12. The Last Dance
-デレク・キムラ-
有利な条件が揃っているとき以外は戦わない。
空戦で負けないコツはこれに尽きる。任務には必ず僚機を伴うのもこのためだ。
僚機とのコンビネーション抜きで、戦闘機が単機でとれる戦術なんて、それほど幅のあるものじゃない。僕がここまで生き残ってこれたのは、僚機がイーサンだったことに依るところが大きい。
イーサンは首尾よく緊急脱出できただろうか。
翼下のミサイルの残数は、お互いに二発。高度も速度も、ほぼ五分と五分。
対等の条件でお互い向かい合っての一対一のドッグファイトなんか、コインを投げて裏表で勝負を決めるのと変わらない。それに、戦いはもう終わったのだ。ここで勝っても負けても、意味なんかない。ただ、どちらか一人の命が無意味に散ってしまうだけのこと。
いま僕は、道理に合わないことをしようとしている。
何故だろう? でも、こうするのが一番自然なことのように思えた。ほとんど悩みもせずに、僕は操縦桿を倒していた。
ここまで状況が整ってしまったら、戦うより他にないのだろう。
これはもう、宿命のようなものだ。
「こちらヴォルチャー3。ヴォルチャー1、援護に入りますか?」
ベーグルから通信が入る。まだ飛んでいたか。この空にもまだ、飛んでいる機体がいくらかはいるのだ。そのことをすっかり忘れていた。機影を確認する余裕はない。僕の目は、イカの数瞬先のゴーストを追っている。
「こちらヴォルチャー1、必要ない。ヴォルチャー3は生き残っている友軍機を再編して、残存する敵機への対応を。可能なら降伏を勧告してくれ」
「ですが」
「やらせてくれ、ベーグル」
一秒の沈黙。「分かりました。ご武運を」ベーグルからの通信が切れる。
機体をバンクさせて旋回。キャノピーの真上にあいつの機体が見える。けれど、僕の視線はそのさらに先を追っている。
「意外と意気地がないのね、緑のしっぽの悪魔さん」
あいつの安い煽りが聞こえる。逆に笑ってしまうほど、僕はなにも思わない。
どんな感情も、今は余計な荷物だ。余計なものは必要ない。
どこまでも軽く、どこまでも自由に。そのことしか考えていない。
現状のポテンシャルはお互いに五分五分。膠着状態では自分から動いたほうが不利だ。でも、相手のほうが旋回中の加速性がいいから、このままの状態を維持すればするほど、じりじりとこちらが不利になる。僕のほうから口火を切るしかない。
バンクを強くしてピッチアップ、緩く降下しながら旋回半径を大きくする。
あいつもすぐに追従してくる。
ロールを入れると後方から飛んでくる機関砲の曳光弾の筋が見えた。
この距離じゃ当たるわけがない。威嚇のつもりか。
降下しながら速度を溜めて、180度ロール。エレベーターアップ。
重い空気に跳ねて急上昇する。
イカは身軽すぎるせいで慣性力が弱い。この機動はブログラーのほうが速いはずだ。
高度を稼いでから旋回して後方を確認。イカは左に切り返して距離を取っている。
115度ロール。
速度を失わないように大きなカーブで降下して、ねじり込むようにイカの背後を狙う。
イカはこちらの旋回の内側を狙って急上昇からの急旋回をしてくる。
相変わらず馬鹿みたいな旋回性能だ。
でも、どれだけ優秀な機体でも空気の抵抗を受ける以上は急旋回すれば減速する。
狙える。
こっちもある程度、気合いを入れる必要はあるだろう。
いったんダイブして速度を上げ、急上昇。
「……ぐっ!!」
急激なGに一瞬、意識が遠のきかける。
思考が焼き切れる。見ているものを認識できなくなって、時間が間延びする。
戻ってこい……戻ってこい!!
