

 ラズの隣には、既にアリソンが座っていたから。


「分解、ですか?」

「そう。式を組み立てる時って、こうやって文字や単語、意味のある言葉をひとつひとつ書き足していくでしょ? 例えば⋯⋯炎、薪の上、大きさ、それで火が出来上がる」


 木の棒で地面に式を書き連ねながら語るラズの言葉に合わせて、目の前の薪に火が灯る。わあ、と歓声を上げたのは紛れもない自分の声だ。

 あの光に触れたせいか、アリソンは今、水底のような闇の中ではなく森の中に立ち、野営の準備をする二人を背後から見ていた。

 どうして自分がもう1人いるのか。どうして気配に聡いはずのラズはこちらに気づかないのか。やきもきする気持ちとは裏腹に、本能では悟っている。


 今見ているのはきっと、ラズの記憶の一部だ。

 アリソンにとってもこの会話は覚えがある。聖都から出発して間もない頃、まだ荷馬車に乗った商人と出会う前のことだ。


「そうやって積み重ねた式を、ひとつひとつの単語にバラバラに戻して、意味のある言葉をなさないただの文字にする。それがあたしのやってることなのよ」

「へえ⋯⋯すごいですね」

「⋯⋯そんなことないわよ。無効化できるといえば聞こえはいいけど、射程はせいぜいこの手が届くところぐらい。無理に伸ばしたって、短剣の切先程度までだもの。相手の魔術に飛び込まなきゃどうにもならないし、複雑な式だったら、分解してる間に直撃するし」


 頬杖をついたラズは、謙遜しているわけではなくただ分析した事実を述べているだけの口調で、欠点をあげていく。

 それを聞いた自分が何て答えるのか、アリソンは知っている。覚えている。もう一度聞かなくたって。


「うーん、でも、やっぱりすごいと思いますよ。だって、もしも私が敵の魔術で寝ちゃったら、ラズさんなら起こせるってことなんでしょう?」


 だけど、それを聞いたラズがどんな顔をしていたのかは知らない。あの時は、彼女が木の棒で地面に書いた式を追うのに夢中だったから。

 ⋯⋯今ならそれを、見ることができる。

 きっと足音なんて消さなくたって、彼女たちは自分には、この記憶を『覗き見』しているアリソンに気づくことはないだろうと思った。それでもコソコソと忍足で近づいたのは罰が悪かったからだ。

