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ファンタズム・ファンタジア  作者: 日差丸
第二章『銀座のキリエ編』

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第28話 桐絵ヒカリ

「――はい、そこまで! 今日のレッスンは終了だ!」

「ハァ……ハァ……!」


 パァン、と女性が勢いよく手を叩く。その合図によって踊っていた彼女はようやく休むことができた。膝に手を当てて荒く呼吸を繰り返す。顔を上げると、目の前にはシャツを大量の汗で滲ませながら同じように呼吸している少女が映った。

 レッスンルームは壁の一面が鏡面となっている。そこに映っている自分は、お世辞にも人に見せられるような姿をしていなかった。


「うーん、いい調子だねぇ! いつ見ても惚れ惚れするよ! 歌と踊り、今日もキレッキレだ!」

「そ……そう思うなら少しは手加減してくださ……い……」


 雑に投げつけられたタオルで汗を拭いながらそう愚痴をこぼす。疲弊し切った彼女とは対照的に、ダンストレーナーはまだまだ元気そうだった。ただでさえスタイル抜群な体を締めつけているタイツやスーツが汗で張り付くことで強調され、いけない雰囲気が漂っている。大人の魅力というやつだ。

 年齢は聞いたことはない。外見上はどう見ても大学を出たばかりの二十代前半の美女、といった感じだが、それでは一流のトレーナーを務められるほどの経験と技術を持っていることの説明がつかない。となれば若く見積もって三十代前半というのが自分の予測だ。俗に言う美魔女というやつなのだろう。

 自分もあれくらいの年齢になれば同じような雰囲気を出せるようになるのだろうかと、未だ発展途上の胸に手を当てる。


「これなら今度のライブも成功間違いなしだな!」

「そ、そうだといいんですけど」

「問題があるとすれば……《《あれ》》か……」

「……《《あれ》》ですか」


 その話題が出た途端、トレーナーが眉間にシワを寄せた。おそらく自分の顔に不安が浮き出てしまっていたのだろう。すぐに作り笑いを浮かべるも、彼女の表情は変わらなかった。


「じゃ、じゃあ失礼します」

「ああ。また明日な」


 頭を下げ、レッスンルームの戸を開ける。

 そうして彼女――桐絵ヒカリは部屋を後にした。


 ♦︎


 荷物をまとめると、ヒカリは事務所の廊下を歩いていく。ヒカリが所属する事務所はビルの中にあり、レッスンルームの上にあった。

 途中、職員たちがいる部屋の窓を覗く。彼らは全員が慌ただしく動いていた。もうすぐ開かれる大型ライブの準備に忙しいというのもあるだろう。しかしヒカリはこの忙しさにはもう一つの理由があることを知っていた。


 現在、この事務所ではある問題が発生している。それは当事者の自分でも手に負えるものではなく、警察沙汰にまで発展していた。

 なのに、進展なし。科学的な調査からはなんの痕跡も発見できず、今でも続いている事件は適当に処理され、ほったらかしにされている。それで業界関係者は不気味がり、職員たちは変な噂が流されないように奔走しているというわけだ。

 その発端が自分であることを自覚すると、胸に小さな痛みが走った。そのことから目を背けるように部屋から離れる。そしてエレベーターの前までやってきた。

 すると……。


「やあ、ヒカリちゃん。今日もレッスンかい? 精が出るねぇ」

「……はい。大田さんもお変わりなく」


 突如粘り気のあるような声をかけられ、背筋が凍った。慌てて振り向くと、そこには脂汗だらけのぶくぶく太った男が立っていた。顔はニキビだらけで吐く息は荒く、臭い。見た目が全てとは言わないが、それでも目を背けたくなるような醜さだ。しかしヒカリは無理に笑顔を作って彼に挨拶をした。


「はっはっは。いやー、さっき社長さんと話をしたばっかなんだけどね? 帰りに君の後ろ姿を見つけて、思わず走ってきちゃったよ。おかげで暑い暑い」

「は、はぁ……」


 だったら走ってこなくてもよかったのに、と内心口にする。あれだけ肥え太った体だ。運動に慣れていないことは明白だった。

 それでも無理して追いついてきたため、今の彼の顔面は汗と汁まみれで普段の三割増しで醜く感じる。


「それでね……この前話した件なんだけどねぇ」


 ニチャァ、と大田は肉まみれで弛んだ口を気味悪く歪めた。本当にほおの動きだけで音が出ていそうだ。


「……その話は何度もお断りしたはずです」

「いいじゃんいいじゃん〜。どうせみんなやってることだよぉ? だぁれも文句言わないって」

「っ、いい加減にしてください! 私はアイドルです! 歌をみんなに届けるのが仕事です! そんなことをするためにこの世界に来たわけじゃありません!」


 その怒声を聞いて大田は少し目を見開いて驚いていたようだった。しかしそれだけだ。彼はヒカリの精一杯の訴えを聞いてもなお、その気色悪い笑みをやめない。むしろさらに笑みが深くなる。