音。
音がまず戻ってきた。レーダーロックの音だ。
ロックしているなら、狙い通りにあいつの真後ろに出ているってことだ。
ほとんど状況も判断できないまま、反射的にミサイルの発射ボタンを押す。
ぐゎんっ! と、置き去りにされていた魂が、頭の後ろから僕の中に戻ってくる。
状況を視認。すばやく把握する。
たぶん、ブラックアウトしていたのは一秒にも満たない。
イカが急激なブレイクで左下に降下していくのが見えた。ミサイルは当たってない。
くそ。残り一発。
イカはブレイクで失った速度を回復するために高度を落としている。同じ高度まで下りれば僕のほうが少し速い。ミサイル一発を使って、ごく僅かにポテンシャルの優位を稼いだかたち。背面に近い角度でやや斜めに降下してイカを追う。
縺れ合うような旋回戦。やや優位ポジションとはいえ、旋回戦での機動はブログラーのほうが不利だ。こちらから出せる決定打はない。なるべく速度と高度の優位を維持しつつ、鋭いイカの差し込みをなんとかかわし続ける。
相手の背後を取ろうと極端な機動をとれば減速してしまう。減速した分は高度を下げて速度に変えるしかない。お互いに微妙にポジションを入れ替えながら高度を下げていく。飛行機は無限に降下し続けることはできない。どこかの時点で垂直機動戦に入らざるを得なくなる。それを待つ。垂直機動戦になれば、機体性能の差はほぼない。勝機が見えるはずだ。
でも、もうとっくの昔に地面が近い。農地だろうか。一面に生い茂る低い草の緑色が濃い。まだ下げるつもりか?
あいつはこの低空でもなんのプレッシャーも感じていないかのように平然とまた降下して加速する。
「マジかよ!?」
地面に突撃していくような速度。上から見ているぶんには地面スレスレに見える。
ギリギリで機首を起こして、地面からほんの十メートルぐらいのところで水平に入る。
背中のところが出っ張った変な羊が、轟音に驚いて狂ったように走り回っている。
「ははっ……!!」
根性試しのつもりか? 遊んでいるのか?
でも、他に選択肢はない。今の速度のままモタモタしていたら的にされるだけだ。
僕も地面に向けて降下して、速度を上げる。
本能が後頭部の内側でヤバいと言っている。
大丈夫だ。いける。
僕は拒絶する本能を力でねじ伏せる。
ピッチアップ。
地面のきわでは、地面と機体に挟まれて圧迫された空気が跳ね返してくるグラウンドエフェクトがある。それを使って、ギリギリで機体をバウンドさせる。
緑の葉が風圧で舞い上がる。クローバーだ。葉の一枚一枚のかたちまで見える。
ランディングギアが出ていれば接地してしまいそうな距離。
いける。僕はまだ飛んでいる。
緩やかな登りの斜面に合わせて上昇していく。
僕のほうがあいつよりさらにわずかに降下したおかげで、ほんの少しだけ加速が大きい。
食らいつける。
「しまったっ……!!」
そりゃそうだ。これが遊びであるはずがない。
誘い込まれたのだ。ここがあいつの指定したダンスフロアだ。
「さあ、踊ろうか緑しっぽ」
目の前には立ち並ぶ鉄の巨人のような送電鉄塔。高さは百メートルくらいか。電線の下は五十メートル程度しかない。イカに続いて架線下を高速でくぐり抜ける。イカは高度を上げずに旋回して再び鉄塔のほうへ。頭を電線に押さえられて、ここでの垂直機動戦はラインがタイトだ。
心臓が縮み上がるような速度感。
すべてが遠い高空では超音速で航行していてもすべてがゆったりと流れていくけれど、これだけ近いとすべてが一瞬で通り過ぎていく。
イカは減速する素振りを見せない。
このタイトな超高速低空スラロームを嫌って離脱し、いったん高度をとってしまえば速度が失われる。せっかく稼いだわずかな優位をひっくり返されてしまう。あいつはすぐに食らいついてくるだろう。
逆に、追いついてしまえばもうそこでゲームセットなのだ。
追うしかない。
手を伸ばせば触れられそうなほど、キャノピーのすぐそこを鉄塔が通り過ぎていく。僕たちが通過する風圧で鉄塔が揺れている。
いくらなんでも、あいつだって普段からこんなブチキレた飛び方をしているわけじゃないだろう。
恐怖心がマヒしているのか?
