第41話 霧刃蟷螂
岩殻大蛞蝓の巨体から、魔石を取り出す。
殻の下へ剣を入れ、凍りついた肉を切り開いた。
現れた魔石は、両手で抱えるほど大きい。
墓喰い大蜥蜴のものと比べても、魔力の濃さは劣っていなかった。
魔石を《収納》へ入れる。
続いて、倒した岩殻蛞蝓を調べた。
十二個の魔石。
状態のいい殻。
腐食性の粘液を蓄えた器官。
粘液袋は、少し傷つけるだけで灰色の液体が漏れ出す。
解体できるものの、今の道具で安全に持ち運ぶのは難しい。
殻だけを五枚切り取った。
剣や防具の素材になるかもしれない。
最後に、岩殻大蛞蝓の殻へ刺さっている武器を調べる。
剣。
槍。
矢尻。
どれも長く粘液へ晒され、錆びていた。
使える物はほとんどない。
その中に一本だけ、刀身の半分が残った剣があった。
表面は黒い。
粘液を受けても、完全には溶けていない。
柄には、冒険者ギルドの印が刻まれていた。
持ち主は死んだのだろう。
俺は折れた剣を《収納》へ入れた。
ベルガンへ戻ったとき、持ち主を確認できるかもしれない。
生きている可能性は低い。
それでも、形見を待っている者がいるかもしれなかった。
◇
岩殻大蛞蝓が塞いでいた横穴へ入る。
奥行きは浅い。
入口から内部まで、霧視で確認できる。
動く影はない。
床には乾いた土があり、灰色の粘液も付着していなかった。
周囲へ細い紐と鈴を張る。
その奥へ《魔法のテント》を出した。
中へ入ると、身体から力が抜けた。
肩。
背中。
脚。
戦っている間は感じなかった痛みが、一斉に戻ってくる。
革鎧にも、腐食した跡がいくつも残っていた。
このまま次の戦いへ進むのは危険だ。
岩殻大蛞蝓の魔石を取り出す。
テントの床へ置き、供給を意識した。
《高濃度の魔石を確認しました》
《魔法のテントへ魔石を補充します》
大きな魔石が光へ変わる。
魔力が床を通り、テント全体へ広がった。
《累積魔石エネルギーが規定量へ到達しました》
《設備拡張条件を満たしました》
《新規設備を追加します》
テントの奥に、光の線が現れた。
何もなかった布壁が広がっていく。
小さな扉が作られた。
《簡易浴室を追加しました》
「浴室……」
扉を開く。
中には、人一人が座れる程度の浴槽があった。
壁には水を出すための突起。
床には排水口。
説明へ意識を向ける。
《簡易浴室》
《蓄積した魔石エネルギーを使用し、水と湯を供給します》
《使用した水は設備外へ持ち出せません》
《使用中は魔石エネルギーを消費します》
蛇口のような突起へ触れる。
温かい湯が流れ出した。
手を入れる。
熱すぎない。
冷たくもない。
湯気が狭い浴室へ広がった。
七年間、独房で身体を洗うために与えられたのは、冷たい水と汚れた布だけだった。
火傷を負ったあとも同じだった。
傷が膿んでも。
血が固まっても。
誰も気にしなかった。
魔法のケトルを得てからは、温かい布で身体を拭けるようになった。
それだけでも十分だと思っていた。
今は、身体を湯へ沈められる。
革鎧と服を脱ぐ。
腐食した部分を避けながら、装備を床へ置いた。
浴槽へ入る。
湯が肩まで届く。
「……ああ」
息が漏れた。
熱が傷ついた身体へ染み込んでいく。
岩殻蛞蝓の粘液。
魔物の血。
灰霧蛾の鱗粉。
皮膚に残った汚れが、少しずつ落ちていった。
右肩の灰色の痕も洗う。
呪いの痛みはほとんどない。
湯へ浸かっていると、自分が復讐のために生きていることさえ、一瞬だけ忘れそうになった。
マリエルと店を営んでいた頃。
仕事を終え、二人で食事をした。
温かい湯を用意するのは大変だった。
大きな鍋を何度も運び、浴槽へ入れた。
