おまけ
身を刺すような寒さになんとか打ち勝って布団から這い出し、ジャケットを羽織って宿舎から外に出てみたら、太陽が寝る前とほとんど同じ位置にあった。
夏至前後の北極圏では太陽は沈まず、地平線を掠めるように円を描いて、またすぐ空に昇ってくる。白夜だ。気温はギリギリ氷点下ではないという程度。吐く息が白い。
ぺったりと平板な地面を覆う背の低い草には霜がおりていて、踏むとごく僅かにシャリシャリとした感触が足裏に伝わってくる。くしゃみが出た。誰かが僕に呪いを送っているのかもしれない。南からなにか、不穏な気配を感じたような気もする。
滑走路はお愛想程度にアスファルトが敷かれているけれど、薄っぺらでいたるところに割れ目があり、生きることに貪欲な草そこからちょろちょろと頭を出している。駐機場という名のただの砂利敷きの広場には、僕の飛行機が行儀よくちょこんと待機している。
僕はいま、アルメアで購入したハーミット社の小型旅客機をバークワースに持って帰るところだ。
持って帰ると言っても、飛行機を運ぶには飛ばしてしまうのが一番手っ取り早いわけなんだけど、アイランダーはその名の通り、主に離島間の運輸に使われている小型のプロペラ機で航続距離が1,400キロしかないから、アルメアから直接大洋を渡ってくることはできない。だから一度北に飛んでから、飛び石を踏むように北極圏の島々で離着陸を繰り返しながらジワジワと西の大陸に渡って、また南下していくことになる。総移動距離は約14,000キロ。アイランダーの巡行速度は約260キロだから、気の長い旅路だ。
これがブログラーだったら、今ごろはとっくに家に帰ってあったかい布団にくるまってる頃合いだろうな、なんてことを少し考えたりもするけれど、アイランダーもアイランダーでなかなか面白い飛行機だから、お金をもらいながら、毎日のんびりとひとりきりで空を飛べると考えれば、これはこれでそれほど悪くもない。
ちょっとでっぷりとした間の抜けたフォルムの八人乗りキャビンの上に、ぼーんと主翼を乗せて、そこに双発のエンジンをそれぞれ一基ずつぶら下げた、かなり素朴なフォルムをしている。ランディングギアは固定式だから、空を飛んでいる間も車輪がちょろんと出ていてなかなか愛嬌があるし、これは構造が単純なぶん丈夫にできていて、多少滑走路が悪くてもホイホイと簡単に離着陸できてしまう。機体は小さいのにフラップは大きくて、離陸に必要な距離も短い。だから、こんな風に北極圏の小島の、空港とは名ばかりのただの更地を転々と移動していくなんていうこともできる。低速でも安定性が高いし、操舵感はとても素直だ。
これはこれで、いい飛行機だと思う。
なにより安いのが素晴らしい。ブログラーを一機買うお金でアイランダーなら百機以上は調達できる。構造の単純さはコスト削減になるのと同時に、そのまま機体の軽量さでもあるし、壊れにくいということでもある。いざという時のことを考えて、部品の大部分が比較的調達のしやすいもので構成されているところもいい。徹底的に、過酷な環境で使い倒すことを想定した設計だ。
食堂に顔を出してパンとミルクだけの簡単な食事を済ませ、離陸前に少し走ることにする。飛行ジャケットを脱いで滑走路に沿ってジョギングしていたら、食堂の前で瓶を片手に煙草を吸っていた髭のおじさんが、不思議そうな顔で僕のことをじっと見ていた。
ジョギングを終えてジャケットを取りに食堂の前に戻ると、髭のおじさんが「どうして走っているんだ?」と、心底意味が分からないという様子で聞いてくる。
「え? 別に。もう何日もずっと飛行機に乗っていて座りっぱなしだから、少し身体を動かそうと思って」と、僕はジャケットを肩にかけて返事をする。
「走ると身体に悪いぞ。ズブロッカ飲むか? 香草を漬け込んでるから身体にいい」
「いや、今からまた飛ばないといけないから、酒はいらない」