 静かに回り込み、覗き込んだラズの顔は──なんだか怒っているような顔をしている。だけど、その目と同じ蒼のピアスが揺れている耳は、それとは正反対の色に染まっていて。


「⋯⋯無効化なんかしなくたって、敵陣で寝たりなんかしたらいつでも叩き起こしてあげるわよ」


 ラズがそう答えたのを、アリソンは覚えていた。覚えていたけれど。

 あの日、彼女はアリソンの言葉を不謹慎だと思って、少し不機嫌になったからつっけんどんな調子で答えたのだと思っていた。

 でも、そうではなかった。彼女は照れ隠しで言ったのだ。

 信頼されていることにはにかみ、怒ったような顔で隠して──


 ラズさん、と呼ぼうとした口から水泡が立ち上る。

 伸ばした手が風景の中に溶け込み、そして、アリソンは再び暗い水底の中へと引き戻された。



◇◆◇



「っ、ラズさん⋯⋯!」


 瞬きの刹那に掴みたかったものはかき消え、自分だけが暗い水底の中に取り残される。

 幾度か上から落ちてくる光に触れて、分かったことは、あの光がラズの記憶だということ。そして進めば進むほど、過去の記憶が降ってきていることだ。

 けれどそのどれもが他愛のない出来事で、そのことにアリソンは少し戸惑っていた。


 導師とやらの説明によれば、ラズは堪え難い過去の悪夢の中に閉ざされているはずだ。ならばどうして、悪夢とは程遠い記憶ばかりなのか。

 考えることはあまり得意ではなかったが、彼女の記憶を見ながらアリソンが立てた仮説はふたつ。


 ひとつ目。実は、アリソンにとってはなんでもない出来事がラズにとっては悪夢だった。

 ふたつ目。彼女の悪夢はもっと奥深くの深層にあり、アリソンがまだ辿り着けていない。


 後者を正解だと思うのは、自分がラズを苦しめていたと思いたくないからだろうか。それでも、拒絶されない限りは、そして彼女を連れ戻すためには、進むしかない。

 ふわふわと誘うように降る光に道を示されながら、アリソンは歩いた。



◇◆◇



 それからどれだけ進んだだろう。

 光はひとつ、またひとつと降ってくるが、それらに触れるのは最小限にしていた。そりゃ、自分の知らないラズの過去を見てみたい気持ちはあったけれど、彼女の知らないところで彼女のことを勝手に暴くのは良くない気がしたのだ。

 水面のような灯りが遠ざかっても、記憶の光はまばらに降り注ぐ。そのことが「間違いじゃない」とラズが背中を押してくれているように感じられて安心する。


 そして何歩目かも分からない、その一歩を踏み込んだ時、ふいに永遠に続くかと思われた暗い水底が大きく歪んだ。最初に踏み入れた時の歪みとは比べようもないその様は、ラズの動揺を示しているように感じられる。空間全体に及んだ歪みは、優しく降り注ぐ光をかき消し、大きな亀裂を生み出す。


 きっとこの亀裂の先に彼女の悪夢の正体があると、アリソンは確信した。


「⋯⋯ラズさん、ごめんなさい。勝手に心の中を覗かれたら嫌ですよね。後でいくらでも怒ってくれていいし、煮るなり焼くなり好きにしていいですから、今は、今だけは、どうか──!」


 祈るような気持ちで、アリソンは亀裂にそっと手を伸ばした。



◇◆◇



 亀裂の先は、全てが黒く塗りつぶされた部屋の中だった。

 この部屋は知っている。これは魔界で暮らしていた頃、ラズが貸してくれた部屋だ。その部屋の地面に、ラズが倒れている。


 届かないと知っていてもなお、苦しげなその様子に手を伸ばす。触れることなくすり抜けた己の無力さに唇を噛むと、ラズが小さく呟いた。


「イグニス⋯⋯っ」


 彼女の最愛の人。アリソンの恩人。

 その名前を起点に、ぐるりと視界が回って、気づけばアリソンは炎の中にいた。

 正確にいえば炎というよりは、燃え盛る家の中。これはあの日の光景だとすぐに気がついた。


 どうしてラズがこの光景を知っているのか、と一瞬戸惑うものの、答えはすぐに分かった。彼女の異能(アビリティ)、残留思念によって、イグニスから受け取った記憶の欠片なのだろう。

 倒れ伏した自分の姿とバラバラの肉塊になったイグニスがすぐ近くに見えたが、近寄って確かめる勇気はない。


 ラズはあの時、どんな気持ちでこの光景を見ていたのだろう。

 愛する人が焼けていくのを見ながら何もできないというのは、ひどく無力で屈辱で、その悲嘆を自分は推し量ることしかでできないと思っていた。けれど今、アリソンとラズは同じ思いを共有している。

 目の前で再演される過去を直に見せつけられながら、助けることも手を伸ばすことも叶わない絶望に、体の内側で何かがこぼれ落ちていく音がした。その音と痛みの全てに気がつかないふりをして、アリソンは記憶の再演が終わるのをじっと堪えて待った。



◇◆◇


 