マリエルは先に入れと言っても、いつも俺を先に入れようとした。
結局、どちらが先かで笑いながら言い合った。
「もう一度、入りたかったな」
返事はない。
湯の流れる音だけが聞こえる。
俺は目を閉じた。
休むのは、諦めるためではない。
次に戦うためだ。
◇
浴室を出る。
傷へ下級回復薬を少量使い、新しい包帯を巻いた。
革鎧は防具補修材で塞ぐ。
腐食して薄くなった部分は、完全には戻らない。
ベルガンへ戻ったら、本格的に修理する必要がある。
簡易調理台へ鍋を置いた。
干し肉。
豆。
硬い根菜。
塩。
いつもと変わらない料理。
だが、戦いのあとの空腹には十分だった。
一杯目を食べ終える。
すぐに二杯目をよそう。
身体が求めるまま、鍋を空にした。
水を飲み、寝台へ横になる。
《所持ガチャ券:七枚》
《灰霧谷討伐記録:5/?》
まだ終わっていない。
谷の奥には、別の魔物がいる。
だが、今は眠る。
目を閉じると、すぐに意識が落ちた。
◇
目を覚ました。
身体の痛みは残っている。
それでも、戦える程度には回復していた。
保存食を口へ入れ、水で流し込む。
革鎧を着る。
剣を確認する。
岩殻大蛞蝓との戦いで、刃に細かな欠けが増えていた。
砥石で整える。
完全には直らない。
それでも、次の戦いで折れるような状態ではなかった。
テントの外へ出る。
紐と鈴に異常はない。
灰色の霧は、休む前より濃くなっていた。
《霧視》を使う。
見通せる範囲も少し狭い。
特殊な霧が混じっているのか。
あるいは、谷の奥へ進んだことで濃度が上がっているのか。
《魔法のテント》を収納する。
方位針を確認した。
針は北を示している。
谷の奥へ進む。
◇
岩殻大蛞蝓の死体を越える。
その先には、細い峡谷が続いていた。
左右の岩壁は高い。
上部は霧に隠れ、見えない。
地面には、岩殻蛞蝓が残した粘液の跡。
完全に乾いている場所だけを選んで歩く。
しばらく進んだところで、《危険察知》が反応した。
上。
俺は剣を抜きながら横へ跳んだ。
頭上から、二本の刃が振り下ろされる。
地面へ深い切れ目が入った。
灰色の影が着地する。
人間ほどの大きさ。
細長い胴。
三角形の頭。
鎌のように曲がった二本の前脚。
巨大な蟷螂だった。
身体の色は、周囲の霧と同じ灰色。
動きを止めると、輪郭が霧へ溶けていく。
《霧刃蟷螂との遭遇を確認しました》
《未討伐の魔物種です》
霧刃蟷螂が前脚を振る。
右から一撃。
剣で受ける。
硬い音。
左の鎌が脇腹を狙う。
身体を捻る。
刃が革鎧を掠めた。
浅い裂け目が入る。
霧刃蟷螂はすぐに後退した。
灰色の霧へ入り、姿が消える。
《霧視》でも、完全には見えない。
薄い影。
輪郭だけが、遠ざかっていく。
追わない。
俺は剣を構えたまま待った。
風はない。
霧もほとんど動いていない。
それでも、左側だけがわずかに揺れた。
剣を振る。
鎌と刃がぶつかった。
霧刃蟷螂の姿が現れる。
胸へ剣を突き出す。
魔物は後ろへ跳んだ。
浅くしか入らない。
再び霧へ消える。
姿を見つけるだけでは足りない。
消えられないようにする。
俺は左手を地面へ向けた。
広く凍らせるのではない。
冷気を薄く、周囲へ流す。
「《冷気》」
温度が下がる。
灰色の霧に、小さな氷の粒が生まれた。
霜が岩壁へつく。
地面へつく。
そして、何もないように見えた空間にも付着した。
人の形。
細い胴。
二本の鎌。
「見つけた」
霧刃蟷螂が飛びかかる。
左右から鎌が迫った。
俺は正面へ踏み込んだ。
鎌の根元へ入る。
外側にいれば、二本の刃を受け続ける。
近づけば、振り切れない。
肩から体当たりする。
軽い。