「どうして飛ぶなら酒がいらなくなるんだ?」
「眠くなっちゃうでしょ」
「走ったほうが眠くなる。ズブロッカは身体が温まるぞ」
押し問答をしたところで文化的な溝は埋まりそうもなかったので、僕は曖昧に笑ってその場をあとにする。今日も世界は実にバラバラで、健康のために朝から走るやつもいれば、健康のために朝から薬草を漬け込んだ酒を飲むやつもいる。
しかし、空の上に限っていえば、世界は急速に文化的統合を迎えようとしている。たとえ、こんな地球の一番端っこみたいなところの小さな空港であろうと、空港であるなら管制とはアルメア語で会話ができるし、あらゆる物品、概念の名称が統一されていて、コミュニケーションに齟齬が発生することはない。まるで、空の上に概念的な統一国家を作ろうとしているかのようだ。
管制の建物に直接出向いて離陸したい旨を告げると、まるまると太った赤ら顔の管制官は、立ち上がって窓の外をチラッと見て「いいぞ。好きなように離陸しろ」と言った。他にタイムテーブルの書類やレーダーなどを確認した様子はないけど、今日は僕以外には離陸の予定もなさそうだから、そんなものかもしれない。地の果てみたいな辺鄙な小島の空港で管制官をやるというのも、わりと悪くなさそうな人生に思える。
ジャケットを羽織ってアイランダーの周りを一通り外観点検して、コックピットに乗り込む。自動車と同じように横のドアをパカッと開けて乗り込むだけでいいから、タラップやボーディングブリッジなんてものも必要ない。
エンジンを始動してシートベルトを留め、ヘッドセットをつける。もうこれで準備完了。耐Gスーツも酸素マスクもヘルメットもいらない。スリッポンを履いて散歩に出るみたいな気楽さだ。
機体を滑走路までタキシングさせて、無線で管制に離陸を告げる。
「了解。離陸を許可する。良いフライトを」と、管制からかたちばかりの離陸許可が下りる。
スロットルを上げ、ブレーキを解除する。機体が走りはじめる。素朴なランディングギアがラフな舗装の凹凸を拾って、ガタガタと揺れる。そして、びっくりするほどすぐに車輪が地面から離れる。あっという間に空に浮かぶ。そう、飛ぶというよりは浮かぶと表現したほうが感覚的に近い。
ピッチアップして高度を上げながら緩やかに旋回し、南に進路を取る。眼下に今飛び立ってきたミニチュアみたいにチャーミングな空港が見える。アイランダーの巡航高度は4,000メートル弱。それほど地面からは遠くない。空のうえではなく、空のなかといったところ。
さて、対地速度で時速250キロ程度しか出ないアイランダーでは、海の上に出てしまうとあとは延々、つぎの空港まで海が続くだけだ。描写すべき内容はそれほどない。だからそのあいだに、あのあとのことについて少し話しておこう。彼女自身にはあまり自覚がないようだけど、彼女はそういった必要な部分の説明をうっかり忘れがちだから、そのフォローはだいたいいつも、僕の役目になってしまう。
あのあと、つまりバークワース軍がイルヘルミナの最終防衛ラインを破ったあと、ほどなくしてイルヘルミナは降伏勧告を受け入れて、戦争は終わった。
僕も戦後しばらくはまだアルメア軍に所属していたのだけれど、英雄として担ぎ上げられ、あっちこっちでインタビューに答えたり写真を撮られたりが主な仕事になって、飛行機からはすっかり遠ざかってしまった。
英雄と言えば聞こえはいいかもしれないけれど、要は戦争による疲弊から国民の不満をそらせるためのチャフとして体よく使われただけのことで、実情はそんなに華やかなものでもない。マネキンか熊のぬいぐるみでも同じ役目はできただろう。
そんなわけで、どうやら戦闘機に乗る以外の軍の仕事には、僕はことごとく向いていなかったらしく、戦争が終わってしまえば軍人としての生活はそんなに長続きはしなかった。退役して、貯蓄も多少はあったから、セオルに戻ってしばらくはゆっくりと過ごそうかな、なんて考えていたところで、民間のちいさな航空会社に役員として入り込んでいたセブに「暇ならこっちにきて手伝ってくれ」と拾われた。