「ううううううっ!!」
僕は歯を食いしばって追従する。もうすぐ、ミサイルの射程圏内。
あと一秒でロックオンを知らせる機械音声が聞こえるはず。
そのゴーストが見えて。
前を飛ぶイカが、翼下のミサイルを発射した。
なんだ?
もちろん、ミサイルは前に飛んで。
僕はヤツの後ろに。
一瞬の後に、僕は悟る。
「マジかよ!?」
ヤツの撃ったミサイルが、行く先の高架鉄塔に命中して。
鉄塔が倒れはじめるのが、やけにゆっくりと。
見え。
「くっそ!!」
倒れてくる鉄塔の下を、イカは速度を落とさないまますり抜けていく。
まっすぐか? 上昇するか?
迷っている暇はない。
僕はやむを得ず機首を起こす。
「やばいっ!!」
鉄塔にはもちろん電線が架かっている。鉄塔と一緒になって電線も降ってくる。
機体をロールさせて回避。
翼の先に一瞬、電線が軽く、擦って。
それだけでものすごい反動。機体を揺すられる。
「んんんんんんっ!!!!!」
加速。真っ直ぐに上昇。無我夢中でなんとか機体の姿勢を立て直す。
高度を上げて、速度が落ちる。失速寸前。
周囲を確認。
イカは。
いた。
機首をこちらに向けている。
ミサイルアラート。レーダーロックされている。
「これでおしまいっ!!」
声。あいつの。
ミサイルがイカの翼を離れて。
発射。
「くそおおおおおおっ!!!」
反射的に操縦桿を強く引く。
失速寸前の領域。ごく小さなループで機体が宙返りをして。
ミサイルがキャノピーのすぐそこを掠めていく。
かわした。
ロールして水平に。
イカは目の前。ヘッドオン状態。
音が遠のく。
ボタンを、押す。
発射と同時にレーダーロックを知らせる機械音声。
機体が交錯する。
加速。
残りゼロ発。
「はあ……はあ……」
速度を回復して、旋回しながら緩やかに上昇する。
僕は、まだ飛んでいる。
周囲に視線を走らせる。
あいつも、僕から距離を取りながら高度を上げている。
「……はっ……ははは……!!」
残りのミサイルをすべて撃ち尽くして、まだ僕たちはお互いに空を飛んでいる。
……死ぬかと思った。怖かった。
「はあ……はあ……。こちら……え~っと、こちらデレク・キムラ空尉。空飛ぶイカのパイロット、聞こえるか」
僕は無線に語り掛ける。
「聞いてるよ、デレク君」
イカのパイロットは息切れひとつしていない。あんな命懸けの超高速スラロームのあとだというのに、声音はまったくの平静だ。まったく心が揺れないのか。信じられない。なにかが壊れているとしか思えない。めちゃくちゃだ。
戦ってこいつに勝つことは、たぶんできる。
だけど、純粋に「飛ぶ」という行為においては、こいつに勝てるイメージがまったく湧かない。異常だ。完全に頭がおかしい。
「お互い、持ち弾がなくなってしまった。こうなってはどうしようもない。引き分けだ。投降してくれ。きっと、悪いようにはしない」
「……」
二秒、沈黙。
「まだよ」と、あいつが言った。「まだ、機関砲が残ってる」
「……マジかよ」
まだやるつもりなのか。
もう十分だろうって、さすがに思う。
ひょっとしたら、本当に気が狂っているのかもしれない。こんなの、絶対にマトモじゃあない。
でも。
「分かったよ」
そう言って引き結んだ唇の、その両端があがってしまっている僕も、たぶん少し気が狂っているんだろう。
これが正真正銘の、ラストダンスだ。
僕たちは、まるで打ち合わせをしたかのように、同時に機体を倒して降下する。加速する。
お互いに、背後から相手を機関砲の射程に捉えるられるほどの決め手を欠いている。
仕留められる距離に入れるとすれば、ヘッドオンでの交差しかない。
これはもう、このゲームの勝敗を決めるためだけの、ただの儀式。
コインはトスされた。
お互いに緩やかな左旋回を描きながら、近づく。
減速はしない。的になってしまう。
だけど、それでは交差は一瞬だ。
ラダー。フラッペロンを逆に。
機体を左に横滑りさせて。
お互いに同じことを考えている。
双方、横滑りしながら、相手に機首を向けっぱなしにして。
急激に減速し、強烈な横Gがかかる。
時間が間延びし、世界が遠のく。
イカの機首に取り付けられた機関砲の、その銃口の穴さえも、見える。
僕は機銃のボタンを押す。
曳光弾の光。
僕の撃った弾は、イカの機体に当たっている!!
