咲き初める想い(7)
喜びと戸惑いが混ざり、チドリの中で奔流となった。
自分を見つめて揺れる青の瞳。柔らかく光る銀髪。
何度も思い描いては涙で滲んだ姿だった。
決心が脆く崩れ去り、チドリは踵を返して走り出す。
混乱してしまい、戻らなければと思うのに、がむしゃらに動く足は止められない。
「チ、チドリ様っ!?」
追いかけようとしたレアンを、シャイルが止めた。
踏鞴を踏んだレアンに、清洒な笑みが向けられる。
「まあ待て、レアン。無闇に追うては、チドリが怯えるだけじゃ」
「っ……ですが!!」
「安心せい。この空間はチドリの心の中……遠くへ行くことは出来んよ。まあ、チドリが望まなければの話じゃが」
「そんな……」
「大丈夫じゃ。今は逃げておるが、チドリはちゃんとそなたと向き合う気でおる……会いたいと思えば、見つけるのは難しくはない」
シャイルが杖を振り、その姿が花吹雪に包まれた。
瞬きの間に、シャイルは消えていた。
チドリの走り去った方を見つめ、レアンは駆けだした。
辺りの景色は、目まぐるしく変わっていった。
花畑が空の上になり、落ちたかと思えば深い海の中を走っていたりする。泡に包まれたかと思えば、竜の背を走っていたり、振り始めた雨に目を瞑れば、辺りは純白の雪景色だったりした。
吹雪が視界を白く染め、今度は薄紅の花に包まれる。
無数に生える桜の木々の間を、チドリは走っていた。
むせ返るほどの香りが、上下する胸に流れ込む。
逃げ出したことに、四肢が痺れるほどの後悔を感じた。激情に、涙が滲む。
足の筋肉が震えだし、上手く走れない。
「チドリ様……!!」
背後から聞こえた声に、足がもつれた。なんとか体勢を立て直し、走る。
「お待ち下さいチドリ様!!」
「……無、理、ですっ!」
「どうか…っ話を聞いて下さい!!」
「……っは、はな、しって……」
「俺から……!俺から、逃げないで下さい!!」
悲痛な声に、胸が激しく痛んだ。
限界を迎えた足が、これ以上先に進むことを拒む。それでも、チドリは怖くて振り向くことができなかった。
目の前に、桜の大木が現れた。その幹にもたれ、必死で呼吸を整える。震えていると、少し離れた場所で足音が止まった。胸を押さえても、鼓動はちっとも静まらない。
「……チドリ様」
レアンは、苦しげに呼吸を繰り返すチドリを見つめた。振り向かないまま、チドリの髪が風に揺れる。
「これ以上は、近づきませんから……話を聞いて下さいますか」
小さく、チドリが頷いた。
本当は、その背に触れたい気持ちでいっぱいだった。
「俺は、ずっと……夜会の日から……貴方に、謝りたくて」
「……わた、しに?」
震えた、か細い声だった。
「あの日…………俺は、チドリ様を傷つけたんですよね」
チドリの肩が震える。
「人に言われるまで、それに気づくことが出来なくて……本当に、愚かだったと思います。だから……口にすることが叶うなら…………貴方に、謝りたくて」
イディアに言われた言葉を思い出す。
勝手に傷ついて泣いたのは、自分だ。
「……ッレ、レアンさんは……悪く、ないです。何も……」
「でも」
「い、いいんです!私が……私が勝手に一人で……だから……」
我慢できず、涙が零れた。
血を吐くような思いだ。体がズタズタになっていく気がした。
嗚咽を堪え、言い募る。
「レアンさんのせいじゃ、ないですよ……さ、最初から、わかって、たんです。私じゃ……ダメ、だって。でも、でも……や、やっぱり、苦しくて……ッ!!」
「チドリ様……?」
「馬鹿、ですよね。ま、まだ、こんな、泣いたりして……っわ、わかってるんですよ?私なんか、じゃ、レアンさんの、し、幸せに、なれ、ないって」
「え…………?」
「大、丈夫、です。レアンさんの幸せ、には、もっと、綺麗で、立派な人が、ふ、相応しいって、ちゃんと、わ、わか……ッ」
身を絞るように、チドリは泣いた。自分の言葉に身が焼ける。わかっていても、口にするのは辛かった。
レアンが呆然と呟く。
「…………俺の幸せって、何ですか……?」
「え……?」
「貴方の言う俺の幸せって……何ですか?」
袖で口元を抑えたまま、チドリはレアンを振り返った。涙で姿が滲み、表情がよくわからない。
