第65話:混沌の朱雀大路
左京、九条邸(藤原師輔邸)
「すべて、其方の仕業か」
『彩天』師輔は、感情のない紫水晶のような双眸で目の前の女を見下している。それはおよそ、自分の妻に向けるような眼差しではない。いや、実際彼は彼女を妻と意識したことなど一度もなかった。
「何の話です」
そんな彼の瞳を一瞥することもなく、盛子は池の水面に揺れる紅葉を見つめている。彼女もまた、彼を夫だと思ったことはなかった。
「そうか」
そんな彼女の素っ気ない返事に、師輔は怒ることも、また失望することもなく、あたかもどうでも良かったかのような態度で佇んでいる。いや、実際どうでも良いのだ。彼の中で答えはとうに出ている。これは、ある種の儀式であった。
「先日、摂政殿下への取次ぎを頼むものがここへ訪れたらしいな」
「確かに訪れましたが、それが何か?」
「何を聞いた」
淡々と、師輔は尋問する。その瞳に感情は宿っていない。彼女が目にするいつもの師輔だ。
そんな様子の彼に盛子はため息をつき、おもむろに口を開いた。
「お告げと同じことです」
「お告げだと?」
師輔はその顔にわずかに戸惑いを浮かべてそう返す。盛子はわずかに笑みを浮かべて、視線を彼から外したまま再び口を開いた。
「ええ。先日、尊い神が夢枕に立たれたのです。そのお方は天若彦とお名乗りになり、伊勢の神器が喪われた、これから皇国は荒れるだろう、と仰りました」
皇国においてもっとも神に近い存在である神子ですら、ほとんど聞くことがない神の声。それを聞いたという盛子の言葉に師輔はわずかな動揺を浮かべた。
そんな彼の感情のさざ波を心地よく思って、盛子はなおも続ける。
「まさか、とは思いましたよ。しかし、相馬小次郎とやらの言葉を聞いて確信いたしました。かの神の御言葉は事実である、と」
「……」
「伊勢の混乱を、公儀は隠そうとしているようですね。これは神意に反する行いです。ですから、わたくしが公にしてしまおうと思った。これも全て、九条殿の――」
そんな彼女の言葉を遮ったのは、往来からの騒音。そして、血相を変えて飛び込んできた従者の叫び声だった。
「権中納言殿っ!!」
「何事だ」
「再臨の神子が佐伯の若君とともに脱獄いたしました! 大路は大騒ぎです!!」
息も絶え絶えに報告する従者を一瞥すると、師輔は心底厄介そうな顔で舌打ちする。
「兄上め、アテが外れたか」
「小野宮大納言殿より近衛府への召集命令が出ております! お急ぎください!!」
「分かった」
そうとだけ短く答えると、師輔は再び盛子を見遣る。
「では、そういうことだ。邪魔をしたな」
彼女は何も言わない。ただ、何かを堪えるように唇を真一文字に結んで水面を見つめている。
そんな様子を見届け、師輔は部屋を去ろうとした。
その時である。今度は、また別の従者が飛び込んできた。
「た、大変ですッ!!」
「再臨の件なら知っている。我もすぐに――」
「悠天様が……内裏の結界を破って平安宮へ!!」
「――!!」
明らかに師輔の表情が変わる。盛子の件でも、そして海人の件でもわずかにしか感情が動かなかった彼が、誰の目から見ても動揺していた。
「馬鹿な……一体、何のためにッ!!」
「詳細は現在確認中。ですが、悠天様は『神器の欠片を京中に放った』とおっしゃっているようで」
「何故だ……何故君は斯くもままならぬのだ……!!」
柱にもたれ掛かり、頭を抱える師輔。そして、彼は従者を睨みつけた。
「再臨の件は後回しだ。我は悠天の対処に向かう。兄上にはそう伝えておけ!」
そう叫び、部屋を後にしようとする師輔。その刹那――
「なんで……なんでですっ!!」
割れるような、悲鳴に近いような言葉に師輔は足を止める。盛子は、今にも泣きだしそうな、悔しそうで苦しそうな表情を浮かべていた。