 再び水底へ戻っても、今度ばかりはすぐに立ち直ることはできなかった。

 呼吸が整うのを待って顔を上げると、そこには相変わらず深い亀裂が刻まれている。触れる前となんら変わらない亀裂を前に、アリソンの頬が引き攣った。


「これでも、まだ見ていないものがあるっていうの⋯⋯?」


 ラズを苛んでいるのは、今しがた見てきた彼女にとっての最愛の人が亡くなる瞬間の悪夢だと思っていた。

 けれど、まだあるというのか。

 これよりもさらに奥、さらに深層に隠して、押し込んできた悪夢があると。


 震える膝を叱咤し、アリソンは亀裂を見据える。

 ラズを救うためならなんでもすると決めただろう、やれるはずだ。やるしかない。覚悟を決めて、アリソンは亀裂に触れた。



◇◆◇



 亀裂の先には、アリソンの知らない風景が広がっていた。

 金の装飾が施された白い壁、眩いほどに磨かれた床、大きく広げられた毛皮の絨毯。

 お金のありそうな家だ、なんて考えていた矢先に、()は現れた。


「やあ、蠢倥l縺溘>。調子はどうだい?」


 ドクンと心臓が、重たく脈打つのを感じる。

 この声をアリソンは知っている。忘れようとしたって忘れられない。

 振り向けば、予想した通り、橙色の髪と木漏れ日のような瞳で親しみのある笑みを浮かべた男──勇者レインナートが立っていた。


 レインナート、と唇が動く。

 けれど言葉になることはなく、水泡が浮かんで消える。ラズの記憶の中を覗き見ている間、アリソンは言葉を音として発することができないのだ。

 家族を殺した憎い男が、記憶の中の存在といえど目の前にいる。怒りと憎悪と、あの日の悲しみで頭が真っ赤になった瞬間、信じられないことが起きた。


「レインナート様! 公爵様にご用事ですか?」


 アリソンの後ろから現れたメイドの少女が、立ち尽くしたアリソンの体を通ってレインナートに駆け寄る。


 夜空のような黒髪。

 陶器のように白い肌。

 そして、長い睫毛の間で煌めく、夜明け前のような美しい蒼。


 ──ラズだ。


「いいや。君に会いに来たんだよ」

「もう、レインナート様は冗談がお上手なんですね。揶揄わないでください」

「揶揄ってなんかいないよ。俺は君に会いに来たんだよ、隕九↑縺?〒」


 目の前にいるのはラズで、だけど、ラズじゃない。

 だってアリソンの知るラズは、あんな天真爛漫な笑みをレインナートに向けたりなんかしない。

 彼女は、いつも伏し目がちにしている瞳をとろんと溶かして、彼を、彼だけを見つめている。レインナートもまたラズのことを呼んでいるようだが、呼び名の部分だけがうまく聞き取れず、そこだけが気味の悪いノイズに置き換わっている。


「この後時間はある? 少し話そうよ」

「⋯⋯レインナート様が望まれるのなら」

「うん、ありがとう。本当に、君に会えて嬉しいんだ。遘√§繧?↑縺」


 嘘だ、嘘だ、嘘だ!

 レインナートの事となるとアリソンと同じぐらい、憎悪の炎を激らせる彼女が、あんなにも瞳を輝かせてレインナートを見やるはずがない!

 

 そう強く思った瞬間、景色がぐにゃりと歪んで、アリソンは亀裂の前に戻っていた。



◇◆◇



「今のは⋯⋯今のは何!?」


 張り裂けそうなほど鳴っている胸を押さえ、アリソンは取り乱す。

 わかっている、あれはラズの記憶だ。あの景色の中の彼女は、今よりもだいぶ幼いように見えた。多分まだ14歳に満たないような頃の記憶。以前王都に住んでいたのなら、王都を拠点とするレインナートとかつて面識があったとしてもおかしくない。レインナートを憎む今の彼女と、彼を慕う過去の彼女は両立する。

 だけど。


「ラズさんは、ずっと前からレインナートのことを知っていたの⋯⋯?」


 問いかけたところで答えは返らないが、心なしか亀裂が悲しげに揺らいだ気がする。

 自分が何にショックを受けているのかすらアリソンには分からない。分からないが、とても受け止めきれないと思った。

 だって、ラズのあの熱に浮かされたような目。あれじゃあ、まるで──


「っ違う⋯⋯! そんなこと関係ない!」


 頭を振って、アリソンはくだらない思考を隅へと追いやる。

 そうだ、そんなことがなんだ。それでも、ラズが今までアリソンに優しくしてくれたことも、彼女が守るべき存在であることも変わらない。

 かつてラズがレインナートのことを慕っていたとしても、それは過去のことだ。今じゃない。

 迷うな、動揺するな。自分が為すべきことを見誤るな。私は何のためにここに来たのか思い出せ。ラズさんを救うためでしょう?

