桜花の余薫
桜の香りの中、チドリは身動きが取れずにいた。
幹を背に座り込んだレアンの腕の中、体温と鼓動が伝わりそうなほどの距離に、頭が真っ白なままである。強張ったチドリの肩に、レアンがおもむろに顎を乗せた。チドリの体が跳ねる。
腕の力が強まり、背がレアンの胸に押し当てられた。
「……あ……あ、の」
「……ご迷惑でしたら、離れます」
「い、いえ!迷惑とかじゃ……!た、ただその……恥ずかしくて……!!」
レアンが顔を覗き込もうとする。チドリはサッと顔を背けた。
耳のすぐ傍で、嬉しそうにレアンが笑う。
「でしたら、もう少しこのままで……チドリ様も、お体の力を抜いて下さい。俺に寄りかかってくれていいですから」
「お、重いですよ……」
「重くなんてないですよ。それに、俺が貴方にそうして欲しいんですから、遠慮しないで下さい」
「う……」
チドリは、恐る恐る体の力を抜いた。レアンに背を預けるようにすると、二人で桜に寄りかかるような形になった。お腹の辺りに、レアンが優しく腕を回す。それだけでまたチドリの体が強張った。
「チドリ様は、こういった事に慣れていらっしゃいませんか」
「へ!?あ、はい、もちろん……!だ、だってその、あの……初めての……っこ、ここ、こ、こい……!!」
「…………恋人、ですか?」
「そ、そうです……!!」
赤い顔を覆ったチドリを眺めながら、レアンは小さく口の中で「初めての恋人……」と繰り返した。その紅唇が、満足気に弧を描く。
「……なんとも甘美な響きですね」
「え?」
「いえ、なんでも……チドリ様は可愛らしいと思いまして」
「ひょ!?え、あ、きょ、恐縮です……!?」
レアンが優しくチドリの頭を撫でた。チドリの目に、僅かな翳りが滲む。
「……レアンさんは、慣れてますよね」
「俺が、ですか?」
「はい。私と違って、緊張してないみたいだし……言葉とか仕草とかも全部……私が嬉しくなるようなものばかりです」
寂しげに、チドリが笑った。レアンが溜息をつき、体を起こす。チドリの前に回り込み、その手を取った。そのまま、自分の胸元へ押し付ける。布越しにレアンの肌を感じ、チドリの顔が炎上した。
「レ、レアンさ、何を……!」
「チドリ様が緊張してないなんて言うからです」
僅かに唇を尖らせたレアンは、拗ねた子どものようだった。その表情に、チドリの胸が知らず音を鳴らす。押し当てられた手からは、チドリと変わらないほど速い鼓動が伝わってきていた。
「俺だって緊張してますよ。貴方に触れるたび、心臓はこの有様です。嬉しくなる言葉と仰いますが、俺からすれば、本音を零しているに過ぎません。貴方が愛しいのも、可愛らしいのも、全て心からの言葉です……いいですか?」
「は、あ、ふぁい……」
茹だった顔で答えたチドリに満足したのか、レアンは手を離した。
風が揺らぎ、呆れたような微笑んでいるような声が響く。
『仲睦まじいところ悪いのだがの。そろそろ術を解いてもよいか?』
「シャ、シャイルさん……っ!?」
「おや。これは失礼しました」
冷静に応じるレアンの隣で、チドリの顔色は赤から青に変じ、また赤に戻った。
(も、もしかして今までの全部見られ……!?)
『安心せいチドリ。全ては見ておらぬでな』
「見たことには見たんですか!?」
『何とも言えぬのう』
「ひえぇ……」
情けない声を上げ、チドリは頭を抱えた。シャイルの笑い声と共に、辺りの景色が旋回する。気づいた時には、あの珠桜の部屋にいた。部屋は薄暗く、窓の外は迫る黄昏に染まっている。
目の前に立ったシャイルが、チドリに優しく微笑みかけた。
「お帰り、チドリや……よかったのう」
「シャイルさん……」
頭を撫でられ、チドリは頬を緩ませた。
「はい。ありがとうございました」
「うむ。エーデルに連絡はつけてある。今日はひとまずイリオルスに帰るのが良いだろう」
「エ、エーデルさんに、ですか?」
「そう怯えるな。今回は奴の働きが大きかったのだからな」
困惑してレアンを見ると、苦笑が返された。
「詳しいことは、城に帰ってからお話しします」
首を傾げた時、部屋の襖が勢いよく開かれた。
目を輝かせたステラとファリアが顔を覗かせる。
「お兄様!チドリ!」
「ステラ……!ファリアさん!」
「よかったですわ……!」
駆け寄った二人に抱きしめられ、チドリはひっくり返りそうになった。レアンがそっと背を支える。
「もー!やきもきさせられたわ!お互い気持ちバレバレだっていうのに!じれったいったらもう!」
「え!?嘘!?」
「気づいていらっしゃらなかったのは、お二人だけだと思いますわ」
「えっ」
「わかりやすいのよ!特にお兄様はね!」
「俺が?」
「当たり前でしょ!女の人にまるで興味なかったくせに!」
「女の人からの興味はこれでもかと引いておりましたのにねぇ」
「ほお。それほどの男がチドリに首っ丈とはのう」
シャイルまで口を挟んできてしまい、チドリは何も言えなくなってしまった。顔を赤くするばかりのチドリの隣で、レアンは涼しげな顔をしている。
「惚気たいのは山々ですが、とりあえず今は帰りませんと……むこうも待たせているでしょうし」
「あ、そうね。そうだったわ」
「ふむ……名残惜しいが、そうするかの。チドリや、またいつでも訪ねてくるが良い」
「は、はい!ありがとうございました!」
「なんの。お安い御用じゃ」
シャイルは微笑んで、懐から魔法水晶を取り出した。
四人の足元に、魔法陣が展開する。
「三人の魔道士にも、よろしく伝えておくれ」
「はい!お世話になりました……!!」
チドリが頭を下げたのと同時に、体が引っ張られた。
視界が眩い光に包まれる刹那、チドリは、レアンが優しく手を握りしめたのを感じた。