左腕を負傷してパイロットを辞めたセブは、それでも空から完全に離れることはなかった。べつの航空会社がすでに撤退して数年になる、複数の黒海の離島地域への小型便を最適化して、一機の航空機で効率よく回すルートを算出し、その企画書を航空会社に持ち込んだのだ。航空会社から新規航路開通の了承を取り付け、セブはそこに役員待遇で雇われることになった。でも、ちいさな航空会社では既存便の運行だけで人員は手一杯で、実際に運行を始めるための各種の手続きなどはセブがひとりで進めるしかなかった。もちろん、それではなかなか物事は進行していかない。それでセブは、ブラブラしていた僕に声を掛けてきたわけだ。
黒海の離島間の航路なんか、チケット代だけでそうそうペイできるものではない。だから、維持すべきインフラであることをプレゼンテーションして、どこかの国の支援を得るのが必須になる。セブにその仕事を丸投げされて、右も左も分からないままスーツを着てネクタイを締め、右に左に顔を出してヘラヘラ笑っていたら、最終的にはなぜか三カ国の政府からの支援を受けられることになった。たとえ一枚もチケットが売れなかったとしても事業を継続していけてしまうことになる。自分がそういう仕事に、意外と向いているのかもしれないと、すこし思った。
そんなわけで、いま僕はその新航路に使うための機体を、アルメアからバークワースまで運んでいるところというわけ。そのあとは、この機体のパイロットとして、バークワース本土と黒海の離島、そしてイルヘルミナの本土を毎日あっちにこっちに飛び回ることになる。
そういうのも、それなりに悪くない人生のような気がする。
そんなわけで、これが僕の物語の、いちおうの終着点。
ちょっと地味かもしれないけど、まあ、そこそこのハッピーエンドだろ?
ああそうだ。きっと僕のことなんかよりも、彼女たちについてのほうが求められているだろう。そのことについても、すこし話しておく。
たとえ緊急脱出したとしても、広大な海の上で人がひとり浮いているだけでは、救助部隊に回収してもらえる見込みは薄い。黒海の上空で緊急脱出をして、海に墜ちたセブを助けたのは、僕が撃墜した当時のハティ隊の隊長、イングリット・ダウムだった。
スクワルトの軽量な複合素材の外装と、長く伸びたフォルムのせいで真ん中で折れやすく、着水の衝撃で後部のエンジンが脱落したこと、それとキャノピーの密閉構造が功を奏して、緊急脱出することなくスクワルトをなんとか不時着水させたイングリットは、機体のコックピットに収まったまま、釣りの浮きみたいな状態で縦になって、プカプカと海に浮いていた。その近くにセブも浮かんでいたのだ。
イングリットはキャノピーをひらき大声で「こっちにこい!」と、セブを呼んで、自力で泳いできたセブを、コックピットに引っ張り上げた。再びキャノピーを閉じ、狭い単座のスクワルトのコックピットにぎゅうぎゅう詰めの状態で三日間、ふたりで救援を待った。
「空の上でのことは、地上では恨みっこなしじゃんね?」というのが彼女の言い分だったそうだ。
その後、ふたりはバークワースの艦船に回収されることになるが、セブの強い働きかけで、イングリットの身柄はバークワースではなくアルメアが保護することになった。イングリットからキャスカルの存在を知ることになったアルメアは、それをイルヘルミナへの介入の大儀名分とするのが一番だと判断した。
つまり、イルヘルミナが年端もいかない少女たちを戦争のための兵士として使っているという事実を公表し、人道的見地から、アルメアは彼女たちを解放するために戦争に介入するという建前を用意したわけだ。