 

 躊躇するかのように不安定に形を歪めた亀裂を、アリソンは見据える。


「取り乱してごめんなさい、ラズさん。もう大丈夫です、ちゃんと受け止めます。だから見せてください、ラズさんの悪夢の続きを」


 アリソンの言葉に、亀裂は諦めたように隙間を広げる。

 隙間から溢れ出ている赤いものは血だろうか。きっとこの悪夢は、ラズにとっても未だ塞がっていない古傷に違いない。

 痛々しいその傷跡に額を合わせて、アリソンは目を閉じた。

 


◇◆◇



 傷跡の先は、明かりのない倉庫の中だった。無造作に積み立てられた箱の間に、今よりも背丈の小さいラズが一生懸命に何かを探している。

 そこに、再び彼が現れた。


「探し物はこれかい、縺?d縺?」

「レインナート様!? どうしてここに⋯⋯」

「君に会いに。でなければ、俺がわざわざこんな埃っぽいところに来る理由なんてないよ」

「⋯⋯いつもの冗談ですか?」

「冗談なんかじゃないさ。まったく疑い深いなぁ、君は。いつになったら信じてくれるんだい?」


 そう言ってレインナートが気障な仕草でラズの手を取り、彼女の指先に口付ける。

 相変わらず彼がなんと彼女を呼んでいるのかは、うまく聞き取れないままだった。


 ──暗転。



 てっきり亀裂の前に戻されるかと思いきや、次の場面に飛ばされたらしい。豪奢な一室のソファにレインナートが座り、その傍らでラズが給仕をしていた。

 

 それにしても、レインナートのあの態度。馴れ馴れしくラズに触らないで欲しいのだが。

 苛立つアリソンの目の前で、二人は何やら世間話でもしているらしく、楽しそうに笑っている。


「君は、あの子に少し似ているね」


 ふいに寂しげな顔をしてみせたレインナートが、ラズの髪を弄びながらそんなことを言う。


「あの子?」

「俺の初恋の人で、俺が唯一守れなかった人だ。俺の目の前で魔人に殺された」

「そうだったんですね⋯⋯」

「うん。だから、君は死なないでくれよ? もう守れないのは嫌なんだ」

「⋯⋯はい。約束します」

「いい子だね。おいで、雖後□雖後□雖後□」


 控えめに微笑んだラズの腰を、レインナートが引き寄せる。

 死んだ恋人の話をしながら他の女性、それもまだ年端の行かない少女であるラズに親密な触れ合いを求めるのは、矛盾しているのではないだろうか。


「ああそうだ、そろそろ屋敷の仕事をやめてくれないかな。もっと気軽に会えるところにいて欲しいんだ」

「え⋯⋯で、でも」

「大丈夫、住む場所なら俺が用意してあげるから。君は黙って俺の言う事を聞いていれば良いんだよ、可愛い俺の豸医∴繧」


 有無を言わさぬ口調でそう言った後、レインナートは彼女の返答を待つことなくその顎に手をかけて、それから。


 ──暗転。



「ッ、げほっげほっ、かはッ⋯⋯!」


 次に見えたのは、豪奢なカーペットの上に蹲り、胸元を掻きむしりながら血を吐くラズの姿だった。

 ラズさん、と呼んで傍に駆け寄るものの、アリソンの手は空を切る。


「大丈夫かい?」


 そうこともなげに言って、レインナートは立ったままラズを見下ろしている。

 視線が交わることはないと分かっていても、反射的に睨みつけずにはいられない。吐血しているのに大丈夫なわけないだろう。何を考えているのだ、この男は。


「でも、これからも俺のそばにいたいのなら、これは君が耐えなければならないことだよ。俺の周りにはこうして、毒を盛る人間もいるからね。今のうちに慣れておかないと、厳しいよ?」