失速。機体が仰向けに倒れるように。
ロール。加速。コントロールを取り戻す。離脱する。
どうした! 僕はまだ飛んでいるぞ!!
高度をやや上げて、旋回。
顔を上に向ける。イカもまだ飛んでいる。
お互いに致命打にはならなかったか。
「降伏する」
通信が、聞こえた。
「え?」
僕は聞き返す。どうした!? お前はまだ飛んでいるじゃないか!! まだやれるだろう? って、僕の知らない暴力的な誰かが、僕の脳裏で叫んでいる。
「機関砲が弾詰まりみたい。もう、本当になにも兵装がない」
やっと、声にすこし疲れをにじませて、イカのパイロットが言った。「降伏する。基地への着陸許可をお願い」
終わった?
終わってしまったのか、本当に。
「あ……ああ、分かった」
僕は頭の裏側で暴れている馬鹿を無視して、基地の管制を占拠している地上部隊を呼び出す。
「こちらヴォルチャー1。ブラボー隊、聞こえたか?」
ノイズ。
「こちらブラボー隊。聞こえていました」通信が返ってくる。
「なら話が早い。敵のパイロットがひとり、投降に応じている。兵装はもうなにも持っていないようだ。基地への着陸の許可を要請する」
「えっと……ですが、我々は航空管制の経験がないので、着陸の許可の要件を知りません」
「ああ、そうか」
そういえば、彼らはただの地上制圧部隊なのだ。航空に関する知識には乏しい。
「ブラボー隊、そこから滑走路は見えるか?」
「はい、よく見えます」
「滑走路上になにか障害物は?」
「えっと、我々の後続隊が数名、哨戒に出ています」
「じゃあ、そいつらをどけてくれ。間もなくそこに着陸する。順番はこっちで融通するから着陸できるように滑走路だけ空けておいてくれればいい」
「了解です」
次にベーグルに呼びかける。「ヴォルチャー3、聞こえるか」
「こちらヴォルチャー3、どうぞ」
「他に投降する機はいたか?」
「はい、全部で四機です。友軍機がそれぞれの背後について滞空しています」
「了解、ありがとう。そいつらもそのまま基地に着陸させてやってくれ。イカの後ろには僕がつく」
「了解」
「えっと……イカのパイロット、聞こえるか?」
「聞こえる。どうぞ」
「今から基地まで、僕が君の背後にピッタリとくっついていく。下手な挙動を見せたら即撃墜することになるから、そのつもりで。構わないか?」
「いいよ。どうせ帰投するなら、わたしのほうが道をよく知っている」
「ああ、そうだな。じゃあ、先導を頼むよ」
「了解」
緩やかに旋回して、機体をイカの真後ろに寄せる。ほんのついさっきまで、無限に遠かったイカのおしりが、すぐ目の前に見える。
イカは僕が背後についたのを確認すると、伸びやかにバンクして北に進路を取った。立てた翼に西日が反射している。それにつられてふと目を西の空に向けてみれば、高度を落とした太陽の光が黄色みを帯び始めている。もうすぐ夕陽の時間だ。
そんなに長い時間、飛んでいたのか。
なんだか、あっという間の出来事だったような気がする。
空ではいつも、時間の流れかたがはやい。
「スクワルトって言うのよ」
不意に、無線からイカのパイロットの声が聞こえた。
「ん?」
赤く染まり始めた太陽の推移に気をとられていた僕は、視線をイカの背後に戻して聞きなおす。
「この機体の名前。スクワルトって、わたしたちの国の言葉では、剣っていう意味」
「ああ、剣か。たしかに、それっぽい形状をしてはいる」
「イカっていうのは、ちょっと腑に落ちないかな。イカのパイロットって呼ばれるのも」
「そうか。うん、まああんまり、かっこいい呼び名ではないかもしれない。ごめん」
「ふふ……、デレク君って、たぶんナメられやすいでしょ」
気さくに図星をついてくるんじゃない。