霧刃蟷螂の身体が後ろへ倒れた。
胸へ剣を突き刺す。
灰色の甲殻を貫き、背中まで刃が入った。
魔物の脚が痙攣する。
《霧刃蟷螂を初めて討伐しました》
《ガチャ券を一枚獲得しました》
《灰霧谷討伐記録:6/?》
《所持ガチャ券:八枚》
剣を引き抜く。
同時に、周囲の霧が揺れた。
一つではない。
左右の岩壁。
頭上。
背後。
薄く広げた冷気によって、霜が次々と空中へ付着していく。
灰色の輪郭が現れる。
十体。
いや、奥にもう一体いる。
全部で十一体。
霧刃蟷螂たちは、岩壁へ脚を食い込ませながら俺を囲んでいた。
◇
最初の二体が頭上から落ちてくる。
一本目の鎌を剣で弾く。
二本目は避ける。
別の個体が背後から前脚を伸ばした。
《危険察知》に従い、身体を沈める。
鎌が頭上を通過する。
俺は振り返らず、剣を後ろへ突き出した。
硬い感触。
腹部へ刃が入る。
身体を回し、そのまま横へ切り裂く。
二体目。
正面の霧刃蟷螂が両腕を振る。
速い。
右。
左。
再び右。
剣で受け続ける。
金属音が連続した。
腕が痺れる。
四撃目を受けた瞬間、別の個体が脚を狙ってきた。
俺は自分から後ろへ倒れた。
低く振られた鎌が空を切る。
地面へ手をつき、身体を回す。
両脚で霧刃蟷螂の膝を払った。
細い脚が折れる。
倒れた胸へ剣を突き立てる。
三体目。
頭上から霧が落ちてくる。
違う。
霧刃蟷螂が翼を広げている。
羽ばたくたび、身体に付着した霜が飛ばされた。
再び輪郭が消える。
魔物たちが一斉に霧の中へ溶けた。
冷気を使い直す。
だが、同じことをすれば羽で霜を落とされる。
別の方法が必要だ。
足元を見る。
倒した霧刃蟷螂の身体から、透明に近い体液が流れている。
俺は生活魔法で水を生み出した。
霧へ向かって、広く撒く。
水滴が空中へ散った。
何もない場所で、いくつかの水滴が弾かれる。
そこにいる。
「《冷気》」
水滴だけを凍らせる。
小さな氷粒が、霧刃蟷螂の身体へ貼りついた。
羽を動かしても、すぐには落ちない。
輪郭が再び浮かぶ。
右から一体。
左から二体。
俺は右へ向かって走った。
霧刃蟷螂が鎌を交差させる。
首を断つつもりだ。
直前で足を止める。
二本の鎌が目の前を通過した。
伸びきった腕の関節へ剣を振る。
右腕を切断。
返す刃で左腕も斬る。
胸へ踏み込み、剣を突き刺した。
四体目。
左から来た二体の鎌が迫る。
一体目の攻撃を剣で受ける。
もう一体の鎌が背中へ入った。
《耐久の革鎧》が裂ける。
刃の先端が皮膚を切った。
熱い痛み。
俺は前の個体を蹴り飛ばした。
すぐに振り返る。
背後の霧刃蟷螂が、二撃目を振り下ろす。
横へ避ける。
鎌が地面へ刺さった。
抜く前に、腕の付け根を斬る。
霧刃蟷螂が大きく口を開いた。
顎で噛みつこうとする。
左手を向ける。
「《氷塊》」
尖らせた氷が口へ入る。
頭部を内側から貫いた。
五体目。
◇
残る六体が、岩壁の上へ移動した。
高い位置から、こちらを見下ろしている。
一体が翼を動かす。
灰色の霧が渦を巻いた。
谷の奥から、さらに濃い霧が流れ込んでくる。
《霧視》を使っても、輪郭が薄くなる。
霧刃蟷螂たちは、霧そのものを動かせるのか。
頭上から鎌が落ちてくる。
姿は見えない。
《危険察知》だけを頼りに避ける。
右へ。
左へ。
背後。
次々と地面へ切れ目が入った。
反撃できない。
俺は岩壁へ背をつけた。
攻撃される方向を減らす。
正面の霧が揺れる。
一体が来る。
剣を構える。
だが、攻撃は上からだった。
囮。
頭上の霧刃蟷螂が、両腕を振り下ろす。
間に合わない。
俺は剣を横にして頭上へ掲げた。
二本の鎌を受ける。