 レインナートは金色のゴブレットになみなみと黒い液体を注ぎ、そのゴブレットをラズに向けて差し出す。


「さあ、もう一度だ。できるだろう?」


 どうして、この男はこうなのだろう。この男には、ラズの引き攣ったような呼吸も、真っ青な顔色も、見えないのだろうか。聞こえないのだろうか。

 あるいは見た上で、聞いた上で、そんな要求をしているのだろうか。

 あなたを顧みない人の言葉なんて聞くなといくらアリソンが喚いたところでラズには届かず、彼女は震える指先でゴブレットを受け取る。


「それでいい、何も考えるな。君はただ俺の言う通りにしていればいい。そうしたら愛してあげるよ」


 景色が完全に見えなくなる前、最後に聞いたのはそんな言葉だった。

 


 ──暗転。



◇◆◇



 幾度の暗転を乗り越えてきたのか。

 どこか作り物めいたレインナートの完璧な微笑も、今よりずっと表情豊かで素直なラズの姿も、すっかり見慣れてしまった頃、それは唐突に訪れた。


 その場面は、眠れないと言って縋るレインナートの背を、ラズが撫でているところから始まった。真夜中なのだろう、しんと張り詰めた静けさの中、彼が息も絶え絶えに言う──行かないでくれ、と。

 その言葉はきっと、目の前のラズではなく、彼の「初恋の人」とやらに向けられているのだろう。

 こんなにも献身的なラズの優しさと、アリソンは見たことすらない無邪気な笑みを向けられておいて、どうしてそうやって彼女を蔑ろにするのか。

 最初こそレインナートに心を揺れ動かすラズの姿にショックを覚えたものの、今ではそんな風に彼女を揺さぶりながら、どこか遠くを見ているレインナートへの怒りが勝るようになっていた。

 殴ってやりたい、というか、実のところアリソンは既に何度かあまりにラズに馴れ馴れしくするレインナートを殴っているのだが、その度に拳はすり抜けてしまう。


「あたしが、そばにいますから」


 レインナートの悲しみに引きずられるように、悲哀を浮かべた瞳でラズが彼を宥める。

 やはりラズは優しい。アリソンがそう思ったのと同時に、彼女に縋りついていたレインナートが顔を上げた。


「君が?」


 ひゅ、と息を呑んだのはアリソンだけでなく、ラズもだった。

 レインナートの顔からは、感情という感情が全て削がれていて、その冷たさに見ているだけで指がかじかむ。


 怖い。

 彼は何を怒っているのか、アリソンには見当もつかなかったが、それはありし日のラズも同じようで、今よりも幼い彼女はすっかり狼狽えていた。


「れ、レインナート様、」

「──それじゃ意味がないんだよ。君が彼女になれると思ってるのか?」


 怒りというよりは、純粋な疑問をぶつけたような言葉。


「そうだね、確かに君は彼女に似ていたし、立派に代わりを務めてくれたよ。でも、やっぱり違う。君は彼女じゃない。君はラフィじゃない」


 だから、もういらない。

 

 先ほどまでの縋りようや甘い言葉が嘘であるかのように、レインナートは無慈悲にラズに告げた。

 状況を掴めない彼女一瞥した後、彼は聖剣を鞘から取り出す。触れられないのだから無意味だと知っていてもなお、反射的にラズの前に立ち塞がったアリソンを通りぬけ、聖剣がラズの右頬を薄く切り裂く。


「ッ!」

「痛かったかい? でも、俺が君に何かをあげられるのはこれが最後だから、我慢してくれよ」


 魔人ではないラズは聖剣で切られても肺になることはない。しかし不思議なことに、切れた場所からは血が流れることなく、そのまま血の凝り固まったような黒い傷跡へと変化する。

 これは何かの『印』なのだろう、とアリソンは思った。呆然と傷跡を手で撫でるラズを置いて、レインナートは扉の外へ向けて「ドワイト」と呼びかける。扉を開けた全身を鎧に包んだ騎士に、レインナートは「奴隷商人を呼べ」と端的に言った。


「顔はいいから値段はそう落ちないだろ。ちょうど金が減ってきた頃だったからな」

「レインナート様!? そんな⋯⋯う、嘘ですよね⋯⋯?」

「俺が君に嘘をついたことがあるかい?」

「⋯⋯ッ。あ、あたし、もう二度としませんから! なんでもしますから⋯⋯!」

「何でもするの? なら、俺のために売られてくれよ、縺薙m縺励※」


 にっこりと、ゾッとするほど優しい笑みを浮かべたレインナートは、自分の袖を掴むラズの手をやんわりと剥がして、ため息をつく。

 