「ヒカリちゃんは子どもだねぇ。まあまだ高校生だから仕方がないか。でもね、事務所で働く以上そうも言ってはいられないんだよ。もっと大人にならなくちゃ」

「それと今の話になんの関係が……!」

「僕がいろぉんなテレビ業界に顔が効くのは知ってるよね」

「……はい」


 顔が効くどころの話ではない。この男は業界に多大な影響力を持つ大物プロデューサーなのだ。

 悔しいが、それは事実だ。


「ヒカリちゃんに最初に目をつけて、サポートしたのも僕だったよねぇ? おかげで今や君はアイドル界のスーパースターだ。そんな君を支えた僕に、ちょぉぉっとくらいのご褒美があってもいいと思うんだよなぁ」

「た、たしかに大田さんには色々なバラエティ番組で融通してもらいました。今の知名度にあなたの影響がないとは言いません。でも最終的に、私は私の歌がみんなを惹きつけているんだって信じています!」


 ヒカリはキッと彼を睨みつけた。しかし彼は堪えきれないというように腹を押さえると、破裂したかのように下品な笑い声をあげる。


「ブァッハッハ! 芸術のなんたるかを知らない大衆に歌の良し悪しなんてわかるわけないじゃないか! 有名人が『良い』というから大衆は『良い』と信じる。まるで意思を持たない蟻んこみたいだねぇ。結局芸能界の人気なんて僕たちが決めることなんだよ!」


 テレビ関係者にあるまじきことを言い放った大田にヒカリは絶句した。性根が腐っているどころの話ではない。この男はアイドルを、いやテレビに映る全ての人間を道化扱いしている。こんな人間の協力を得ていたというだけではらわたが煮え繰り返りそうだった。

 だがそんな彼女の心象を嘲り笑うように大田は機嫌よく舌を回す。


「例えばだぁ。僕は誰かを有名にすることができるけど、それは逆のこともできるってことなんだよぉ?」

「……まさか!」

「誰かを一生テレビに映さないようにすることなんて簡単なんだよ。そうしたら誰が君の歌を聞く? 誰が君のダンスを見るんだろうねぇ?」


 目の前が真っ暗になった気がした。言いようのない不安と吐き気が迫り上がってきて、思わずフラついてしまう。大田はニヤつきながら彼女に近づいてくる。

 逃げようと足を動かそうとするが、息が苦しくなってフラフラになりながら後退することしかできない。

 大田はその状況を楽しんでいるのか、目に下卑た情欲を宿しながら舌舐めずり。まるで獲物を追い詰めている獣だ。

 それから必死に逃れようとして、しかしとうとう壁に追い詰められてしまった。大田はすかさず接近し……その脂っこい手で自慢の髪を触り始めた。


「すぅぅぅ……はぁぁぁ……! ああ、やっぱりいい匂いだぁ……! このために僕は君を選んだんだよぉ」

「ひっ……!」


 怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い。

 ヒカリの心はこの醜悪の獣が発する身も毛も凍るような吐息によって、完全に萎縮し切ってしまっていた。何重に鎖で縛り付けられているようで、もはや自分の意思では動くこともできない。

 普段明るい彼女がそんな絶望し切った表情をしているのを見て嗜虐心が刺激されたのか、大田の顔が興奮で熱を帯びる。

 そしていよいよ、そのダイヤモンドのように端正な顔を汚そうと、手を伸ばそうとして――。


「――なにしてるんですか?」


 横から伸びてきたもう一つの手が、大田の腕をとらえた。その声には聞き覚えがあった。

 トレーナーだ。彼女が駆けつけてくれたのだ。


「……いやだなぁ。ちょっと彼女とコミュニケーションをとってただけですよぉ。彼女は僕の大事な商品ですから……ねっ!」


 大田は気だるげにトレーナーを睨むと、男の腕力に任せて手を振り払おうとする。

 だが、動かせない。

 まるで凍りついたように、大田はピクリとも動くことができなかった。代わりに彼の腕からミシミシという嫌な音が鳴った。人間とは思えないような彼女の馬鹿力に、骨が悲鳴を上げたのだ。


「もう一度聞きます。なにをしているんですか?」

「あっ……あぁ……!」


 トレーナーは笑顔を浮かべている。しかしその目だけは今までも見たこともないほど爛々と輝いていた。それを覗くだけで恐怖心が迫り上がってきて、体が震えてしまう。直接向けられているわけでもないのにこれなのだから、大田が感じている恐怖は想像を絶するものなのだろう。その証拠に彼の口からは濁った泡が立ち始めていた。

 先ほどまでのヒカリを兎とし、大田がそれを喰らう狐とするなら、トレーナーはまるで熊だ。上には上がいる。先ほどまでの立場が一転して狩られる者となったことで、本能的な恐怖が彼の頭を支配していた。