濡れた睫毛を伏せ、必死で言葉を繋ぐ。
「っ……それは、あの……身分のある、綺麗な令嬢の方と、結ばれ、て……側室が、いっぱい、いるような、王族であること、だって……」
「…………それが、俺の幸せだと?」
「……は、い」
ふいに足音がして、桜とは違う香りがした。
耳の傍で鈍い音がする。レアンの端整な顔が至近距離に迫った。
気づけば、桜とレアンの間にいた。
青い瞳が、泣き出しそうに揺れている。
「ふざけないで下さい……ッ!!」
声が、震えていた。
その眼差しに射抜かれ、動くことができない。
「そんなものが俺の幸せですか!?貴方は、本気でそう思っているんですか!?」
「で、でも……」
「貴方は何もわかっていない!!」
レアンは、自分の心が悲鳴を上げているように思えた。
チドリが、驚いたように自分を見つめている。
情動にまかせ、叫んだ。
「俺の幸せは、貴方自身です……ッ!!」
張り裂けそうなほど、チドリの目が見開かれた。
一度溢れた想いは止まらない。
「身分のある令嬢も側室もいらないんです!!俺には、貴方がいてくれればそれでいい!!」
「レア、さ……」
「俺がいつもどれだけ貴方を想っているかご存知ですか!?いつも貴方に、どれだけ触れたいと思っているか……!!貴方の声が聞けるだけで、貴方が笑いかけてくれるだけで、貴方の傍にいられるだけで、俺がどれだけ、幸せか……ッ」
「……っ」
「貴方がいないだけで、苦しいんです!他の男に笑いかけているだけで、気が狂いそうになる……!誰にも、触れさせたくない……ッ!!」
チドリの目から、ボロボロと大粒の涙が零れた。
その細い肩に額を押し当て、言葉を絞り出す。
「貴方が、好きなんです……」
咳き上げたチドリが、僅かにレアンの服を掴んだ。
「…っさ、レア、さ……ッ!」
「……チドリ様のお気持ちを、聞かせて下さいますか」
そう口にすると、チドリの腕が首に回された。縋るように抱きつきながら、泣きじゃくる。
「……し、だって……!私、だっ、て」
「チドリ様……」
「私だって……!死んじゃいそうなくらい、レアンさんが好きです……っ!!」
堪らず、その体を抱きしめた。
腰に回した腕に力を込め、隙間を無くす。伝わる鼓動と熱に、胸が歓喜で震えた。柔らかな髪が頬を擽る。チドリの香りが、肺を満たした。
声を上げ、チドリが泣く。愛おしさでどうにかなりそうだった。
もう何も考えられない。ただこの小さな体を離したくなかった。
チドリの頭を撫で、そっと額を合わせる。
すすり泣きながら、チドリが恥ずかしそうに目を逸らした。その仕草が、どうしようもなく可愛らしい。
「……チドリ様」
「は、ふぁい」
目元を拭った手で、頬を包んだ。小さな耳まで赤くなる。
両手で頬を包むと、その目に焦りが浮かんだ。
目を伏せてみせると、胸元を軽く押される。
「あ、あ、ああ、あのあの、あの、レ、レアンさん……!!」
「はい?」
「ちょちょちょ、ちょっと待って下さい!こ、心の準備が……ッ」
「もう待てません」
尚も言い募ろうとした唇を、優しく塞いだ。
その熱と柔らかさに、頭の芯がクラクラする。心臓から体全体にかけて、甘い痺れが走った。
顔を離すと、チドリは首まで赤くなっていた。
思わず、頬が緩む。
「な、何笑ってるんですかぁ……!」
「すみません。あまりに可愛らしかったものですから」
「ッか……!?」
硬直したチドリの瞼に口づける。身を竦ませ、チドリはレアンの口元を両手で覆った。ニッコリ笑ってその手を解き、捕まえる。
「ままま待って下さ……!!」
「ダメです」
頬に、耳に、額に、首に、レアンはキスを落とした。そのたびにチドリの体が震え、顔が熱くなっていく。もう一度額を合わせ、両手の指を絡めた。チドリが恨めし気に睨む。
「ひどいですよ……!心臓爆発して死んじゃいます!!」
「おや。それは困りますね」
クスリと笑って片手を解き、レアンはチドリの唇をそっとなぞった。チドリがアワアワと口を開く。
「こ、こ、困るって、言ったじゃ……!」
「はい。ですから、これで最後にします」
チドリが抗議の声を上げるより早く、レアンがその吐息を奪った。