「それにしても、君がもう少し弁えてくれてたらなぁ。そうしたらもっと長持ちしたのに、残念だよ。またラフィに似てる女の子を探さないと」

「あ、あたしのこと⋯⋯す、好きだって言ってくれたのは、嘘だったんですか? 最初から遊びで、こうやって捨てるつもりだったんですか⋯⋯?」

「嘘じゃないよ。だって俺は初めから遊びじゃないなんてひとことも言ってないんだから。でも、君はラフィに似ていて、素直で可愛くて好きだったのは嘘じゃないさ──そりゃ、いつかはこんな時が来るとは思ってたけどね。もういらないからさ、俺の前から黙って消えてくれよ」


 目に涙を浮かべたラズを見ても、彼は全く気にせず言葉を並べ立てる。それでいて優しげに微笑むその落差に混乱しそうだ。

 彼女を部屋に残して、レインナートは扉の外へと歩き出す。騎士の物言いたげな視線に気づくと、彼は「大丈夫さ」と笑う。


「あの子には家族がいないんだ。元々、口減らしのために村から王都に働きに出されてたんだからね。俺の言う通りに屋敷もやめてくれたから、使用人としての身分もない。何も問題ないさ」


 レインナートが出ていくのと入れ違いに、媚びた笑みを浮かべた髭の生えた男が現れる。おそらく彼の言うところの奴隷商人とやらだろう。


「いやぁ、いつも上玉を回してくれてありがとうございます」

「構わないよ。俺も彼女たちの『処分』には困っていたところだからね、お互い様だろう?」


 そして奴隷商人は、部屋の中で震えているラズに手を伸ばす。


「ッ近づかないで!」


 瞬間、ラズがサイドテーブルに置かれたペーパーナイフを手に取るのが見えた。奴隷商人が驚いて後ずさった瞬間、彼女は自分に向けてナイフを振り上げ、そして──


 ──そしてアリソンはまた、深い闇の中に放り出された。

 


◇◆◇



「お買い上げありがとうございます。今後とも、どうぞご贔屓にしてください」

「ああ」


 次にアリソンが立っていたのは、薄汚い店の中だった。

 暗い色のローブに身を包んだ老人と、その隣に同じ格好をした少年が立っている。彼らが話している相手は、レインナートがラズを売り飛ばそうとした奴隷商人だ。


「そうだ、あの頬の傷はなんだ? 普通の傷ではないようだが」

「ああ⋯⋯ここだけの話ですがね、あの娘、勇者様の『お払い箱』でして」

「なるほど、文字通り傷物というわけか。では首の傷も?」

「いえ、それはあの娘が自分でつけたものです」

「ふむ。なかなか骨のある奴隷のようだな。それだけ体力があるのなら、好都合だ」


 したり顔で頷いた老人は、奴隷商人から渡されたスーツケースを持ち上げる。

 頑丈そうなスーツケースは、身を丸くすれば人間ひとりを収められそうな大きさをしていた。


「それでは、またのご来店をお待ちしております。魔術師様」


 扉に向かって歩き出した老人に、奴隷商人が深々と頭を下げる。その様子をチラリと見遣ったのち、少年は老人の後を追って走り出す。


「お師匠様、今回はどんな実験をなさるんです?」

「うむ、今回は異能(アビリティ)の実験をしようと思う」

異能(アビリティ)……というと、魔人が持つという、我々の魔術とは全く形態の異なる力のことですか?」

「そうだ。魔人は勇者の聖剣フォルティスでなければ完全に倒すことはできないのは知っているな? そのため、我々は魔人については殆ど無知といって良い。しかし、この異能(アビリティ)をもしも人間が使いこなすことができたら──もしかしたら、我々は勇者にだけ頼らずとも、自力で彼らを倒すことができるかもしれない」