沈黙。西の空は急速にピンクに色を変えていっている。
「デレク君はさ」
「うん?」
「どうして、飛行機に乗ろうと思ったの?」
「うーん、なんだったかな」
この会話はいったいなんなんだろう? と、すこし思いながらも、僕は問われるままに、自分がなぜ飛行機に乗ろうと思ったのだったか、思い出そうとしている。
たぶん、太陽が赤く染まりだしたからだ。
夕陽の赤の光は、不思議と人を素直にさせる。
「僕の両親はトーワの農民で、戦禍を逃れてセオルに移ったあとも、トーワ式の水田をやろうとしていたんだ。米を作るんだよ。米って分かる?」
「うーん、そういうのがあるのは知っている。こっちじゃ、あんまり食べないけど」
「猫の額ぐらいのささやかな水田だ。それに、一本ずつ手で苗を植えつけていくんだ。とても地道な作業だ。トーワの人間っていうのは、そういう地道な作業を淡々と続けることに対して、耐性があるんだね。辛抱づよい人たちだった」
「その話から、どうやって飛行機に繋がるの?」
「ああ、えっと、なんだっけ? そう。で、両親が死んで、そのささやかな水田も手放すことになって、僕もほかの米農家に働きに出たんだ。米作り以外にできることなんてなかったしね。そしたら、セオルの連中がやってる米作りっていうのは全然違っててさ。田んぼに足を突っ込んで一本ずつ苗を植えたりなんかしないんだよ。広大な土地に、飛行機で直接種を撒くんだ。空からダーッて。農薬なんかも、ぜんぶ空から撒く」
「ああ、それではじめて、飛行機に乗ったのね」
「そう、綺麗な光景だった。セオルは真っ平な国で、広大なんだ。小さなプロペラ機だから、そんなに高い高度を飛ぶわけじゃないけれど、夏には地平線の果てまで緑の稲穂が埋め尽くしていて、それが風に揺れて、まるで緑色の波のようなんだ。風の動きが目に見える」
僕はそのときのことを思い出しはじめている。今まで、ほとんど思い出したことなんてなかったけど、思い出してしまえばすべてを鮮明な映像として再生することができた。
「綺麗そう。いつか、わたしも見に行ってみたいな」と、彼女が言う。
「見に行けるさ。生き残ったんだ」と、僕が答える。
そうだ。この戦争が終わったら、僕も一度セオルに戻ってみようかな、なんてことをふと思ったりする。
「両親はそういうセオルのワイルドな米作りを蔑んでいたところがあったけど、僕はもうこれだって思った。飛行機に乗った瞬間に、自分はきっとこのために生まれてきたんだと感じたんだ。空を飛ぶことで、やっと自分の身体を取り戻したみたいな気分だった」
無線越しに、クスクスという笑い声が聞こえる。
「ああ、やっぱり。わたしも同じ。たぶん、前世では空を飛ぶ生き物だったんだね、わたしたち」
「そうかな? うん、そうなのかもしれない」
それから、どうしたんだったっけ? あの農家は結局ひどい喧嘩をして飛び出して、それからどうにかして、アルメアのパイロットの選考に潜り込んで……。
「エルネスタ」
「え?」
僕が黙り込んで思索の沼に落ち込んでいると、また不意に彼女がそう言った。
「エルネスタ・コンツっていうの。わたしの名前」
まだ体勢を立て直しきれていなかった僕は「ああ、そう」と、反射的に返事をしてから、あれ? ひょっとしてもうちょっと気の利いたことを言うべき場面かな? という考えがよぎって「いい名前だね、エルネスタ」と、付け足した。
エルネスタ? が笑ったのが、無線越しでも気配で分かった。
なんだろう。どういう間合いで接すればいいのか、いまいちやりにくい。
「さっき君の僚機を墜とした、わたしの僚機に乗っていたのが、ウィルマ。ウィルムフリーデ・ディーゲルマン」
「……すごいパイロットだった。常に戦況を冷静に読んでいるヤツだった。それに、最後に僕の僚機に、イーサンに一発入れたのは凄まじい執念だ」