膝が沈んだ。
力も強い。
さらに、正面から別の一体が飛び込んでくる。
両手は塞がっている。
避けられない。
俺は左手を剣から離した。
頭上の鎌が押し込まれる。
片手だけでは支えきれない。
それでも、正面へ向けて魔力を集めた。
「《氷塊》」
氷が霧刃蟷螂の胸へ刺さる。
致命傷ではない。
だが、飛ぶ方向がずれた。
魔物が俺の横を通過し、岩壁へぶつかる。
頭上の霧刃蟷螂を、剣ごと横へ押す。
体勢が崩れた。
腹へ蹴りを入れる。
霧刃蟷螂が地面へ落ちた。
胸へ剣を振り下ろす。
六体目。
岩壁へぶつかった個体が起き上がる。
氷塊の刺さった胸から、透明な体液が流れている。
俺は距離を詰めた。
右の鎌。
左の鎌。
続けて顎。
三つの攻撃を避け、胴へ剣を入れる。
七体目。
残る四体。
霧の奥で、四つの輪郭が動いている。
同時に来るつもりだ。
俺は《収納》から投げナイフを三本取り出した。
倒した霧刃蟷螂の透明な体液へ、刃先を浸す。
毒があるかは分からない。
必要なのは、体液そのものだ。
三本を別々の方向へ投げる。
一つ目。
外れた。
二つ目。
硬い音。
三つ目。
霧の中で何かへ刺さった。
透明な体液が、霧刃蟷螂の身体へ広がる。
灰色の霧の中で、濡れた輪郭だけが光を反射した。
「一体」
そこへ走る。
霧刃蟷螂が鎌を振る。
身体を沈めて避ける。
胴を横へ斬る。
八体目。
背後から二体。
俺は倒れた魔物の身体を持ち上げた。
二本の鎌が死体へ入る。
刃が抜けない。
死体を押し出す。
二体の霧刃蟷螂が体勢を崩した。
一体目の首へ剣を振る。
九体目。
もう一体が鎌を死体から引き抜く。
その前に胸へ剣を突き刺した。
十体目。
《霧刃蟷螂を十体討伐しました》
《ガチャ券を一枚獲得しました》
《所持ガチャ券:九枚》
最後の一体が霧の奥へ逃げる。
輪郭が見えない。
だが、濡れた地面に足跡が残っていた。
細い脚の跡。
岩壁へ向かっている。
俺は追った。
霧刃蟷螂が壁へ飛びつく。
そのまま上へ逃げる。
左手へ魔力を集める。
氷槍を使うほどではない。
細く尖らせた氷塊を放つ。
氷が右脚の関節へ刺さった。
霧刃蟷螂が壁から落ちる。
地面へ着く前に踏み込み、胸へ剣を突き立てた。
十一体目。
◇
周囲が静かになる。
俺は岩壁へ手をつき、息を整えた。
背中の傷が痛む。
回復薬を使うほど深くはない。
生活魔法の水で洗い、包帯を巻く。
霧刃蟷螂を《解体》で調べる。
価値がありそうなのは、鎌状の前脚。
透明な体液を蓄えた小さな袋。
複眼。
前脚は硬く、刃物の素材に使えそうだった。
状態のいいものを六本切り取る。
体液袋は三つ。
油布へ包んだ。
魔石は十一個。
すべて《収納》へ入れる。
《所持ガチャ券:九枚》
あと一枚。
次の魔物を初めて倒せば、十一連ガチャを引ける。
谷の奥へ視線を向ける。
霧刃蟷螂が呼び寄せた濃い霧が、まだ残っている。
その向こうから、低い音が聞こえた。
鐘。
重い金属を叩いたような音。
一度。
間を空けて、もう一度。
腰から方位針を取り出す。
針が北を示していない。
ゆっくりと回っている。
一周。
二周。
止まらない。
鐘の音が響くたび、針の回る速度が上がった。
霧の奥に、二本の大きな角が浮かび上がる。
鹿に似た影。
だが、角からはいくつもの錆びた鐘がぶら下がっていた。
影が一歩進む。
鐘が鳴る。
自分がどちらを向いているのか、一瞬分からなくなった。
右が北だったか。
後ろが谷の入口だったか。
地面まで傾いて見える。
《霧鳴鹿との遭遇を確認しました》
《未討伐の魔物種です》
霧鳴鹿が、灰色の霧の中から白く濁った目を向けた。