「それは良いですね! では、どんな実験を為さるんです?」


 興味津々と言いたげな少年──弟子に、老人は「実はな」と殊更に声を落として笑う。


「魔人が手に入ったのだ、一体」

「えっ!? ど、どうやって⋯⋯」

「勇者様に異能(アビリティ)の研究について持ちかけたところ、興味を持ってくれてな。弱い魔人を一体、生きた状態で譲ってくれたのだ。もちろん、逃げ出したり抵抗したりせぬように魔術や拘束具を使ってはいるがな。今回はこれと、先ほど購入した人間の娘を使って、異能(アビリティ)を人為的に得ることができるかどうかの実験をしようと思っている」


 スーツケースを一瞥してそう言った老人の目は、老いた人間とは思えぬほどの熱気で爛々と輝いている。


「面白そうですね、お師匠様! 僕もできるかぎりサポートさせて頂きます!」


 その老人の熱気に負けず劣らずとも熱い情熱を携えた少年の目が、老人を見つめる。その情熱と、確かに込められた尊敬の情に、老人が目尻に皺を寄せて微笑む。


「ああ、期待しているよ⋯⋯レミントン」


 

◇◆◇



 瞬きの刹那に、場面は切り替わっていた。

 ジメジメした光の刺さない地下で、血みどろの少女が拘束台に寝かされていた。頬に残る涙の跡や、身体中に残された抵抗の跡が痛々しい。

 しかし、少女を囲む二人の魔術師たちは己の研究成果に夢中で、そのような事柄には全く興味を示さない。あんなに美しい少女の──ラズの蒼い目が、今は何の光も写していないことも、彼らにとっては全くどうでもいい些事であるらしかった。

 やがて残留思念の黒い影がラズを覆い、彼女が苦悶の声をあげると、二人は「成功だ!」「やっと定着しましたね!」と手を叩き合う。


「よし、レミントン、今すぐ上の連中に成果を報告してくるんだ。これは世界を変えるぞ!」

「言われなくても、すぐさま知らせてきますよ!」


 駆け出した少年を見送るのも忘れ、老魔術師は己の成果に酔っている。


 湿気の立ち込めた地下室の中、至る所に血がこびりついている。

 部屋の隅には人間の死体が山積みにされ、異臭を放つ。そのさらに隣には元は魔人だったのであろう肉塊があるのを見るに、彼らは魔人の異能(アビリティ)をラズに人為的に継承させ、それが成功したかどうかを確かめるために、死体をここに運んできた、あるいはこの場で死体を()()()のだろう。

 残留思念は、死者の思念を追体験するものだ。死者がいなければ、無事に定着したかどうかなど分かりはしない。

 その理論はアリソンにもかろうじて理解できる。できるが、それを良心の呵責なしに実行に移せる彼らの倫理観は、さっぱり理解できない。


 その時、上へと通じているらしい扉が開く。老魔術師は己の弟子が戻ってきたとばかり思って、全く注意を向けていない。

 けれどそこから現れたのは、彼の弟子ではない。

 褐色の肌に黄金色の髪を靡かせ、その手に火の灯った燭台を持った青年──イグニスだった。


「喜んでいるところ悪いが、我らの同胞を返してもらおうか」

「なっ⋯⋯だ、誰だ貴様は! 私の研究成果を奪おうというのかね!?」


 被害妄想を口にした老魔術師に歩み寄ると、イグニスは「すまない」と言いつつ、彼の頭を思いっきり燭台で殴った。

 殴られた老魔術師はさぞ驚いただろうが、正直、それを見ているアリソンはもっと驚いた。てっきり燭台の炎で何かするとか、あるいは平和主義だったらしいイグニスらしく口先で丸め込むなり、もっと違う手段をとると思っていたのだが。

 殴られた魔術師は壁に向かって倒れ込み、当たりどころが悪かったのか、そのまま起き上がることはなかった。頭を打たれただけで死ぬとは考えにくいので、残念だが気絶しているだけだろう。

 

 イグニスは拘束台のラズには気づいていないらしく、真っ先に部屋の奥へと進む。積み重ねられた人間の死体を痛ましいものを見る目で見やり、肉塊と化した同胞に歩み寄る。

 死んだ人間たちと違い、魔人の方はあのような姿になってもまだ生きているらしかった。イグニスが肉塊に手のひらを向けて何事かつぶやくと、肉塊は見覚えのある門の中に吸い込まれていく。魔界への扉を開けて、向こうへ送り届けたに違いない。