「貴方は、いつもあの女のことばかり。わたくしなど、まるで木の端のようにお扱いになる……今回だって、わたくしがあの女を貶めるために噂を流したとお気付きでしょう? なのにお怒りにならず、お咎めにもならず、どうでも良いといったご様子。これでは、わたくしが馬鹿みたいではありませんか!?」
「……我の知ったことではない」
「わたくしとの婚姻が不本意であったことは知っております。出世欲に駆られた父上や、世間体を気にした実頼卿の意向が強く働いたのも知っています。ですが、これはあんまりです!」
「……」
「そんなに彼女が気に掛かるのなら、いっそわたくしを離縁なさってはくれませんか!!」
盛子の必死の叫びは師輔の表情に何の影響も与えない。彼はただ、冷めた瞳で彼女を見つめている。
「……其方がそう言うのなら、考えておく」
師輔は静かにそう答えると、従者とともに部屋を去った。盛子の部屋からはすすり泣く声が聞こえたが、師輔は振り返ることすらしない。ただ苦し気な表情を浮かべて、誰にも聞こえない程小さな声で「情けない」とだけ呟いた。
▼△▼
朱雀大路、海人一行の牛車。
「神子様、一体ここからどうするおつもりで……」
不安げな表情でそう尋ねる高明に、海人は自信満々な表情を浮かべた。
「とりあえず、このまま御所を目指します」
「御所を!?」
「なるべく大物を引っ張り出したいんで、騒ぎは大きければ大きい方が良いですね。今のところ雅信さんは上手く通行規制やってくれてるから順調に進めてますし、良い感じです!」
「御所まで行ってどうするんです?」
「交渉ですよ」
ニヤリと笑う海人。そんな彼を見て、仁王丸は厳しい表情を浮かべる。
「可能ですかね」
「当然。いま有利なのはこっちだ」
余裕の笑みを浮かべる海人を、仁王丸は怪訝な表情で見つめる。
「有利? 我々がですか? しかし、戦力的に勝ち目はないと――」
「ああ、戦って勝てる要素はない。そんなこと最初から分かってる」
「えっ?」
「だから、戦わない……いや、相手が戦えないようにした」
そう言うと、海人は御簾を掲げて周囲を見渡した。
「これだけ人がいる。それに、人質もいるんだ。こんな中で戦おうとする馬鹿はいないだろうよ!」
頬杖をつきながらそう言い放ち、高らかに笑う海人。そんな彼を見て、仁王丸は心底軽蔑するような目を向けた。
「高明卿のみならず、民まで人質にとるとはなんたる外道……」
「めっちゃ言うね!?」
「ですが――」
彼女は一度瞑目すると、再び海人の目を見て微笑んだ。
「良い策です。悔しいですが、今取りうる最善手に近い。あとは交渉の内容次第ですが」
「それは絶賛考え中」
「やっぱり私と一緒に死んだほうが良いかもしれませんね」
「手厳しッ!!」
海人の叫び声が大路に響くが、すぐに喧噪にかき消された。人混みはまだ大きくなり続けている。海人たちの目には、全てが思い通りに進んでいるように思われた。
その時である。
「契神:布津主命;神器『十握剣』!!」
「――!?」
高らかな詠唱、神気の収束、海人には聞き覚えのある声。人混みの合間を縫って、かの少年は神の力を海人たちに向けた。
「霊術:『護法結界・転』!!」
仁王丸の咄嗟の詠唱。師伊の術式は威力、質量ともに相当なものだ。真正面からではそうは受けきれない。ゆえに、彼女は閃撃を空へ逸らした。
「チッ……」
青天を貫く武神の一撃を忌まわし気に睨みつけると、師伊は向かってくる牛車に視線を下ろす。そして、そのあどけない顔に凶悪な笑みを浮かべた。
「先日は世話になったな。礼をしに来たぞ、再臨ッ!!」
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