僕は脳裏にウィルムフリーデの最後の機動を再生する。片翼を失いながら、いつ機体が爆発するかも分からない状況でも、一瞬制動を取り戻して、機首をイーサンのほうに向けて、ミサイルを発射してみせた。
「それから、君が最初に墜としたスクワルトに乗っていたのが、イングリット・ダウム。わたしたちの中で、一番綺麗にスクワルトを飛ばすことができる人だった」
「ああ、あいつの機動は本当に無駄がなかった。究極に洗練されていて、エレガントだった。あいつを最初に墜とすことができたのは、本当にただのラッキーだ」
「その僚機だったのがエーコ・ダンゲルマイヤー」
「あいつも冷静なやつだった。一番機を失っても、すぐに小隊の指揮を取り戻した。あいつのせいで、あの時は一機しか墜とせなかったんだ」
「前の戦闘で君にやられたのがユディト・フリンツァーとユリアナ・フリンツァー」
「あのふたりは、機体の性能を限界まで活かして優位をキープするやり方だったな。力強い機動だった。経験を重ねれば、もっと強いパイロットに育っただろう」
「覚えておいて」
エルネスタが、そう言った。
「この空に、たしかにわたしたちがいたのだということを。わたしたちが空に描いた機動を。その軌跡を。どうか、覚えていて。デレク・キムラ君」
たぶん、分かってくれるのは、君しかいないから。
そうだろうか?
そうかもしれない、と思う。
どれだけ言葉を重ねても、どれだけ上手に説明しても、きっと一緒に踊ったやつ以外には、本当に本当のところは理解できないだろう。
僕たちは誰も国を背負わず、正義も憎悪も持たず、ただ空を飛ぶために、空にあり続けるために戦って、そしてある者たちは墜ち、ある者たちは空に残った。
「忘れないよ」
僕は言う。
きっと僕はそれを生涯、忘れることはないだろう。そう思う。
とても美しいものを見たんだ。
パイロットは、誰もが自分の思う最高のラインを空に描こうとする。
究極的には、それはほとんど似たようなものに収束していくけれど、それぞれの持つ考えかたの違いや、性格や思想や哲学の違いが、それぞれの機動にわずかな個性を持たせる。その微妙な差異にこそ、美しさが宿る。
それぞれが空に描いたラインは、どれも美しかった。
そこで会話は途切れて、僕たちは黙って基地まで飛んだ。
それからすぐに、目指す基地が視認できた。
勝手知ったるエルネスタはスムーズなライン取りで着陸の姿勢に入り、ランディングギアを下ろす。僕もその真後ろに続くけれど、ギアはまだ出さない。少し横風があるけれど、エルネスタはクラブをとりながら危うげなく高度を落とし、ぎりぎりでデクラブして着陸した。いい腕だ。
着陸を見届けた僕はそのまま機首を上げて加速し、再び上空に戻る。一度旋回して、今度はランディングギアを下ろして着陸態勢に入る。
エルネスタの軌跡を丁寧に辿るようにして、デクラブ。着陸。
衝撃、振動。
スクワルトはブログラーに比べて滑走距離が長いらしい。僕は先に着陸したエルネスタの機体よりもだいぶ手前で十分に減速し、脇道へと機体をタキシングする。
「ヴォルチャー1よりヴォルチャー3。着陸を完了した。問題ない。上空で待機中の機体も随時着陸してくれ。安全確認を怠るな」
「こちらヴォルチャー3。了解」
最後に無線で指示を出してから、ベルトを外し、キャノピーを開けて外に出る。主翼の上に出てから、そっと飛び降りる。
地面の固い感触を、膝を曲げて吸収。
地上だ。また生きて返ってこれた。
周囲を見回すと、ライフルを構えた地上軍の連中の様子がすこし慌ただしい。どうやら、先に着陸したスクワルトの機体の周りに集まっているようだ。
なんだ? まだなにかあるのか?