 そうして自分も帰路につこうと門に手をかけて初めて、彼は背後の拘束台に少女がいること、そしてその少女にまだ息があることに気がついたのだった。


「君は⋯⋯同胞、ではないな。だが、君からは同胞の気配が⋯⋯」

「⋯⋯」

「⋯⋯まだ息があるな。自分の名前は言えるか?」

「⋯⋯」

「声が出ないのか? 生まれつき、いや、心理的なものか?」

「⋯⋯」


 イグニスが近づいても、ラズは一声も発しない。

 けれど彼はそんなことは気にせず、彼女を拘束していたものを片っ端から外したり壊したりすると、一切の反応を見せない少女の小さな身体にそっと慎重に手を伸ばした。

 まるで宝物を扱うような仕草だが、ラズの瞳に浮かんだのは恐怖と、それから深い深い諦めだ。身を静かに竦めた彼女に、イグニスは痛ましげに目を顰める。


「ひどい目に遭ったんだな。大丈夫だ、私は君を傷つけないよ」

「⋯⋯」

「それはそうと、名前がないと呼びにくいな⋯⋯ひとまず、そうだな⋯⋯『ラズ』と呼ばせてもらってもいいか?」

「⋯⋯ラ、ズ?」


 初めて言葉を発した彼女に、イグニスは目を丸くした後、「ああ」と優しく頷く。


「ラピスラズリ。君の瞳の色だ」


 それから、イグニスはラズを抱き上げると、ゆっくりと魔界の門をくぐり抜ける。



 暗転と共に現れたのは、見慣れた漆黒の空──魔界だ。

 最初こそイグニスを警戒していたラズも、目まぐるしく暗転を繰り返していくうちに、徐々に彼に心を許していくのが傍目にも分かった。

 何度目かの暗転の後、風景は人間界へ通じる門に切り替わった。門を背に立ったイグニスが、ラズに別れの言葉を告げているらしい。

 レインナートとのやり取りとは違い、イグニスのラズのやり取りはなんとなく見るのを憚られ、アリソンは常に一定の距離を置いて二人を見守ってきたのだが、会話の内容が気になり、そっと木の影から二人に近づいていく。向こうから見えていないのは分かっているが、それでも堂々と距離を詰める気にはならなかった。


 何故なら、アリソンの予想が正しければ、きっとこれが二人にとって最後の会話のはずだから。


「本当に行くの? やっぱりやめておいた方が⋯⋯」

「大丈夫だよ、ラズ。確かに我々魔人と人間は長く争ってきたが、平和を願う心は同じであると信じている。それに、お互い失くしたものがあるからこそ、互いの痛みを理解できるはずだ」


 不安げに背中で手を固く結んだラズに、イグニスが安心させるように暖かく微笑む。


「⋯⋯分かったわ、そこまで言うならもう止めない。その代わり、ちゃんと無事に帰ってくるのよ?」

「ああ、もちろんだ。必ず君の元へ還るよ。その、帰ってきたら⋯⋯聞いて欲しいことがあるんだ。だから、待っていてくれると嬉しい」

「ばかね、言われなくても待ってるわ。⋯⋯いってらっしゃい、イグニス」


 そう言って微笑んだラズの顔は、今まで見たどんなラズの表情にも勝る美しさで。

 いつも浮かべているような薄い笑みでも、挑発するような微笑でも、からかっている時の笑い方とも違う。可憐で、儚げで、けれど永遠に刻みつけられるような。

 ラズの笑みに思わず見惚れてしまったのはアリソンだけでなく、彼女と相対しているイグニスも同じで、顔を赤くした彼が何か言おうと口を開く。


 それと同時に頭上から白い光が降り注ぎ始め、アリソンは、ラズの記憶を巡る長い旅が終わりに近づいたことを悟った。


最後まで読んで下さり、ありがとうございます。

もし面白かったら、ぜひ評価や感想など頂けると嬉しいです。


次回更新日:10/10予定

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