「……じゃ、じゃあ僕はこれで! 失礼しました!」


 大田はもう少しで気絶しかけたところ、何とか正気を取り戻す。そして一目散にエレベーターの横にある階段へ逃げ込んでいってしまった。

 途端、体を縛る鎖が消えたように感じ、ヒカリはその場見座り込んでしまう。

 トレーナーはそんな彼女を優しく立たせると、無意識のうちに目に浮かんでいた涙を指で拭ってくれた。


「あ、ありがとうございます……」

「まったくあのジジイ、ほんっときもいな! 社長も社長だ! お偉いさんなのはわかるけど所属タレントを守るのも仕事だろうが!」


 彼女は髪の毛を逆立てるほどの勢いでいきりたっていた。そこには先ほどまで感じられた獰猛な野獣のような殺気はない。それどころか、頑張って威嚇する猫を連想してしまい、思わずヒカリはくすりと小さく笑ってしまった。


「はぁ。ただでさえこっちは別の問題があるってのに……あの豚にはうんざりするよ」

「……ご迷惑をおかけします」

「いいんだよこれくらい。それよりも今日だよな? 例の独立術師と会う日って」

「……はい。トレーナーの紹介だから怪しいとは思わないんですけど、やっぱりその……」

「……まあ、オカルト関連の話は一般人じゃどうしても信じられない部分が多いよな。でも少なくとも警察よりかは頼りになるはずだから」


 先ほども言った通り、ヒカリは現在謎の事件に巻き込まれてしまっている。事務所もこれに関してはお手上げであり、後手に回って事件をもみ消すことしかできなかった。

 そんな猫の手も借りたい状況の中で、事情を知っていたトレーナーが頼りにしたのはうさん臭い何でも屋だった。

 何でも屋といえば思い浮かべるのが掃除洗濯などの家事から迷子の猫の捜索など、雑務をこなしているイメージだ。しかし彼女が言うその独立術師? とやらはオカルト的な問題を解決する専門家らしい。なんでも彼女はそういった斡旋業を営んでいる人にツテがあるらしく、その知り合いを通して依頼を出させてもらったのだとか。

 しかしヒカリも今年で高校二年生だ。正直言ってそのような話を信じることはできなかった。だが料金も好意で支払われてしまっている以上、行かざるを得なくなったというわけだ。


「本当は私も一緒に行きたいんだけどな。今日どうしても外せない用事があって……」

「いえ、いいんです。全部トレーナーに頼りっきりというわけにはいきませんし」

「そう……ならせめて事務所の外まではご一緒させてもらうとするよ」


 トレーナーは事務所の正社員ではない。外部から一時的な契約で雇用しているだけのフリーのダンストレーナーに過ぎないのだ。そんな彼女にこれ以上事務所の問題を背負わせるわけにはいかない。

 二人で一緒のエレベーターに乗り、ビルの一階乗りたどり着く。すると外に一台のタクシーが停まっているのが目に入った。


「さっきタクシー呼んだからさ、今日はこれに乗っていきな」

「え……でも依頼料も払ってもらって、さらにこんな……」

「いいっていいって! さっきあんなことあったばかりなんだ。おちおちこんな時間に一人で出歩くのは危険だろ?」


 ズイっとトレーナーが一万円札を突き出してくる。フリーターなので自分も生活に余裕があるわけでもないのに。むしろ収入はアイドルとして稼げているヒカリよりも少ないくらいだろう。しかし彼女は何らためらうことなく大金を手渡してくれた。そこに人の暖かさのようなものを感じ、涙が溢れてきそうになる。


「お前は私の長い長い人生の中で見つけた希望の星なんだ。できることならいつまでも見ていたい。でも、人の命は一瞬だ。どれだけ明るく輝こうが、最後には線香花火のように消えていっちまう」

「トレーナー……?」

「ならばその輝きを一分一秒でも長く。いつでも思い出せるように、目に焼きつけておきたいのさ。そのためだったらなんだってやってやりたい。これはそれだけの話さ」

「は、はぁ……」

「ま、もう少し大人になれば理解できるかもな」


 トレーナーはヒカリの頭を乱雑に掻き回すと、手を挙げるだけで振り返りもせずにそのまま行ってしまった。

 カッコいい人だ。ヒカリは芸能界でさまざまな大人を見てきたが、彼女ほど自分らしさを貫いている人間はいない。そのスタイルのせいで契約した事務所と何度もトラブルを引き起こしたことはあったが、それでも彼女は重要なところで退くことはなかった。

 将来はあんな大人になりたい。自分を信じ、光り輝ける太陽のような存在に。

 しかし……今の自分はまるで他人の光で輝く月のようだ。太陽はおろか、一番星にも及ばない。

 タクシーの中で思い出すのは大田の悪魔のような笑み。あれを見ただけでまた体が動かなくなってしまい、震えが止まらなくなる。

 彼は自分を歌ではなく容姿で選んだと言っていた。つまり自分の歌は? ダンスは? 笑顔は? 果たして本当に観客のみんなの心を掴めていたのだろうか?


 ふと、窓の外で笑顔を浮かべているヒカリのポスターが目に入った。

 しかしこの時の自分は、本当に自然に笑えていたのだろうか? そう思うたびに、自らも信じることのできない弱い自分に嫌気が差し、胸が痛んだ。

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