僕もスクワルトに駆け寄る。
「どうした? なにか問題が?」
ライフルを構えスクワルトの周りを取り囲んでいる地上軍の連中のひとりに、声を掛ける。
「出てこないんですよ。コックピットに立てこもっています。呼びかけにも応じません」
無駄な抵抗はやめて出てきなさい、といった呼びかけを誰かが大きな声でしている。
ここまできて、エルネスタはまだなにか企んでいるのだろうか。
パイロットだって、拳銃ぐらいは携行している。せめて最後にひとりでも多く敵を殺してやろうと考えるやつだっていないわけじゃない。
けれど、エルネスタがそれをするとは、僕には思えない。
彼女は確かに少し気が狂っているのかもしれないけれど、それもたぶん、空にいる間だけのことだ。地上に降りてまで、そんな愚かなことはしないだろう。
僕はスクワルトを取り囲んでいる人垣をかき分けて、機体に近付く。
「僕が行く。下がっててくれ」
「ですが」
なにかを言おうとしている地上軍のやつを身振りで制して、僕も携行していた拳銃を抜く。安全装置はまだ外さない。
「エルネスタ! デレクだ、翼に上るぞ!」
機体に近付いて、声を掛ける。
反応はない。
一度、地上軍の連中と目で合図を送り合って。
僕は先尾翼に手をかけて、上によじ登る。
キャノピーが光を反射していて、僕は目を細める。
顔を近づけて、手をかざして西日を遮り、コックピットの中を覗く。
「誰か! 担架を!!」
僕は地上軍に声を掛ける。
外レバーを探して、思いっきり引っ張る。キャノピーのロックが外れる。
キャノピーを開けた。
エルネスタが首をすこし傾けて、目を閉じていた。
綺麗な顔をしていた。それに、思っていたよりもずっと、小さい。
赤い西日に照らされていても、その肌の白さがよく分かる。蒼白と言っていい。
そして、腹から下は血でべっとりと濡れていて、すでに黒ずみだしている。
僕の最後の機銃が当たっていたのだ。
被弾して、腹から出血したままで、ここまで飛んできて機体を着陸させたのか。
あんな、呑気な会話を交わしながら。
それとも、飛びそうな意識を保つために敢えて会話をしていたのか。
そんな素振り、すこしも見せずに。
なんだろう、これは。
分からない。全然分からないし、理解できないけれど。
でも、すごい。
こいつは、すごいやつだ。
コックピットのふちに足を掛けて、エルネスタの身体を抱えあげる。
ぐったりとしたエルネスタの身体は拍子抜けするほど軽くて、簡単に持ち上がってしまう。
担架がくる。地上軍のやつらが三人、ライフルを置いて駆け寄ってきて、エルネスタを下ろすのを手伝ってくれる。
担架に乗せてやると、エルネスタの顔はとても穏やかで、とても満足そうで、幸せな夢を見ながらうたた寝しているだけのようにも見えた。
きっと僕はいま、なにかとてつもないものを目にしている。
人垣が左右に分かれて、道ができて。
エルネスタが担架で運ばれていく。
それを見送る僕は、自然と背筋を伸ばし、顎を上げ、正しく敬礼をしている。
たぶん、いま僕の胸の中にある気持ち。これは敬意だ。
軍人の僕は、敬意を示す方法を他に知らない。
僕がそうしていると、隣の地上軍のやつが一瞬なにかを言いかけたけど、結局なにも言わず、口を引き結んで僕と同じように敬礼をした。
隣のやつ。またその隣のやつ。
そうやって、敬礼が無言のうちに、さざ波のように静かに広がっていく。
彼らにも分かるのだ。今、自分たちがなにか尊いものを見ているのだということが。
勇敢だった。そして、とても立派だった。すごかった。
彼女たちはたしかに空にいて、そこにとても美しい機動で自由な線を描いていた。彼女たちはみんな、とんでもなく獰猛で、何機もの友軍機が彼女たちに墜とされた。彼女たちはとても勇敢で、誇り高く、そして最後まで立派だった。
僕はそれを見た。この目ですべて、見届けた。
忘れない。
僕はきっと、このことをずっと、忘れない。