僕たちはあまりテレビを見ないから知りもしなかったけど、キャスカルのことはバークワースでも大々的に報道されていたらしい。極悪非道のイルヘルミナからかわいそうな少女たちを救い出せ! という世論が、バークワースの強引な侵攻と、アルメアのバークワースへの介入を後押ししていたのだ。
そんなわけで、その建前を維持するために、彼女たちキャスカルを可能な限り生きた状態で保護することは、バークワース及びアルメアの最重要課題のひとつとなっていた。バークワースが戦争をしている背後で、アルメアはかなり大きな人員を割いて、彼女たちの回収と保護に取り組んでいたのだ。
ユディト・フリンツァーとユリアナ・フリンツァーも緊急脱出したところをバークワース軍に拿捕され、後にアルメアへと引き渡された。彼女たちがイングリットのクローンであったことが明らかになると、それも倫理的な問題として、アルメアの大義名分を後押しすることになった。
最後の最後に気合いでイーサンを撃墜したウィルムフリーデ・ディーゲルマンも、ぎりぎり緊急脱出に成功していて、同じポイントで墜落したのだから当然と言えば当然なのだけれど、直後に地上でイーサンと再会することになってしまったそうだ。ふたりで喧々諤々と口喧嘩をしながら、丸二日も自力で歩いて、基地まで生還したらしい。
イルヘルミナ北部の山間のホスピスで療養していたエーコ・ダンゲルマイヤーも、戦後保護され、アルメア本土に移送され治療を受けた。アルメアで治療法を研究した結果、過度の運動は控えるという付帯条件はつくものの、キャスカルの延命じたいは拍子抜けするほど簡単にできることが判明した。イルヘルミナでも同様の治療法はすでに確立していたのだが、キャスカルをパイロットとして運用し続けるために、意図的にそのことを隠していたようだ。
ブラックアウトが起こりにくいというキャスカルの特性は、要するにしばらく血流が滞っても問題が少ないということで、これは大量に失血しても死ににくいということでもある。
スクワルトのコックピットで気を失っていたエルネスタ・コンツも、直接に機関砲の弾を受けたわけではなく、機関砲の銃撃によってコックピット内に飛散した金属片で腹部を負傷し、そこからの大量失血で気を失っていただけだった。傷そのものは浅く、速やかな縫合と輸血によって一命を取り止めた。
とはいえ、戦闘機の操縦はもちろん過度の運動に含まれるし、なにより彼女たちを非人道的な環境から救出するというのがアルメアの大義名分だったわけだから、そのアルメアに保護されて任務から解放されてしまった以上は、もう彼女たちが戦闘機に乗り、自由に空を飛び回ることはない。
彼女たちはいずれも自由な空で崇高に散ることはなく、不自由な地上で不器用に生きていくことになった。
なにかが欠けてしまったような哀しさはあるけれど、でも、これもこれで意外と悪くはないかもね? なんて言って、笑っていたことを思い出す。なんとか、これから地上で生きていく方法を考えていかないとなぁ、とかぼやいていたけれど、まさかそれが恋愛小説を書くことだとは、そのときには想像もしていなかった。ほんと、人生なにが起こるか分からないものだ。
さて、そんな話をしているうちに、切り立ったイルヘルミナの沿岸が見えてきた。今回のこの長閑なフライトも、じきに終わろうとしている。そろそろ着陸に備えなければならない。高度を下げ、機体をバンクさせて地上を見下ろすと、丘の上で誰かがこちらに手を振っているのが見えた。
以前は白に近かった髪は長く伸び、色も濃くなって今では亜麻色くらいに落ち着いている。それが海からの吹き上げの風に、軽やかになびいている。
僕の奥さんだ。わざわざ出迎えにきたらしい。僕も軽く翼を振って応じる。
なにがどうなってそんなことになったのかって?
それはまた、かなり長い話になるから今回は時間が足りない。
まあ、ほんと人生ってなにが起こるか分かったもんじゃないよね。